漆黒の少女 2
たった1人で広い野原を歩く少年がいた。
身長は140センチほど。くるくると跳ねる赤毛が印象的な少年の名はロード・ブラッドと言う。
彼は今、暇を持て余していた。
ロード・ブラッドが暮らしているのは大して綺麗でもない水や、ありふれた作物が名物になってしまう程の田舎だった。特に観光のネタになるようなものはなく、強いて言うならば見所がないわりに豊かすぎる自然と、「彼」を目的に人が集まる程度だ。
そんなロードの住む家があるのは過疎化の進む人里からさらに離れた場所だ。もはや他に人工物無しと言えるほどの僻地に彼は父親代わりの男と住んでいる。
彼の家はほぼ自給自足に近い生活を送っており、家の畑で採れた野菜と、山や川から獲ってきた山菜や魚、時には獣肉で日々飢えを凌いでいる。偶に振り込まれる謎の金銭が唯一の収入源であり、ロードはその僅かな現金と親切なご近所(数キロ単位)の差し入れで何とか文明人としての身なりを保っている。
「……今日、何曜日だっけ」
学校にもいかず、仕事も無くロードは日々暇を持て余していた。
やることといえば家事くらいのもので、テレビも無いから家で時間を潰すことも難しい。
新聞も手に入れたところですぐにくるくると丸められ薪の代わりにされてしまい、世間を知ることすらできない。
おかげで人と出会わなければ今日が何日で何曜日なのかすらわからなくなってしまう。そんな隔絶された環境で彼は生きていた。
以前はこうでは無かった。彼は捨て子という境遇ではあったが学校に通っていた。小さな学校だったから生徒全員が友人だった。みんなで遊んで、みんなで学んで年を重ねていた。
しかし彼にある変化が起きた。
――いや違う。変化が「起きなかった」のだ。
彼の体は10歳を境に成長を止めた。
最初に異変を指摘されたのは8歳の頃だった。それまで順調だった成長が突然鈍くなった。
それまではむしろ発育の良い方だったというのに、それから3年後には整列する際に一番前に立つようになった。
前に倣えで伸ばしていた腕を腰に当てなければならなくなった時、彼は悔しさで涙を流したほどだった。
最初の頃は成長が緩やかになっただけで何の問題もないと周囲も考えていたが、時が経ちやがて完全に成長が止まると病気なのではないかと噂を始めた。彼の父はなんとか金を掻き集め名医という名医に見せたが異常は一切見つからない。やがて彼はある分野で名前が知られるようになった。
いつからか静かだった村に、妙な人間が出入りするようになったのだ。
ある時は新たな治療法が見つかったとやけに空白の多い契約書を片手にやってきた怪しい男、またある時は珍妙な衣装を身につけ幸福のツボを売りつける占い師。ある時は新興宗教、ある時は二流雑誌の記者、そしてテレビ局の取材陣……うんざりするほど犯罪や厄介ごとに絡む人間がロードの周りに増えた。そして彼らは時に村の住人にも手を出そうとした。
そんなことが繰り返されるにつれ、ロード達親子に親切にする人間は減っていった。
元々余所者だったんだ。あの赤毛の気味の悪い捨て子共々出ていけば良いのに。そんな心ない言葉が彼ら親子に向かって囁かれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
そうしてロードは、学校に通うことをやめた。誰もそれを止めなかった。
「ロード!」
ロードは自分を呼ぶ声に身につけていた腕時計を確認した。時は――午後、2時半。
「ほたる、お前学校は?まだ授業中だろ」
拗ねたような目つきと口調でロードは目の前の自分より頭一つは大きい少年に聞いた。少年はその言葉に一瞬間をおいて弾むような笑い声を立てる。
「祝日だよ!安心して、今日は学校無いよ」
「でもお前最近学校サボってるだろ。小学生でサボりは後に響くぞ」
「……俺もう中学生だよ?それに学校に行くの完全にやめたロードにそれは言われたくないな」
その言葉にロードは言葉に詰まる。それはそれ、これはこれのはずなのだが妙に正論に感じてしまう。そしてなにより友人の年齢と所属する学校を間違えてしまったことが恥ずかしく微妙に居心地が悪い。ああ、時間ボケもここまで酷くなったのか。己の情けなさにロードは頭を抱えた。
ロードと気さくに話す少年の名は帆樽健太郎。厄介者扱いを受けているロードの貴重な友人の1人である。
身長はロードよりも高い170センチ。年齢は12歳で今年中学生になった。
髪は肩まであり、よく跳ねていて少しボサボサ。頭の頂点からぶらりとぶら下がる二房だけの金髪が不自然で目を引いた。純朴そうな目は感情とよく連動して表情豊かに動く。
感情に素直に従う表情筋のおかげか、ほとんどの人々は彼を好青年だと評すだろう。
「……ロードにあんな事を言う奴らと同じ学校になんて居られないよ。気分悪い」
田舎の中学校で堂々と学校をサボり、髪を一部とはいえ染めるほたるはこの辺りでは立派な不良扱いである。
そのうえ厄介者扱いを受けているロードと長年の付き合いがあるものだから、彼自身もロードほどではないが周囲に避けられている。
しかし彼はそれを良しとした。
大切な親友に理不尽な悪意をぶつける人間達など付き合うに値しない。むしろ縁を切る手間が省けたとほたるは笑った。
自ら進んで一人になっていくほたるに、ロードも思うところが無いわけではなかったが何も言えなかった。何かを伝えて彼の優しさを台無しにしてしまうことも、一人になってしまうことも避けたかった。
「……物好きが」
言えるのは、照れ隠しの悪い言葉だけだった。
二人はしばらく目的もなく歩いていた。
雨上がりの柔らかな土、瑞々しい草木。爽やかな陽の光を浴びてきらめく風景は凡庸ながら素晴らしい。
見慣れた景色は今さらにわざわざ称える対象ではないが、だからといってその価値がすり減っているわけでは無い。その大地を踏みしめるたび、においたつ土を感じるたびに、その美しさを実感する。ロードは、そんな自分の居場所が嫌いでは無かった。
「……いたっ!」
突然、ぱつんと乾いた音を立てて何かがはじけ飛んだ。はじけ飛んだそれはロードの肌を切り裂いたようで、やわらかなカーブを描く頬に一筋赤い線が引かれていた。
今二人が歩いているのは舗装されていない道である。どちらかが蹴りあげてしまった小石がロードの頬を切り裂いてしまったのだろうと二人は特に不審がることなくその傷に注目した。
「石でも踏んだ?家に帰って手当でも――」
ぱんぱんぱん!
運動会で聞くピストルのような音が立て続けに三回続いた。突然の破裂音に思わず身をすくめた二人の体に小石や砂が降り注ぐ。
いや、降り注ぐという表現は生ぬるい。まるで誰かが意思をもって投げつけているかのような勢いだった。
破裂音のあと、一寸おいて再び立て続けに音が鳴る。ぱんぱんぱんぱん、と今度は間をおくことなく破裂音はしばらく続いた。
ロードとほたるの二人はとっさに地面に伏せ顔を腕で守った。しかし顔を守る腕にも石は容赦なくぶつけられ、その肌はあっという間に細かい傷でいっぱいになる。
「誰だ!隠れて石を投げるなんて卑劣にもほどが……!」
数秒から数十秒。実際の時間よりもそれは長く感じられた。ようやく石が止み、恐る恐る二人は顔を上げる。
顔を腕で防御した姿勢のままゆっくり周囲を窺うが、人の姿は見えない。しかし、人がいないという事実が逆に二人の不安を掻きたてた。
石を投げつけられるような覚えならばいくらでもある。この町に住んでいる人間のほとんどが彼らを疎んでいる。嫌がらせに暴力が加わるのも時間の問題だと思っていたため、もし誰か一人でもその影があれば「ああ、とうとうその手段を取るか」と諦めるだけだった。
しかし、人の姿がないとはどういうことだろうか。
今ロードとほたるがいるのはほぼ一直線の畦道。
視界を遮るものはなく逃げようと道を行けば必ず彼らの視界に入る。隠れられる場所は確かにあるが、覗きこんでもそこにはいない。離れた場所に隠れるには移動を行う必要がある。
「……一体なんなんだ?」
二人の胸に不安がこみ上げた。何か、得体の知れない事が起ころうとしている。
そもそも誰かがいたとしてその人間はあんな風に人に石をぶつけることができるのだろうか。何かを破裂させながら人にぶつけるなど、どうすればできるのだろうか。
ぱん!
二人が周囲を見回している時、ロードの足元にあった爆発した。弾けた石は細かい破片となり二人の顔めがけて飛んでくる。細かな破片は小さな弾丸となって二人の肌に三度傷を付けた。
ジンジンと痛む傷が、今見たものが見間違いでないと主張していた。
「い、いま石が爆発した……?」
「……今すぐここから逃げよう、ロード!」
ひとりでに爆発した石に茫然とするロードの腕をつかんでほたるは前に向かって駆け出した。ここにいては危険だ、という直感による判断だった。
前に一歩踏み出した瞬間、足があった位置にある地面が爆発した。ちいさくぽかりとあいた穴に二人の顔から血の気が引いていく。二人は顔を見合わせると一目散に駆け出した。
向かう先を選ぶ余裕はなかった。走る先が森であり、どんどん人がいる場所から離れていっているという自覚はあったものの、一瞬前にいた場所が次々に爆発していけば正しい道を選ぶ余裕など消えてしまう。とにかく前へ。それ以外のことは何も考えられなくなり気が付けば二人は森の中へと足を進めてしまっていた。
「ロード!後ろに誰かいるんだけど!」
「いいから逃げろ!」
完全に森に入ってしまったころ、続く爆発の音に土を踏みしめる三つ目の足音が混じり始めた。爆発に追い立てられるがまま森の奥へと足を進めるにつれその足音はどんどん近づいていく。
足音が近づいてくるにつれ、ロードとほたるを追い詰める爆発は正確さを増し、誘導はより明確なものになっていった。民家へと向かう道へ行こうとすれば体のラインをなぞるように連続して爆発が起こる。威力が計算されているのか怪我こそしないものの、肌を直接撫でる小さな爆風は恐怖のひとことである。
気が付けば二人は来たこともないような奥地へとたどり着いてしまっていた。背後に近づく人間という脅威が無くなったとして無事に帰ることができるかどうかも怪しい場所だ。助かったとしても遭難して死ぬかもしれない。新たに湧いて出た不安が二人の心をじわじわと削る。
そして――その時は訪れた。
はじけ飛ぶ石、ぬかるむ地面。ひっくり返る視界に重い体。迫りくる足音にむせるような地の臭いと血の臭い。自身にのばされる黒い手にそれを切り落とす黒い影――恐怖と押し寄せる異常事態に彼らの意識はそこで落ちた。