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咲けない華 椿鬼  作者: 明渡雅夢
1 夏休み
14/27

望まぬ再会 7

 赤くて、赤くて、赤くて赤い。


 立っている椿鬼は真っ赤だった。

 あまりに全身が染まっていてその赤がどこから来たのかわからない。

 少なくとも服は破れており、肩のあたりは完全に服がなくなっているように見えた。

 いや、服どころか肌がなくなっている。


 頭も当然真っ赤で顔はパーツの造形が分からないほど赤に濡れていた。

 赤に濡れていてわからないが、憐れむようなその顔が不釣り合いな程度には大怪我の筈だった。

 普通の人間ならば立っていられないはずだ。


 しかし目を引くのは抱かれている男だった。

 いや、もうわからない。酷い有様だった。焦げて裂けて露出している。

 椿鬼が浴びている赤には自分のものも含まれているのだろうが、大部分が足元に倒れている男のものだとはっきりわかるほどの損傷だった。

 何が露出しているのか、理解しようとする前に鼻腔に吐き気を催す強烈な生臭い鉄の臭いと火薬臭が殺到した。

 視線を保っていられずほたるは蹲った。



「お嬢様、ご無事ですか」

「一発目は固定して防いだんだが二発目を投げ込まれた。このザマだ。光琉がいないとやっぱり駄目だな。早いところ逃げないとヤバいぞ」


 恐ろしいほど冷たい声だと蹲ったほたるは感じた。

 しかしその声は冷たさの奥に何か震えているモノを感じさせた。それが本心であってほしいと願わざるを得なかった。


 二人に遅れてロードが駆けつける。

 少年はふっくらとした頬から血の気を引かせながらひっと小さな悲鳴を上げた。


「し、死んでる!」

「まだ死んでないよ、もうすぐ死ぬ」


 何か意味を含ませた物言いに、ほたるが反応する。

 意味を探るまるい瞳に、椿鬼は何かを語りかけていたが、ふいと目を反らすと独り言を始めた。


「……厄介な連中に関わっちゃったんだろうな。こっちが放し飼いにしてたんじゃない。あっちがケチついた家畜を放し飼いにしてたんだ。でも、今度こそ役に立たなかったから始末されたというわけだ。さっき降ってきた手榴弾は、あわよくば全員巻き込まれろと思ってたんだろう」

「この少年は戦闘技術こそ未熟ですが、気配を消す能力は確かなものがありました。そこを上位に位置する誰かに買われて試されたのでしょう。ろくな情報は与えられてませんでしたから、伝達ゲームのような命令だったはずです。やっている事の重大さも危険度も理解はしていなかったでしょう」

「……半端に首突っ込むからこうなるんだ。興味本位で覗いて抜けられなくなって、わめいて騒いで最後は肉の塊だよ。……恐ろしい」


 椿鬼は哀れな生き物の頬にそっと触れた。

 軽く叩いて意識を確かめるが、痙攣しているのか震えるだけで意識は伺えない。

 死がそこまで迫っていた。


 周囲に酸っぱい匂いが広がった。

 ロードが振り返ると、ほたるが口元を押さえて震えていた。血の匂いにやられたのだということは明白だった。


 ロードもほたるも、家畜の屠殺現場ならば何度か見たことがある。

 ロード自身がほたるの前で鶏を絞めたことだってあった。

 本当に初めてその現場を見たときは、ほたるはもちろんロードすら絶命を拒絶する最期の鳴き声が忘れられずしばらく苦しんだものだ。


 しかし二人はもうそれにも慣れていた。

 命を奪うとはそういうことだと。

 血も、捌いて現れる鮮やかな内臓も全てがそういうものなのだと、慣れていた。

 命とはこういうものなのだと分かったつもりになっていた。

 人以外の死に慣れて、人の死にだってショックを受けてもそこそこ平気だろうと思っていたのだ。

 だってグロテスクなホラー映画も直視することができた。

 葬式では焼けた骨を見た。大丈夫だと思っていた。


「……ッ」


 男の黒衣に広がる鮮やかな肉の色。自分と歳がそこまで変わらないらしい、男の内臓の色。

 でも、ホラー映画の不自然に浮かび上がる肉よりは鮮やかでなくてくすんでいた。

 しかし臭いは強烈で鮮明で、おかしくなりそうだった。


「顔見る前に中身見るなんてな。悪い冗談みたいな話だね」


 いつまでもシーンは切り替わらない。ホラーならこんな悠長に死体ばかり写していられない。

 数十秒もすれば次の悲劇がやってくる。死体なんて画面の外にフェードアウトだ。

 でも、それは消えない。どれだけ瞬きをしてもそこで虫の息だった。肉が蠢く。

 死体になろうとしている人間の前で吐くほたるに、ロードの心には猛烈な後悔が生まれていた。




「ああ、どうしようかな。こいつ動かしたら死ぬよなあ。動かなければ助けられたかもしれないのに、私じゃそんな精密なことできないしー」

「……え?」


 ロードは妙にわざとらしい声に頭を上げた。

 椿鬼が無表情でロードを見下ろしていた。

 その目を見ようとして目のピントをそこに合わせようとして、とても明るい空が目に入った。

 太陽がいつのまにか頂点にやってきていて、ビルの隙間から自分たちを照らしていた。


「光流のところに連れて行けさえすれば助かるかもしれない」

「光琉?どういうこと?」


 ロードは食いついた。ほたるも聞こえたのかひくんと動く。椿鬼は答えた。


「あいつは回復のプロだ。あいつさえいればまだ何とかなる。この男より酷い状態になった私をあいつは修復したことがある」

「でも光琉は家で寝てるんでしょ」

「そうだな。だから、多分間に合わない」


 冷たい現実が夏を冷ましていく。

 ああ、なんて現実はつまらないのだろう。

 ロードは嘆いた。この名前も知らない男は、自分たちをいきなり襲ってきたうえに、自分たちに夏の思い出の代わりに消えない記憶を植え付けて、そして無駄に死んでいくのだ。


 それは椿鬼が無理をさせたせいで光琉が今家で寝ているせいだし、あのカフェでヤマトが昼食をしようとしたせいでもあるし、その根本にはそもそも自分という要因がある。

 いや、そうでなくともこの男は今日ここで始末される運命だったのかもしれないが。

 どちらにしても人生というものは理不尽だ。


 誰にも何も生まず、ただ可能性だけが朽ちていく。


「死ぬのか、この人」

「死ぬよ。このまま時が過ぎ行けば」



 ――まだ、気が付かないの?

 椿鬼のその言葉はそんな風に言っているような気がした。

 ロードの視界が一気に晴れる。

 忘れていた夏が戻り、暑さが汗を呼び寄せ、呼吸が命を取り戻す。無感情な現実に、焦りと希望が色をつけていく。


「……僕に、やれと」

「さあね、それはあなたの選択だ。私としては死んだって構わない。いや、そういうわけでもないけど。だって……ううん。どうせあなたには出来ないかもしれないし、無かったものとして諦めるだけさ」


その言葉には祈りが込められていた。

 諦めることはしたくないと。しかし同時に無情さも感じさせられた。「ちょうどいいからやってみろ」そのどちらが彼女の本質なのかわからない。

 或いは、命を尊ぶその心も、消えゆく命をどうせだからと利用するその心。

 そのどちらも同時に存在しているのかもしれない。



 ロードは、時を思い描いた。ここにあるはずのない彼の時計は、呼びかけに応じてしゃらりとその手に現れる。

 それを両手で握りしめて念じた。時よ止まれと。

 命の炎よ、頼む燃え尽きてくれるな。この一瞬でいい、全てよ止まってくれ。

 しかし秒針は過ぎていく。普段は動かないはずの時計は、ここぞとばかりに時を刻む。


「なんで……!」

「いや、間違ってない。力はそれに通ってる。続けて」


 ――そうだ、この無駄に大きな時計を文鎮にしたくなければ動く練習をしろと椿鬼は言っていた。

 ならばこれは間違いではないのだ。

 ロードは縮む心を鼓舞して息を吸い込み直す。

 しかしそこからがわからない。思えば自分はただの一度も何も成功させていないのだ。

 時を操るという力が何を指すのかも知らない。実感もしたことがない。何ができるのか知らない。


「やっぱり無理だ……僕、そういえば一度も成功させたことなんて」

「あるよ」

「えっ?」


 ほたるが急激に立ち上がった。顔を青ざめさせ、口の端から体液を流して、そのままでロードの肩を掴む。


「一度だけ動いたのを見たよ俺は」


 ほたるの言葉に数日前のことが蘇る。

 そう、それは初めて練習をしたときのこと。

『叩いて直ればいいのに』そんな率直な感想を抱いて時計を叩きつけるイメージをしたときの記憶。


「……いや、まさかそんな、これを投げつけろっていうのか、死にかけの怪我人に?」


 慌ててそのイメージを取り消す。

 そんなことをすれば自分がトドメをさしてしまうことになりかねない。それは嫌だった。

 助けられなくてする一生の後悔ならば、それはいつか消えるかもしれない。

 自分のせいではないのだから。

 しかし自分で殴って死なせればそれは自分がこの男の命を背負うということだ。強烈な嫌悪感が駆け登る。


「どうせ死ぬんだし、やってみたら」

「簡単に言うな」

「失敗したら記憶を消してやるから。なあヤマト」

「ええ。綺麗さっぱり、忘れさせてあげますよ。あなたが望むのならば」


 ヤマトが場に合わない優しい微笑みをした。IFに対しての嫌悪感とは違う、憎しみに近い感情が二人に対してわき起こった。

 ――なんて、なんて酷いやつらだ



 いつだって、力を与えてくれるのは怒りだった。

 そう、悲しい時も辛い時も虚しい時も、それを怒りに変えて自分は戦ってきた。怒りなき自分は自分に非ず。戦うものよ、怒りを抱け。

 挑戦するものよ、怒りを抱け。



 ロードを怒りが支配した。嫌悪感が全てを蒸発させるような激烈な怒りに変わる。

 燃え上がる心の炎は勇気とはまた違う、無謀さを纏った行動力になる。

 ロードは、雄叫びを上げて時計を男に投げつけた。








 時は過ぎて午後三時、彼らは学園にいた。

 ロードは止まらない腹の虫をなんとかなだめながら理事長室から出てくる椿鬼を待っていた。

 ロードに時計で殴りつけられ、どういう理屈なのか世界から切り離されてしまったかのように時を止めた男の体を椿鬼は迅速に自宅へと運んだ。

 一瞬だった。離れた位置に置いてあったおかげで無事だった両手両足をもって、椿鬼は瞬間移動を行った。

 気が付けばロードは最早見慣れた椿鬼の家の一階にいた。

 ほたるは共におらず、椿鬼に聞けばヤマトに任せたと言っていた。

 それに少し不安はあったが、椿鬼が「こんな時に付けこむような男じゃない」というので信じているしかできなかった。


 その後は眠っていた光琉を文字通り叩き起こした。

 最初は怒りを表していた光琉だったが、惨状を確かめた後の行動は早かった。


 光琉は一瞬で身に付けている衣服を取り換えた。

 それは例の露出度の高いフード付きのコート姿。

 ぼさぼさだった髪は乱れなく整えられ、輝きすら見受けられた。

 手にはやはり華美な杖が握られていて、一番目立つ位置にはめ込まれた大きな水晶に光が集まっていた。


 光琉は何かを祈るように呟いた。

 ロードはそれを聞き取れなかったが、何か宝石の名前をとても丁寧に唱えていたのは何とか分かった。

 水晶に集まっていたきらめきが拡散されて男を包み込む。


 そこからの変化といったら、ロードの人生で最も奇妙なものを見た気分だった。

 ずれていたらしい内臓の位置が自ら戻っていく。

 内臓の位置が戻ると、その損傷が癒えていく。さらに次は内側に近いパーツから順に塞がっていった。

 骨は伸びて、筋肉は生地が織られていくかのように急速に成長していく。

 もとより美しいのではないかと思うほど復元されると、最後に生白い皮膚がそれを覆った。



 肉体の修復にはそれほど時間はかからなかった。夢でも見ていたかとロードが目を擦ると、再び光琉が何事か呟く。

 すると今度は服が修復されていく。黒い布切れが何とか服といえなくもない状態に戻った。

 その後、椿鬼は持ってきていた腕をくっつけた。

 取り出したレイピアを一筋振ると何事もなかったかのように四肢は戻った。


 そして三人と意識のない一人は、牛蒡のいる学園へと向かった。その移動もまた、一瞬だった。

 

 ――そして、今に至る。



「……で、どうなったんだ」

「どうもこうも、まあそれなりの処遇さ。法では裁けないが奴は確かに罪を犯した。能力者には能力者の罰がある。……まあ、詳しくは知らないがどこかの研究室送りにでもなって終わりじゃないか。縁があれば助かるかもな」


 諦念まみれのセリフだった。

 なにもかもが自分たちの手を離れてしまったという諦めだけが込められていた。


「ここまで苦労して命を助けて、それなの?」

「あそこで死なせてたら二人で後悔してただろ。助けた理由なんてそれで十分じゃないの?というか二回も人を襲った犯罪者だぞ、しかも被害者の一人はあなただ。苦労して助けたけれども、もうやんちゃでは済まされない範囲だったみたいでね。……あ、これうちの生徒が作った奴やつ。美味しいよ」


 椿鬼がピッタリとした袖のない燕尾服のようなベスト――彼女が言うには戦闘服らしい――の懐から四角い箱を出す。


 中には少しつぶれた小さなシュークリームが四つ入っていた。

 ロードが水を掬うように手を作る。その中にぽとりとシュークリームは現れた。

 それを当然のようにロードは口の中に放り込む。

 一口大の小さなシュークリームは大きく開けられた口の中へと消えた。優しい甘みのカスタードクリームがとろけていく。

 小さいながらに食べごたえのあるものだった。他には何も考えず、口の中身に集中する。


「……研究所送りって、あんたたちも能力者をそんなことしてるのか?僕の敵と変わらないじゃん」


 唇についたカスタードクリームを指でとって舐める。バニラの匂いが強くした。


「そうだね。変わらない――というよりもむしろ悪質かもね。善人の顔をしているから。でもそんなもんなんだよ、私たちも私たち自身の扱いに困っているんだ」

「そんなもん、ねえ……」


 ロードは二つ目に手を伸ばす。しかし伸ばす前に手の中にシュークリームが飛び込んでくる。

 それをやはり当然のように受け入れて、空腹を訴える胃に二つ目のシュークリームを送りこむ。


「あなたはもう逃がせないし逃げられないよ。でも、彼はまだ逃げられる」


 逃がせないと、ある種の宣言をされてロードの眉が歪む。

 自分もまたあの男とそう立場は変わらないのだと再確認させられ、途端にシュークリームがその風味を失ったように感じた。

 憎しみに近い感情を視線に込めてぶつけてくるロードを、椿鬼は真正面から受け止める。


「……、」

「これが最後の、夏休みだ。後悔のないようにね。できる限り楽しいものにしよう」


 椿鬼は微笑んだ。それを見てロードは視線を逸らす。

 四つのうちの三つ目のシュークリームを椿鬼は渡した。

 ロードは三度それをほおりこむ。今度は、ちゃんと味がした。


 この夏が自分の人生の分岐点であることをロードは確信していた。

 それでも夏は眩しくて蝉はうるさくて、おまけに口の中のシュークリームは優しく甘くて。

 まるで自分の人生が変わってしまったとは思えないほど世界は変わらなくて、それが気に食わなくて安心して、その気持ちを紛らわせるように四つ目のシュークリームの皮を千切り食った。



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