月は満ちぬ
英人サイドの話ですが彼目線で読むとあまり気持ちのいい終わりではありません。それでもよければどうぞ。
その日、英人はひどくイライラとしていた。作品が思うように作れない。運命を感じた人に会えない。……幼馴染の女は晴れ着を着て出かけていく。はっきり言って今起きているすべてにイラついていた。何もかも上手くいかない。
幼馴染の女、霙は品のある女だった。いつもきっちりと髪を結い上げ、姿勢良く古式ゆかしき着物を着こなす。男の半歩後ろを歩き、声は静かで、目は澄んでいる。
英人はそれがどうにも苦手に思っていた。生まれの違いを感じさせるような、自分にはまかり間違っても出せないその雰囲気がどうにも苦手だったのだ。
まるで精巧にできた日本人形みたいな霙を、初めて見た時、英人は自分の胸に妙な違和感を持った。
「鏑木霙と申します。よろしくお願いいたしますね」
拙い言葉で自己紹介した霙がやけにぎこちない仕草で笑う。そのときが一番のピークであった。
胸が苦しくて苦しくて、童話に出てきた腹に石を詰められた狼のような気分になって、具合が悪くなりそうだった。
「…………佐伯、英人」
それしか言えなかった。父にげんこつで頭を小突かれたが、英人の口から出たのは自分の名前だけだった。
顔合わせ以降英人は霙を見るたびに、ひどく胸が苦しくなってしまい、まともな会話どころではなかった。顔を見ると言葉が出ず、目が合うと目眩がした。自分はおかしな病気なんじゃないかとも思ったが、万一病気だったとしても原因がそばにいるのだから治りっこない。そう思った。
理由はようとしてわからなかった。どんな医学書を見ても載っていないのだ。難しい言葉を辞書で引きながら、分厚い本の文字の海をかなりの時間泳いだけれど、わからずじまいで、ついに英人は諦めた。
やっぱり何度会っても同じ症状に見舞われ、英人はできるだけ、側に寄ることも話をすることも避けた。そうしていればいつか時間が解決してくれるかもしれない。なんて。
英人がそっけない態度なものだから初めは歩み寄ろうとしていた霙はどんどん離れていくのがわかった。しかし英人に掛けられる言葉は見つけられなかったし、離れていくのならこの苦しみもなくなるのではないかと思った。
顔を見ない日が続いて、英人は安心した。これでもう大丈夫、と。
けれどそんな彼の期待を裏切るように会わない日が長くなればなるほど、胸は軋むように痛んだ。
しかし原因も理由も対処法すらわからない彼は何か別のことで気を紛らわすようになった。
その矛先が向いたのは生まれた時からずっと傍にあった寄木細工。寄木細工を作っている時だけは何も感じず、余計なことも考えられない。心にあるのは、ただ良いものを作る。それだけだった。
鏑木家の展覧会にて、英人の作ったものが売れた。初めて父親に「うん、いいね」と言われた自信作だった。思わず誰が買ったのか聞くと担当係に「匿名ですので」と言われ、教えることを拒否されてしまった。残念に思ったが、英人は自分の作品に価値を見出した人がいると知りより一層、寄木細工の世界にのめり込んでいく。
自分の作ったものは裏切らない。そんな考えが彼の中で生まれていた。
ある日、英人はたまたま鏑木の屋敷を訪れていた。幼い頃はわけもわからずここに連れてこられては、霙とふたり放置され英人は無言で空を睨んでいた。霙は本を持ち出し、ひっそりと読みふけっていた。英人はその様子が何故か気に入らなくて、睨みつけてみたり、目を逸らしてみたりしたが霙はそのどちらにも気がつかなかった。気づいていて無視されたのかもしれない。
何度目かの時、英人は父親からもらった寄木細工のコマを持ち込んで遊ぶことにした。ひとりで遊ぶのはつまらないが、霙と遊ぶのは胸が痛むので嫌だった。すると本を読んでいた霙が顔を上げてこちらを見ているではないか。痛みとは違う感覚が胸に走った。
「……お前もやるか」
これが英人が霙に初めて会って以来、二回目になる声をかけたときのことだ。
霙は嬉しそうに微笑んで、下手くそな手付きでコマを回し始めた。回るコマは模様を変え目を楽しませる。だが長くは続かない。英人が止まってしまったコマに再び回転を与えるとさっきよりも勢いよく、そして長く回る。
「英人さま、すごい!」
霙がぱっと華やかに笑った。笑顔の直撃を食らった英人はコマをひっつかむと慌てて出ていく。胸がバクバクして破裂するんじゃないかと思った。
そんな思い出が浮かぶのは、その部屋へ続く廊下を歩いているからだ。あれ以来、広い屋敷のなかこっちの方まで来ることがなかった。当時は思い出すだけで胸の違和感が大きくなるものだから近寄れなかったともいう。
長い廊下のうち、ひとつだけ、襖が少し空いた部屋があった。英人は不思議に思いその部屋へ近づく。
閉めようとした隙間から目に入ったのは、見覚えのある寄木細工。英人が心を込めて作り、初めて売れたはずの寄木細工だった。
「なんで、ここに……」
女ものの櫛や簪が置いてあることからして、鏑木家の女性の部屋だというのはわかった。問題は誰かということだ。
主家の屋敷の、しかも女性の部屋に勝手に入り込むことがどういうことかわからなかったわけではない。だがあれほど知りたかった買い主を知るチャンスだと思った英人は、そっと襖を開いた。そして、壁側に掛けられていた打掛を見てぎょっとする。
──あれを、俺は知っている。
新年を祝う宴の時だった。赤地に白い鶴が舞う綺麗な打掛を着ていたのは…………ここの長女である、霙。
英人はあのときのことをよく覚えている。なぜなら、あのとき告げられたのだ。自分と、霙の婚約を。
驚きに息を奪われ、うんともすんとも言えないでいた。とっさに嫌だと思った。初めて会った時分よりこんなに時が経ったのに、それこそ婚約の話が出るほど大人になったというのに英人はまだ、霙を見ると胸が痛むのだ。
結婚して一緒に暮らすことを思えば頭を抱えたい気持ちになる。安息などなくなってしまう。
そう思い、やめてくれと、言おうと思って、霙を見た。もしかしたら霙の方から言うかもしれないと思ったからだ。
しかし霙は「……わかりました」と、ただ一言述べただけだった。
なんてことだと、英人はショックを受ける……はずだった。けれど彼の思考に反して心はなんだか浮き足立っているではないか。頭と心が分離してしまい、英人はわけがわからなくて、考えることを止めた。
そうして、英人が何も言わなかったことで了承したと受け取られ、二人は婚約者になった。
ぐるっと過去が一周して、今に戻ってきた。
英人の目にはあの打掛が。……つまりここは、霙の部屋なのだ。さっき見た簪は、確かに若い娘が好みそうな大ぶりの花飾りがぶら下がっている。
頭が真っ白になった。
──なんで、どうして。霙が、俺の作品を……?
ただ、なぜ匿名だったのかはよくわかった。遠ざけ蔑ろにしてくる相手に、そいつが作ったものを買っていると知られたくなかったのだ。俺だって秘密にする。
でも、どうして。どうして霙がそれを買ったのか。混乱した頭で英人は気付いたら霙の部屋の中にいた。流石にまずいと思い、ふり返ろうとした英人の視界にはたくさんの寄木細工が。
どれもこれも見覚えのあるものばかり。“匿名さん”が買っていったものばかりだった。
ということは今までの、すべての“匿名さん”は霙だったのだ。
驚きで思考がまとまらずふらふらと部屋を出る英人。そこから隣接した自分の家にどうやって帰ったのか記憶がなかった。
「なあお前。どう思う?」
琥珀色の酒を喉に流し込みながら英人は聞いた。工房で作業していたところ無理やり連れ出された男、桂はその話を聞いて頭を掻いた。
「なんだって? 鏑木のお嬢さんがお前の作ったもんを買ってたって? だからなんなんだ。別にかまやしないだろ。それとも何か、お前はそれすらも嫌なのか」
桂は普段の霙に対する英人の対応を眉を顰めながら見ていた一人なので、どこまで人非人なんだと思いつつ聞いていた。
「……わからない。わからないんだ。どうしてか胸が熱くて、笑ってしまいそうなんだ」
桂は自分の耳を疑った。こいつは、何を言っている、と。
英人の独白は続く。聞き終わった時、そこには残念なものを見る目をした桂の姿があった。
「昔から、あいつを見ると原因不明の発作に襲われるんだ。胸が苦しくて息が詰まってまともに顔が見られない。だから避けていると次第に胸が軋んで、会わなければいけないと思うんだ。会っても苦しいだけなのに」
「お前……それ、」
「何度も顔を合わせてきているのに顔を見たくないんだ。俺がそんなんだからあいつもだんだん離れていって、たぶん俺を嫌っているはずなんだ。なのに」
桂を己の口を閉じることにした。自分の抱えているものの正体にこれっぽっちも気づいていない馬鹿の相手をするのがめんどうくさくなった。
「なんであんなにたくさん、俺の寄木細工を持っていたんだろう」
もちろん察しのいい桂にはよーくわかっていた。鏑木のお嬢さんが単に寄木細工が好きなら、作者にこだわることはない。こだわるということはそれなりに理由があるものだ。つまり霙お嬢様も満更ではないってことで。
ほっといてもくっつくような二人に掛ける言葉はないと独り身に泣く桂は、呆れた溜め息を吐いて酒を飲む。だが彼はひとつ思い違いをしていた。
彼と彼女の関係は桂が想像しているよりも、もっともっとすれ違っていることに。石橋を叩いて壊すくらいでなければ、わかりあえないということに。桂は気付いていなかった。むしろ知らなかったという。桂が見て知って聞き及んでいたのはほんの些細な一部分だけだったのだ。
「そりゃあお前が好きなんじゃないかあ?」
やけくそになった桂はつい口を滑らせた。それがさらなる混迷へと繋がる言葉になるとも知らずに。
「は……?」
「だってよう、それしかないだろ? お嬢さんはお前が好きで、だからお前の寄木細工を買うんだよ。俺だってお前に負けないくらいのもん作ってるのに“匿名さん”なんかいないからよう!」
言ってて悔しくなった桂は確かに英人に負けず劣らずの良いものを作る若手の一人だ。
「あいつが、俺を……?」
英人は思い返す。凛とした姿の霙の姿を。立てば芍薬を地でいく霙。牡丹ほど華やかではないが百合ほど高嶺でもない。手の届きそうで届かなそうな、その後ろ姿がまざまざと英人の脳裏に浮かぶ。
「そうか……そうなのか……」
ひどく歪んだ笑みを浮かべた英人に、そこにいた誰もが気づかなかった。
桜の季節は毛虫がわくので英人は嫌だった。できれば工房に籠り黙々と作業をしていたい。しかし今日ばかりはそうもいかなかった。今日の花見の宴でついに英人は霙と公式に婚約を発表するのだ。
虫は嫌だが、そのことを思うと口笛を吹きそうになる。上機嫌で堅苦しい一張羅を着て花びらの散る庭を散策していた。鏑木家の庭には流石に虫一匹おらず、英人の気分はさらに上がった。
うろうろしていた英人は、そこである女性と知り合うことになる。
可憐で、清廉で、嫋やかな三拍子揃った美しい、琴音という女性に。
英人の頭は一瞬で、琴音の笑顔に塗り替えられた。狭い世界で生きてきた英人にとってそれは鮮烈に咲いた牡丹の花のようだった。
そんな中で、中止となった婚約発表は彼にとって渡りに船と言えた。霙の体調不良という理由は気にならないでもなかったが、英人には目の前の人とどう縁を繋ぐかでいっぱいになっていた。
琴音の身分を聞き一度はダメかと思ったが、同じように彼を気に入った琴音の言葉で、それからも何度か会えることになった。
会うたびに、あでやかに咲く琴音の笑顔に英人は溺れていく。不思議と彼女と会う時は胸の軋みがなかった。だからますます英人は運命を感じた。長年苦しんだ胸の痛みを忘れさせてくれる人。
英人はこれが恋だと思った。
琴音と何度か逢瀬を重ねたころだった。英人が父から呼び出されたのは。寄木細工のこと以外は特にこれと言って口出しすることのない父からの呼び出しに英人は戸惑う。
何を言われても英人は琴音と会うことをやめるつもりはなかった。だが父の口から出たのはまったく違うものだった。
「鏑木のご当主からお呼び出しがあった。次の休みは体をあけておくように」
いつも穏やかに笑みを湛えたままの父は、いつもと変わらないはずなのに有無を言わさぬ怖さがあった。英人は何も言わず頷く。すると父は満足したように息を吐いて「もういいよ」を英人を退出させる。
父の部屋から帰る道すがら、英人は桂に出会った。なんだかんだと久々に会った桂から英人は思わぬことを聞く。
「なあお前知ってるか? 最近鏑木のお嬢さん、従兄弟の花江薫といい感じらしいぞ」
初耳だった。花江薫という男を英人はもちろん知っていた。洒落た伊達男で、仕事もできる花江家の跡取り息子。出来のいい息子のことをあちらの親は鼻高々自慢して回っているので、世間に疎い英人でも何度か耳にした。
ただ一つ問題があるとすれば、ふらりふらりと女のもとを渡り歩く落ち着きのないところだろうか。そのくせ女癖は悪くないというのだからおかしなことだ。
そんな男と霙が良い仲だと?
確かにいとこ同士なら会う機会も多いはずだが、霙に限ってそんな……。
「花見の宴が終わったあとくらいだったか……、俺も見たんだ。いつもは地味な着物を着てるお嬢さんが、若い娘らしい可愛い振袖を着てさ、出かけていくのを。珍しいなあと思ったからよく覚えていたんだが、まさか逢い引きだったとはな……」
駄目押しのような桂の言葉を聞いて、英人の胸はいかりの炎で燃え盛った。
──お前は俺を好きなんだろう! どうして他の男なんかに現を抜かしている!!
桂やほかの人間が聞いたらひどく理不尽に聞こえる怒りは英人を瞬く間に覆った。
そうして、英人はその日を迎えた。
苛立ちを体の中に押し込み、父と並んで当主様を待つ。悠々とした様子でやってくる鏑木家の当主様は貴族に相応わしい貫禄を兼ね備えていて英人の背は自然と伸びた。
「……霙はまだのようだな。来たら話をはじめよう」
然程経たずに霙はやってきた。霙の所作は、琴音とまた違う美しさがあった。見惚れて我を失いかけた英人の耳に当主様の低い声が届く。
「よく来た。今日はお前に聞きたいことがある」
「……なんでございましょうか」
「近頃お前はよく花江のところの薫とともに出掛けているそうだな」
それはここのところずっと気にしていた名前で英人はびくりとした。今日の話というのはそれに関するものなのか。英人の心は動揺を隠せない。
「ええ、はい。親しくさせてもらっています」
迷いない霙の反応。
「…………………チッ」
「英人」
漏れ出たイラつきを父に窘められる。当主様は気にせず質問を続けた。
「単刀直入に聞こう。お前は薫がいいのか?」
「あ、あのお父様……それはどういう……」
「お前が薫を選ぶのなら私はそれを認める。佐伯とは違う形で縁を結べばいいと思っている」
「お父様それは、」
そこまで聞いて英人のマグマは限界を超えた。
「当主様! 今更何を仰るのですか!」
「お前がこの婚約に前向きでないことは知っていた。お前にもふさわしい……いや、身に余るほどのいい人が出来たのだろう?」
英人は言葉に詰まった。琴音とのことを当主様が知っているとは思っていなかったのだ。だが、よく考えれば自分の娘の婚約者を調べていないはずがない。そしてその自分の行いが当主様からはどんな風に見えているか、ここに来てようやく英人は自覚した。
「これでも私は娘に甘いと自覚していてね。娘が望むのなら、お前と結婚させようと思ったのだ。お前を踏みにじることになれどもな」
「お父様……」
「婚約を告げた時、霙は黙って受け入れた。嫌がる素振りもなく。だから私はお前を憎からず思っているのだろうと思った。しかしお前達はいつまで経っても歩み寄る様子がない。次第におかしいと思い始めたのだ」
当主様の言葉は今の英人には通過する雑音にしかなからなかった。が、次いで聞こえた高い音に英人はさらに固まった。
「私が悪かったのです。……傷つくことを恐れて彼に近づくのを止めた。薫さんはそんな私を忘れさせてくれただけです。弱くて狡い私を。
……薫さんとはそういう関係ではありません」
薫の話をする霙の声には哀愁のような響きが混ざっていた。まるで薫とそういう関係でないことを悲観して諦念しているように聞こえた。
「なら……」
「いいえお父様。いい機会です。彼との婚約はここで無しにしましょう。彼を縛る権利はないはずです。もし佐伯家と縁を結ばなくてはならないなら、他の縁者の方で私は構いません。向こうがよければの話ですが。……佐伯様いかがですか?」
「そうですね、私も鏑木と縁を結べるなら英人でなくて構いませんよ。英人はどうやらすごい方と縁ができているようですし」
最終宣告だった。
「いい加減しろ!!」
英人は今自分が何を言っているのかよくわからないまま怒鳴っていた。ただひとつわかったのは、このままでは霙は遠く離れてほかの男の元へと行ってしまうということだった。
そんなの、許せるはずがなかった。
「お前は俺が好きなんだろう!」
睨むように霙を見つめる。初めてまともに霙の顔を見た。ああ、霙はこんなに美しくなったのか、と、そんな場合ではないのに英人は見惚れ、怒気をなくしてしまいそうになった。それに気づいた英人だが、そこからは子供の癇癪だった。
「なら何故、拒まない! どうして受け入れてしまう! どうして俺を諦められる!!」
その言葉を聞くと霙の雰囲気がガラリと変わった。英人はただ戸惑っていた彼女の背後から、ゆらりと青い炎が立ち上ぼる幻をみた。
「報われないとわかっていて。いつまでも思い続けられると、思いますか?」
訥々とした声は炎を背負ってなお冷たい。
「相手にされない。それでもいい。でもその幻想は壊れるのです。その思い人にも、思い人ができた時に。
私に出来ることは、貴方の幸せを祈ることだけです。私が好いていることを知りながら、距離を取る貴方に私が出来るのはそのくらいです。どうしてお怒りになるのか、皆目検討もつきませんが、私は貴方の往く道が明るいことだけを祈ります」
ここに来て、“ほんとう”に目を合わせた二人は、二度と交わることはなかった。
「薫さん。ありがとうございました」
「ん? 何がかな?」
二人の新しい新居で睦言を交わす。
「私の願いを叶えてくれたでしょう?」
「ああ、と言っても君の願いは色々叶えたからね。どれのことだろう」
「全部。ですけれど、今言ってるのは一番はじめの願いですよ。
私は、一度でいいから面と向かってあの人と話がしたかった」
「それか。……僕らの始まりだね」
「ええ、貴方のおかけで私はようやっとあの人と心底会話が出来たのです。私の片恋は散らせましたが、そのおかげでもっとかけがえのないものを手に入れることが出来ました。すべて薫さんのおかげです」
「はは、僕はただ役得だっただけだよ。こんなに綺麗な奥さんが貰えたんだ。僕は彼に感謝しなくちゃいけない」
茶目っ気たっぷりにウィンクする最愛の人を見つめ霙はそれはそれは幸せそうに微笑んだ。
ふたりが触れ合うぬくもりの温度はいつまでも覚めることなく、新しい夫婦の間をやさしく包むのだった。
「そういえば、彼は婿養子に出たらしいね」
「……ああ、そうらしいですわね。職人まで辞めてしまって、よかったのか……」
「僕としては悋気の種が一気に二つも消えて嬉しいくらいだよ?」
「え?」
「彼も、彼の作るものも君を魅了して離さなかったからね」
「薫さんも悋気なんて起こすんですか?……ちょっと嬉しい」
「こらこらそんなに可愛い顔をしない。休ませてあげられなくなる」
「……まあ。ではもう寝なくては」
「しようがないな、今日は見逃してあげるよ」
ぽっと頬を赤らめた妻は大層可愛らしかったが、そのまぶたがとろんと溶け始めているのに薫は気づいた。
霙は薫の胸元に顔を埋め、目を閉じ静かに息をつく。霙のしなやかな髪が肌に触れて薫はいろいろとむずがゆい気持ちになった。誤魔化すように髪を撫でる。
「……ふふ、………………あの人も、違う場所で、幸せに…………」
ゆっくりと撫でていると霙は少し微笑んで、ボソリと言った。
「……霙? …………ああ、寝ちゃったか。疲れただろうもんね。……………………幸せに、か。なれるものなら、なればいいさ」
──自分の思いに最後まで気づけなかった愚か者の末路なんて。僕の知ったことじゃない。
そう口の中でつぶやいて薫はうっそりと笑った。薫は知っていた。愚か者……英人が、愛したものも、入れ込んだものも捨てて、手に入れたものが虚像でしかないことを。
「あそこのお嬢様は清廉潔白だけれど、ひどく飽きっぽいんだ」
せいぜい捨てられないようにするといい。捨てられたら、もう何も残りはしないのだから。
END
矛盾などありましたらご指摘ください。
お読み下さりありがとうございました。