五.
――世界が止まった。それは比喩的な表現なんかじゃなく、俺の中では確実に心臓の鼓動さえも止まってしまった。
「総真!」
名前を呼ばれてハッとなった時には、俺は地面に四つん這いの状態だった。
「……ガハッ! ゲホッ! ゲホッ!」
止まっていたものが再び動き出す。途端に吸い込んだ息が気管に詰まり、激しい咳が俺を襲った。
綾奈が俺の背中に手を置いて、心配そうに俺の顔を覗きこんでいるのが、ぼんやりとした視界に映った。ただそんな綾奈に反応を返すことは今の俺にはできなかった。
――なんて言った? 明華は今、なんて言ったんだ?
頭が割れそうなほど痛い。濁流のように流れ込んでくる情報が、俺の頭の処理能力を超えてしまっている。
――『人型の鬼』だって? あの明華が? いや、違うだろ……だって明華の頭には……。
「冗談も大概にしなさいよ……あんたが『人型の鬼』ですって? あんたのどこに角があるのよ!?」
少し霞がかかった綾奈の声が、俺の言いたかったことを代弁してくれた。しかし、聴覚関係の処理も追いついていないのだろうか。綾奈はすぐ隣にいるはずなのに、声の大きさは一定ではなく大きくなったり小さくなったりする。ちょうど、ラジオの音量の丸いつまみを右左にむちゃくちゃに回した時のような感じだ。
「……そこまで言うなら見せてあげるわ」
そんな中で明華の声だけは俺の耳にしっかりと届いた。明華はそう言うと、刀を持った右手ではなく。左手を顔の前に持っていく。そして、拝むように手のひらを顔と垂直にして立てて静かに言った。
「『人体鬼化』」
その瞬間、明華を赤黒い炎が包み込む。『鬼』が現れる際に出現する『鬼火』と同じ色の炎。それは、明華に纏わりつくように渦を巻いた後、弾け飛んだ。
そしてその後には、まるでなにもなかったかのように平然と明華が立っていた。一見すると変わったところはないように思える。誰もが見惚れる綺麗な顔も、流れる美しい黒髪も、完璧にも見える体型も変わらず明華のものだ。一角のようなバケモノ然とした体型ではなく……そう、人型のままだ。
だが、今までの明華と違う部分があった。
それは、燃えるように紅い瞳と、額から伸びる二本の角だ。角の色も薄い赤に染まっている。それが……それこそが今までの明華との決定的な違い。いや、俺たちとの決定的な違いと言うべきか。
「あ……」
「これで分かった? ワタシが何者で、けして冗談を言っているわけじゃないってことが」
この状況に気圧されたのか、綾奈が再び息を呑んだ。その綾奈に明華の冷徹な言葉が突き刺さる。
「『鬼火』」
さらに明華は、俺たちもよく知っている言葉を唱えた。すると、俺たちと明華の間に先ほど現れたのと同じ赤黒い炎が五つ同時に出現する。そしてその中から一角が醜悪な顔を覗かせた。合計五体の一角が炎の中から現れ、威嚇するように低い声で唸る。
「……お話はおしまいにしましょう。あなたたち二人とも一緒に殺してあげる」
もう一度、明華ははっきりと「殺す」と言った。そして、その危機が現実的に迫っている。だが、それでも俺は動くことができなかった。体中が弛緩して力が入らない。
……俺はここで殺されるのか? ははは……それもいいかもな。
絶望的な考えが俺の頭を支配していく。もう考えるのが面倒になってきていた。ならこのまま流れに身を任せるのもありかもしれない。
「ははは……」
乾いた笑いが俺の口から洩れた。と同時に目の前の地面にポタポタと水滴が落ちる。まだ泣けるのが不思議だった。頭の中はむちゃくちゃでも心は悲しんでいるようだ。
そんな俺を綾奈が見ていた。とても辛そうな顔をして見つめていた。
そして、綾奈はなにかを決意したように目をキッと細めると、明華をまっすぐと見た。
「……そうね。いつまで話していてもしかたないわ。けど、最後に一つだけ聞かせて」
「なに?」
「総真のことを好きって言ったことも嘘なの?」
「…………」
「どうなの? 答えなさい!!」
「――――っ!」
綾奈が叫んだ。畳みかけるようなその言い方に動揺したのか、明華は少し顔をしかめる。しかしすぐに冷徹な表情に戻り言った。
「……えぇ、その通りよ。すべては今日あなたたちを誘い出すための演技。本当は一瞬たりとも心なんて許していない」
その言葉が俺の心に染み込んでいく。目からは止めどなく涙が溢れていた。体からこんなにも水分が出るのかというほどに。
……そうか、全部演技だったのか。俺たちの出会いも、告白も、昨日のデートさえも……。俺の想いは、全部無駄だったんだな。
そう思うと心が壊れそうになった。いや、壊れてしまえば体を万本の針で貫かれているような痛みはなくなるのかもしれない。だったらいっそ……。
その時、俺の頭に軽くなにかが添えられた。視線を上げると、綾奈が俺の頭に手を置いていた。そしてその手をゆっくりと動かす。綾奈が慈しむように俺の頭を撫ぜてくれている。その手から伝わる温かさが、俺の最後に残った精神を繋ぎ止めたと言ってもいい。
綾奈と目が合う。綾奈は穏やかな笑顔を俺に向けていた。
「大丈夫よ、総真。――あなたは私が守るから」
俺を包み込むような笑顔でそう言って、綾奈は俺の頭から手を離す。そして、明華と真正面から相対した。
「あんたの気持ちはよく分かったわ。おかげでちょっとほっとした」
「え……?」
「もし、あんたに少しでも総真を想う気持ちがあったらどうしようと思っていたけど……そんな心配は無用だったみたいね。――いいわよ、本気で相手をしてあげる。……『月の眼』解放」
俺はその言葉を聞くと、ハッとして目の前に立つ綾奈を見る。綾奈のふわりとした栗色の髪が、段々と銀色に変わっていく。綾奈が『月の眼』を発動したからだ。背中越しだから見えないが、今、綾奈の両の瞳の中には、『八卦印』が浮かんでいることだろう。
月神家を含む八つの家、『八神』が最強だと言われるのには理由がある。それはもちろん個人的な能力値の高さもあるのだが、それだけではない。能力値だけなら一部の特級陰陽師もずば抜けたものを持っていて、中には『八神』をも凌ぐバケモノじみた人までいるという。
だが、それでも『八神』は最強と謳われる。その理由こそが、この瞳の力だ。
この瞳の力は、『八神』の家系である人間のみが使用できる。各家で備わっている力は違うが、共通するのは力を解放すると、その瞳には『八卦印』が浮かび上がり、髪の色が変わるという点だ。
この瞳の力――月神家なら『月の眼』と呼んでいる――を解放したものは、身体能力が向上するといわれている。しかし、なにも筋力が上がったり、脚力が劇的に速くなったりするわけではない。綾奈の言葉を借りるならば、「眼がよくなる」らしい。
普段の状態では、捉えられないものが捉えられたり、視野に入ったものの微かな挙動が見えたりすると綾奈は言っていた。これは単純なようだが、戦闘時には非常に有利に働く。見えないものが見えるなら、よりそれに対処することができるし、微細な動作が分かるなら、次の相手の行動を読むこともできる。それを戦闘に利用すれば、相対的に身体能力が向上したといえるだろう。今、『月の眼』を解放した綾奈には、通常より遥かに多くの情報が入ってきているはずだ。