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スノードロップ・カモミール~逆境の中の希望~

波うさぎ

 子供のように自由に駆け回る冷たい風が、野晒(のざら)しになっている私の首元をいたずら気に撫でていった。

 首をすくめるものの、しばらく経てばまた伸びる。今日はそれくらい陽気が良いのだ。


 マフラーを置いてきた私は、慣れ親しんだキャンパス内を一人、心赴くまま歩いていた。

 心の中で、感謝の言葉を述べながら、ゆっくりゆっくり歩く。自然の多いこの場所で、小鳥がそれに返事をするかのように鳴いていた。


 三月。私はこの美大を卒業する。

 もう、この場所に来ることはないだろう。





 アパートに戻った私は、思わずため息をついた。


 ワンピースにヒール、教科書や雑誌、ベッドの上には化粧品や画集が、無造作に散らばっていた。台所の方も同じような状態である。

 あちらこちらに物が散乱し、足の踏み場もない部屋の中。これじゃあ、泥棒でも入ったみたいだと、一人苦笑を浮かべる。時計を見れば、すでに午後の十二時をまわっていた。


 やばい、こうしちゃいられない。


 一人両手をせわしなく動かし、床いっぱいに散らかったものを段ボールに詰めていく。明日、私はこのアパートを出る。今日でこの部屋ともお別れだ。


 それなのに、過去をなつかしんでは、手が止まる。思うように荷造りが進まない。


「そんなんじゃあ、日が暮れるよ」


 電話越しに言われた、母の声が蘇って消えた。そんなこと言われてもどうしようもない。


 大学生活の四年間、辛いときもあったけどそれなりに充実していた証だ。四年前、この部屋に引っ越してきた頃は画家になることを夢にしてたっけ。結局、その夢は叶わなかったけど、将来有望そうな人たちとたくさん出会えた。それだけでも満足だ。デッサン画で埋まっているスケッチブックをぱらぱらめくって閉じた。ふうと息を吐く。


 そのとき、箪笥の上に飾られた、一枚の小さな水彩画が目に入った。写真立てに入ったその絵は、一番のお気に入りであり、特別思い入れが強い。それはもう、尋常じゃないくらい。


 その絵を見ているうちに、彼に会いたくなって、荷造りもそこそこに、私は部屋を飛び出すとバスに乗ってしまった。

 数人しかいないバスの中、いつも使っている座席に腰を下ろす。

 座席から伝わる振動と変わらない景色が、私をあの日へと(いざな)う。




   * * *




 あれは、大学三年の二月下旬だった。まだ、寒さが厳しい季節。

 絵を描こうにも、手が思い通りに動かない。そんな厄介な季節。

 それに、就活という手強い怪物と戦わなきゃいけない頃。

 私は、友人の萌花と以前訪れたことのある美術館に、一人で来ていた。





 初めてこの美術館に来たのは、入学して間もないときだった。大学で知り合い、意気投合した私たちは、萌花の提案でここに来た。


 当時の私は、絵を描くのは好きだけど、人の書いた作品を見るのは、そうでもなかった。もちろん、勉強になることはあるし、すごいと感嘆もする。けど、やはり私は見るよりも描きたかった。


 萌花に付き合う形で美術館に来たけど、今回もあまり面白くないだろうな。


 そう思っていた。


 けど、違った。


 ここで、私はある一作品に魅了されたのだ。

 その絵は『無題』という。


 一目見た瞬間、私は自分の中で何かがストンと落ちた気がした。鳥肌が立った。この作品の前ならずっといられる気がした。そのときの萌花は、先を促したけど、私はずっとここにいたかった。


「この絵のどこがいいの?」

 萌花はそう言ったけど、良さなんて口下手な私がうまく表現できるはずがない。とりあえず、ただただ私はその絵に魅了されたのだ。


『無題』という名の、ただ真っ黒な絵に。


「あれは絵とはいえないよ」

 確かに、見方によっては黒い画用紙を作品だって言っているようなものだ。でも、そこがいい。


 よく、萌花と自分のお気に入りの作品について語ったなあ。

 溢れ出るそんな記憶の数々。こういう他愛もない会話をしているときが、一番幸せだったのかもしれない。


 一番仲のいい友人である萌花は、私の夢だった画家になる。萌花には、私にはない才能があった。入学したときから、周囲から一目置かれ、簡単な鉛筆のデッサン画でさえ先生や先輩たちに褒められていた。まるで本物のような絵を描いたかと思いきや、見る者を不思議な気分にさせる絵も描く。萌花にとって筆は、魔法の杖なんじゃないか、そう思わせるほど自由自在に真っ白いキャンパスの中へ世界を作っていった。


 そんな萌花は、一年のときから私の尊敬する人物であり、口にはしないが、ライバルでもあった。萌花みたいな才能は、ないかもしれない。けれど、才能はなくても私の想いを込めた作品が、いつかは認められると信じて疑わなかったあの頃。だけど今の私は、知っている。私は画家にはなれないことを。どれだけ努力しても報われないことがある。それをこの大学生活で学べただけでも大きな成長だ、なんて言い聞かせている自分が嫌になる。




 もう、何もかもが嫌になった。こんな気持ちのままじゃあ、就活なんかできないと思って、大好きな作品を見にここに来た。そうしたら、何かが変わるような、わかるような、そんな気がしたから。





 芝生でまわりを囲み、落ち着いた雰囲気をまとう美術館。

 受付で入場料を払い、私は芸術の世界へと足を踏み入れた。

 まずは、暗幕の張られた巨大なドーム型の作品。その中に入ると、中央に置かれた町のミニチュア模型が目に飛び込む。ドーム型の天井は、昼と夜を忙しそうに行き来している。まるで、自分が巨大になったような、そんな錯覚を覚えるこの作品は、神のように振る舞う人間の姿を感じてもらうために作られたと、前に萌花が言っていた。


 そのあとも、順路通りに作品をみていく。壁に耳を当てると聞こえる心音、赤を基調とした巨大な和風の獣絵。再び暗幕を手で押しのけ中に入ると、まるでそこに存在するかのように、迫力のある影が待ち受ける作品。そして、『無題』。長方形型の巨大なアクリル画。ただ、真っ黒なだけだから、ほとんどの人が歩きながら見るだけなのに、私だけがその場に留まった。


 黒いなって思う。


 作品じゃなく、私が。


 この絵を見ても何も解決しない。それどころか、この作品の制作者を妬む自分がいる。


 だって、この人は私がなりたくてもなれない芸術家として、活躍したんだから。


 ふと、萌花のことを思った。これから画家になる萌花もたくさんの作品をつくり、多くの人に何か影響を与えるんだろう。それは、私がやりたかったこと。


 ――羨ましい。

 なんで萌花なんだろう。なんで、私じゃないんだろう――。溜息を吐いた。自分が嫌になる。私は私、なのにね。どうあがいても萌花にはなれない。画家にはなれない。


「もう、絵を描くのは、やめよう」


 誰に言うでもなく、自分自身への誓い。

 こんな気持ちになるのなら、絵なんか描かなければよかった。

 今だけはヒールを履いて、美術館内いっぱいに耳障りな音をまき散らしたかった。




 何も解決しないまま、私は美術館を出た。ひんやりとした空気に、鳥肌が立つ。まだ二月。どんよりとした曇り空からは、今にも雪が降りそうだった。


 傘持ってきてないし、早めに帰ろう。


 バス停をめざし、歩き始めたときだ。どんっと何かが腕にあたる。目に映ったのは、白いコートを着た少年。その少年は、振り返ることもなくまっすぐ美術館へと駆けて行った。


 謝ってよ、もう。地味に痛みを引く腕をさすりながら、歩き出そうとしたとき。視界の隅に、きいろくて丸いものが光った。


 なんだろう?

 拾い上げたそれは、きいろいビー玉だった。片目を閉じて中をのぞくと、きいろだけど銀色っぽい色もまじっていて、とにかくきれいだった。ぶつかってきた子の落し物だろう。普段の私なら、たかがビー玉、また買えばそれでいいじゃない、とか思ってそのまま放置する。


 だけど――。


 ほかの人にとってはガラクタでごみみたいなものかもしれないけど、本人にとっては宝物。自分の幼少期が蘇る。道端で拾ったきれいなガラスとかまんまるの石、海辺で拾った割れた貝殻――。どれも宝物で、失くしたら一日中探して。両親の買ってあげるよって言葉が無神経すぎて拗ねたっけ。絵も同じ。私の描いた絵がほかの人に評価されなくても、私にとっては思いを込めた作品。かけがえのない物なのだ。そう考えると、このビー玉もあの少年にとってはかけがえのない物かもしれない。

 ……とりあえず受付の人に渡しておこう。




 再び美術館内に戻った私は、そのまま受付へとまっすぐ向かった。


 だけど、誰もいない。


「すみません」

 声をかけたが、返事はなかった。それ以前に、人が現れる気配も、ない。


 まだ、開館時間だよね――。

 不安になりながら、自分の腕時計で確認する。時刻は午後二時半をさしていた。


 休憩中とか? でも、誰か一人くらいいるはず。

 きょろきょろとあたりを見まわすと、さらに不自然なことに気が付いた。


 私以外、誰もいない?

 動くのをやめた。足音が聞こえないかと耳を澄ますが、何も聞こえない。人のささやき声さえ聞こえなかった。


 さっきまでは静かだけど明るく感じられた美術館が、今は不気味で仕方がない。静かすぎて耳鳴りがしてきた。


 私は、夢でも見ているのだろうか――。

 そう思ったときだ。視界の隅で、ぶつかってきた少年の姿をとらえた。白いコートを着ていたし、間違いはない。


「ねえ、君」


 声をかけたが届かなかったらしく、少年はどんどん奥へと行ってしまう。受付の方をちらりと見たあと、私は少年を追いかけた。

 ひんやりと冷たいビー玉を、失くさないようにとポケットに入れながら。





 すぐに見つかると思っていたのに、少年はなかなか見当たらない。もしかしたら暗幕をくぐった先にいるかもしれないと思い、一つ一つ、作品を見てまわることにした。

 まず始めは、ドーム型の作品。暗幕をくぐると、さっきと同じ、ミニチュアの町が目に飛び込む。


 少年は、いない。


 いないのなら、さっさと次に行こう。

 ミニチュア模型を歩きながら眺め、そのままそこを出ようと、模型から目を離した。


 その瞬間。いきなり目の前に田園風景が広がった。


 一体何が起きたの――。

 状況が呑み込めないまま、私は呆然と立っていた。他から見たら、呆けた顔をしていただろう。


 私、美術館にいたはずなのに。

 それなのに、いつの間に外に、しかも来たこともない場所に立っているのだろう。

 混乱する頭を落ち着かせるように、深呼吸を繰り返す。ある程度、落ち着きを取り戻すと、ゆっくり辺りを見まわした。


 やはり見たことのない景色だ。少し離れたところに、平屋の民家が見える。テレビで見るような田舎の景色だ。緑が多く、人工物が少ない。癒しを求める人にとっては格好の場所なのかもしれない。


 そんな風に思っていると、遠くに小さな人影が見えた。どうやら田んぼに入っているらしい。田植えをしているのか、腰を曲げている。私は、その人のもとへと駆け寄った。


 この時点で、よく考えればおかしいことに気付いただろう。だって、今は二月。日本のどこを探してもこの時期に田植えをする地域なんかないはずだ。でも、私はそんなこと考えなかった。人がいる。そのことが、私を心底安心させた。


「すみません。ここ、どこで――」


 走ったせいもあって、息は上がっていた。けど、声音は明るい。しかし、それもほんの一瞬だった。

 私ははっと口をおおった。

 声をかけたにもかかわらず、微動だにしないお爺さんをよく見ると、それは人ではなく人形だった。


 なんで? どうして?

 疑問と不安と、その他もろもろの気持ちがどっしりとのしかかる。その重さに耐えきれなかったかのように、一気に力が抜けて、座りこんでしまった。


 その反動で、ポケットからビー玉が転がる。田んぼへと転がっていくのを見て、あわてて手を伸ばした。でもビー玉には届かず、そのまま水の張った田んぼへと落ちる――はずだった。


 私は目の前で起きたことが、信じられなかった。ビー玉は、転がった。水の上を、まるで氷の上を滑るかのように。


 どういうこと?


 恐る恐る手を伸ばすと、それは水ではなかった。水だけじゃない。緑の苗も、道端に生えている草もどれも偽物だ。ビー玉を拾い、朱色に染まった空を見上げた。

 この空にも違和感があるような――。


 それどころか、ここにあるもの全てが作り物のような気がする。そう思っていたらあっという間に夜になった。プラネタリウムでも見ているかのような満天の星空。でも、月がなかった。おもむろに、手に持っていたビー玉を空にかざした。これでお月様完成と心の内で呟く。


 こんなときに何しているんだろうと自分でも思う。けれど、夜空に月がなければ寂しい。太陽のように派手ではないが、月の存在も必要不可欠なものだ。先の見えない不安に駆られながらも、そっと寄り添ってくれている、そんなお月様が今は欲しかった。


 手に持つきいろいビー玉は、本当にまん丸いお月様そのものに見えた。私はほくそ笑むと、その手をゆっくり下した。


 途端、夜の田園は幻のように消え去り、先程までいたドーム型の作品の中に立っていた。


 一体どういうこと?


 狐につままれた気分で、あたりを見まわすと、気づいた。

 私はミニチュアの町の中にいたんだと。目線を下げれば、確かにミニチュアの町は、さっきまで私がいた場所だった。


 夢でも見ていたんだろうかと思って、頬をつねったけど、痛いだけだった。

 この作品だけじゃない。美術館にある作品すべてが変だった。壁に耳を当てれば聞こえるはずの心音も、音だけが館内を歩き回っているかのように聞こえたり、牙をむき出しにしている獣絵が、こちらを見ているような気がしたり。館内をくまなく見てまわっているけど、少年の姿はおろか、人の姿すら見ない。あの少年は、私の見た幻だったのかもと考え出したとき、再び暗幕の張られている部屋の前にきた。さっきのことを思い出し、進むことをためらってしまう。でも、ここは影の作品。さっきのミニチュア模型とは違うから大丈夫と言い聞かせ、中に入った。


 この作品は、萌花のお気に入りの作品だ。影の特性を利用して、大自然を影のみで表現している。

 ここにも少年はいなかった。それどころか、薄暗い室内には、大量の影の鮫が泳いでいた。


 この作品で、影の鮫なんていたっけ……。

 不思議に思ったのは一瞬だけ。影なのに本物のような動きの鮫に、私の足はすくんだ。もう出ようと思って暗幕のあったところに手をかけたが、なぜか壁になっている。


 えっ。出口は?

 恐怖と焦りが徐々に大きくなる。今にも鮫が襲ってきそうな気がして、一歩も動けなくなった。恐怖で足が震える。


 そのとき、一匹の鮫が私に気づいた。続いてもう一匹。こっちに近づいてくる。



 もう、駄目――。



 私は目を閉じた。



「ぱく」



 襲ってこない。それどころか、人の声が聞こえた。目を開けていいものか迷ったが、ゆっくりとまぶたを開ける。

 影でできた鮫が一匹、また一匹と食べられていた。鮫を食べる影は、人の手で作られた狐のような影で、そのアンバランスさが非現実的だった。


「大丈夫?」


 見ると、捜していた少年がそこにいた。

 少年に手を引かれ、部屋を出た私は、冷静さを取り戻すと少年に尋ねた。


「さっきの、どうやったの?」

「さっきのって、影のこと?」

 見上げてくる少年に私は頷いた。


「影は光に近いほど大きいでしょ、それを利用したんだよ」

 なるほど。この少年はなかなか賢いらしい。


「この美術館、ちょっとおかしいよね」


 さっきから人を見かけないし。それより、展示されている作品がおかしすぎる。この美術館には何度も足を運んでいるからはっきり言える。なんだか、作品自体が意思を持っているような――。


「そう?」

 少年は、どうでもいいといった様子で答えた。

「あっ。そうだ」

 忘れるところだった。私はポケットからビー玉を取り出すと少年に渡した。

「これ、君のでしょ?」

 少年は頷いた。

「探してたんだ。見つけてくれてありがとう」

 うれしそうに笑うのを見て、苦労したかいがあったと思った。


「じゃあ私はここで」

 もうこんなところにいるのも嫌だ。一刻も早くここから出たい。しかし、それを少年は引きとめた。

「せっかくだし、最後までまわろうよ」

「でも――」

 私は早くここから出たい。

「あと少しでまわり終わるし、ここからなら、このままの順路を行った方が早いと思うよ。それに」

 少年はこう付け加えた。

「一人より二人の方がいいよ」


 心強い仲間ができて、私は心底ほっとしたようだった。もしかしたら、私の方が年上だってこともあったから、気丈に振る舞わなきゃと思ったのかもしれない。

 どの作品にも歩みを止めずに進んできた少年が、ある作品の前でぴたっと足を止めた。『無題』だ。まさか立ち止まるとは思わなかった。


「君もこの絵が好きなの?」

「お姉さんは?」

「好きだよ」


 ただ、今はそうでもないけど。


「お姉さんはこの真っ黒な『無題』が好きだっていうけど、なんで? ただ白い紙を黒くしたのと変わんないじゃん」


 真っ黒、か。まあ子供にはこの絵の良さがまだわからないかもね。

 私は言葉を必死に探しながら少年に説明した。


「その真っ黒がいいの。タイトルからも、きっと作者は見る人にどんな絵が描いてあるのかを委ねたんだよ。えっとつまり、真っ黒な絵を見て、自分の好きなように思い描くってことかな」


「ふうん」

 そして少年はこう言った。

「僕はこの絵、嫌いだ」


 驚いた。立ち止まったから好きなんだと思ってた。

「お姉さんは、荒波を経験したことある?」

「荒波か。海は好きだけど、天気の悪い日には行かないな」

 そう答えると、少年は腹を抱え大きな声で笑った。

「何かおかしいこと言った?」

 笑われる心当たりはないんだけど。

「その荒波じゃなくて、『荒波にもまれる』とかそっちの荒波」

 だったらちゃんと説明してよ、まったく。

「どうだろうね」

 今は答えたくない質問だ。


 私の様子を察したのか、少年は静かな口調で語りだした。

「この絵を描いた人はね、本当は真っ黒な絵を描くつもりなんてなかったんだ。でも、波にのまれてしまった。だからね、完成させられなくなったから、真っ黒にしたんだ。それを、僕は完成した作品だなんて思わないし、嫌いだ」


 波にのまれた、か。確かにこの作品の作者である竹内学さんは、精神を患い画家を辞めた。そして病にかかり亡くなった。


「この作品が、竹内さんの最後の作品だってことは知っているけど、真っ黒じゃなかったって言うのは初耳。よく知っているね」


「まあね」

 少年は笑ったが、目は悲しそうだった。大きな黒い瞳が憂いを帯びてる、そんな気がした。何か、この絵のことで悲しいことがあったのだろうか。


 なんて声をかければいいのか迷っていると、いきなり少年が、私のまわりをまわってぴょんと跳ねた。小動物のような少年の行動に目を丸くする。


「どうしたの?」

「別になんでもないよ」

 さっきとは打って変わった様子で元気に走りまわる少年。本当なら美術館内で走っちゃいけないんだけど、誰もいないし迷惑にもなってないからいいかなと特に何も言わなかった。


「お姉さん、なんか絵具かな? そんな感じの匂いがするね」

「え、そう?」

 自分ではそんな匂い、しないんだけど。

「僕、鼻がいいから。ねえ、絵を描いてるの?」

「え、う、うん」

 正確には描いていた、かな。もう描くつもりはない。

「僕、お姉さんの絵、みたいな。鞄の中に入っていないの?」

 少年は首を傾げて尋ねた。そのまっすぐな瞳を見ながら嘘をつくことは、さすがにできなかった。

 鞄の中から一冊のノートを取り出す。


「落書き帳みたいなものだから、あまり期待しないでよ」


 前置きを付けてノートを開いた。初めにタンポポの絵を見せた。次に犬、窓から見える景色、海。このノートの中は、鉛筆で描いたデッサン画しかない。色のない絵は華やかさが欠ける。見てもつまらないだろう。ましてや私の描いた絵。同じデッサン画でも萌花のように才能がある人のデッサン画を見る方がずっといいに決まってる。


 私はノートを閉じた。少年の視線を感じたが、私はあえてそれを無視した。すると少年は私の服を引っ張りこう言った。


「僕の絵を描いてよ」


 私はゆっくり首を振った。


「無理」


「どうして? 絵、描いてたじゃん」

 手元にあるノートを見た。この頃と今の私は違う。

「描けないの」

「そんなのおかしいよ。だってお姉さんには、両腕があるじゃないか」

「腕があるとか、そういう問題じゃなくて、気持ちの問題。今は描きたくないんだよ」

「それじゃあお姉さんは、僕のこと嫌いってこと?」

「嫌いじゃないよ。ただ、私の気持ちの問題ってことだけ」

「やっぱりおかしいよ。確かに、絵は見ている人に何かを伝えるためのものかもしれないけど、そうじゃなくても相手を喜ばせることができるんだよ」



 ……。



「だからさ、描いてよ」



 相手を喜ばせる絵、か。

 少年の言葉を聞いて、私は中学生のときに見かけた似顔絵絵師を思い出した。あの人は、自分が誰かに何かを伝えたくて絵を描いているのではなく、相手に喜んでほしくて筆を動かしていたんだ。絵は作者の気持ちを表すためだけのものじゃない。私はそのことを忘れていたんじゃない? それに、誰かに認められることに、固執しすぎていたのかもしれない。完成した作品が、どう評価されようが、絵を描くこと自体が楽しい。誰かに認めてもらえるような作品ではなく、私が「楽しい」と思って描いた絵を誰かが喜んでくれたら?


 私は、一番大切なことを、忘れていたんじゃあ――。


「……。わかった。でも似ている保障はないからね」

 

 出来上がった絵を、少年に見せた。


「この絵、僕がもらってもいい?」

 私はその絵を、少年に渡した。

「お姉さん、絵うまいよ。これ僕の宝物にするね」


 その言葉を聞いた瞬間、心の中がじわじわと温かくなるのを感じた。


「ありがとう」


 笑顔と共に、心の底からの感謝を伝えた。同時に、心の中に巣くっていたわだかまりが、春の陽気に当てられ溶けていったようで、気持ちが軽くなるのを感じた。


「波の中には鮫がいてね。波にもまれるだけならまだいいけど、鮫に食べられちゃったらもう、助けられないんだよ」


 大股で歩きまわる少年が、急にそんなことを言い出した。


「鮫に食べられちゃったかもって思ったけど、そうじゃなかったね。お姉さん、意外と強いんだね」


 何を言っているのか正直わからなかったけど、きっと影の鮫のことを言っているんだと思った。


「君のおかげだよ」

 少年は、くるりとこちらを向いた。

「それはよかった」

 そして、にこっと笑った。


「ところで、お姉さんに一つ、聞きたいことがあるんだけど」

「何?」

「うさぎと言ったら何だと思う?」


 時計とか亀とか。いろいろ思い浮かべるものはあるけど、やっぱり――。


「月でしょ」

「だよね」

 そう言って少年は、ビー玉を真上に投げた。









「あれ? ビー玉、お月様になったよ」


「何言ってんの、弥生」

 萌花が目の前にいた。

 あれ?


「ここ、どこ?」

「まだ寝ぼけてるの?」

 笑い声が聞こえた。

「あれ? 私美術館にいて、そこで白いコートの少年と――」

「弥生が一人で美術館に行ったのは、昨日。で、あたしが必死で作品の完成目指して頑張っているときに、特に手伝うこともなくなったからって寝始めたじゃない。思い出した?」


 言われてみれば、そんな気もする。

 けど――。

 私は少年の姿を探した。探せばいる、そんな気がしてならない。私の夢の中の存在で終わらせたくない。私は起き上がると、水と絵の具を用意した。そして、ポストカードサイズの画用紙に、水彩絵具で絵を描き始めた。突然の私の行動に、萌花はびっくりしたようだけど、今はかまっていられない。とりあえず、この気持ちを絵に、形に残したかった。


   * * *


 あれから約一年。今、私は『無題』の前に立ち、その真っ黒を正面から見つめている。しばらくして、鞄から写真立てに入った水彩画を取り出した。


 あの夢を見た後、何かあったらこの水彩画をここで見る習慣ができてしまった。そうすれば、またあの少年に会えるような気がして。それに、まだ夢の存在で終わらせるつもりはない。


 でも、あの夢以来、少年には一度も会っていない。


 明日には、この街を出る。そうしたらもう、ここに来ることはないかもしれない。

 最後の挨拶も兼ねて、この美術館にやってきたけど、所詮夢は夢で、会えるはずもないのかもしれない。

 あきらめて帰ろうとしたときだった。


「やっぱり僕はお姉さんの絵好きだな。絵、描き続けてよ」


 振り向いたが誰もいない。でも、確かに聞こえた、少年の声。

「うん。続けるよ」

 私が絵を描くことを、楽しいと思えなくなるそのときまで。

「約束する」

 そして私は美術館を、この街を去った。


   * * *


 最近、思うことがある。



 あの少年は『無題』だったんじゃないかって。



 だから夢から覚めて描いたこの水彩画が、黒くなる前の作品だったらいいなとか自分勝手なことを願うけど、結局真っ黒になる前の作品は、誰にもわからないんだからそう思ってもいいよね。


 あのとき描いた水彩画には、二匹の白兎と月、そして波が描かれている。


 少年が落としたきいろいビー玉は、お月様。辛い出来事や苦しいことは、波。その波の中には鮫がいて、食べられたら最後、二度と波の上には戻れない。そして波の中から私を導いてくれた少年は、ツキを背後に波の上を飛び跳ねる、



波うさぎ



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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白いというか、読書である私を元気づけてくれる、そんなやさしい作品でした。 好き嫌いでいえば、すごく好きな作品です。 美術館の描写もきれいで、まるで主人公といっしょに展示を見て回ってるよう…
[良い点] 画家になることを諦めかけた主人公が、葛藤を抱き向かった美術館。 そこから場面が変わり、一気に不思議な世界に惹き込まれる所がよかったです。 この美術館の空間、少年の存在感など、作者さんの感受…
2013/10/01 15:40 退会済み
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