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帰らなかった少年たち ― 木曽駒ヶ岳遭難記 ―

掲載日:2026/11/08

第一話 濡れた小倉袴と冷たい握り飯


夜明け前から、赤羽長重の足裏には鈍い痛みがあった。


草鞋の緒が足袋越しに指の股へ食い込み、踏みしめるたびに小石の硬さが踵から膝へと伝わってくる。山道には昨夜の露が残り、草の葉が袴の裾を濡らした。八月とはいえ、木立の奥にはまだ朝の冷気が漂っている。しかし、歩き続けるうちに背中には汗が滲み、襟元を伝う雫が胸へ落ちた。


赤羽は立ち止まり、手ぬぐいで額を拭った。


振り返ると、細い山道に生徒たちの列が続いていた。


中箕輪高等小学校二年生、二十五名。


十四、五歳の少年たちは、藍色の筒袖着物に小倉織の裾絞り袴を穿き、麦わら帽子をかぶっている。背中には竹皮に包んだ握り飯と、丸めたゴザを括り付けた背負い袋。歩くたびに竹筒の水入れが腰に当たり、乾いた音を立てた。


引率の教員と同窓会の青年たちを合わせれば、総勢三十八名になる。


最後尾では、准訓導の清水政治が生徒たちを励ましていた。


「おい、そんなに急ぐな。山は逃げやせんぞ」


まだ二十歳そこそこの清水は、誰よりも大きな荷物を背負っていた。それでも声には張りがあり、遅れがちな生徒の背を軽く叩いては笑わせている。


「内ノ萱まで行けば休める。握り飯も食えるぞ」


「先生、もう腹が減りました」


「さっき食ったばかりじゃないか」


笑い声が山道に広がった。


赤羽もつられて口元を緩めた。


少年たちにとって、この登山は一年で最も楽しみにしていた行事だった。教室の窓から遠く眺めていた中央アルプスの峰々。その頂に、自分たちの足で立つのである。


出発前から、誰もが胸を躍らせていた。


赤羽は再び歩き始めた。


しかし、胸の奥には朝から小さな重みがあった。


案内人を雇うだけの費用はなかった。下見も十分とはいえない。山を知る者の話を聞き、道筋を確かめてはきたが、実際に一行を率いて歩くとなると、不安は消えなかった。


それでも登山を取りやめるという選択は、赤羽の中にはなかった。


困難に耐え、互いに助け合い、最後までやり遂げる。


それこそが少年たちに教えたいことだった。


赤羽は校長として、この登山を成功させなければならなかった。


「校長先生」


背後から声がした。


唐澤武雄だった。


小柄だが足取りは軽く、列の先頭近くを歩いている。丸刈りの頭には汗が光り、頬は日に焼けて赤かった。


「駒ヶ岳の頂上からは、海が見えるって本当ですか」


「海か」


赤羽は笑った。


「よほど天気がよければ、遠くの山々まで見渡せるだろうな。だが、海はどうかな」


「じゃあ、俺が確かめます」


「そうか。頼もしいな」


武雄は得意そうに笑い、仲間のもとへ駆け戻った。


その背中を見送りながら、赤羽は西の空を見上げた。


稜線の上には、薄い雲が一筋かかっていた。


まだ、青空のほうがずっと広かった。


*


内ノ萱の休み場に着いたのは、午前十時を少し回った頃だった。


生徒たちは待ちかねたように荷を下ろし、木陰へ散った。


竹皮をほどく音があちらこちらで聞こえた。焼き味噌の香ばしい匂いが漂い、麦飯や漬物を分け合う声が重なった。


赤羽は木の根元に腰を下ろした。


足袋を脱ぎたいと思ったが、一度脱げば再び草鞋を履くのが億劫になりそうだった。


「校長先生、見てください」


武雄が目の前にしゃがみ込んだ。


手には、大きな握り飯があった。


表面には焼き味噌が厚く塗られ、ところどころ黒く焦げている。


「母ちゃんが作ってくれたんです。味噌をけちるなって言ったら、こんなに塗ってくれました」


「それはうまそうだ」


「一つ、先生にやりましょうか」


「いや、お前が食べなさい。まだ先は長い」


武雄は少し残念そうな顔をしたが、すぐに握り飯へかぶりついた。


「うまい!」


口の端に米粒がついていた。


赤羽は笑った。


「そんなに慌てるな。よく噛め」


「帰ったら母ちゃんに言うんです。駒ヶ岳で食った握り飯が、一番うまかったって」


「それはお母さんも喜ぶだろう」


武雄は頷き、もう一口頬張った。


そのときだった。


木々の葉が、ざわりと鳴った。


赤羽は顔を上げた。


先ほどまで肌にまとわりついていた暑気が、わずかに動いた気がした。


西の空に雲が増えていた。


白い雲ではなかった。山の向こうから、濁った灰色の塊がゆっくりと押し寄せている。


訓導の征矢隆得が、赤羽の隣へ腰を下ろした。


「校長先生、風が変わりましたね」


「ああ」


赤羽は空を見たまま答えた。


「雨になるかもしれん」


「夕立でしょうか」


「そうならよいが」


言い終わらないうちに、大粒の雨が赤羽の手の甲を打った。


一滴、二滴。


やがて葉を叩く音が増え、あたりが急に暗くなった。


「雨だ!」


生徒たちが立ち上がった。


誰かがゴザを広げると、ほかの者も真似をした。頭からかぶったゴザの縁を雨水が伝い、足元へ落ちていく。


たちまち山道は黒く濡れた。


赤羽は立ち上がった。


「征矢君、清水君」


二人が駆け寄ってきた。


「今日は、ここで引き返そう」


征矢が赤羽を見た。


「下山ですか」


「この空では先が読めん。上で降られたら、逃げ場がない」


清水は山頂の方角を振り返った。


雨に煙り、稜線はもう見えなくなっていた。


「生徒たちには、私から話します」


そう言って清水が振り向いたとき、赤羽の言葉を聞いていた武雄が立ち上がった。


「帰るんですか」


「そうだ。今日は無理をせん」


「そんな!」


武雄の声に、ほかの生徒たちも集まってきた。


「校長先生、まだ半分も登ってねえじゃないですか」


「雨なら止みますよ」


「ここまで来たのに」


赤羽は少年たちを見渡した。


「山では、引き返すことも大切なんだ」


しかし、その言葉は雨音に紛れ、生徒たちの不満に押し流された。


武雄は握り飯の残りを竹皮に包み、ぎゅっと握りしめていた。


「俺、母ちゃんに頂上まで行くって約束したんです」


赤羽は返事ができなかった。


同窓会の青年の一人が近づいてきた。


「校長先生、少し様子を見てはどうでしょう」


「しかし、この雲は……」


「雨も弱くなってきました。せっかくここまで来たんです。子供たちも楽しみにしておりましたし」


確かに、雨足は先ほどより細くなっていた。


木々の葉を叩いていた音も、いくらか静まっている。


青年は続けた。


「男が一度決めたことです。少々の雨で帰ったとなれば、生徒たちも残念でしょう」


赤羽は目を伏せた。


男が一度決めたこと。


その言葉は、彼自身が日頃から生徒たちに説いてきた教えでもあった。


困難に負けぬこと。


弱音を吐かぬこと。


決めた道を最後まで歩くこと。


赤羽はもう一度、空を見上げた。


灰色の雲は動いていた。


だが、雨は確かに弱くなっていた。


「……もう少し進んでみよう」


その瞬間、生徒たちから歓声が上がった。


「やった!」


「頂上まで行けるぞ!」


武雄も飛び跳ねて喜んだ。


赤羽はその姿を見ながら、胸の奥に残る不安を押し込めた。


「ただし、少しでも危ないと思ったら戻る。いいな」


「はい!」


少年たちの返事は、驚くほど元気だった。


赤羽は征矢と清水に目を向けた。


二人は黙って頷いた。


一行は再び歩き始めた。


赤羽は最後に一度だけ、内ノ萱の休み場を振り返った。


木の根元には、食べ終えた握り飯の竹皮が一枚、雨に濡れて貼り付いていた。


*


午後になると、山は別の顔を見せ始めた。


尾根へ出た途端、風が身体を横から突き飛ばした。


生徒の一人がよろめき、隣の者にしがみついた。


「低くなれ!」


清水が叫んだ。


雨は横から吹きつけていた。


顔を上げることもできない。目を開けば雨粒が刺さり、閉じれば足元が見えなくなる。


草鞋は泥を吸い、足袋の中まで水が染み込んだ。


小倉袴は濡れて脚に貼り付き、歩くたびに膝を引っ張った。


赤羽は杖を地面へ突き立てた。


風の中で、征矢が何か叫んでいる。


しかし、聞こえなかった。


赤羽は耳を寄せた。


「校長先生! これ以上は!」


言葉の後半が風に消えた。


赤羽は後ろを振り返った。


生徒たちは一列になっていたが、その列は何度も途切れかけていた。


麦わら帽子を失った者がいた。


背負い袋の縄が切れ、荷物を抱えて歩く者もいた。


誰も笑っていなかった。


「戻ろう!」


赤羽は叫んだ。


だが、征矢が首を振った。


「下りも危険です! 道が……!」


その先は聞こえなかった。


赤羽は足元を見た。


細い山道は雨水の流れる溝になっていた。斜面の下は霧に隠れ、どこまで落ちているのかわからない。


進むことも、戻ることも、すでに容易ではなかった。


いつの間にか、生徒たちの歯が鳴り始めていた。


がちがち、がちがち。


最初は一人だった。


やがて、あちらこちらから同じ音が聞こえた。


「先生、寒い」


一人の少年が赤羽の袖を掴んだ。


唇が紫色になっていた。


「手が動かねえ」


赤羽は少年の手を握った。


小さな手だった。


冷たい。


赤羽はその手を両掌で包み、強く擦った。


「動かせ。指を動かすんだ」


少年は頷いた。


しかし、指はほとんど動かなかった。


清水が駆け寄ってきた。


「校長先生、後ろの者が歩けなくなっています!」


赤羽は列の後方へ向かった。


一人の生徒が岩陰にしゃがみ込んでいた。


「立てるか」


返事がなかった。


「おい、立つんだ」


肩を抱いて起こそうとすると、少年は力なく首を振った。


「もう、歩けねえ……」


赤羽は言葉を失った。


出発のとき、誰よりも大きな声で歌っていた少年だった。


赤羽はその腕を自分の肩に回した。


「一緒に歩こう」


少年は何も言わなかった。


赤羽は足を踏み出した。


一歩。


また一歩。


背後から清水の声が聞こえた。


「止まるな! 眠るな! 声を出せ!」


しかし、生徒たちの返事は次第に小さくなっていった。


*


夜になった。


いつ日が暮れたのか、赤羽にはわからなかった。


山はすでに真っ暗だった。


風と雨の中に、時折、人影が浮かび上がる。


それが誰なのか、近づかなければわからない。


ようやく山小屋らしい影を見つけたとき、赤羽は声を振り絞った。


「小屋だ! 中へ入れ!」


生徒たちは互いの身体を支えながら、暗い入口へなだれ込んだ。


だが、そこは雨風を防げる場所ではなかった。


屋根の一部は傷み、壁の隙間から風が吹き込んでいた。床には水が溜まり、足を置くたびに泥が跳ねた。


誰かが火を起こそうとした。


濡れた木切れを集め、火口を探し、何度も火をつけようとした。


白い煙がわずかに上がっただけだった。


「火はつかんのか」


赤羽が尋ねた。


「薪が濡れています」


清水の声は掠れていた。


赤羽は小屋の中を見渡した。


生徒たちは壁際に身を寄せ合っていた。


肩を抱き合う者。


膝を抱えて震える者。


濡れた袴の裾を絞る者。


誰かが泣いていた。


「母ちゃん……」


その声は、ひどく幼かった。


「母ちゃん、寒いよ……」


赤羽は少年たちの間を歩いた。


「眠るな。身体を動かせ」


一人ずつ肩を叩いた。


「返事をしろ。声を出すんだ」


しかし、返事のない者が増えていた。


赤羽は武雄を見つけた。


壁にもたれ、膝を抱えていた。


「武雄」


少年が顔を上げた。


目の焦点が合っていなかった。


「寒いか」


武雄は小さく頷いた。


「腹は減っていないか」


「……わかんねえ」


赤羽は隣に腰を下ろした。


武雄の手を取った。


驚くほど冷たかった。


「握り飯は、まだあるか」


武雄はしばらく考えるような顔をした。


それから、震える手で懐を探った。


竹皮の包みが出てきた。


水を吸い、すっかり柔らかくなっていた。


「……半分、残した」


「食べられるか」


武雄は首を振った。


「先生、食べて」


「わしはいい」


「朝から、あんまり食ってねえでしょう」


赤羽は武雄の顔を見た。


少年はかすかに笑った。


昼間と同じ笑顔を作ろうとしているのがわかった。


「お前が食べなさい」


赤羽は包みを武雄の手に戻した。


「帰ったら、お母さんに礼を言わんとな」


武雄は頷いた。


「……うん」


それきり、目を閉じた。


「武雄、眠るな」


赤羽は肩を揺すった。


「武雄」


少年はゆっくりと目を開けた。


「……起きてるよ」


赤羽はその隣を離れられなかった。


外では風が吠えていた。


小屋の壁が軋み、屋根の隙間から雨水が滴り落ちた。


赤羽は濡れた袂を握りしめた。


内ノ萱の木陰が脳裏に浮かんだ。


あのとき。


あの場所で。


帰ると言い切っていれば。


少年たちは今頃、麓の家で眠っていたかもしれない。


母親の用意した夕飯を食べ、今日の出来事を得意げに話していたかもしれない。


赤羽は目を閉じた。


しかし、武雄の手の冷たさは消えなかった。


*


夜が明けても、嵐は続いていた。


小屋の中は薄暗く、夜と朝の区別さえつかなかった。


赤羽は壁にもたれ、膝を抱えていた。


いつからそうしていたのか、覚えていない。


「校長先生」


清水の声がした。


赤羽は顔を上げた。


清水は一人の生徒の傍らに膝をついていた。


古屋時松だった。


少年は仰向けに寝かされていた。


目を閉じ、口をわずかに開いている。


「時松」


清水が呼んだ。


返事はなかった。


「おい、時松」


清水は少年の肩を揺すった。


それでも動かなかった。


赤羽は這うように近づいた。


時松の頬に触れた。


冷たかった。


胸元に手を当てた。


何も感じられなかった。


清水はなおも少年の名を呼び続けた。


「時松、起きろ。朝だぞ」


誰も口を開かなかった。


やがて、後ろにいた生徒が小さく呟いた。


「……死んだのか」


その言葉が小屋の中に落ちた。


「時松、死んじまったのか」


誰かが泣き始めた。


別の少年が立ち上がった。


「嫌だ」


その声は震えていた。


「俺、ここにいたくねえ」


「外へ出るな!」


清水が叫んだ。


「今出たら危ない!」


しかし、少年は首を振った。


「ここにいたら死んじまう!」


その言葉をきっかけに、何人もの生徒が立ち上がった。


入口へ向かう者。


荷物を掴む者。


泣きながら仲間を引っ張る者。


小屋の中はたちまち騒然となった。


赤羽は立ち上がろうとした。


だが、膝に力が入らなかった。


「待て……」


声が出なかった。


「待ちなさい!」


ようやく叫んだときには、数人の生徒が外へ飛び出していた。


灰色の雨の中へ、小さな背中が消えていった。


赤羽は入口へ這い寄った。


風が顔を打った。


何も見えなかった。


征矢が駆け寄ってきた。


「校長先生!」


赤羽はその腕を掴んだ。


「里へ知らせてくれ」


「しかし……」


「救助を呼ぶんだ。頼む」


征矢は赤羽を見つめた。


何か言いかけたが、結局、頷いた。


「わかりました」


そして、風雨の中へ出ていった。


赤羽は小屋へ戻った。


武雄が横たわっていた。


目を閉じたまま、動かなかった。


「武雄」


赤羽は頬を叩いた。


「武雄、起きろ」


少年の瞼がわずかに動いた。


赤羽はその身体を抱き起こした。


「帰ろう」


武雄は返事をしなかった。


「先生が連れて帰る」


赤羽は少年を背負った。


思っていたよりも、ずっと軽かった。


背中に武雄の胸が当たった。


かすかな温もりを探した。


しかし、濡れた着物を通して伝わるのは、冷たさばかりだった。


「清水君」


赤羽は振り返った。


清水は古屋時松の傍らに座っていた。


「残った生徒たちを頼む」


清水は顔を上げた。


目が赤かった。


「校長先生も、どうか……」


赤羽は頷いた。


それ以上、言葉を交わす余裕はなかった。


*


濃ヶ池へ向かう道は、霧に閉ざされていた。


赤羽は杖を頼りに歩いた。


一歩進むたびに、背中の武雄が揺れた。


「武雄」


赤羽は呼びかけた。


「聞こえるか」


返事はなかった。


「もう少しだ」


どこまで歩けば里へ下りられるのか、赤羽自身にもわからなかった。


それでも歩いた。


立ち止まれば、二度と動けなくなる気がした。


「お母さんが待っているぞ」


風が吹いた。


「帰ったら、また握り飯を作ってもらおう」


赤羽の足が滑った。


膝をつき、泥の中へ手を突っ込んだ。


武雄を落とすまいと、必死に身体を起こした。


「大丈夫だ」


誰に言ったのかわからなかった。


「大丈夫だからな」


濃ヶ池のほとりまで来たとき、赤羽の脚はついに動かなくなった。


膝が折れた。


そのまま、泥の上へ崩れ落ちた。


背中から武雄の身体が滑り落ちた。


赤羽は慌てて抱き寄せた。


「武雄」


少年の顔を覗き込んだ。


目は半ば開いていた。


唇は青黒く、頬には血の気がなかった。


赤羽は耳を口元へ近づけた。


息は感じられなかった。


「武雄」


もう一度呼んだ。


「おい、武雄」


少年は動かなかった。


赤羽はその身体を抱き締めた。


小さな肩だった。


朝、元気よく山道を駆け上がっていた少年の肩だった。


「……すまん」


声が漏れた。


「すまん、武雄」


赤羽は少年の頬に額を押し当てた。


雨が二人の顔を流れていった。


武雄の懐から、何かが滑り落ちた。


竹皮の包みだった。


赤羽は震える手で拾い上げた。


中には、半分ほど残った握り飯があった。


焼き味噌は雨水に溶け、米は冷たく固まっていた。


赤羽はそれを見つめた。


「……母ちゃんの握り飯が、一番うまいんだったな」


武雄は答えなかった。


赤羽は包みを少年の胸元へ戻した。


そして、もう一度抱き寄せた。


風が吹いた。


霧の向こうで、誰かの叫ぶ声がしたような気がした。


赤羽は顔を上げようとした。


だが、首が動かなかった。


手足の感覚はとうに失われていた。


不思議なことに、寒さも遠のき始めていた。


赤羽は目を閉じた。


内ノ萱の木陰が見えた。


青空の下で、少年たちが笑っていた。


武雄が握り飯を掲げている。


「校長先生、見てください」


赤羽は手を伸ばした。


しかし、その手は何にも触れなかった。


わしが、帰すはずだった。


この子らを。


母親の待つ家へ。


その思いを最後に、赤羽長重の意識は静かに遠のいていった。


雨はなおも降り続いていた。


少年の胸元には、竹皮に包まれた握り飯があった。


誰にも食べられることのないまま、冷たく濡れていた。


第二話 白い骨と風化した文字


大正十四年七月。


木曽駒ヶ岳の空は、深い青に澄み渡っていた。


稜線にはまだところどころ雪が残り、花崗岩の白い岩肌が陽光を受けて輝いている。風に揺れるハイマツの間には、小さな高山植物が花を咲かせていた。


十二年前の夏、この山で何が起きたのか。


そのことを知らぬ者が見れば、ただ美しい山だった。


中箕輪高等小学校の生徒五十名が、引率教員に従って登っていた。


白い運動着に地下足袋。


少年たちは黙々と足を運び、岩の多い道を進んでいた。


いつもの遠足とは違っていた。


歌を歌う者はいない。


大声でふざけ合う者もいなかった。


この登山は、十二年前の遭難事故で命を落とした先輩たちと、赤羽長重校長を慰霊するためのものだった。


十三回忌。


その言葉の意味を、少年たちは出発前に教えられていた。


十二年前の八月。


同じ学校の先輩たちが、この山へ登った。


しかし、突然の暴風雨に遭い、帰らぬ人となった。


校長もまた、生徒たちとともに命を落とした。


少年たちはその話を何度も聞いていた。


だが、教室で聞く遭難の話と、実際に山道を歩きながら思い浮かべる遭難の話とは、どこか違っていた。


足元には石が転がっている。


一歩踏み外せば、身体が傾く。


風が吹くたびに、帽子を押さえなければならない。


晴れていても、山は決して歩きやすい場所ではなかった。


一人の生徒が、前を行く教員に尋ねた。


「先生、十二年前も、こんな天気だったんですか」


教員は振り返った。


「朝は、よい天気だったそうだ」


「それが、急に嵐になったんですか」


「ああ」


教員は少し間を置いた。


「山の天気は変わる。麓で晴れていても、上では何が起こるかわからん」


生徒は空を見上げた。


雲一つなかった。


遠くの山々まで、くっきりと見えていた。


「こんなに晴れているのに……」


少年は呟いた。


教員は何も答えなかった。


*


将棊頭山と濃ヶ池の間に、遭難記念碑が立っていた。


風の通り道となる尾根の一角だった。


花崗岩で造られた石碑は、周囲の岩と同じように白く乾いていた。


長い年月、風雪に晒されてきたため、刻まれた文字の角は少しずつ丸くなっていた。


教員が立ち止まった。


「ここだ」


生徒たちは列を整えた。


「帽子を取りなさい」


一斉に帽子が脱がれた。


山の風が、少年たちの短い髪を揺らした。


教員は石碑の前に立った。


「十二年前、この山で多くの命が失われた。亡くなったのは、お前たちと同じ学校に通っていた先輩たちだ」


生徒たちは黙って聞いていた。


「山へ登ることを楽しみにしていた者もいただろう。家へ帰ったら土産話をしようと思っていた者もいただろう」


教員は石碑へ目を向けた。


「だが、帰ることはできなかった」


風が吹いた。


誰かの帽子が手の中で揺れた。


「先生方も、懸命に生徒を守ろうとした。しかし、多くの命を救うことはできなかった」


教員は言葉を切った。


「わしらは、この事故を忘れてはならん。亡くなった人々を悼むだけではなく、なぜ帰れなかったのかを考え続けねばならんのだ」


生徒たちは頭を垂れた。


しばらく、誰も動かなかった。


風が石碑の周りを吹き抜けていった。


やがて、教員が静かに言った。


「黙祷」


少年たちは目を閉じた。


その中の一人が、石碑の文字をもう一度見ようと顔を上げた。


風化した文字は、陽光の加減で見えたり、見えなくなったりした。


少年は思った。


石に刻んだ文字でさえ、いつか消えてしまうのだろうか。


そのとき、背後で教員の声がした。


「よく見ておきなさい」


少年は振り返った。


「石は風化する。だが、ここで起きたことまで忘れてよいわけではない」


少年はもう一度、石碑を見た。


白い石の表面に、細い影が落ちていた。


*


昼近くになると、一行は山頂付近で休息を取った。


生徒たちは岩陰に腰を下ろし、弁当箱を開いた。


麦飯と梅干し。


朝早くから歩き続けていたため、誰もが腹を空かせていた。


先ほどまでの静けさは少し緩み、あちらこちらで小さな話し声が聞こえた。


「お前の梅干し、大きいな」


「酸っぱそうだろ」


「一つくれよ」


「嫌だよ」


そんなやり取りに、ようやく笑い声が混じった。


教員たちも少し離れた場所で腰を下ろしていた。


そのときだった。


遠くから叫び声が聞こえた。


「おーい!」


最初は、山に登ってきた誰かが仲間を呼んでいるのだと思った。


しかし、声は繰り返された。


「誰か来てくれ!」


教員が顔を上げた。


声は駒飼ノ池の方角から聞こえていた。


その日は、遭難者を追悼する行事として、第一回駒ヶ岳登山マラソンも催されていた。山には学校の一行だけでなく、村人や大会関係者も登ってきていた。


「何かあったようだ」


教員の一人が立ち上がった。


「お前たちはここで待っていなさい」


数人の教員が声のする方へ向かった。


生徒たちは弁当箱を手にしたまま、その背中を見送った。


やがて、遠くのハイマツの茂みへ人が集まり始めた。


誰かが屈み込んでいる。


別の者が帽子を脱いだ。


何があったのかはわからなかった。


ただ、集まった大人たちが急に静かになったことだけが、離れた場所からも見て取れた。


*


ハイマツの枝が絡み合う窪地だった。


地面には砂礫が溜まり、枯れた枝が幾重にも重なっていた。


その奥に、白いものが見えていた。


最初に発見した男は、ただの石だと思ったという。


だが、近づいてみると形が違った。


丸みを帯びた骨。


細長い骨。


そして、頭蓋骨。


人間のものだった。


「……骨だ」


誰かが呟いた。


集まった者たちは言葉を失った。


十二年前の遭難事故では、懸命な捜索が行われた。


山を知る者たちが幾度も登り、谷を探し、尾根を歩いた。


それでも、一人だけ見つからなかった少年がいた。


唐澤圭吾。


当時十四歳。


ほかの生徒たちとともに登山へ出かけ、そのまま消息を絶った。


遺骨の近くには、朽ちた布切れが残っていた。


土に埋もれた金具もあった。


長い年月を経て錆びつき、元の形を確かめることさえ難しかった。


それでも、居合わせた人々の胸には、一つの名が浮かんでいた。


「……圭吾じゃないか」


誰かが言った。


別の男が頷いた。


「そうかもしれん」


「とうとう、見つかったのか」


誰もすぐには骨に触れなかった。


風がハイマツの枝を揺らした。


十二年間、この場所には何度も雪が降っただろう。


春になれば雪が解け、夏には草が伸びた。


秋の風が吹き、冬が来る。


その繰り返しの中で、少年はここにいた。


誰にも見つからないまま。


一人の古老が、人垣の後ろから進み出た。


十二年前の事故を知る村人だった。


古老は骨の前にしゃがみ込んだ。


しばらく何も言わなかった。


やがて、震える手を伸ばした。


だが、触れる寸前で、その手を止めた。


「……こんなところにいたのか」


声は小さかった。


「圭吾」


返事はなかった。


古老は地面を見つめた。


「みんな、探したんだぞ」


その肩が震え始めた。


「何度も、何度もな」


誰も声をかけなかった。


古老は袖で目元を拭った。


「寒かったろう」


風が吹いた。


「一人で、怖かったろうな」


古老は顔を上げた。


その目には涙が溜まっていた。


「……やっと帰れるな」


それだけ言うと、古老は俯いた。


周囲の男たちも帽子を脱いだ。


誰かが手ぬぐいで顔を覆った。


遠くでは、登山者たちの声が聞こえていた。


空は晴れ渡っていた。


十二年前と同じ山だった。


だが、今日は雨も降らず、風も穏やかだった。


*


遺骨は慎重に集められた。


長い年月を経て脆くなっていたため、一つ一つ確かめながら白い布へ納めていった。


その作業の間、古老はずっと傍らに座っていた。


誰かが休むよう勧めても、首を振るだけだった。


やがて、遺骨を包んだ布が持ち上げられた。


古老も立ち上がった。


「帰ろうか」


誰に向けた言葉なのか、聞いていた者にはわからなかった。


一行はゆっくりと山道を下り始めた。


白い布の包みは、大人の腕に収まるほど小さかった。


十四歳の少年が、十二年の歳月を経て、ようやく山を下りていく。


その姿を、山は黙って見送っていた。


*


午後、慰霊登山の生徒たちにも、遺骨発見の知らせが伝えられた。


昼食のとき、叫び声を聞いた少年は、教員の話を黙って聞いていた。


「十二年前から見つかっていなかった先輩の遺骨らしい」


少年は驚いて顔を上げた。


「ずっと、あの山にいたんですか」


「そうだ」


「十二年間も?」


教員は頷いた。


少年は何も言えなくなった。


十二年という歳月が、どれほど長いのか。


自分が生まれてから今までと、ほとんど変わらない。


その間ずっと、一人の少年が山に残されていた。


春も夏も秋も冬も。


誰にも見つけられずに。


少年は先ほど見た記念碑を思い出した。


白い石。


風化した文字。


そして、そこに刻まれていた人々の名前。


「先生」


「何だ」


「その先輩は、家に帰りたかったでしょうね」


教員は少年を見た。


しばらくして、静かに答えた。


「そうだろうな」


「お母さんも、待っていたんでしょうか」


教員はすぐには答えなかった。


「……待っていたと思うよ」


少年は俯いた。


自分の家を思い浮かべた。


朝、母親が弁当を包んでくれた。


気をつけて行くんだよ、と言った。


自分はろくに返事もしないで家を出た。


帰れば、いつものように母親がいる。


夕飯があり、布団があり、明日の朝がある。


そんなことを、今まで一度もありがたいと思ったことはなかった。


少年は手元の弁当箱を見た。


隅に、梅干しが一つ残っていた。


母親が入れてくれたものだった。


少年はそれを口へ運んだ。


酸っぱかった。


目の奥が熱くなった。


*


夕暮れが近づく頃、遺骨を抱いた一行は麓へ向かった。


山の斜面には長い影が伸び、稜線の白い岩肌が少しずつ赤く染まっていった。


村では、十二年前の遭難を覚えている人々が知らせを待っていた。


あの日、帰ってくるはずだった少年。


幾度捜しても見つからなかった少年。


その遺骨が、ようやく山から戻ってくる。


だが、十二年という時間はあまりにも長かった。


生きていれば、圭吾は二十六歳になっていた。


働き盛りの青年になり、家族を支えていたかもしれない。


結婚して、子を持っていたかもしれない。


あるいは、遠くの町へ出て、新しい暮らしを始めていたかもしれない。


しかし、どれもかなわなかった。


十四歳の夏で、少年の時間は止まっていた。


村の人々にとって、十二年前の遭難は過去の出来事ではなかった。


息子を失った家。


兄を失った弟妹。


友を失った者。


そして、生徒を死なせた責任を問われた教師たちの記憶。


赤羽長重校長の名を口にするとき、人々の表情は一様ではなかった。


判断を誤ったと責める者もいた。


最後まで生徒を救おうとした姿を語る者もいた。


何も言わず、ただ目を伏せる者もいた。


どの言葉も、失われた命を取り戻すことはできなかった。


ただ一つ、誰もが知っていたことがある。


あの日、山へ登った少年たちは、誰一人として死ぬために出かけたのではなかった。


朝早く家を出て、母親の握り飯を背負い、友と笑いながら歩いていった。


それだけだった。


*


山の上では、夕風が吹いていた。


遭難記念碑の周囲には、もう誰もいなかった。


昼間、少年たちが頭を垂れた場所に、長い影が落ちていた。


石碑の文字は、夕闇の中で少しずつ見えなくなっていった。


十二年前、ここには暴風雨が吹き荒れていた。


少年たちは寒さに震え、教師たちは必死にその命を守ろうとしていた。


誰かが母親を呼んだ。


誰かが仲間の名を呼んだ。


誰かが、もう一歩だけ歩こうとした。


その声を、山は覚えているのだろうか。


答えるものはなかった。


ハイマツの枝が風に揺れた。


麓へ続く山道には、遺骨を抱いた人々の足跡が残っていた。


そして、そのずっと下では、慰霊登山を終えた少年たちが、家路を急いでいた。


夕飯の支度をする家々から、細い煙が上がっている。


「ただいま」


やがて、少年たちはそう言って家の戸を開けるだろう。


母親が顔を上げる。


「お帰り」


何でもない、いつもの言葉が返ってくる。


十二年前、同じ山へ登った少年たちには、かなわなかったことだった。


山の上では、最後の陽が記念碑を照らしていた。


やがて光は消え、白い石だけが薄闇の中に残った。


風化した文字は、もうほとんど読めなかった。


それでも、石碑はそこに立ち続けていた。


帰れなかった少年たちの名を、忘れぬために。



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― 新着の感想 ―
このネタの映画、小学校で観た記憶があります。 鶴田浩二が校長役だったかな。 これ観て、当時は先生って大変だと思いましたが、 今では、子どもの安全を考えて行動して欲しかったな と思います。 山は気象の…
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