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金色夜叉  作者: いつき
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第1話

熱海は、記憶を棄てるにはあまりに湿り気の多すぎる街だった。

真冬のサンビーチには人影ひとつなく、街灯の青白い光が、濡れた砂浜を死んだ魚の腹のように鈍く照らしている。寄せては返す波の音だけが、等間隔に僕たちの時間を削り取っていた。

吐き出す息が白い。東京からここまで乗ってきた新幹線の座席の冷たさが、まだ僕の背中にこびりついていた。

背後で、砂を噛む乾いた音がした。

振り返らなくてもわかる。潮風に混ざって微かに届いたのは、彼女が好んでいた甘く冷たい香水の匂いだった。

「寛一」

その声は、ガラス細工のようにかすかに震えていた。

振り返ると、宮が立っていた。夜の海にはひどく不釣り合いな、柔らかなカシミヤのコートを着ている。僕の月収の二倍はするだろうその布地が、潮風を吸って重そうに揺れていた。

「遅かったな。抜け出せたのかい、六本木のあの部屋から」

僕はポケットの中で手を握りしめたまま、感情を殺して言った。宮は視線を足元に落とす。彼女の左手の薬指で、街灯の光を反射して小さな光が弾けた。高級なプラチナの指輪。僕が一生、深夜の画面に向かって指を滑らせ続けたところで、決して届かない世界のかたち。

「知っていたのね」

「噂なんてものは、光よりも速く届くよ。みんな親切に教えてくれる。君が選んだ、あの若き成功者のことをね」

僕は微笑んでみせた。けれど、口元の筋肉はひどく引き攣れていた。愛していた、と口にするには十年の歳月は重すぎた。僕たちは子どもの頃から、互いの皮膚の匂いを知りすぎていたのだ。

「嘘だと言ってくれよ、宮。来月には、僕の仕事の単価も上がるはずだった。あと少しだけ待ってくれれば、二人で小さな部屋を借りて」

「いつまで待てばよかったの?」

宮が顔を上げた。その瞳は濡れていて、痛々しいほどに澄んでいた。

「あと一年? それとも五年? お父さんの工場の負債額、知っているでしょう。寛一。あれは、あなたの清らかな情熱や、徹夜の作業でどうにかなる数字じゃないの」

「僕だって、一緒に背負うと言ったはずだ」

「背負えるわけがないわ!」

宮の声が、張り詰めた夜気を切り裂いた。彼女の喉が、苦しそうに上下する。

「一緒に沈んでいくのが、あなたの言う愛なの? 私はただ、朝起きて、息がしたかっただけ。督促の電話に怯えず、母の治療費を気にせずに、ただ生きていたかったの。彼はね、結婚のサインひとつで、実家の借金をすべて消してくれたのよ。一億二千万。それが現実の重さよ、寛一。あなたの美しい愛は、あの数字の前ではただの紙屑なの」

沈黙が落ちた。海鳴りが、遠くで低く唸っていた。

愛は、金額の前でかくも無力だ。僕が彼女に注いできた十年の体温も、触れ合った夜の甘い吐息も、通帳の桁数という暴力の前に、呆気なく剥ぎ取られていく。

「そうか。結局、金か」

「そんな風に言わないで!」

宮が駆け寄り、僕の胸元にすがりつこうとした。上等なコートの裾が僕の脚に触れ、彼女の吐息が僕の首筋にかかる。泣き崩れそうな、かつて僕の腕の中で眠っていた女の匂い。

「お願い、寛一。私を軽蔑しないで。ずっと、世界で一番あなたが好きだった。今だって」

「触るな」

冷たく吐き捨て、僕は彼女の両手を強く払いのけた。

拒絶の衝撃に、宮の華奢な身体がバランスを崩す。細いヒールが砂を捉えきれず、僕の靴の爪先に引っかかって、彼女は砂浜へと無残に崩れ落ちた。

重い音を立てて、カシミヤが濡れた黒い砂にまみれる。

「あっ……」

宮は砂に手をついたまま、信じられないものを見る目で僕を見上げた。乱れた黒髪が白い頬に張りつき、剥き出しになった膝が寒さで微かに赤く染まっている。

倒れた彼女の姿は、残酷なほど美しかった。手を差し伸べそうになる衝動を、僕はお互いのために殺した。一度でもその細い肩を抱きしめてしまえば、僕は永遠に、金に負けた惨めな敗北者として生きることになる。

「似合わないよ、砂だらけのカシミヤなんて」

僕は嘲るように言った。喉の奥が、焼けるように熱かった。

「お帰り。六本木の暖かい部屋へ。その汚れた手で、彼にシャンパンでも注いでもらうといい」

「寛一、お願いだから、そんな冷たい目で見ないで」

宮が砂を爪に食い込ませながら、咽び泣く。その涙すらも、僕にはただの贅沢な感傷にしか見えなかった。彼女は金を選び、僕の尊厳を殺したのだ。

僕は夜空を見上げた。雲ひとつない冬の空に、冷酷なまでに丸い月が浮かんでいた。青白く冴えた光が、僕たちの壊れてしまった関係を、余すところなく照らし出している。

「あの月が見えるかい、宮」

宮は震えながら、涙に濡れた目を月へ向けた。

「今夜は一月十七日だ。覚えておくといい」

海風が僕の髪を乱暴に掻き揚げていく。

「来年の今月今夜、お前がどこの温かい部屋で誰と眠っていようと、必ず空を見上げろ。もしあの月が曇っていたら、それは僕がお前のために流した、悔し涙の雲だと思え」

「やめて、寛一、そんな呪いみたいなこと!」

「僕は這い上がるよ。手段なんて選ばない。誰の足を引っ張ろうと、どんな汚い金だろうと掻き集めて、お前のあの男よりも遥かに高い場所へ行ってやる。愛など買えないというお前の常識を、札束で叩き潰してやるよ。お前が何を棄てたのか、一生後悔させてやる」

背を向けた。足元の砂を力任せに踏みつけ、僕は歩き出した。

「さようなら、お宮」

「寛一! 行かないで、寛一!」

夜の帳の向こうから、宮の千切れるような叫びが追いかけてくる。けれど僕は、二度と振り返らなかった。ポケットの中で握りしめた拳には血が滲み、冷たい月光だけが、僕の影を長く、黒く、砂の上に引きずっていた。


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