狼の目
既読がつかない。ずっと、つかない。真っ暗な部屋の中ただスマホの光だけがやけに明るかった。
ここ最近、俺はスマホの画面を凝視し続ける生活を送っている。ある女からの連絡を待っている。親だとか友人だとかメルマガだとかは、どうでもいい。
アパートの床には大量のペットボトルや空き缶とコンビニ弁当やカップ麺の容器が散乱していた。布団以外のスペースは歩行すら困難だ。もちろん、俺自身も碌に風呂すら入らないので小汚い。こんな生活がもうどれくらいになるのか、もはや時間の感覚が麻痺していてよくわからない。とっくに会社は退職して、今は雀の涙ほどの貯金を切り崩して生きている。
いつまでこんなでいられるのだろうか? 不安に襲われるときも多々あるが、俺はスマホの画面に張りつくことで一時的な精神の安定を得ていた。次の瞬間、あの女から既読がつくかもしれないという一筋の希望を携えて。
「女」というのは、俺の彼女のことだ。彼女は俺の高校時代の一つ下の後輩である。俺は都内に就職し、彼女は地方に就職した。いわゆる遠距離恋愛になったのだ。
スマホの画面には俺の一方的なメッセージがずらりと並んでいる。彼女の既読と返信の頻度はどんどん遅く少なくなり、遂には一切音信不通になった。心配で何度も電話をかけてはいるものの、彼女が出たことは一度もない。
俺には彼女が今どこで何をしているのかさっぱりわからない。
……なんだか、気持ちが沈んできた。冷蔵庫の扉を開けて、ビールを一缶取り出す。酒は得意じゃなかったはずなのに、日常的に俺は飲酒するようになっていた。ツマミらしいツマミはないから、コンビニ弁当か何かに付いてきたソースで飲むことにする。ソースの袋を開けてビールを啜ると、いよいよ惨めな絵面にはなるが、意外とイケる。酒を飲むと頭がぐわんぐわんして、全てがどうでもよくなる。それがいい。
──なあ、君。
ぼんやりとした意識の中、聞き覚えのある男の声がした。深みがあっていい響きの、この声は、誰だっけ。
「酒は飲むものだよ。飲まれてどうするんだい?」
うるさい。そんな正論、今はいらない。
「ふーん、そう……」
酒に溺れて布団に倒れ込んでいた俺を一人の男が見下ろしていた。背丈は高い癖に棒みたいな体型で彼女と同じ顔をしているスーツ姿の中年男。ああ、この男は……いや、この人は。
「やっと、気付いたね。真壁君」
なんで、俺の家に彼女の親父さんがいるんだ? まあ、いいや。
「なんだか、面白いことになっているじゃないか」
一体、何が面白いんだよ? この人は俺の落ちぶれ様をあざ笑いにでも来たのだろうか?
「いつだったかな。僕は言っただろ? 君の愛とやらを見せてくれって」
そうだ、あったかもしれない。そんなことが。
「君は言ったよね。あれをずっと愛し続けるってさ」
この人は自分の娘のことを『あれ』と呼んでいる。
「あんなに御大層なことをのたまったんだから、君はあれを愛し続けているんだろうなあ」
この人はくつくつと笑っていた。そうだったら、何がおかしいのだ。さっきから回りくどい。言いたいことがあるなら、さっさと言えよ。
「……じゃあ、聞くけどさ。君も見たんだろ?」
──やめろ。
「あれが別の男のものになっていたのを見たんだろ?」
やめろ。
「そのうえ、子供までこさえていたのは驚きだよな」
やめろ。
「だから、ああいう女には関わらない方がいいって言ったじゃないか」
──こいつ、殺してやる。
俺は布団から勢いよく起き上がって、男をゴミの山の中に押し倒した。無数のペットボトルと空き缶が盛大に飛び散って虚しい騒音を鳴らす。
俺は男の首筋を両手で掴むと、絞めた。女と違って、男の首って思ったより太いな。上手く力が入らない。
腹立たしいことに、こんな状況にも関わらず、男はいつものポーカーフェイスで俺を見つめていた。彼の娘と同じ瞳で見つめていた。
琥珀色の瞳。こういう色の瞳を『狼の目』って言うんだっけ。ぼんやりした膜が張ったような遠いところを眺めているような、その目。同じ顔で俺を見るな。
彼女が懇願してきたので首を絞めたときの、あの感覚。血が通った柔肌と手に収まる細い骨。俺に委ねられた命への矛盾した破壊衝動。こんなものを俺に思い出させるな。
煮え滾る怒りとは裏腹に、握力は弱まっていった。駄目だ、殺す気力が出ない。俺は男の首筋からゆっくり手を離した。
「……気は済んだ?」
ふざけるな、済む訳ないだろ。でも、俺はどうすればいい? もう、俺には何も残っていないのに。悔しさと悲しみのあまり、涙が出る。あんたから見たら今の俺はさぞかし滑稽だろうな。
「なに、咎める気はないさ。君はね、ちょっとした事故に遭ったみたいなものだよ」
優しさすら感じる不気味な声色で、男は俺を慰めた。急に、なんだよ。
「よくあることだろ? 愛だと信じていたものの正体が劣情だった、なんてのは」
違う。俺は彼女を愛している。今でも、ずっと。
「だったら、どうして嘆く必要がある? あれが幸せならそれでいいじゃないか」
それは、どこの誰とも知らない男に俺が負けたからだ。世界で彼女を一番理解しているのは俺なのに。
「馬鹿だねえ、君も。僕は君の傲慢さが結構気に入っているんだ」
黙れ。傲慢で何が悪い。俺と彼女は愛し合っていたのだ
からな。
「僕としては、その愛ってのが本当に存在していたのか疑わしいね。偶然にも、君とあれの間でお互いの性的利害が一致した結果だと考えるのが妥当だよ」
何がわかるんだ? 自分の娘をまともに理解しようともしなかったあんたに。
「劣情じゃないなら、その愛とやらを見せてくれよ」
ゴミに埋もれながら、あの日あの時と同じ言葉を男は吐いた。明らかに俺に対する挑発であった。
この男のすかした顔を、どうにかして歪ませてやりたい。俺の中で燻ぶっていた暴力性が炎となって燃え上がった。
もう、どうでもいいじゃないか。この男で俺の鬱憤が晴れるなら、それでいい。俺が考え得る最大限の屈辱をこの男に与えようではないか。
俺は男のベルトを外した。忌々しいことに、男は顔色一つ変えず俺にされるがまま横たわっていた。これから行われる行為すら、想定の範囲内だったとでも言わんばかりである。俺が男のスラックスを脱がすと、ワイシャツの裾から臍と傷だらけの肌が少しだけ見えた。下着はごく普通のボクサーパンツで、俺は馬鹿馬鹿しくなった。
「……男の僕に、あれと同じ顔というだけで、君は反応するんだな」
どういう訳か、男の指摘通り、俺は勃起していた。ずっとセックスもオナニーもしていなかったからなのだろう。生理的反応のバグってやつだ。俺は男への威嚇も兼ねて、穿いていたスウェットパンツと下着を一気に脱いだ。ちなみに、俺の下着もボクサーパンツである。柄やメーカーこそ違えども、お揃いになんてなりたくなかった。
俺の性器は、先端から先走った汁を垂らしながら、はち切れんばかりに膨らみ屹立していた。久々に、こんな臨戦態勢を見た。俺は男の下着も剥いだ。すると、なんの反応も示していない男の性器が露わになった。それだけで、俺は男に勝ったような気がした。生物的に勝ったような気がしたのだ。それなのに、男は俺に恐怖するでもなく平然としていた。
ムカつく野郎だ。さっさと済ませよう。男とセックスなんてしたことないけど、どうにかなるようになるだろう。このまま尻に性器を突っ込んだら俺と男のどちらにも痛みが生じる可能性が高いが、それで恥辱の限りを尽くせるなら安いものだ。
「ゴムは?」
いちいち、うるさいな。そんなもん妊娠しないんだから要らないだろ。
「まあ、いいけどさ」
男がぶつくさ言うのを俺は無視した。こういうのは勢いが大事なんだ。そう、これはただの「穴」だ。肛門に性器をあてがって、思いっきり挿入した。スムーズに飲み込まれたのが逆に不快だった。しかも、体内の温もりと程よい閉塞感が存外よかったのは最悪だ。それを悟られないように、俺は男の表情を覗き見た。
しかしながら、相変わらず、男の顔色は一切変わっていなかった。まるで、何事も起きていないかのようだ。クソが、親子揃ってマグロかよ。今さらだが、俺は史上最低の親子丼をやっていることに気付いた。
ともかく、この男のプライドをへし折りたい。普段は無表情の整った顔が快楽の中で乱れる様を見たい。
男として男に蹂躙され、中に出されるのはどんな気分なのだろう。俺だったら、そんな目に遭うくらいなら死んだ方がマシだ。物理的に殺すことはできなくても精神的に殺すことならできるのだ。
覚悟を決めて、俺はゆっくりと腰を動かしていった。よく知らないが、男には前立腺という器官があって、そこを刺激するといいらしい。問題はその位置を俺が把握していないことである。
前立腺を探しながら腰を動かしていたら、息は上がって汗もかいてきた。この男はというと、微かな吐息の一つも漏らさず汗の一つも滴っていなかった。
危ねえ。この男が快感に身を委ねるより先に俺が達しないようにしなければ。
「……あれとどっちの具合がいい?」
ぽつりと男は言葉を発したかと思えば、俺の神経を逆撫でした。だけど、煽られても逆上してはならない。
「結局のところ、君はあれの面影さえあればなんだっていいんだよ。君の愛ってのは随分と軽いようだね」
さっきから、あんたが言う、愛の定義が気になっていたんだが。そもそも、愛と劣情は切り離せるのか? あんたの娘がこの世に生を受けたのも、あんたが奥さんに劣情を抱いたからじゃないのかよ?
「妻のことを軽々しく口にするな。現に、君は馬の骨に愛で負けたからこうなっているんじゃないか君が憤っているのだって劣情がそうさせているんだろうが」
どうやら、痛いところを突いたらしい。男の語気は鋭くなっていた。男の内なる感情の揺れ動きを感じると、俺の腰の動きもより激しくなっていた。正体不明の優越感が湧いてきて、俺を高揚させた。
そうやって捲し立てているのは、あんたが愛を信じてないからだろ。あんたは愛を知らないんだ。
「君にとって僕は愛を知らない可哀想な奴って訳か」
ああ、実に可哀想だ。あんたは愛をもっと崇高なものだと思い込んでいるだけなんだよ。
「君によると劣情と愛は切り離せないらしいな」
そうだ、あんたは潔癖過ぎる。愛は薄汚いものを内包しているんだよ。
「じゃあ、君の劣情には愛がついてくるのか? だったら、この僕に愛を是非ご教授願いたいものだね」
違う。俺があんたを今こうして強姦しているのは愛でも劣情でもない。ただの憂さ晴らしだ。
男は乾いた声で笑い出した。何、笑ってるんだよ。……いや、俯瞰して見ると、かなりおかしくないか。ゴミだらけの狭いアパートの一室で巨漢二人が下半身だけ脱げかけになりながら身体を絡ませ合っている状況は。男は土足だったので、よく手入れされた革靴が余計にこの状況を間抜けに見せた。
何、やってんだか。心では呆れていても、俺の身体は滾りに滾っていた。だというのに、男の身体からは彼が性的に興奮している様子は微塵も感じられなかった。嫌だ、俺だけが射精するのは。腸内に中出しされるのも相当な屈辱だとは思うが、俺の負けみたいじゃねえか。
俺は男のネクタイを引っ張って顔をまじまじと見た。こいつは彼女の父親だぞ。欲情するのは正気の沙汰ではないのでは? 冷静になることで、俺は発射時刻を遅延させることに成功した。だが、この作戦は裏目に出てしまった。
男は俺の唇を奪い、口内に舌を滑り込ませてきたのだ。煙草の匂いに混じって、生温い唾液が流れ込んでくる。男の舌が俺の上顎を通り歯の内側をなぞると、今まで感じたことのない刺激が身体いっぱいに広がってぞわぞわする。
こいつ、俺の事情を察して、わざとこんなことをしてるんだ。本当に嫌な性格だな。
唇同士を無理矢理引き剥がして、魔の手から逃れるために、俺は男の首元に顔を埋めた。息も切れ切れになりながら、呼吸を整える。俺が息を大きく吸うと、男の髪からは彼女と同じシャンプーの香りがした。
もう、これは駄目だ。
「……下手くそ」
俺の耳元で男は囁いた。表情こそ見えなかったが、きっと男は俺を嘲笑していただろう。
今まで生きてきて一番不快な射精感が俺を襲った。射精って気持ちのいいものだと思っていたのに。
──ふと気付くと、外は明るくなりつつあった。男の姿はどこにもなく、俺の元には汚れた下着だけが残された。数日ぶりに、風呂に入ることにした。沸かしている間に、歯を磨く。下着が濡れているのは気持ちが悪いが、どうせすぐ風呂に入るのだから少しの我慢だ。入浴ついでに下着も洗った。自分の汚した下着を洗うのは最高に情けない作業だと俺は思う。髭は剃ったけど伸びた髪は自分では切れないな。
身支度も整ったところで、スマホを取り出して連絡先一覧から一件の電話番号を探した。番号が変わっていないといいけど。
恐る恐る電話をかけると、ちゃんと繋がって、懐かしい男の声が聞こえた。彼女と同じ瞳をした男の声が。
「……もしもし……はい。そうです、俺です。真壁慎一です」(終)




