虫けら賛歌
窓の外は悲しみに満ちた夕暮れで染まっているようだった。世界を焼き尽くすかのごとき激しい茜色。遠くで鳴る教会の鐘の音は、愛する人の死を告げる合図――。
暖炉の炎が恋人の形に見える。メアリーは、決してあたたまることのない石造りの床にへたりこみ、膝を抱えて震えていた。
吟遊詩人は勇者の快進撃を歌う。しかし彼女の恋人であるジョンは王国軍に所属し、その勇者が進む道を開くために先んじて魔王の根城へと進軍していた。
王国軍は大敗を喫したという。魔王の伏兵に遭って皆その命を散らしたのだ。たとえ今さら勇者が世界を救っても、メアリーの世界はすでに壊れていた。
そう、思い込んでいた。
その時、長く誰も訪ねてこなかった家の扉が開かれ、一人の男が転がるように入ってきた。
「メアリー!」
「ジョン……!? うそ……ジョンなの?」
彼女は息を呑んだ。そこにいたのは息を切らしながらも確かに五体満足で生きているジョンだった。
「ああ、俺だよ……ただいま。帰ってこれたんだ」
メアリーは無我夢中で立ち上がるとまっすぐ彼の胸に飛び込んだ。心臓の音がする。熱い涙がジョンの革鎧を静かに濡らした。
彼女は必死でジョンにしがみつき、これが幻ではないのだと自分に言い聞かせようとした。
「でも、あなたはあの日、峡谷で……私、もう二度と会えないんだと思って……」
震えるメアリーの肩を抱き寄せて、ジョンは「俺もそう思ってた」と苦笑する。
「驚かないで聞いてくれ。プレイヤーがスピードランを始めたんだ」
「スピードラン……?」
聞き慣れない言葉にメアリーが顔を上げる。困惑で涙が僅かに引っ込んだ。
スピードラン、いわゆるRTAだ。
本来ジョンは峡谷のイベントで王国軍のモブとして死ぬはずだった。しかし、そのイベントが今回は起こらなかった。
「聞くところによると、勇者様は突然、不自然な角度で壁に向かって走り続け……そのまま世界を突き抜けたらしい」
「ど、どういうこと?」
「グリッチだ。あり得ない時期に行けないはずの場所に勇者様が潜り込んだことで、フラグが狂ったんだ。イベントはスキップされ、俺の座標も強制的に書き換えられて、イベント地点から数キロ先の平原まで一瞬で飛ばされた。……勇者様は今頃、魔王と一戦交えている頃だろう」
メアリーは呆然と聞いていた。正直なところ彼が何を言っているのかよく分からなかった。
ジョンを始めとして魔王の凶刃に倒れるはずだった王国軍は、戦闘自体の回避によって全員が生き延びることとなった。
それは愛の力でも奇跡でもない、ただクリアタイムを縮めるために引き起こされたバグの結果に過ぎなかった。
そして、その事実の冷徹さこそがジョンの生存を確固たるものにしていた。
メアリーはジョンの胸に顔を埋めて再び涙を流す。理由など、どうでもよかった。奇跡でもバグでも、誰かの気まぐれの結果でも構わない。今、彼がここにいて、体温を感じられるならそれが何よりの喜びだった。
二人は固く抱き合いながら、天に向かって祈りを捧げる。世界をコントロールしている残酷な救世主へ。
どうか、どうか。
「お願い。もう、リセットボタンは押さないで」
バグが食らった悲劇の穴に、いくつもの幸福が煌めいていた。




