第1話『この声は、誰かを壊した。』
私は、声で人を殺した。
そう、あの日のことだ。あれは確か、雨の降る、ひどく濡れた日だった。
窓を叩く雨粒の音に混じって、誰かの悲鳴が聞こえた。それは、私自身の声だった。
私の声は、世界を書き換える力を持っていた。私が「雨がやむ」と語れば、雨は本当にやんだ。私が「この花が咲く」と語れば、季節を無視して花が咲いた。
それは、神にも似た力だった。しかし、私はその力で、友人を殺してしまった。
「あなたなんて、いなくなればいい」
その一言が、世界を、そして友人の存在を、消し去ってしまった。
だから、私はもう、話せない。
「……柊さん、またぼーっとしてる」
私の耳に届いたのは、クラスメイトの声。
「ごめん」と、私は手元のノートに書き、彼に向ける。
彼は、私のことをいつも気にかけてくれる、優しい男の子だ。
「いいよ、別に。いつも通りだもん」
彼はそう言って、私の頭を撫でてくれる。
彼の言葉は、まるで太陽のように温かい。彼の声は、私にとって、世界を壊すことのない、唯一の音だった。
私の声は、世界を壊す。
だから、私はもう、誰かのために「語る」ことはできない。
「柊さん、助けて」
放課後、私を呼び止めたのは、クラスの中心にいる、いつも笑顔の絶えない女の子、小野寺さんだった。
「どうしたの?」
私はノートに書く。
「……私の、記憶が、ないの」
彼女は、そう呟いた。
「記憶がない?」
「うん……なんか、おかしいんだ。私、昨日まで、彼氏と付き合ってたはずなのに……でも、みんなは、私に彼氏なんていないって言うの」
彼女の表情は、いつもの笑顔ではなく、不安に満ちていた。
「……あなたの話、聞かせて」
私はノートに、そう書く。
「うん……」
彼女は頷き、そして、語り始めた。
「私は、彼氏と、初めて会った日のこと、覚えてる。カフェで、偶然、隣の席に座って……」
彼女が語るたび、彼女の周りの景色が、微かに揺れているように見えた。
それは、彼女の記憶が、認識災害によって侵食されている証拠。
「……そのカフェ、名前は?」
「えっと……確か、『サニーデイ』ってお店だったはず」
彼女がそう語ると、彼女の周りの景色が、さらに強く揺れる。
「サニーデイ……」
私は、その店名に違和感を覚えた。
彼女の記憶は、私が見ている現実と、少しずつずれている。
「そのカフェ、今、どこにあるか、教えてくれる?」
「えっと……確か、駅前の商店街を抜けたところにあるはず……」
私は、彼女の言葉を信じることができなかった。
なぜなら、その場所には、商店街など存在しないからだ。
「ねぇ、小野寺さん。その話、本当にあなたの記憶?」
私はノートに、そう書く。
彼女は、私の言葉に、一瞬、戸惑った表情を見せる。
「……え、どういうこと?」
「あなたの話、聞かせて。もっと、詳しく」
私は、彼女に語らせ続ける。
彼女が語れば語るほど、彼女の周りの景色が、さらに強く揺れ、歪んでいく。
「彼氏と、初めて会った日……彼は、私に、バラの花束をくれたの」
彼女の言葉が、私の耳を刺す。
バラの花束。
その言葉に、私は、既視感を覚えた。
それは、数日前に、別のクラスメイトが語っていた物語だった。
「ねぇ、小野寺さん。その話、誰かに聞いたことは?」
「え……?」
彼女は、私の言葉に、さらに強く戸惑う。
「あなたの話は、誰かが語った、誰かの物語だ」
私は、そうノートに書く。
私の言葉は、彼女の記憶を、そして、彼女の認識を、揺さぶる。
「違う……これは、私の記憶よ!」
彼女は、そう叫んだ。
その声が、彼女の周りの景色を、一気に崩壊させていく。
「……違う。あなたの記憶じゃない。これは、誰かが、あなたに語りかけた物語だ」
私は、そう書く。
「……やめて、もう聞きたくない」
彼女は、耳を塞ぐ。
「あなたが、あなたの物語を語らなければ、認識災害は終わらない」
私は、彼女の腕を掴み、彼女の耳から、手を外させる。
「ねぇ、思い出して。あなたの、本当の記憶を」
私の言葉が、彼女の心に、深く突き刺さる。
彼女は、私の言葉に、再び、耳を傾ける。
「私の……本当の記憶……?」
「うん。あなたの、本当の物語を」
私は、そう書く。
「……私の、本当の物語……」
彼女は、そう呟くと、静かに目を閉じた。
そして、彼女は、語り始めた。
「……私、彼氏なんて、いなかった。本当は、ずっと、一人だった」
彼女の言葉が、彼女の周りの崩壊した景色を、少しずつ、元の姿に戻していく。
「本当は、寂しかった。みんなみたいに、恋人が欲しかった。だから……」
彼女の言葉が、さらに続く。
「……だから、誰かが語ってくれた、幸せな恋人たちの物語を、自分のことだと思い込んでた……」
彼女の言葉が、認識災害を、完全に消滅させていく。
「ありがとう……柊さん」
彼女は、そう言って、私に抱きついた。
彼女の温かい体温が、私に、安らぎを与える。
「……どういたしまして」
私は、ノートに、そう書く。
「ねぇ、どうして……どうして、私の嘘を見抜けたの?」
「……勘だよ」
私は、そう書く。
彼女は、私の言葉に、少し笑った。
「そっか……柊さん、またね」
彼女は、そう言って、私に背を向けた。
私は、彼女の背中を、ただ、見つめていた。
この物語は、誰かの記憶を書き換えるものではない。誰かが語った物語を、聞き届けることで、その人の、本当の物語を、見つけ出す物語。
私は、もう、言葉で誰かを救えない。
でも、言葉を失った私だからこそ、できることがある。
「……私はあの日、言葉で人を殺した。だから、黙って、救うと決めたの」
私は、ノートに、そう書いた。
そして、その言葉を、そっと、胸にしまった。