花を纏う
花を纏う
「おはよう。花を用意してくるね。」
そう言って、彼は私を置いて出掛けてしまった。
彼の足音が遠のいていく。
冷たく突き刺すような冷たい空気が私を包み、不規則に落ちる雫の音が静寂の中でひときわ響く。
薄く熱を持った日差しが微かに私の影を落とし、その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせる。
首筋の辺りから、砂が流れる音がする。
滑らかで、さらさらとした砂時計のような音。
しかしそれは、時計のように時の流れを示すものではない。
彼はいつ帰ってくるのだろうか。
「花を用意する」と言っていた。
どこまで行ったのだろう。
どんな花を、どれだけの数、何のために用意するのだろうか。
すぐそこには、石楠花がある。
花弁は見る影もなく、葉は火に炙られたかのように黒ずんで、随分前からそのままの姿で放置されている。
この萎びた石楠花ではなく、何故別の花を用意する必要があるのだろうか。
石楠花の花弁は、溶けてしまったかのように面影さえも残っていない。
黒焦げになった葉は、辛うじて茎にしがみついている。
これから水を与えれば、また花を咲かせるだろうか。
まだ生きているのか、既に死んでいるのかさえわからない。
ただ事実として、枯れている。
この石楠花は、枯れゆくにあたって、なおも葉を落とすまいと必死に姿を保っている。
水や日光が得られなくなり、一縷の望みもないとも言えるこの状況で、姿形を保つ意味はあるのだろうか。
もしかすると彼は、代わりになる花を探しに行ったのかもしれない。
そうだとするならば、少しばかり気の毒だ。
せめて私が、この石楠花のことを憶え―
「ただいま。」
結局、どのくらいの時間が経ったのかはわからない。
石楠花のことを考えていたら、あっという間だった気がする。
しかし待ちわびたその声は、普段より僅かに悲しさを帯びている。
彼は両腕いっぱいに、花を抱えて帰ってきた。
ほんの少し色の褪せた紫陽花。
今にも首を落としてしまいそうな椿。
暑さでくたびれてしまったトルコキキョウ。
太陽を見失って物悲し気な向日葵。
ぽっきりと茎の折れてしまっている竜胆。
椿と竜胆からは、香りどころか生気さえ感じられない。
しかしそれらが集まりひとつの束になると、各々の欠点など忘れてしまうほどに、美しく鮮やかだった。
「もう少しだけ、一緒にいよう。」
彼は抱えていた大きな花束をそっと傍らに置き、私を撫でた。
氷のように冷えきた手だったが、私には温かく感じた。
何も言わず、彼の手が私の上をゆっくりと優しく往復する。
緩やかに時間を溶かし、気が付くと彼は小さく寝息を立てて眠っていた。
心地が良い。
私も一緒に眠ってしまおうか、と考えながら彼の顔に目を向けた。
目尻から頬にかけて、涙の跡がある。
こんなにも穏やかで満ち足りた時のなかで、何故泣いていたのだろう。
何か、辛く悲しいことでもあったのだろうか。
ほんの少し彼に体を寄せようとしたとき、また首筋から砂の音がした。
先程とは違い、今は水を含んだ泥砂の上で何かが擦られるように、ざりざりと不快な音を立てている。
目には見えない、得体の知れないものに引きずられる。
同時にふわりと煙のように空を揺蕩う。
何が起きているのか、理解ができない。
助けを求めようにも身体の自由は利かず、声も出せない。
声?
そもそも私に声などあっただろうか―
その刹那、様々な感情、感覚、記憶、疑問、そして畏怖が私を襲った。
器から溢れんばかりの多幸感。
しかし、身体は自由に動かない。
神経が伝達の役目を果たさなくなった無意味な体躯に、怒りと疑念を抱く。
そんな隔靴掻痒を取り払うために、出会った日の彼の朗らかな笑顔を思い起こす。
それでも亀裂から幸福は漏れ出していき、奈落へと落ちてゆく。
奈落の底から何かが手招いている。
好奇心と警戒心が混ざり合いながらも、無意識に引き寄せられる。
私を撫でていた彼の手が、風船の紐を手放すようにするりと落ちる。
その僅かな衝撃で、彼が目を覚ました。
力なく伸びをして小さなあくびをひとつ。
数秒ほど宙を眺めて、寝ぼけまなこで現実を再認識する。
ゆっくりと起き上がり、傍らに置いた花束に手を伸ばした。
綿毛を掬うように優しく、両手でひとつひとつの花を丁寧に私の周りへ添えていく。
花同士が擦れ合う微かな音だけが聞こえる。
やがて、全ての花を移し終え、私は鮮やかな花々に囲まれた。
花畑の中に私がひとつ、ぽつりと落ちている。
その様はまるで、動き続ける世界の中で、私だけ遥か彼方へ置き去りにされたかのようだった。
あるいは、初めから此処に私はいなかったのかもしれない。
ならば、彼はこれまで何に話しかけていたのだろうか。
此処には彼と私しか存在しない。
「ありがとう。愛してるよ。」
そう言って彼は、私にそっと口をつけた。
私も、現実を再認識する。
やはり、彼が話しかけている相手は私だ。
しかし正しくは、"かつて私だったそれ"だ。
白い体と半開きの虚ろな青い瞳。
私も姿を保っている。
ただし、姿形を保っているだけ。
もっと冷酷に言ってしまえば、モノや物質でしかない。
そんな"かつて私だったそれ"に対して彼は話しかけ、口づけをした。
悪い気はしなかった。
「そろそろ行こうか。」
今朝、花を用意するために外へ出たばかりなのに、次はどこに行くのだろうか。
彼は、私を大事にゆっくりと外へ運び出した。
外は突き刺すような日差しが、ジリジリと照り付けていた。
まだ外に出て間もないというのに、彼の額には汗が滲んでいる。
そんな一寸先さえ陽炎に歪められてしまいそうな熱から逃げるように、私達は日陰の箱の中に入った。
その箱の中は、街の景色が流れてゆくのを眺めることができる。
私はその流れてゆく景色を、彼と一緒に見るのが好きだった。
普段の彼は、あれはああで、これはこうで...と指をさしながら色々と説明してくる。
私にはよくわからないことばかりだったが、楽しそうな彼の話を聞きながら景色を眺める時間は幸せだった。
しかし、今日は一言も喋らない。
仕方がないので私だけで景色を眺めることにした。
真っ青な空に立ち込める積乱雲。
それを切り裂くように飛行する黒い鳥。
何度か前に見た時には桃色に着飾っていた木々が、今は力強い緑に覆われている。
水辺に佇む一輪の赤い花が目につく。
以前、あの花は綺麗だが食べてはいけないなど、わかりきったことまで説明されたことがあった。
花を食べるとは、まったく私を何だと思っているのか。
花は1度しか食べたことがない。
そしてあまり美味しくなかった。
口に入れた瞬間は花の香りと甘みを感じられるが、次第に猛烈な苦みが襲ってくる。
あの時の味を思い出すと舌が痺れる。
こうやって私は学習できる。
私は賢いのだ。
私だけで色々と考えながら景色を見ていると、目的地に到着したらしく、花を纏った私を彼が再び灼熱の世界へと運び出す。
熱のせいか、私の視界も陽炎のように揺らめいた。
「さようなら。ありがとう。」
別れを告げ、彼が咽び泣く。
今までに聞いたことのない声で、わんわんと泣き叫んでいる。
私そのものを失うことが辛いのか。
それとも"かつて私だったそれ"に対しての別れが悲しいのだろうか。
私自身は今"此処"に在る。
だから悲しまなくてもいい。
泣く必要なんてない。
これからだって、日々心の支えになると伝えたい。
今すぐに寄り添っていたい。
彼にまた笑ってほしい。
そんなもどかしさを抱えながら、水面に映る彼を見る。
水面?
いつから私は彼を水面越しに見るようになったのだろう。
視線を上げ、周囲を見回す。
楽園という言葉が最も似つかわしい、見渡す限りの花畑。
気付けば、身体も動かせるようになっている。
先程までの苦しい暑さもなく、萌ゆる春のような温かく心地良い空気で満ちていた。
現実離れした空間に対し、僅かな混乱を交えながらも考える。
この水に飛び込めば、また彼に会えるのだろうか。
会えたらきっとまた彼の笑った顔を見られる。
飛び込む覚悟を決めたその時、どこか優しく少ししゃがれた声に遮られた。
「花を贈りなさい。」
振り返ると、そこには私の何十倍もの大きさをした、花の集合体があった。
大きさこそ異なるが、私と似た姿形を成している。
驚き戸惑ったが、全く敵意は感じず、むしろどこか親近感が湧いている。
花の集合体は、私を掬いあげて背中に乗せてゆっくりと動き出し、この世界の説明を始めた。
先程の水の中に飛び込んでも、水溜まり程度の深さしかなく、もう彼には直接的には干渉できないこと。
その代わり彼を想うことによって、彼に花を贈ることができ、日常の些細な部分に少しずつ彩りを与えられること。
彼が私のことを想えば、その想いが花となり私のもとへ降ってくること。
そして互いに想い続ければ、いずれ彼も此処に来るということ。
彼が此処に来た時、少し先の方に見える色とりどりの花でできた橋を、二人で渡るのだという。
「きっと、たくさん花が降る。傘を差すといい。」
最後にそう言い放つと、花の集合体はどこからともなく透明な傘を差し出した。
私は傘を受け取ったはいいものの、開き方がわからず戸惑いながら柄の近くにある突起を押し込んでみる。
ボンッと音を立て傘が開いた。
それと同時に花の集合体は、音もなく柔らかに爆ぜた。
たくさんの花が、私を囲み降り注ぐ。
成程、これは傘がないとすぐに体が埋もれてしまう。
この一瞬だけで、私の足元には円を描くように花の丘ができていた。
ひとつの花を手に取り、口の中へと運んでみる。
最初の一時だけ甘く、すぐに苦くなる。
やはり、あまり美味しくはない。
しかし、彼の焦って止めようとするあたふたした姿、その後困ったように笑う顔が見えた気がして、少し嬉しくなった。
様々な種類の色や香りの花を纏い、私は彼を想いながら待つことにした。
私の目の前で、儚げにも力強く咲き誇る石楠花の上に、2つの花が降った。