第八章:忍び寄る巨影、変革の胎動、そして迫る決戦
エルデン帝国――その名は、セイジの心に重くのしかかった。旅の商人やアークウッド領からもたらされる断片的な情報を繋ぎ合わせると、その巨大な輪郭がぼんやりと浮かび上がってくる。古くから続く帝政国家であり、強力な中央集権体制と常備軍を擁し、周辺諸国を属国として従えているという。そして何よりも、魔法技術の研究と実用化において、他国を大きく引き離しているらしい。
「エルデン帝国が、もし本気でこの地域に食指を動かせば、我々に抗う術はないだろうな……」
セイジは、アルフォンス領主との秘密会談の席で、厳しい表情で呟いた。
「今はカルヴァ領の動きを注視しつつ、エルデン帝国の情報をさらに集める必要がある。彼らが何を考え、何を求めているのか。それを知ることが、我々の生存戦略の第一歩だ」
セイジは、信頼できる数人の村人と、アークウッド領から派遣された情報収集に長けた者を密かにエルデン帝国との境界に近い町へ送り込み、情報収集網の構築に着手した。それは、まだか細い糸のようなものだったが、巨大な敵の意図を探るための重要な布石となるはずだった。
一方、村の内政改革は着実に成果を上げ始めていた。
セイジが導入した新しい農法と、アークウッド領から提供された改良品種の種子により、畑の収穫量は目に見えて増加した。村の食糧庫は、かつてないほど満たされ、人々は飢えの恐怖から解放されつつあった。これは、村人たちの士気を高め、セイジへの信頼をさらに強固なものにした。
学び舎では、子供たちだけでなく、多くの大人たちも熱心に文字や計算を学んでいた。識字率の向上は、情報の伝達速度と正確性を高め、セイジの指示が村の隅々まで行き渡るのを助けた。また、簡単な契約書や記録が作成できるようになり、村の運営はより効率的になった。
しかし、これらの変化は、新たな課題も生み出していた。
教育を受けた若い世代の中には、古い慣習や身分制度に疑問を抱く者が出始めた。彼らは、セイジが語る「民のための政治」という言葉を文字通りに受け止め、より平等な社会を求める声を上げ始めたのだ。
「セイジ様は、皆が豊かになるために努力している。なのに、なぜ昔ながらの家柄だけで威張っている者がいるんだ?」
「もっと皆で話し合って、村のことを決めるべきじゃないか?」
こうした声は、村の長老たちや、旧来の秩序を重んじる保守的な層との間に、新たな摩擦を生んだ。セイジは、双方の意見に耳を傾けながら、慎重に舵取りをする必要に迫られた。
「変化には痛みが伴うものだ。だが、この痛みを乗り越えなければ、真の発展はない」
セイジは村会で、世代間の対立を融和させるよう努め、伝統を尊重しつつも、新しい価値観を取り入れていくことの重要性を説いた。それは、彼が前世の日本で目指し、そして苦しんだ「伝統と革新のバランス」そのものだった。
そんな中、カルヴァ領の再侵攻の脅威は、日増しに現実味を帯びてきていた。斥候からの報告によれば、カルヴァ領は前回の敗戦の教訓から、より大規模な軍勢を組織し、攻城兵器まで準備しているという。その数は、セイジたちの村とアークウッド領の兵力を合わせても、なお圧倒的だった。
「今度の戦いは、前回よりもさらに厳しいものになるだろう」
セイジは、アルフォンス領主と緊密に連絡を取り合い、共同防衛計画を練り上げた。アークウッド領からは、熟練の弓兵部隊と、少数の騎兵が援軍として派遣されることになった。セイジの村では、自警団の訓練が強化され、村の防衛施設もさらに堅固なものへと改修された。落とし穴やバリケードに加え、投石機のような簡易な防衛兵器も、村人たちの手によって作られた。
セイジは、前回の戦いで得た教訓を活かし、より柔軟で多層的な防衛戦術を考案した。森を利用したゲリラ戦術、敵の補給路への奇襲、そして、いざという時のための村からの計画的な撤退と焦土作戦までも視野に入れていた。
「我々の目的は、敵を殲滅することではない。敵の戦意を削ぎ、この地を治めることの困難さを思い知らせ、撤退させることだ」
決戦の日は、刻一刻と近づいていた。村には、以前のようなパニックはなく、むしろ静かな闘志が満ちていた。それは、セイジというリーダーの下で団結し、幾多の困難を乗り越えてきた者たちだけが持つことのできる、覚悟の表れだった。
ある夜、セイジは学び舎で、夜遅くまで勉強しているティムの姿を見つけた。彼は、セイジが貸し与えた古い書物を、熱心に読み解こうとしていた。
「こんな時間まで、何を読んでいるんだ?」
セイジが声をかけると、ティムは顔を上げてにっこりと笑った。
「セイジ様! これは、昔の英雄の物語です。知恵と勇気で、大きな敵を打ち破ったんです!」
その言葉に、セイジは胸を打たれた。この子供たちの未来を守るためにも、絶対に負けるわけにはいかない。
「そうか。だが、本当の英雄とは、ただ敵を打ち破る者ではない。民の暮らしを守り、未来への希望を繋ぐ者だ」
セイジはティムの頭を優しく撫でた。彼の心には、エルデン帝国の巨大な影、内政改革の産みの苦しみ、そして目前に迫るカルヴァ領との決戦という、いくつもの重圧がのしかかっていた。しかし、この小さな村で芽生え始めた希望の光が、彼を力強く支えていた。
数日後、カルヴァ領の先遣隊が、ついにアークウッド領との境界線に姿を現した。黒煙が、遠くの空に立ち上るのが見える。
決戦の時が、来た。
セイジは、自警団とアークウッド領の援軍を集め、最後の訓示を行った。
「我々は、この土地で生きる者たちの誇りと未来をかけて戦う! 恐れるな! 我々には、知恵と団結、そして守るべきものがある! 必ずや、勝利を掴み取ろう!」
「「「応!!」」」
兵士たちの雄叫びが、異世界の空にこだました。日本の元自衛官にして政治家、桐山誠司。異世界の建国者キリヤマ・セイジの、国家の存亡をかけた戦いが、今、始まろうとしていた。