第四章:大地の革新、そして迫り来る影
新しい井戸の完成は、村にほんの少しの活気をもたらした。セイジに対する村人たちの視線も、以前のようなあからさまな不信感や嘲りから、戸惑いと僅かな期待が入り混じったものへと変わり始めていた。しかし、セイジは満足していなかった。安定した水の供給は第一歩に過ぎない。次なる課題は、この痩せた土地から、いかにして十分な食糧を生み出すかであった。
「マーサ、村の畑仕事に詳しい者を集めてくれ。できれば、経験豊富な年長者がいい」
セイジの指示に、マーサは頷いた。井戸の一件以来、彼女はセイジの言葉に素直に従うようになっていた。
数日後、屋敷の広間に、十数人の村人が集められた。彼らは皆、長年の農作業で日に焼け、節くれだった手をしていた。緊張した面持ちでセイジの言葉を待つ彼らに、セイジは穏やかに語りかけた。
「皆、集まってくれて感謝する。今日は、これからの畑仕事について、いくつか提案したいことがある」
セイジが語り始めたのは、彼らにとって全く新しい農法だった。作物を毎年同じ場所に植えるのではなく、数年ごとに種類を変えて地力を回復させる「輪作」。家畜の糞や枯れ草を発酵させて作る「堆肥」による土壌改良。そして、既存の農具を少し改良するだけで、作業効率が格段に上がるという話。
村人たちは、セイジの話を半信半疑で聞いていた。彼らの祖先から受け継がれてきた農法は、決して豊作をもたらすものではなかったが、それでも彼らはそのやり方しか知らなかった。
「坊ちゃんのおっしゃることは、なんだか難しゅうございますな」
「堆肥だなんて……そんなもの、本当に作物のためになるんですかい?」
年長者の一人が、恐る恐る口を開いた。保守的な彼らにとって、セイジの提案はあまりにも突飛に聞こえたのだ。
「もちろん、すぐに結果が出るとは限らない。だが、試してみる価値はあるはずだ。このままでは、我々はいつまで経っても飢えから解放されない」
セイジは粘り強く説明を続けた。自衛隊で部下を指導した経験、政治家として様々な立場の人間と交渉してきた経験が、ここでも活かされる。彼は、村人たちのプライドを傷つけないように言葉を選びながら、新しい農法の利点を説いた。
中には、セイジの言葉に真剣に耳を傾ける者もいた。特に、井戸の件でセイジの能力を目の当たりにした若い村人たちは、新しい試みに積極的だった。
「セイジ様の言う通りやってみようぜ! 今より悪くなるってこたぁねえだろ!」
「新しい井戸だって、最初は誰も信じなかったじゃないか」
しかし、年長者たちの多くは、依然として懐疑的だった。長年続けてきたやり方を変えることへの抵抗感は根強い。
「もし、新しいやり方で失敗したら、どう責任を取ってくださるんですか? 我々には、冬を越すための蓄えもないのですよ」
鋭い指摘に、セイジは表情を引き締めた。
「その覚悟はできている。もし失敗した場合の食糧については、私が責任を持って何とかする。だが、成功すれば、我々は今よりもずっと豊かな実りを得ることができる。どちらに賭けるべきか、考えてみてほしい」
セイジの真摯な言葉と、万が一の場合の責任を負うという覚悟に、頑なだった年長者たちも少しずつ態度を軟化させ始めた。最終的に、村の畑の一部を使って、試験的に新しい農法を試してみることで合意が得られた。
それからの日々、セイジは自ら畑に出て、村人たちに堆肥の作り方や畝の立て方を指導した。泥まみれになりながら働くセイジの姿は、徐々に村人たちの心を動かしていく。最初は遠巻きに見ていた者たちも、一人、また一人と作業に加わるようになった。
農業改革が少しずつ軌道に乗り始めた矢先、村に不穏な影が忍び寄ってきた。
ある日の夕暮れ時、森へ狩りに出ていた数人の村人が、血相を変えて帰ってきた。
「大変だ! 隣の領地の兵士たちが、森の境界を越えて、俺たちの獲物を横取りしていった!」
「文句を言ったら、殴られたんだ!」
報告を聞いたセイジの顔に、険しい表情が浮かんだ。この辺境の地では、領地間の小さな小競り合いは日常茶飯事だった。しかし、今のこの村には、それに対抗できるだけの力はない。
「落ち着け。詳しい状況を話してくれ」
セイジは冷静に村人たちから話を聞き、状況を分析した。どうやら、隣接するカルヴァ領の領主が、最近代替わりし、新たな領主は強欲で好戦的な人物らしいという噂だった。今回の事件は、そのカルヴァ領による威力偵察、あるいは意図的な挑発行為である可能性が高い。
「またか……カルヴァの連中は、昔からこっちの森の獲物を狙ってきやがる」
「前の領主様がいらっしゃった頃は、なんとか追い払っていたんだが……」
村人たちの間には、不安と怒りが広がった。井戸ができ、農業にも少し希望が見え始めた矢先の出来事に、彼らは打ちひしがれていた。
セイジは、静かに思考を巡らせた。自衛官としての知識が警鐘を鳴らす。これは、単なる小競り合いでは終わらないかもしれない。本格的な侵攻の準備である可能性も考慮すべきだ。
「皆、聞いてくれ。今回の件は、決して看過できない。しかし、我々にはまだ、彼らと正面から戦う力はない」
セイジの言葉に、村人たちは唇を噛んだ。悔しさが滲む。
「だが、黙って奪われるわけにもいかない。まずは、村の防衛体制を整える必要がある。見張りを強化し、いざという時のために、女子供を安全な場所に避難させる準備も進めよう」
セイジは、元自衛官としての経験を活かし、テキパキと指示を出し始めた。村の周囲に簡素なバリケードを築き、見張り台を設置する。男たちには、あり合わせの農具や狩猟道具を武器として使う訓練を施した。
村人たちは、セイジの指揮のもと、必死に働いた。農業改革で芽生え始めた団結力が、外部からの脅威によって、さらに強固なものへと変わりつつあった。しかし、彼らの心には、拭いきれない不安が渦巻いていた。
数日後、カルヴァ領から一人の使者が訪れた。尊大な態度の使者は、セイジに対し、法外な量の貢物を要求してきた。それは、事実上の降伏勧告に等しかった。
「我が主、カルヴァ様は、貴殿らの貧しい暮らし向きを憂慮しておられる。ささやかながら『保護』の手を差し伸べてやろうとのことだ。その代償として、今期収穫予定の麦の半分と、若い女を十人差し出すように、とのお達しだ」
使者の言葉に、集まった村人たちは激昂した。しかし、セイジは冷静に彼を制した。
「使者殿、それはあまりに一方的な要求だ。我々は貴殿らと争うつもりはない。しかし、そのような不当な要求を受け入れることもできない」
「ほう、この期に及んでまだ逆らうか。よかろう。ならば、力で思い知らせるまでだ。一週間の猶予をやろう。それまでに要求に応じなければ、我がカルヴァ様の軍勢が、この村を蹂躙することになるだろう」
使者はそう言い放つと、嘲笑を浮かべて去っていった。
村には、絶望的な沈黙が訪れた。麦の半分と若い女を差し出せば、村は一時的に滅亡を免れるかもしれない。しかし、それは屈辱的な隷属を意味する。抵抗すれば、カルヴァ領の軍勢によって、村は文字通り蹂躙されるだろう。
全ての視線が、セイジに集まった。この絶望的な状況で、彼はどのような決断を下すのか。村の運命は、彼の双肩にかかっていた。
セイジは、固く目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、前世の日本の国会議事堂。そして、凶弾に倒れた最後の瞬間。守るべき民、貫くべき信念。
(今こそ、正念場だ)
ゆっくりと目を開けたセイジの瞳には、迷いはなかった。
「皆、聞いてほしい。我々は、決して屈しない」
その言葉は、嵐の前の静けさのように、村人たちの心に深く染み渡った。