第十章:夜明けの盟約、巨龍の吐息、そして文化の薫風
カルヴァ領に対する二度にわたる勝利は、この辺境の地に大きな地殻変動をもたらした。キリヤマ・セイジの名は、恐怖と共に圧政を敷いていたカルヴァ領の権威を打ち破った英雄として、周辺の弱小領地に瞬く間に広まった。アークウッド領との強固な同盟は、新たな時代の到来を予感させた。
戦後処理と負傷者の手当てが一段落すると、セイジとアルフォンス領主は、周辺領地の代表者たちを招集し、今後の地域協力について協議する場を設けた。場所は、セイジの村とアークウッド領の中間に位置する、中立的な森の開拓地。そこには、急ごしらえながらも、各領地の旗が掲げられた簡素な会議場が設営された。
集まったのは、大小合わせて七つの領地の代表者たち。彼らの多くは、長年カルヴァ領の影に怯え、細々と領地を維持してきた者たちだった。セイジの前に座る彼らの表情には、期待と不安、そして若干の警戒心が入り混じっていた。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝申し上げる。我々は、先の戦いで大きな犠牲を払いながらも、共通の脅威を退けることができた。しかし、それは一時的なものに過ぎないかもしれぬ。我々が真の平和と繁栄を勝ち取るためには、今こそ手を取り合い、新たな秩序を築くべき時だと考える」
セイジの力強い言葉で会議は始まった。彼は、単なる軍事同盟ではなく、経済、文化、技術の交流を促進し、互いの領民の生活向上を目指す「辺境領主連合(仮称)」の設立を提唱した。各領地の自主性は尊重しつつ、共通の脅威に対しては一致団結して対抗する。そして、将来的には連合内での自由な交易や、共通の法整備なども視野に入れるという壮大な構想だった。
当然、反論や疑問の声も上がった。領地ごとの利害の対立、主導権争いへの懸念、そして何よりも、エルデン帝国という巨大な存在がこの動きをどう見るのかという不安。
「キリヤマ殿の理想は素晴らしい。しかし、我々のような小領が集まったところで、エルデン帝国に睨まれればひとたまりもないのではないか?」
ある老領主が、最も根本的な懸念を口にした。
「確かに、エルデン帝国は我々にとって大きな脅威です。だからこそ、我々は団結し、一つの声として彼らと向き合う必要がある。個々では無視されても、連合体としてまとまれば、彼らも我々の存在を無視できなくなるでしょう。そして、我々の目的は帝国への敵対ではありません。我々の生存と繁栄を確保することです」
セイジは、前世の政治家としての経験を活かし、粘り強く交渉を続けた。時には厳しく、時には譲歩し、各領主の不安を取り除き、連合に参加するメリットを丁寧に説明した。アルフォンス領主も、セイジの補佐役として巧みに立ち回り、議論を円滑に進めた。
数日間に及ぶ激論の末、ついに「辺境領主連合」の設立が合意された。初代議長には、その実績と構想力からセイジが、副議長にはアルフォンスが選出された。連合の規約が定められ、定期的な会議の開催、共通防衛基金の設立、そして交易路の整備などが決定された。それは、この辺境の地に生まれた、小さな、しかし確かな国家の萌芽だった。
連合設立の祝宴がささやかに開かれていた矢先、その報はエルデン帝国にも届いていた。そして、連合設立からわずか半月後、帝都から一人の使者が、セイジの村へとやって来た。
使者は、壮麗な刺繍の施されたローブをまとい、数名の屈強な護衛を伴っていた。その顔には、大国の使者特有の傲慢さと、セイジたちを見定めるような冷徹な光が宿っていた。
「辺境の蛮族どもが、何やら小賢しい真似をしておるようだな。我がエルデン帝国皇帝陛下は、貴殿らの『連合』なるものに、ことのほかご興味をお持ちだ」
使者の言葉は、丁寧なようでいて、明らかに威圧的だった。会議場に集まったセイジと連合の主要領主たちは、緊張に息を飲んだ。
セイジは、臆することなく使者と向き合った。
「帝国からの使者殿、遠路ご苦労様です。我々の連合は、この地域の平和と安定を目的とするものであり、決して帝国に弓引くものではありません。むしろ、安定した隣人として、帝国とも良好な関係を築きたいと考えております」
「ほう、良好な関係とな? それは、帝国への『臣従』を意味するのかな?」
使者の目が鋭く光る。
「我々は、誰かの臣下となるために連合を結成したのではありません。我々は、我々の民の幸福のために、自らの足で立つことを決意したのです。もちろん、帝国が我々の自主性を尊重してくださるのであれば、我々は喜んで友好の手を差し伸べる用意があります」
一触即発の空気が流れる。セイジの言葉は、帝国の使者にとって予想外のものだったのかもしれない。彼はしばらくセイジを黙って見つめていたが、やがてフンと鼻を鳴らした。
「貴殿の言葉、確かに皇帝陛下にお伝えしよう。だが、覚えておくがいい。帝国の慈悲は無限ではない。身の程をわきまえぬ振る舞いは、いずれ破滅を招くことになるぞ」
使者はそう言い残し、尊大な態度で去っていった。嵐のような訪問だったが、セイジは帝国の意図の一端を掴んだように感じていた。彼らはまだ、この辺境の小さな連合を本気で脅威とは見なしていない。しかし、警戒はしている。そして、おそらくは、利用価値があるかどうかを見極めようとしているのだろう。
「当面は、帝国を刺激せず、我々の力を蓄えることに専念すべきです。そして、彼らが無視できない存在へと成長するのです」
セイジは、連合の領主たちにそう語った。
エルデン帝国との緊張を抱えつつも、セイジは内政の深化にも力を注いだ。連合内での交易が活発化し、セイジの村で生産される改良された農具や、アークウッド領の特産品である良質な木材などが、各地へ流通し始めた。これにより、連合全体の経済が少しずつ潤い始めた。
教育もさらに充実させた。学び舎では、歴史や地理、簡単な法律なども教えられるようになり、優秀な生徒は、将来の行政官や外交官として育成されることが期待された。
そして、セイジは文化の育成にも目を向け始めた。戦いや日々の労働に明け暮れるだけでは、人々の心は荒んでしまう。彼は、村の祭りを復興させ、歌や踊り、手作りの楽器演奏などを奨励した。また、旅の吟遊詩人や芸人を招き、彼らに芸を披露する場を提供した。
ある日、学び舎でティムが、仲間たちと共に小さな劇を演じているのを見かけた。それは、セイジたちがカルヴァ軍を打ち破った物語を基にした、素朴ながらも心躍る英雄譚だった。子供たちの生き生きとした表情と、それを見て笑顔になる村人たちの姿に、セイジは胸が熱くなるのを感じた。
(これだ……。国を豊かにするというのは、単に食糧や富を増やすだけではない。民の心が豊かになり、笑顔が生まれ、未来への希望を語り合える。そういう国を、俺は作りたいんだ)
日本の伝統文化や精神を重んじたセイジの心は、この異世界で、新たな形で花開こうとしていた。それは、武力や経済力だけではない、文化の力による国づくりだった。
しかし、エルデン帝国の巨龍は、まだ眠りから覚めたばかりなのかもしれない。そして、敗れたとはいえ、カルヴァ領の残党が、いつまた牙を剥くとも限らない。連合内の足並みの乱れも、常にセイジの頭を悩ませる種だった。
セイジの建国者としての道は、穏やかな薫風が吹き始めた一方で、依然として険しい山道が続いていた。




