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幽霊少女

作者: ルア

 俺はニートだ。

 しかし、そうだからといって引きこもりという訳ではない。俺は普通に外を歩けるし、買い物にだっていける。そう、ただ働いていないだけなのだ。

 それだけで他人、主に両親から、まるで俺が普通じゃない人間かのように言われるのは全くもっておかしな話だ。

 その両親は俺といるのが怖いらしく、俺を家から追い出して、歩くたびに床が軋むボロ臭いアパートに放り込みやがった。

 俺は働いていないだけで、どこにでもいるごく普通の人間なのに。そんな普通の人間を、しかも実の息子を追い出すなんて、俺の両親は頭が狂っているに違いない。

 え? 生活費はどうしているのかだって? そんなものは両親が払うに決まっている。両親には俺を生んだ責任があるからな。生活費ぐらい出すのは当たり前だ。

 しかし腹が立つのは小遣いの額が少ないと再三要求したにも関わらず、一向に増える気配がないことだ。

 しかも、食費や光熱費なども領収書を送らないと振り込んでくれないので、食費を削って懐を温めることもできやしない。

 今時、諭吉一枚で何が出来るというのだ。そんなの新しい嫁を一人買ったらなくなってしまうではないか。

 一ヶ月に一人ずつ、嫁を増やし続けてはや二年。俺の部屋には今、二十四人の嫁がいる。俺がニートになった時から集め始めて、毎月欠かさず増やし続けているので、そこから考えるに俺のニート生活は二年続いているという訳だ。

 そんなどこからどうみても普通の俺だが、実は今、普通じゃないことに巻き込まれている。

 もしも、俺が家からでないニート、所謂ひきこもりだったならこんな異常事態に頭を悩ませることもなかっただろう。

 しかし、俺は普通の人間なので引きこもったりはしない。普通だった故にトラブルに巻き込まれるなんて……この世はなんと不条理に満ち溢れているのだろう。

 一体、俺の身に何が起こったのか。結果からいえば部屋にいる嫁が一人増えたというところだろうか? 

 いや、あんなのは俺の嫁じゃない。三次元……とは微妙に違う気がするが、あれは二次元の女の子ではないからな。俺は三次元が嫌いなのではなく二次元が好きだからこそ、二次元の女の子を愛しているのだ。だからあれが三次元じゃないからといって嫁になる訳ではない。

 嫁が一人増えたという話はなかったことにしよう。仕方がないので経過から説明することにするか。ことの発端は昨日の深夜、つまり今日の早朝にコンビニに買い物に行ったところから始まる。

 昨晩、俺はパソコンでネットを見ている途中、急に空腹を感じた。ここには飯を自動で運んでくれた母親はいないので、仕方なく腰をあげて冷蔵庫に向かいドアを開けるがそこには何もない。人間にとって三度の飯より大事なものは殆どない。そう、確か昨日は二度しか飯を食っていなかったのだ。だから深夜に腹が空くのは必然というものだ。そこで俺は近所のコンビニで何か食べる物を買おうと思い、家を出た。ここまでは至って普通のことだろう。

 しかし予期せぬ事故というものは予想できないから予期せぬというのだ。俺は家を出た時には、まさかあんなことが起こるなんて想像もしていなかったのだ。しかし、その事故とも呼べる出来事はコンビニに行く途中、家からたった百メートル足らずの場所で起こった。具体的な場所を説明するなら、家から出てコンビニにいく途中にある横断歩道だ。ちなみに信号はない。その横断歩道を渡ったすぐ目の前に目的地であるコンビニがあるのだが、まさか目的地の目の前であんなことになるなんて……俺はなんという不幸な男なのだろう。日頃、悪いことなんて全くしていないのに。

 そう、あれは俺がその横断歩道を渡っていた時に起こった。横断歩道を渡る俺の耳に車のクラクションの音が響いた。ふと振り向くとライトも付けていない車が猛スピードで俺に向かって突っ込んでくるではないか。俺は生憎と咄嗟に避けることのできるほどの運動神経は持ち合わせてはいなかった。足が竦んでしまい、その場を動くことができなかったのだ。ここまで聞いたなら先が分かったという人もいるだろう。だが俺はそんな自称頭の良い人たちに言ってやるね。お前らは馬鹿だと。もし、車にひかれたりしたら、こんな風に普通に話すことなんてできる訳がないではないか。だって今しているのは昨晩の話なんだぜ? さて、ここまで言えば頭脳明晰な方々この話の一歩先が見えるだろう。そう、車は俺の目の前で止まってくれたのだ。車が停止してからやっと俺は我に返った。あわてて車の前から退いて道を開けたわけだ。気をつけろとか言ってその車は走り去っていったが、その言葉そのまま返してやるよ。ライトぐらい付けろ。

 しかし、本題にはまだ入ってはいない。俺が実際に予期せぬ事故に遇ってしまったのは、その直後のことだったのだから。

「なんだ。ひかれちゃえばよかったのに」

 後ろからそんな声が聞こえてきたのだ。すかさず俺は言ってやったね。

「そういうお前こそ、ひかれてみたらどうだ?」

 そう言った後、俺は思ったわけだ。こんな深夜に人が歩いているものなのかと。しかも、声は明らかに女性のものだ。流石の俺も不思議に思って振り返るとそこには制服姿の少女が一人。長い黒髪に夜の暗闇の中でも宝石のように輝いている綺麗な瞳。月明りに照らされたその姿は、まるでおとぎ話に出てくる天使のような美しい少女がそこにいた。こんなに可愛い三次元の少女は俺の二十年の人生の中で見たことがなかった。その天使のような少女と俺ははっきりと目が合った。その少女はゆっくりと口を開く。

「え? もしかして貴方……私のことが見えるの?」

 まさか本物の天使じゃあるまいし、私のことが見えるのかなんて、驚いた顔でそんな電波なことを言われても正直困る。普段冷静沈着な俺でも、たぶんこの時ばかりは目の前の少女と同じ表情をしていたね。

「何も見えない。何も見えないし、聞こえない」

 と自分にいいきかせてみるが、つい声に出してしまったことが失敗だった。

「やっぱり! やっぱり貴方、私のこと見えるんでしょ!」

 急に嬉しそうな表情になった少女は、足が宙に浮いていた。

 さて、そんな電波な少女との出会いも、その場でさよならできたならば、たいした問題ではなかったのだが、残念なことにその少女は今も俺の隣にご丁寧に座布団を敷いて座っている。

「ねえ?」

 一体、どのようなトリックで彼女の足は宙に浮いていたのだろうか?

「ちょっと?」

 そんな疑問を持つ者もいることだろう。だが、色々と訊きたいのはむしろ俺の方なのだから口には出さないでおいてくれ。

「聞こえてるんでしょ?」

 そもそも何故、彼女はあんな時間にあんな場所にいたのか?」

「おーい」

 制服を着ているし彼女は学生に違いないと思うのだが、学生……しかも女性が深夜に歩き回っているのは明らかにおかしいよな。

「ねえってば」

 まだ考えたいことは山ほどあるが、先ほどから隣に座っている少女の声が鬱陶しいので少しばかり彼女と話をしなければならないようだ。

「聞こえてたら返事をしてくださーい!」

「おい」

 彼女は俺の声に驚いたらしく、びくっと体を震わせた。返事をしろといったのはお前の方だろうに。

「な、なによ……聞こえてたなら返事くらいしてよね」

「まあ、返事をしなかったのは謝ろう。色々と考えごとをしていたものでな。色々と訊きたいことはあるが、まずはそうだな……君の名前は? 住所は? まずは自己紹介を頼みたいね」

「名前は日向遙香(ひなたはるか)。今は幽霊やってます。住所は死んだ時に忘れちゃいました。遙香ちゃんって呼んでね☆」

「名前は分かった。だが赤くなるぐらいなら語尾に☆はつけない方がいいと思うね」

 そう言うと遙香と名乗る少女は赤く染まった頬をさらに赤く染めた。恥ずかしいなら最初から言うな。

「今ので分かったのは名前ぐらいのものだが、幽霊をやっているというのは何かの冗談かね?」

 俺は彼女に感じた疑問を率直にぶつけてみる。彼女の話を聞いたのが俺じゃなくても、幽霊というのが一番不可解な単語だろう。そんなものがいる訳がない。

「まあ、私が幽霊だっていう証拠はないんだけど……別の幽霊にも会ったことないしね。でも限りなく幽霊に近いと思うな。そうだ! それっぽいところみせてあげようか!」

 そういうと彼女はおもむろに立ち上がった。

「まずは空中浮遊!」

 そう言うと彼女の足は床から離れて、そのまま止まった。出会ったときと同じように完全に宙に浮いている。確かに普通の人間には宙に浮くなんて芸当はできない。だが、宙に浮いたからといっても幽霊だという直接の証拠にはならない。超能力者や手品師かもしれないしな。無論、前者は幽霊と同じくこの世に存在するとは微塵も思っていないのだが。俺が疑り深い目で見ているのに気がついたのか

「まだ疑ってるでしょ? それならこれでどうだ!」

 と言うと、彼女は宙に浮かんだままガラス窓に突撃する。俺は思わず目を瞑ったが、予想していたようなガラスの割れる音は聞こえなかった。恐る恐る目を開けると彼女は窓の外にいた。もちろん、宙に浮いた状態でだ。

「どう? ガラスみたいな透明なものならすり抜けられるんだ! これはもう幽霊に違いないでしょ!」

 何故、彼女はそんなことを自慢げに話すのか疑問だが、一つ分かったことがある。まず、彼女は普通の人間ではない。いや、普通じゃないことは最初から分かっていたことだ。つまり、確信に至ったという意味である。先ほどまでは、宙に浮いているというのはきっとマジックか何かなのではないかと疑っていたが、その疑いは俺の中では完全に消え去った。何故ならマジックにはタネが必ず隠されているものだからだ。彼女はガラス窓をすり抜けた。タネも仕掛けもない俺の部屋の窓をだ。彼女が俺の部屋に不法侵入しているストーカーだったりしたならば、タネを仕掛けることもできるだろうが、俺のことをストーカーする人間が存在する確率は、この世に幽霊がいる確率よりも低いだろう。

「幽霊かどうかはともかく、お前が普通の人間ではないことは分かった」

 とりあえず、俺の中で出た結論を彼女に話すと

「まあ、とりあえずはそれでよしとしますか。あと私はお前じゃないわ。遙香って名前があるの。さっき名乗ったから知っているでしょ?」

 と彼女は言った。なんでこんなに偉そうなんだ?

「さっきから貴方の質問に答えてばかりだけど、私も貴方のこと何も知らないのよね。名前は? 仕事は何をしているの?」

 それを聞いた瞬間、ばんっと加減をすることもなく床を殴って立ち上がった。俺の拳は床を殴った衝撃で痺れるように痛む。突然の風船が破裂したような音に彼女は驚いていたようだったが、今の俺には彼女に声をかける気なんて全く無い。

「い、いきなり何を怒ってるのよ?」

 窓をすり抜けて部屋に戻り、不思議そうな顔でこちらを見つめる彼女に対して、冷たい声で俺は言う。

「お前みたいな変人に名乗る名前はないね」

「で、でもそれじゃ呼ぶ時に困っちゃうじゃない。貴方の事は何て呼んだらいいのよ?」

「そうだな。じゃあご主人さまとでもよんで貰おうか」

「ご、ごしゅじんさま?」

「そうだ。ご主人様だ」

 その時、何も知らない故の彼女の無神経とも感じる言動に腹を立てていた俺は、彼女を困らさせたいが為だけに訳の分らんことを口走っていた。冷静に考えれば極めて大人げない好意だ。それにも関わらず彼女は

「分かった。ご主人様って呼べばいいのね」

 と素直にそれに応じてしまった。そんな風に言われてしまっては、もう後には引けないではないか。

 そして、この日から幽霊少女とご主人さまの二人暮らしがはじまった。

「おかえりなさいませ、ご主人様」

 そう言って、買い物から帰ってきた俺を彼女は家に迎えいれた。最近は本来は俺の家なのに彼女は我が家のように寛いでいる。自分の家と思って寛いでね、なんてことを俺は言っていないのだが、それを咎めるほど俺の心は狭くない。

 彼女との共同生活が始まって数日、彼女は未だに俺のことをご主人様と呼んでいる。その呼び方が気に入っているとは思えないが、俺が自分から名前を教えない限りは呼び方を変えるつもりはないらしい。ここは俺の家であり、俺の名前が記されているものなんていくらでもある。にも関わらず名前で呼ばないのはきっとそういうことなのだろう。むしろ彼女の名前を知りながらも、彼女のこと名前で呼ばず代名詞で誤魔化している、もしくは訳の分からない呼び方を強制した俺に対しての嫌がらせなのかもしれないが。

 俺はただいまも言わず、床に腰をおろした。

「ちょっと、返事くらいしてよね」

「あ~はいはい。分かった分かった」

「またいつもと同じこと言ってる! 絶対分かってないでしょ!」

 いつものように適当に返事をし、買ってきたコンビニ弁当を卓上に広げる。自炊はめんどくさいので食事はこういったもので済ますことが多い。もしも、ここが二次元の世界ならば突然現れて現在同居中の彼女は料理上手だったりしてしかるべきなのだが、現実はそうではないらしい。

「いつ食べてもコンビニ弁当のポテトサラダは糞不味いな」

 そんな悪態をつきながら、次々と食べ物を口へと放り込む。すると横に座っていた彼女が

「そのサラダそんなに不味いの? 食べてみてもいい?」

「食べてみてもって……そもそも食べられるのか?」

「たぶん大丈夫でしょ。あ~ん」

 今までは考えてもみなかったが幽霊は食事をとれるのだろうか? 今までは何も食べていなかったのだから食べなくても大丈夫なのは確かだと思うが、食べても大丈夫かどうかは俺にはちょっと分からなかった。しかし、彼女は口を開けて俺が糞まずいポテトサラダを口に入れてくれるのを待っている。

「いや、自分で食えよ」

 恥かしいからとは言わなかった。

「何よケチ」

 彼女は俺の手から箸を奪い取るとポテトサラダを口に入れた。人の箸を勝手に使うなんて、礼儀というものを知らないのか。

 彼女は食べ終わると

「食べれるには食べれたけど全然味がしないね。不味いかどうかも分からないや」

 って食べれるんかい。しかし、味が感じられないんじゃ食べる楽しみもないだろう。あのポテトサラダの味も感じないというのは不幸中の幸いともいえるが。

 宙をふわふわと舞いながら彼女は

「でも私が食べた物ってどうなってるんだろうね。食べた後もガラスとか通り抜けても大丈夫みたいだし、もしかしたら消えてなくなっちゃてるのかも」

「消えてなくなるねえ」

 待てよ? 消えてなくなる……?

 彼女が何気なく発した一言。俺には何かが引っ掛かった。

「幽霊、幽霊ってもう慣れちゃった感じだけど、本当にお前って幽霊なのか?

「本当にって言われても……多分そうだと思うんだけどな」

 幽霊。事実として俺の目の前にそれはいるのだが、実際のところ幽霊なんてものの存在がありうるのだろうか? 死後、幽霊になるとしたらこの世界は瞬く間に幽霊で覆い尽くされてしまうことだろう。それともこの世に未練があるものだけが残る? いや、それでも未練がある人間の方がこの世の中には遙かに多くいるだろうし同じことだろう。彼女は特別? 特別だから幽霊になった? それも違う気がする。やはり根本的な何かが間違っているような気がする。何かってなんだ?

「なに難しい顔してるの? ほら、やることないなら本でも読めば?」

「余計な御世話だ」

 ニートの俺に対して気遣いの欠片のない彼女の言動にももう慣れた。リストラされたサラリーマンのように仕事に行くふりをしている訳でもないので、彼女もそろそろ俺が仕事も何もしていない人間だということに気付いていると思うのだが。天然なのか、それとも嫌がらせか。たぶん天然なんだと思う。呼称のこととは違い、なにもしていないことに関して嫌味をいうようなタイプにはみえないからな。何もしていないのは彼女も同様だし。

 俺が本を受け取る気がないというのが分かると彼女は持っていた本をそこらに放り投げた。

「出したならちゃんと戻せよな」

 そういって床に置かれた本を手に取り棚に戻そうとする。汚れた表紙のそれは随分昔に買った小説だった。内容は確か主人公が幽体離脱して夜の街を徘徊する話だったかな。ん? 幽体離脱? 魂だけが体から抜け出る……これこそが今の状況と合同条件がぴたりと一致するのではないだろうか。もしそうだとしたら彼女はまだ死んでいないことになる。

「お前は自分が死んだって言うけど、本当に死んだのかな?」

「本当に死んだのかって何よ? 実は私は死んでいないと思うの?」

「ちょっと気になっただけさ。でも変な話だけど幽霊になったからって本当に死んだとは限らないだろ? 魂っていうか心はここにあるわけだし」

「う~ん……どうだろう」

 普段は何も考えていないようにも見える彼女も、今回ばかりは少し考えているような顔をした。

「じゃあさ、お前が死んだ時のことは覚えてるのか?」

「死んだ時のこと? ご主人様と出会った場所、あそこで車に跳ねられて……気がついたらこうなってた」

「じゃあ死んだ瞬間っていうのを覚えている訳じゃないんだ」

「まあ、そうなるかな」

 やはり、俺には彼女はまだ死んでいないように思えた。それにしてもご主人様という呼称は真面目な話をしている時には合わないな。

「だったら、お前の体を探してみないか?」

「体を探す?」

「そうだ。もし生きているとしたら、体もどこかに存在するはずだろう? 見つかったら元に戻れるかもしれないし」

「でも私、生きていた頃のことって全然覚えてないんだよ。家族のことも、どこに住んでいたのかも、私自身のことも。覚えているのは名前だけ」

「どこに住んでいたのか忘れたってのは聞いていたが、他のことも全然覚えていないってのは初耳だな」

 情報というものは何をするにしても一番重要なものだ。調べるのが俺ではなく優秀な刑事だったとしても、手がかりがないのでは目的のものを探しようがない。

「直接的に自身の証明にならずとも、何か覚えていることがあるだろう。例えば……その事故に遭ったのはいつの話だ?」

「ん~と……だいだい二年前ぐらいかな」

 意外と最近のことだとも思ったが、二年前というと俺がここに越してきたより随分と前のことになる。それだけたてば、この辺りで交通事故があったなんて話も風化してしまうものなのだろう。

「警察はその事故のことを調査していたのか?」

「う~ん……どうだろう? 実は事故の後からしばらく経った後で目が覚めたんだ。確か……事故の日から一週間後ぐらいだったかな? もしかしたら意識のない間に調査してたかも」

 調査があったにせよ、なかったにせよ彼女が生きているとしたら病院に搬送されているだろう。俺から訊いておいてなんだが、警察の調査の有無はあまり問題ではないかもしれない。そもそも警察に事故のことで問い合わせたところで情報を教えてくれるかどうかなんてわからないしな。

「……そんな細かいところから私の身元が分かるとも思えないな。別に今のままでもいいんじゃない? 今は私にも話し相手がいるし、そこまで退屈してないもの」

 退屈してるとかしてないとかそういう問題なのだろうか? それに話し相手っていっても俺一人じゃないか。今後も増える見込みないしそれでいいのか? かくいう俺も話し相手と呼べるような人は現状では彼女一人だし、今後も増える見込みはないから人のことは言えないのだが。

「……実はお前の身元の手がかりなら一つあるんだ」

 俺は出会った時から気づいていたが、そこから先のことを想像してしまうと、どうにも言い出しにくかったことを言う決心をした。

「手がかり?」

「お前が着ているその服なんだが、それは聖蘭(せいらん)女子高っていう学校の制服なんだ」

 ちなみに聖蘭高校というのはここから大分離れたところにある、所謂お嬢様学校で妹は二時間近く電車で揺られて通っている。

「聖蘭女子高? なんでご主人様は女子高の制服なんて知っているの?」

「まあ……なんだ、俺の妹が去年からそこに通っててな」

「ふ~ん、妹さんね。じゃあその妹さんに訊けば私のことが分かるかもしれないわけね」

「分かると決まったわけじゃないけどな。でも二年前のことなら分かる可能性も低くはないと思うぞ」

 妹に何かを頼むのは気が進まなかったが、まさか俺が女子高に電話して生徒の個人情報を尋ねる訳にもいかないからな。そんなのは不審者や変態のやることだ。俺はニートではあるがそのどちらでもないのでね。まあ、妹とは二年前まではそれなりに関係良好だったわけだし、頼み込めばなんとかなるだろう。

 もしかしたら彼女の体は生きているかもしれない。仮に今の彼女の状態が幽体離脱だとしたら外に出た魂を体に戻してやれば生き返るわけだしな。そう、生き返る。彼女は自分の人生をきちんと自分で選択できるのだ。今後も俺みたいなニートに付き合う必要などない。

 彼女との共同生活が終わるかもしれない。彼女のことを思えばそれは良いことだ。しかし、俺の心の中では既にこの生活が終わってほしくないという思いが芽生え始めていた。

 妹が暇そうな時間を見計らい、俺は基本料金を払うことすら勿体ないとも思える携帯電話を手に取り電話帳を開く。ただでさえ登録人数の少ない電話帳だが、メアド変えましたというようなメールすら来ない状況にあるので実質的な登録人数はさらに少なくなるだろう。その中で我が妹の番号はきちんとつながる貴重な番号の一つだ。

 その番号に発信の操作を行う。耳元で呼び出し音が繰り返す。一回、二回、三回……呼び出し音が止まる。

「あ? なんか用か糞兄貴?」

 女の子とは思えないような汚い言葉を使っているのは我が妹の奈緒だ。俺もどうせならアニメに出てくるような可愛い妹が欲しかったね。

「あ~……実は頼みたいことがあってな」

「親に愛想尽かされたからって、仕方なく妹に頼みごとか?」

「親のことは関係ないが……俺の知る限りでは奈緒が一番適役なものでな」

 俺は事情を奈緒に説明する。

「日向遙香っていう生徒が、お前の通っている聖蘭女子高に二年前に在籍していたのかどうか調べてほしいんだ」

「ニートだけじゃ飽き足らず、ついにストーキングにまで手を出したのか?」

 幽霊と同居しているなんてことを言える訳がないので、理由は適当に誤魔化さなければなるまい。嘘をつくのは苦手なのだがどうしたものか。

「別にそんなんじゃねえよ。まあ、あれだな。一種の人助けってところかな」

「人助けでなんでそんなことを知る必要があるんだよ」

「ひ、人探しをしているんだ。その人のことを探している人がいて、それを手伝っているんだ」

 ある意味では嘘は付いていない。

「なるほど、ストーカーの手伝いをしているって訳だな。友達は選べよ。相手がそうしてたらお前に友達なんてできっこないけどな」

「だからそういうんじゃないんだって。頼むよ? 奈緒にしか頼めないんだ」

「……仕方ねえ、頼まれてやるか。二年前にうちの学校にいたがどうかなんて知っても犯罪には使えそうにねーしな。二年前に事故に遭ったっていう生徒だな。聞いといてやるよ」

「恩に着る」

「奈緒、お風呂沸いたわよ~」

 いきなり電話から奈緒のものではない声が聞こえてきた。聞き覚えのある……しかし、ここ最近は耳にしていないこの声は母親のものだ。

「はい。分かりました。お母様」

 奈緒が二階から一階に聞こえるようなボリュームで母親に返事をするのが聞こえる。相変わらず奈緒は俺以外に対しては汚い言葉を使わない。

「何がお母様だ。猫かぶりやがって」

「悪い悪い。じゃあお礼は来月の兄貴の小遣い全額な」

「な、俺に嫁を買うなというのか!」

「冗談だよ。趣味にとやかく言うつもりもねえしな。でも妹萌えとかには手を出すなよ、キモイから」

 そういうと奈緒は電話を切ってしまった。用件は済んでいるから良いのだが、一言ぐらい切るよとかじゃあねとか言ってほしいものだ。本当に可愛げがない。しかし残念ながら妹よ、既に君の兄貴は君のいうところの妹萌えに手を出した後だ。その証拠に俺の二十四人の嫁の内の四人は妹によって構成されている。でもその妹達は別に俺の妹という訳でもなければ、俺の嫁なのだから奈緒から見れば姉ということになる。つまり俺は別に妹に萌えている訳ではないのだ。妹キャラだからって妹萌えと考えるのは偏見だね。

「いきなりなのに頼みをきいてくれるなんてやさしい妹さんだね」

 と傍で話を聞いていた彼女は言った。

「昔から口は悪いが根はいいやつでな」

「ふ~ん、仲がいいんだ」

「いや……そんなことはないさ。今の会話を聞いてたなら分かるだろう?」

「そう? 私には仲の良い兄妹の会話に聞こえたけどな」

 彼女はそういうが、実際そんなことはないのだ。確かに子供の頃は仲が良かったかもしれない。でもお互い成長して、勉強の成績を気にするような歳になると、なにか見えない壁のようなものを感じてしまって、昔のようには振る舞えなくなったのを覚えている。成績優秀な妹に駄目な兄貴。俺じゃなくても劣等感を感じずにはいられなかっただろう。妹の方はどうだったかなんて俺には分からないが、少なくとも俺はそう意識してしまっていた。先ほどのことだってまともに話したのは随分前のことだしな。ほとんど噛まずに話せたのが不思議なくらいさ。

 思えば俺が大学受験に失敗したことが、辛うじて保っていた均衡を壊してしまったのかもしれないとも思う。あの時から完全に俺に対する親の愛情というものはなくなってしまった気がする。愛想を尽かされたって訳だ。俺と妹……成績でみても人間性でみても、両親からしたらどっちが可愛いかは明白だ。汚い言葉使いも俺相手にしか使わないし……客観的にみればできた妹だからな。

 とりあえず妹に頼むことには成功した訳だし、後は結果を待つのみってやつだ。結果が出るのは早くても明日の午後――妹が学校から帰ってからだろう。という訳で現状で俺ができることはなくなった訳だ。ああ暇だ。

 そんな暇になった俺に彼女が話しかけてきた。

「ねえねえ、暇ならトランプやろう! ババ抜きでも神経衰弱でもなんでもいいから」

 トランプねえ……二人でやるババ抜きはつまらなそうだ。だからといって二人でやる神経衰弱が面白そうとは思わんがね。本当に神経を衰弱させそうだ。それをするぐらいなら暇な方がいい。

「二人でトランプってのはどうなんだ?」

「だって私はご主人様と二人でしかできないもん」

 そりゃそうだ。納得できる理由をありがとう。でもやりたくないものはやりたくないんだ。

「二人でやるならテレビゲームとかにしてくれ」

 と言ってみたものの

「だって私、ゲームやったことないもん」

 と言って拒否されてしまった。っていうか記憶がないのにゲームやったことがないって分かるのか?

 結局、俺の抵抗むなしく彼女と二人で夜通しトランプをやることになってしまった。眠い、そして疲れた。太陽が頭上に上り、燦々と辺りを照らし始めた頃、彼女はやっと二人トランプに飽きたらしく、俺は拷問のようなゲームから解放された。その後、俺は死んだように眠った。

「意識不明の重体?」

「って話だったけど。ただ私も関係者って訳じゃないから、そこまで詳しく聞いた訳じゃねーどな。優秀な生徒だったのにって学校側は結構なショックだったみてーだぜ」

 意識不明……ビンゴだ。俺の予想通り彼女は死んじゃいなかった。でも優秀な生徒って……明らかに天然入ってるけどな。死人の悪口は言わないってやつか?

「そうか。それでどこの病院に入院しているとか聞かなかったか?」

「中央病院だってさ。教師達はご丁寧に部屋番号まで教えてくれたよ。801号室だとよ」

「部屋番号まで聞けるとは思ってなかったよ。助かった。ありがとう」

「べ、別に礼を言われるほどのことはしてねーけどな。あんま怪しいことすんじゃねーぞ」

 そう言って奈緒は電話を切った。どこの病院かだけではなく、部屋番号まできいておいてくれるとは我が妹ながら気の利いたやつだ。

「へ~、私まだ死んでなかったんですね」

 教師いわく優秀な生徒である彼女は自分の命に関わることなのにこんな調子だ。きっと車に引かれたときに頭でも打ったのだろう。魂が抜け出るほど強烈な一発をもらったのだから頭が少しぐらい可笑しくなっても不思議ではない。

 今すぐにでも行ってみたいが、誰かさんのせいでさっき起きたばかりだというのにもう日が沈みかけている。残念ながら今日中に行くのは無理そうだ。

「もう、こんな時間だし……明日にでも行ってみるか?」

「一緒に出かけようってことですか! つまりデートのお誘いですね!」

 デートって……なんでそうなるんだ。俺がお前の生命のために積極的な行動をとっているというのに一体どこまでお気楽なんだ。

「デートじゃない。お前も行かないと自分の体に戻れないだろ」

 そう、それだけのことだ。他に理由なんてありはしない。

「そうですけど、一人で行ってこいじゃなくて一緒に行こうっていうのはやっぱりデートのお誘いですよ」

 あー、もしかしてこれが噂のスイーツ脳ってやつか? 少しは人の話を聞け!

「お前がどう思おうと勝手だが、俺の方はなんとも思っちゃいないからな」

「分かってますって」

 ニコニコと嬉しそうに笑っている彼女はおそらく俺の話もちゃんと聞かずにそう答えた。何がそんなに嬉がるのだろうか。自分の体が見つかったこと――自分が生き返るかもしれないことが嬉しいなら理解できるが、俺と一緒に出かけられることが嬉しい? 俺には到底理解できないね。誰かと一緒に行動するなんて疲れるだけじゃないか。

 次の日、俺は寝すぎで朦朧としている意識を気合いで叩き起し、彼女と共に中央病院へと向かった。早い時間のためか、道中の商店などはシャッターが閉まっているところも多い。

「一緒にお出かけなのに、つまんないね」

 なんてことを彼女は口にしていたが、別に楽しいところへ出かける訳でもなければ、ましてやデートなどではないのでつまらないのは至極当然のことだろう。

 時折話しかけてくる彼女に適当に相槌を打ちながら一直線に病院へ向かう。視界に入ってくる様々な商店や施設などが開き始め、周りを歩いている人々の姿が増え始めた頃、俺達は病院に到着した。

 自動ドアを潜り、足早に受付へと向かう。どうも俺は病院の雰囲気というものが苦手なのだ。

 俺が受付にいる女性に話しかけようとしたとき、俺の目にある印刷物が目に入った。

 入院患者との面会時間――午後二時より午後八時迄。

 俺の体内時計が異常に早く進んでいることを期待しつつ、俺は左手につけている腕時計に目をやる。現在の時刻十時三十分。

「なんだと……」

 思わず声が漏れた。漏れたといっても耳を傾けなくては聞こえないような小さな声でだったが。

「あと三時間以上もあるよ。どうする? ずっと待ってるのも退屈だよ」

 そう言って彼女は宙に浮いたまま横になる。スカートの下がちらりと見えそうになり俺は慌てて眼を背ける。なんてはしたない!

「た、たしかに暇だな」

「そうでしょ! 折角だしどこかに出かけようよ! 来る途中も色んなお店もあったし」

「そ、そうだな。それもいいかもな」

 目を背けたままで彼女に返事をした俺は言ったあとではっとした。

「本当! やったね! どこに連れて行って貰おうかな」

「いや、待て! さっきのは言い間違いだ。俺はどこにも連れて行かんぞ!」

「ダメ! それもいいってハッキリいったもの。それとも、本当に三時間以上ここで待つんですか?」

「う」

 俺は言葉が詰まった。確かにここで何時間も待つのは辛いものがある。先ほども言ったように俺は病院の雰囲気が苦手なのだ。

 考えること数秒……俺の心の中で行われた葛藤に決着がついた。

「時間を潰すだけだからな」

「やったね! デートだ、デートだ」

 時間を潰す、という俺の言葉が聞こえなかったのか彼女は楽しそうに宙をくるくると回った。……はしたない。

 ちょっぴり顔が赤くなった俺は、時間を潰すため――他の目的などない――にひとまず病院を後にした。

 病院を出た俺達はこれといった目的もなく歩く。彼女は幽霊だから男女のカップルが普段するように、洋服なんかを見るわけにもいかない。彼女は物に触れることはが、服を着替えたりはできないのだ。もし着替えられるとしたら、彼女がもともと着ていたであろう服と今着ている服とで一つのものが二つになってしまったことになる。それは物理学上ありえないことであり人の精神や心理的要因によって覆るような問題ではないのである……多分。なんにせよ、彼女が周りの人間には認知できない以上は服を見ようとしたならば、必然的に俺一人で女性向けの洋服店に入ることになってしまう。そして俺にはそんな度胸はないのである。

 目的もなくぶらぶらしているだけの俺たちだが、彼女はそれなりにウインドウショッピングを楽しんでいるようである。俺には体感時間的には結構な時間が経ったように感じるのだが、秋もせずに彼女は外から見えるようにディスプレイされている洋服を見ながら、これ可愛いな~などとはしゃいでいる。洋服を見ている女性のテンションにはついていけん、全く。

 時計の針がπだけ回った辺りで俺は両脚に疲労を感じ始めた。

「なあ、どこかで休まないか?」

「え? もうですか? 私、全然疲れてませんよ」

 お前じゃなくて俺が疲れているのだ。この間の二人トランプの時といい幽霊は疲労を感じないのか?

「疲れたって。そこに公園があるし、そこらで休もう。そうしよう」

 俺は彼女の返事も待たずに公園へと向かう。彼女は不満そうな顔をしながらもしっかりとついてきた。

 ベンチに腰掛け、一息つく。彼女も隣に腰をかける。

「あ~、疲れたな」

「若いんだから、これぐらいで疲れてるようじゃダメですよ」

 確かに年齢を考慮すると、我ながらこの体力の無さは異常かもしれない。普段運動しないんだから仕方ないんだ。

 しばしの沈黙の後、さっきからぺちゃくちゃと喋っていた彼女が静かなのが気になり、ふと目を横にやる。頬がほんのり赤く染まった彼女の視線の先にはカップルが一組。仲良さそうに話しながらアイスを食べている。

「どうした。ぼーとして」

 俺はあえて彼女の目線の先にあったものについては何も触れない。

「……だって折角のデートなのに全然デートらしくないんだもん」

「だから最初からデートなんかじゃないって言ってるだろう。お前がそう思ってるだけで」

 冷たくそう言うと、彼女の瞳は少し滲んだ。俺は親を泣かせたことは数多くあるが、女の子を泣かした記憶はない――無論、母親と妹を除いてだがその二人は女の子としては数えないので数の内には入らない――ので彼女を泣かせることには抵抗があった。慌ててフォローしようとする。

「だって……ほら、洋服店とかに入る訳にもいかないだろう。お前は人には見えないんだしさ」

 彼女の肩が震える。完全に逆効果だった。これが彼女いない歴=年齢の男の対女性能力というものだ。現実にも決められた選択肢があればいいのに。

 震える声で彼女は言う。

「お前じゃないもん」

「え?」

「お前じゃないもん! 遙香って名前があるもん!」

「そんなのどうでもいいだろう」

 俺がそう言うと、彼女は完全に泣き出してしまった。

「だって、私が覚えてるのは名前だけなんだもん! 名前ぐらい普通に呼んでくれたっていいじゃない!」

 それを聞いた時、俺は一度として彼女の名前を呼んでいないことを激しく後悔した。そうだ、今は彼女には名前以外のものが何一つとして存在しないのだ。彼女にとって自分を認識してくれるのは俺だけ。今の彼女の世界は俺と彼女の二人しかいないのだ。それなのに彼女に対して冷たくしまうなんて……社会の歯車としては欠陥品でも人間としてはそうじゃないはずなのに。

 泣きしゃぐる彼女に俺が掛けるべき言葉は一つしかなかった。

「ごめん、その……は、遙香」

 それを聞いて、彼女の肩の震えがぴたっと止まる。彼女がゆっくりと口を開く。

「えいが……映画に連れて行ってくれたら許してあげる」

「どうして映画なんだ? 他にもやりたいことあるんじゃないのか」

「映画なら私と一緒でも普通に観れるでしょ? ご主人様も買い物とかよりは楽しめると思うし……いいでしょ?」

 普段は何も考えていないような彼女だったが、俺のこともちゃんと気遣ってくれていた。尚のこと先の自分の態度が恥ずかしくなる。

「分かった。じゃあ映画見に行くか!」

 俺は腰を掛けていたベンチから立ち上がる。泣き顔から笑顔に変わった彼女も立ち上がり、俺に言う。

「ご主人様も私のこと名前で呼んでくれたし、私もご主人様のこと名前で呼んでいいよね」

 少し考えてから俺は答える。

「ダメ」

「えー、なんでなんでー!」

「ダメなものはダメ」

 彼女は頬を膨らませて怒ったような顔をしたが、それだけは許さない。まだ許さない。だってこのタイミングでそんなこといったら完全に俺の負けじゃないか。何の勝負なのかと問われれば答えられないが、その……なんだ? 正直にいうと彼女に名前で呼ばれるのが恥ずかしいのだ。

「さっきのカップルみたいにアイスでも食べながら行きたいな」

「それはまた今度……元の体に戻ってからな。俺だけアイスの味を楽しむわけにはいかん」

「じゃあ帰り道だね。楽しみだな~」

「全く、気が早いな」

 その時、俺は彼女が元に戻った後もこうして一緒に話したいと感じ始めていた。でも、もし彼女が元に戻ったとしたら……俺達は今のように喋れるだろうか? 彼女が自分の口からから元に戻りたいと言わないのは彼女もそう思ってるから……てのは俺の考えすぎかな。

 朝、家を出た時よりもちょぴり距離の縮まった俺達は一緒に映画館へと向かった。

「さて、どの映画を見ようか?」

「う~ん……そうだなぁ。あ、あれがいいな!」

 彼女が指をさしたのは巷で話題の恋愛映画「ファースト・キス」だった。テレビなんかで結構な話題になっているらしい。家にいることが多い俺と一緒にいる彼女は必然的にテレビを見ている時間も多く、前々から興味があったのだろう。俺個人としては某超時空要塞の方が気になったりするのだが、そんなことを言ったらまた彼女にデート中なのにアニメの映画なんて変だよ! てな感じで怒られそうだ。

「じゃあそれにするか」

 チケットを買いに列に並ぶ。良いことなのか悪いことなのか微妙なラインではあるが、今日は映画の割引がある日ではなく通常料金なので人も少なめだったので、あっというまに列は進んだ。

「え~と、ファースト・キスのチケットを……」

「あ、ご主人様。私の分のチケットはいいですよ。幽霊だったら映画がただで見れるってご主人様の部屋にあった漫画に書いてありました」

 それなんの漫画だっけ? 自分の部屋にある漫画の話なのに、思い出せなくて少し歯がゆい。

 そんなどうでもいい思考は頭から放り出し、彼女の言うとおりにチケットを一枚だけ購入する。

「ほらほら、ご主人様! パンフレットとポップコーンも買わないと」

「パンフはともかくとして、味も感触もないのにポップコーンなんているのか?」

「こういうのは雰囲気が大事なんです」

 雰囲気のためだけに馬鹿高い値段設定のポップコーンを買わのは苦痛でしかなかったので、パンフだけ購入した。彼女がパンフを手に取り読み始めたので慌てて取り上げる。彼女は不思議そうな顔をしていたが、ここは俺の部屋とは違い人目があるのだ。彼女が持つものは周囲からは宙に浮いているようにしか見えないからな。現に眼鏡をかけたおじさんが目をぱちくりさせながら俺の方を見ている。

「人が読んでるのに、なんで取っちゃうんですか?」

「遙香が何か持ってたら周りからはポルターガイスト現象に見えんだろ」

「じゃあ私はパンフレット読めないんですか?」

 彼女はそう言って首を傾げる。

「あー、俺が持っててやるから。捲って欲しくなったら言ってくれ」

「了解です! ご主人様!」

 俺が椅子に座り、彼女がそれを覗き込むような形で俺達はパンフレットを読みはじめる。内容はいわゆる甘い恋愛ものって感じだろうか。あらすじは恋を知らない男女二人の話で、付き合う際の距離感や接し方に頭を悩ませながら手探りで恋をしていく話……らしい。題名がややネタバレしている気がしないでもないが、まあキスをしない恋愛映画ってのもそうそうないだろうしな。俺は恋愛映画なんて見ないのでわからないが。

 それにしても彼女のパンフレットを読む速度が遅い遅い。女の子ってのはそういうものなのか? 彼女が一ページを読む間に俺は少なくとも二回は読み返せるぞ。それとも彼女は何回か読み返してから次のページに進むのだろうか?

 俺が同じページを繰り返し読むことにも飽きて、パンフレットを覗き込んでいる彼女のほうをちらと見ると、彼女がこちらを向いて言う。

「ん? なあに?」

「いや、なんでもないよ」

「そう」

 そう言うと、彼女はまたパンフレットに目を戻す。

 ……遅いんだよ! とは言えないよなぁ。俺が読んでいるのを彼女が勝手に見ているみたいな状況ならともかく、彼女が読んでいるのを俺が手伝っているみたいな状況だしな。

 彼女が超スローペースでパンフレットを一通り読み終えた頃、アナウンスが聞こえてくる。どうやら入場可能時間になったようだ。

「読み終わったみたいだし、ちょっと早いけど行くか?」

「うん。そうだね……あ、そうだ! ポップコーン! ポップコーン買い忘れてますよ!」

「いや、ポップコーンはいいよ」

「そうですか」

 彼女は残念そうな顔をする。そういえばさっきもそんなこと言ってたような気がする。でも買ったとしても自分は食べないだろうし、何よりもやっぱり高いんだ。

 俺達は劇場に進み席に座る。縦横共に中央付近の席である。彼女も俺の隣に座る。彼女は未だにポップコーンがないと雰囲気が出ないなどと言っているが軽く聞き流す。理由は先ほど説明した通りである。

「……はじまるまで、まだ結構な時間があるな」

「だからポップコーンを買っておけばよかったんですよ」

 ポップコーンはもういい。

 しかし、平日の昼間だというのにやけに人が多い。日本国民はいつからこんな暇人ばかりになったのだろうか? ニートだけで総計何十万人といるんだったかな? よく覚えていないが日本人=忙しいという公式が間違っているのは確かだな。日本のサラリーマン=忙しいに変更すべきだ。

 そんなどうでもいいことを考えていると、俺の右隣にも人が座った。右というのはつまり、彼女が座っていない方の隣の席だ。しかし、どうも隣に人がいると落ち着けないんだよな。

 俺が心の中で悪態をついている間にも人は続々と入場してくる。ついに俺の左隣にも人がやってきた。左隣というのはつまり……もはや説明するまでもないが、彼女が座っている席である。

 その俺の左隣の席にやってきた、おそらくは主婦の集団と思われる内の一人の化粧の厚くて目の上がブルーなおばさん――こんな若者向けの恋愛映画、おばさんが見ても面白いのだろうか――が彼女の席に座った瞬間、俺は目が飛び出した。

 すり抜けたのである。

 その厚化粧のおばさんの体の中から彼女が慌てて飛び出してくる。

「ふー、吃驚した」

 吃驚したのは俺の方だ。この時、俺はまさに開いた口がふさがらないという状況を体現してしたと思われる。

「どうしましょう? 私の席がなくなっちゃいました」

 思考が停止し、口が開きっぱなしの状態のまま俺は答える。

「空いてる席ならそこら辺にあるだろう」

「ダメです! デートなんだから隣同士の席じゃないといけないんです!」

「隣同士って言っても……平日昼間とは思えないほどの来着数だし、もう二つ続きで残ってる席なんてないんじゃないか?」

 俺がそう言うと、彼女は宙に浮いて上からきょろきょろと辺りを見渡して空いている席を探す。俺も同じよう――勿論、俺は宙になんて浮いていないが――に辺りを見渡すが見つからない。降りてきた彼女の表情から察するに、どうやら彼女にも都合よく空いている席は見つけられなかったようだった。

 うつむく彼女は今にも泣き出しそうな表情だった。それぐらいで泣かないで欲しいが、俺には他人の感情、ましてや女の子の感情をコントロールする能力なんて備わっていない。俺にできる最善と思うことをするしかないのだろう。

 そう思った俺は自分の腿の辺りを軽く叩きながら彼女に言う。

「座れよ」

 それは仮に俺の行動が恋愛漫画や恋愛シミュレーションだったとしても高感度が上がるとは思えないし、ましてや現実の女の子に言ったりしたら嫌われることは請負だが、俺にはそんなことしか思いつかなかった。

 やった後に自分でも少しばかり後悔したほどだったが、彼女はありがとうといって俺の脚の上に座った。自分の上に何かが乗っているのを視覚的感覚によって認知しなければ分からないほどに彼女の体は軽かった。いや、重さというものがあるのかどうかすら分からないほどだった。

 周りから見れば普通に座っているだけ――男一人で恋愛映画を見ているような状況がそもそも普通であるかは置いておくとして――にしか見えないだろうが、俺にはその状況が恥ずかしくて仕方がなかった。自分で促しておいてなんだけどな。俺がやせ形で彼女が座るスペースが十分に確保されていたことが唯一の救いってところか。

 そうこうしている間に上映時間になった。スクリーンに映像が映る。

 前々から思っていたことだが、始まる前の別の映画の宣伝時間が長すぎるんだよな。こんな興味もないもの見せられてもしょうがない。

 下手すれば寝てしまうのではないかと思うほどの時間、宣伝映像が流れた後にやっと本編がはじまった。普段はうるさい彼女も今は画面に集中している。俺も彼女が座っている足をなるべく動かさないように注意しながら、画面を見つめる。どんな映画でも実際に見てみるとそれなりに面白いものだしな。

 そして俺の期待した通り、その映画は中々に面白く俺は映像の世界に引き込まれていった。恋に悩む二人の男女――その二人はまだ学生の身であり少年少女というのが相応しいほどに幼かった。

 二人は自分自身の内に芽生えた恋というものの正体が分からず思い悩む。

 その思いに気がついても、人間同士――むしろ恋人同士――の距離感が分からず二人の心は次第に別れて行ってしまう。

 口で説明すると、くだらない少女漫画のストーリーそのものとも思えるが、主演の演技力や映像の魅せ方が良いためなのか俺は夢中になって見ていた。

 ラストシーン……二人のファーストキスの場面で彼女は小さな声で呟くように言った。

「私も……こんな風にできるかな」

 俺は何も言わずに後ろからそっと彼女のことを抱きしめた。彼女は少し驚いているようだったが、少なくとも嫌がっているようには見えなかった。

「映画面白かったですね!」

「思っていたよりは楽しめたかな」

「そんなこと言って、完全に夢中になってたじゃないですか」

 確かに彼女のいう通りで映画は思っていたよりもというような比較級で表現すべきではないほどに楽しめた。なお、この表現も比較級なのではないかという質問は却下する。

「これからどうしますか?」

 彼女が訊く。

「そうだなぁ……もっと遊ぶのもいいけど、やっぱり先に病院に行くか」

 遊ぶのもいいなんて時計の短針を中心を対象に動かしたような時間には考えもしなかったな。

 僅かな時間の間に大きく変わった自分のことを思い返して少しばかり恥ずかしい気持ちになる。

「私ももっと遊びたいけど、しょうがないか」

 彼女も病院に行くことに同意をする。病院に行くことに積極的姿勢を見せていなかった彼女も、俺と同じように大きく変わったような気がする。

「遙香はなんだかすっきりした顔してるな」

「そういうご主人様の方こそ」

 そう言って俺達はにこりと笑った。

 ギクシャクとした同居生活が始まって以来、俺は彼女と心が通じあえた気がする。ほんの、ほんの少しだけだけど。

「そうだ、遙香。そのご主人様っていうのもういいや。本当の名前ももう知っているだろ?」

 遙香はそれを聞いて初めは驚いた顔をしたが、少しばかりの沈黙の後にほんのりと笑いながら言った。

「そうですね。じゃあご主人様の口から自分の名前を教えてくれたなら考えてあげます」

「分かった。じゃあ言うぞ、俺の名前は…………」

 俺は彼女の前で、彼女のために自分の名前をはじめて口にした。

「ありがとう。ご主人様」

「おいおい、ご主人様はもうやめるんだろう?」

「なんだか、ご主人様って呼び方に慣れちゃいました。自然に呼べる時が来たらそう呼びます」

「なんだ、折角教えてやったのに」

 人が恥ずかしいのを我慢して名前を教えたのに呼称は変わらず……か。

 彼女の言うところの自然に呼べる時ってのは、きっと彼女が元に戻れた時のことを指しているのだろう。名前を教えた以上はそれで呼んで貰いたいという気持ちは確かにあるが、その時までなら待ってやってもいい。

 もしもこれ以上……これ以上親密になってしまったら。

 彼女が元に戻った時――彼女の記憶が戻ったとき――俺達の関係が今のようにはいかなくなってしまったら。

 最初の頃とは違い、今の俺はきっと、その辛さでおかしくなってしまうに違いない。

 彼女はもしかしたらそのことを気遣ってくれているのかもしれない。

 そう思った。

 俺たちが先ほどまでいた映画館は病院からさほど離れていなかったので、たいした時間もかからずに病院に着いた。再びその自動ドアを潜る。

 面接を申し込む前に腕時計を確認……よし、大丈夫。

 俺は受付の看護婦に話しかける。

「801号室の日向遙香さんに面会希望なんですけど」

「……患者との御関係はどういったものでしょうか?」

 苦手な病院の雰囲気に飲まれてか、俺の目が右を向いたり左を向いたりと結構な挙動不審状態だった故に疑われているのか、それともマニュアルにそう書かれているのか、面会なんてしたことがない俺には分からなかったが受付の看護婦は不審な目で訊いてきた。

「と、友達です」

 彼女は嫌な顔をするかもしれないが、おそらくは一番無難な答えだろう。年の差もそこまで離れている訳ではないしな。しかし看護婦は俺の答えに返事もしないでパソコンを弄り始めた。彼女は横で予想通り嫌そうな顔をしている。もっと近い表現があるだろうと訴えるような目で俺の方を見ている。

「少々お待ちください……801号室の日向様は面会謝絶となっております」

 め、面会謝絶? なんでだ? 意識不明患者ってのはそういうものなのか? その理由こそ分からないものの、まさかこのまま引き下がる訳にはいかない。

「な、なんでですか? 面会謝絶なんて」

「ご両親の意向ということになっております」

 ご両親……確かに彼女の両親からしたら、意識不明の娘の元には誰も来てほしくないのかもしれない。でも俺には会わなければいけない理由がある。

 しかし、流石にダメといわれた以上はその場で食い下がる訳にもいかないので、待合の青い椅子に腰を掛けてどうしたものかと考えていると、彼女が話しかけてきた。

「面会謝絶なら仕方ないですよ……」

「仕方ないって言っても、仕方ないで済ませられないだろう」

「ならご主人様には悪いけど私一人で行ってきます」

 彼女が一人で? 今まで一緒にやってきたのに最後だけ別れてなんて……でも彼女が元に戻ることを考えれば、現状では他に選択の余地はなかった。

「少し寂しいけど、しょうがないか」

「大丈夫ですよ。それに元に戻れたとしても、きっと私は私のままですから」

 彼女の自信に満ち溢れた眼は、その根拠がなくとも俺に自信を分けてくれたようだった。

 彼女はふわりと宙に舞いあがって801号室を目指す。俺には彼女の後ろ姿を見届けることしかできなかった。

 彼女は自分の体が眠っている病室に向かい後は結果を待つのみ。

 俺は時計の長針を見つめる。

 一周。

 また一周。

 さらに一周。

 無限にも感じられる待ち時間。ただ待つだけの俺の不安は加速度的に、エーテルの海を突き抜ける程に増大していった。

 俺はやりようのない不安を紛らわすために辺りに目を向ける。

 まずは左。やはり病院内ということもあって、にこにこと笑顔のものは数少ない。笑顔の人たちは入院患者が退院でもするのだろうか? 俺もできることなら笑顔で帰路につきたいものだ。

 俺はそのまま視線を右へと動かしていき、それが先ほどの受付に向けられた時に、俺の意識は視覚から聴覚へとシフトした。受付の女性に対して俺と同じように面会を希望している男の声が聞こえてた。俺の意識が聴覚へと集中したのは、その会話の中に出てきたある単語を拾い上げたからだ。

 801号室。

 全身黒のスーツに身を包み、グラサンをかけたその男は、あろうことか俺が先ほど断られたばかりの部屋にいる患者との面会を希望していたのである。

 二人の会話に集中している時に、彼女が戻ってきた。

「本当に私が寝てましたよ。もう、吃驚しました。でもいくら中に入ろうとしても入れないんですよね~」

 彼女が戻ってきた時点で結果が分かっている報告よりも、今はあの男の会話を聞きたい。そう思った俺は唇の前に人差し指を立て静かにするように、そしてもう片方の指で会話をしている二人の方を見るように促す。

 彼女もおぼろげながらに察してくれたようで二人の方に注目する。

 しかし、その短い間にその二人の会話は終わってしまったようだ。その男は面会許可証を首にぶら下げて受付を離れる。

「あの男の人がどうかしたんですか?」

 彼女が不思議そうな顔で俺に訊く。

「……あの男は801号室、つまりは君との面会を希望していた。しかも、どうやら許可されたらしい」

「許可された? だってさっきは面会謝絶って……」

「これは俺の予想だけど、あの男は君の親族なのだろう」

 予想と俺は言ったが、親族なのはほぼ確定だと思う。そうでなければ面会が許可されるはずがないのだ。

 あの男が彼女の親族か……しかしその男は今現在俺の後ろにいる半透明とも表現できる少女とは雰囲気が違いすぎているように思えた。

 その男は普通の人間とは空気が違うというか――とにかく、近寄りたくないような雰囲気を醸し出していていた。

 元の彼女ももしかしてあんな化雰囲気なのだろうか――まさかな。俺は考えたくもない思考を振り払い今の状況のことに意識を転換する。

 現状では彼女が自分の体に戻ることはできないだろうということは彼女が戻ってきたことからも分かっている。しかし、俺自身としては彼女が生きている姿を見ないで帰るつもりなど毛頭ない。

 しかし、彼との接触無くして彼女と面会することはできないだろう。俺はちっぽけな勇気を振り絞り、その男に声をかける。

「あ、あの……日向遙香さんの親族の方ですか?」

「あっしは親族ではありませんが……まあ家族のようなものですね。ところでお坊ちゃんはお嬢様とはどういった御関係で?」

 対応そのものは非常に丁寧ではあったが、グラサンに隠された両目は殺気に満ちているに違いない。そう思わせるほどまでに、その男は強烈な威圧感を放っていた。

 俺はグラサンの下の目に恐怖を感じて、蛇に睨まれた蛙のように何も言えないでいると、彼女が後ろから助け船を出してくれた。

「恋人だよ。もう同棲もしてますって」

 俺は何も考えずに――考えられるような状況ではなかった――彼女が言ったことをそのまま口にする。

「こ、恋人です! もう同棲もしています!」

 それを聞いた男の放っている威圧感が完全に殺気へと変わったことが、冷静な判断が出来ない状況にあった俺に俺自身がとんでもないことを言ったことを気づかせてくれた。そう、彼女が出してくれた助け船は泥船だった。 

「そいつはちゃんちゃら可笑しな話ですね。お嬢様に恋人なんて聞いたこともないし、そもそもそんなことはおやじさんが許すはずがないんですがね」

 さきほど以上に俺の体は硬直していた。蛇に睨まれたカエルとは比べ物にならない。そう、アストロンである。

 おやじさん? お嬢様? もしかして貴方の職業って……

「ちょっと、外で話そうか?」

「は、はい……」

 この状況ではそう答えるしかなかった。

 その黒服の男は病院を出た後に携帯電話で誰かと連絡をとった後に俺についてこいと言った。話そうといって外に出たわりには別に何も話してはいない。俺も期待はしていなかったが。何も答えずに俺はそれに従う。

 なぜ俺は拒否することができなかっただろう。確かに現状で彼女と面会をする為にはこの男との交渉が必要不可欠だ。

 しかし、しかしだ。黒服? グラサン? 事務所? 連想ゲームではないが、これらの属性から想像できることといえば一つしかないだろう。

 それを考慮すれば、この男について行った先で良いことなんてない――それにこの男がついていった先で面会を許可してくれるとは到底思えない――と頭の中でははっきりと意識していたはずなのに。まるでカツアゲに会った中学生が人気のないところへとおとなしくついて行くようほどに愚かな行為を俺はしてしまった。いや、現在進行形でしているところだ。先が見えているにも関わらず、その場その場の楽な方向に流されてしまうなんて、俺はなんてダメなニートなのだろうか。

 ノウと言えない日本人というが全くもってその通りだ。尤も、そもそも日本ではノウとは言わないが。

 どうでもいい思考によって現実から遠ざかろうとしていると、俺の先を歩いていた男が急に止まる。

「着きましたぜ」

 そこにあったのはこんな家が日本に存在するのかと思うほどの立派な日本家屋。免許がなくても車の運転ができそうなほどの広い庭。まるで漫画に出てくる金持ちの家だ。これが格差社会ってやつなのか?

「本来ならおやじさんの手を煩わせたくはないんですが、お嬢様のこととなっては我々だけで処理する訳にもいかないんでね」

 どうやらここはただの事務所ではなく、この男のいうおやじさんとやらの住まいらしい。ということはここは彼女の実家なのだろうか?

 その男に連れられて、俺たちは家の門を潜る。

 自分の発言のことで後悔しているのか、道中無言で付いてきていた彼女だったが、その家の敷地内に入った途端に、何かを探すように辺りを見渡し始めた。右往左往していた彼女の視線がぴたりと止まる。

「あ、知っている……私、ここを知っている気がする」

「! 何か思い出したのか?」

 俺は思わず声を出して彼女に尋ねる。黒服の男は首から上だけ振り返り、まるで変なものを見るかのような目で俺の方を見る。いや、目そのものはグラサンで見えないのだが。

「ううん。ただ何か見覚えがあると思っただけ……」

 見覚え……か。仮にここが彼女の実家だとしたら、見覚えがあっても不思議ではない。十年と数年という時間を過ごしてきた家ならば、例え記憶が消えていようともデジャヴのような感覚があっても不思議ではないだろう。

 俺が彼女にかけるべき言葉を探していると、黒服の男が話しかけてきた。

「あんたって本当に変なやつですね。お嬢様と恋人だの同棲だのだけでじゃなく、訳のことを一人でぶつぶつと」

「え、ええ」

 俺は緊張と恐怖とでまともに返事もできなかった。

「そんなに緊張する必要はありませんぜ? 別にあんたのことを東京湾に沈めようってわけじゃないんですから」

 そう言うと何を思ったのか黒服の男はグラサンをはずし、胸ポケットへとしまった。片目に大きな傷があるその男の目は汚れているようには見えなかった。むしろ純粋そうな目をしていたといった方が良いぐらいだ。

 その男の素顔を見た彼女は言った。

「こ、近藤さん?」

「近藤さんって?」

 俺は彼女に訊く。それを口にした瞬間、前にいる男がぴくりと反応した気がした。しかし、近藤というのは俺には聞き覚えのない名前だ。

「私が子供の頃から家にいた人。私の……」

「……あんた、あっしの名前はどこで聞いたんで? 名乗っちゃいないと思うんですがねえ?」

 彼女の言葉は黒服の男の台詞に遮られる。黒服の男は首を振りながら続ける。

「いや、今はいいか。全てはおやじさんの前で、きっちりと話して貰えばいいことですから」

 歩きながら話していた俺達は、気がつくと広大な庭を通り抜けて玄関前にきていた。黒服の男が玄関扉を横にずらして開く。最近はあまり見なくなった昔ながらの引き戸ってやつだ。

 扉の先には俺をここへ連れてきた黒服の男と全く同じ服装の男たちが並んでいる。ここまでくると恐怖感というよりも、むしろ笑えてくるのだから、人間というのは不思議なもんだ。

「おかえりなさい! 若頭!」

「おう、それでどうだ? おやじさんの様子は?」

「今は多少落ち着いてます。最初は顔に電気がついて、大騒ぎだったもんで。そこの小僧が例の奴で?」

「ああ、こんな訳の分からん男をここに連れてくる必要なんかないと思ったんだが、おやじさんのいうことだからな」

 黒服の男……とこれでは分かりにくいか。若頭と呼ばれた黒服の男、つまりは近藤と黒服の男たちとの会話にはどうもついていけん。一体全体、何を言っているんだ、彼らは?

「お前をここに読んだおやじさんは奥の部屋にいる。ついてきな」

 近藤が歩きだしたので俺もそれに続く。奥の部屋って……この家かなり広いけど、奥ってのはどこら辺なんだ?

 俺についてくる彼女が不安そうな顔をしているのが分かったので、彼女に声をかける。今度は廊下に陳列している周りの男たちには聞こえないように小声でだ。

「……お父さんのことを考えているのか?」

 彼女は頷く。

「この家に入った時に、近藤さんの顔を見た時に、色んなことを思い出した。お父さんの顔も、私が今までどんな風に暮らしていたのかも」

 記憶を取り戻したという彼女の表情が不安に満ちていることからも、彼女の今までの人生の軌跡が彼女にとって良いものではないことが窺えた。それはきっと彼女の家のこと、彼女のお父さんのことに関する問題なのだろう。

「大丈夫。俺が一緒だから」

 それは根拠もない浅はかな台詞ではあったが、今の俺には――ただのニートであり社会経験も何も積んでいない俺には――それくらいしか、かける言葉が見つからなかった。

 こんな状況の中で会話が続くはずもなく、周りに存在する音は俺と近藤の床を足が叩く音のみとなった。彼女は宙に浮いているので当然ながら足音はしない。

 時計の長針が何周しただろうか? 家の中を移動しているとは思えないほどの間、廊下を歩いた後に目的の部屋とおぼしき部屋に到着した。

「失礼します」

 その声に対する扉の奥からの返事はなかったが、少しばかりの時間の後、近藤は引き手に手をかけてほんの少しだけ襖を開ける。その後、枠のところに手をかけて襖を開ける。

 これは日本式のノックみたいなものだろうか。余談ではあるが二回ノックというものはトイレに対してのみ使うものらしい。本当かどうかは知らないけどな。

 つい先ほどまで襖で遮られていた空間に無言で座っていた男は近藤や他の黒服たちとは比べ物にならないほどの威圧感を放っていた。近藤の放っていた威圧感ですら俺にとっては前代未聞といえるほどだったのに、この男のそれは空前絶後というのが相応しいものだった。

 その男は口に銜えていたキセルを指に挟んで持ち、口から離す。

「匡、そこの小僧がそうだな?」

「はい、おやじさん」

「小僧、座りな」

 そこには座布団が既に用意されていた。俺の分と近藤の分。当然ながら彼女の分はない。

「さて、小僧。俺の娘のことを侮辱したこと……それがどういうことなのか分かっているんだろうな?」

 俺の口にした恋人や同姓という言葉は、この男には自分の娘への侮辱に聞こえたらしい。父親の娘に対する感情というものはそういうものなのだろうか? はっきりとは分からなかったが、娘の恋人ですなどと言っている男に好感を持つかといわれればノウだろう。

 普段の俺ならこの男の放つプレッシャーに押しつぶされているだろうが、今は耐えることができた。いや、威圧感は感じていたものの、恐怖感は感じていなかった。

 それはこの男が彼女の父親であることと無関係ではないだろう。俺にしてみればやましいことなど何もないのだ。

 目の前の男との交渉……いや、対決に関して、俺は勝ちを確信していた。

 俺の前にその男と近藤が向き合う形で座布団に座る。男はキセルを古臭い煙草盆のふちで叩き、灰を落とす。そのままキセルを置いたので話しながら煙を吹かすつもりはないようだ。

「小僧。なぜ、俺の娘を……大切な愛娘を侮辱するようなことを言ったのか聞かせて貰おうか?」

「俺は娘さんのことを侮辱したつもりがありませんよm、お父さん」

 男は胡坐をかいている自分の足を骨が折れるのではないかと思うほどに激しく殴った。唾を飛ばしながら声を張り上げて言う。

「お、お父様だとぉ……ふざけおって! 貴様とそのような関係になった覚えなどない!」

 やばい、火に油注いじまったか。正三は真っ赤な顔で叫んだ。座布団に正座している俺の膝の上の両こぶしは、まさしく手に汗握るというような状態だった。

 激怒しているその男は懐に手に入れる。そこには何かをしまっているような膨らみがあるように見える。もしかするとあれですか? 黒光りするあれだったりしちゃうんでしょうか? 俺は逃げ出したい気持ちを堪えて言葉を発する。だって逃げたいけど逃げたら後ろから撃たれそうな気がするし。それだけは勘弁だ。死んだら何もできないからな。

「恋人や同棲と言ったのを気にしているのでしたら。それは誤解ですよ。貴方だってそんなことがあるはずがないと分かっているはずです。遙香さんと面会をしたかったのも彼女の為になる理由があったからです」

 恋人はともかく同棲という部分は真実ではあるが、かなり特異な状況であることを考えれば誤解であるといっても異論はあるまい。

 その男はそれを聞き、唸りながら

「貴様なぞが娘にしてやれることなど何一つないわ!」

 いきなり叫びながら拳銃を俺に向けたその男を、近藤とどこかに潜んでいたのか黒服の男たち数人がさっと現れ必死に押せえる。

「落ち着いてください、おやじさん」

「放せ! 放さんか、匡!」

 近藤氏の下の名前と思われる名前を叫びながらその男は暴れだした。だが、それを抑える近藤氏や黒服たちも数が多いだけあって負けてはいない。

 その状況を俺の隣で見ていた彼女が泣きそうな声で叫んだのが聞こえた。俺はその言葉をそのまま――無論、一部の言葉は俺が話しやすいように差し替えてだが――復唱する。

「やめてくれ! 近藤さん! 正三さん!」

 正三氏は俺の声を聞くと暴れるのをやめ、それを抑えていた近藤さんと他数名の黒服たちも同じように動きを止めて、不思議そうな目で俺のことをみている。といっても黒服たちはグラサンで目なんて見えないのだが。

「……小僧、貴様に名乗った覚えはないが、なぜ俺の名前をしっている?」

「そういえば先ほども聞いてもいないのにあっしの名前を知ってましたね? 一体どういうことなんで?」

 どう答えるべきかと一瞬悩んだが、俺は真実をそのまま打ち明けることにした。今、仮に誤魔化したところで後々説明せねばならなくなるだろう。ならば早めに打ち明けてしまった方が良いというものだ。

「俺の隣には今も彼女が……遙香さんがいます。でもそれは彼女自身ではなくて彼女の意識のようなものですが……でも遙香さんであることには違いありません」

 すぐに信じてもらえると思ったわけじゃない。げんにその場にいた人――正三と近藤、そして黒服の男たち――は唖然としていたが、やがて正三氏が重い口を開いた。

「ふざけたことを……それこそ娘を侮辱しているというものだ! 証拠だ! そういうからには証拠はあるのだろうな!」

 俺は横の彼女に目線を送り、彼女はそれに頷く。

「紙とペンを貸していただけますか?」

 何を言っているのか分からないといったような顔をされたが、正三は黒服の男たちに指示して紙とペンを、ご丁寧に小さな卓袱台のような机を持ってこさせてくれた。

 俺は彼女の言葉を代筆しようと、卓上に置かれたペンを手に取ろうとしたが、それを握りかけたところで、彼女が後ろから手を伸ばし、俺の手を握って

「ここは私にやらせて」

 そう言った彼女の目には強い意志が感じられた。

「そうだな……たしかにその方が良いかもしれない」

 俺は握りかけていたペンを彼女に手渡す。

「私ね、記憶が戻って話したいことたくさんあるの。だから……」

「分かってる。それがつまり君のお父さんを説得する方法でもある訳だね」

 彼女は頷く。

 彼女が手に取ったペンは宙に浮きながら紙に文字を書き綴っていく。

 最初は目の前のポルターガイスト現象に驚いていた彼らだったが、書かれていく文字を見た途端に、物が宙に浮いているがそんなものはどうでもいいといったような様子でそれを注視する。

 彼女はそんな彼らの様子を見てにこりと笑い、手を動かす。

 ――覚えていますか。小学生の時のことを。男の子の友達の家に遊びに行ったことをお父さんに話したとき、お父さんは火がついたように怒り、その男の子のことを殺してやると暴れまわって大変でしたね。その時も、先ほどと同じように近藤さんたちがお父さんのことを必死で止めていたのを覚えています。その時、私は暴れるお父さんのことが怖くて大きな声をあげて泣いてしまいましたね。それに気づいたお父さんは暴れるのをやめてくれたけど、その時以来、私は男の子と仲良くすることがいけないことだと思い、男の子と話すことが苦手になってしまいました。

 ――覚えていますか。中学生の時のことを。風邪をひいてしまい、私は病院にいったのですが、そこの病院の先生は私が盲腸だといってお腹を切ってしまいました。結局、それは誤診だったのですが、やっぱりお父さんは火がついたように怒って、あのヤブ医者! チャカでタマとっちゃる! なんて叫びながら殴りこみにいこうとしたのを、やっぱり近藤さんたちが必至で止めていました。私はその時もお父さんのことが怖かったけど泣きはしませんでした。家のことは仕方がない。そんな風に諦めていたからなのかもしれません。この頃には、学校の同級生たちはみんな、私の家のことを知っていたので私には友人と呼べる人がいなくなってしまいました。

 ――覚えていますか。高校生の時のことを。お父さんは自分のせいで私の友達が離れて行ってしまったことに責任を感じて、遠くにある私立のお嬢様学校へ入学を勧めてくれましたね。遠くの学校に通うのは大変だったけど、お父さんの思いやりがすごく嬉しかった。あの学校では私は自然に振る舞えたし、友達もたくさんできた。女子高だったから相変わらず男の子の友達はいなかったけど、それでも凄く楽しい学校生活を送れてた。

 ――なのに、お父さんは私が小中学生だったときのことを繰り返した。

 ――私は思わず家を飛び出しました。この時は、まるで子供のように泣いていました。そして、その途中に車に……

 ……

 それを見ていた彼女のお父さんはゆっくりと口を開いた。

「本当に……本当に遙香はそこにいるのか?」

 震えるような声で正三氏は言った。

 ――うん。

 そう彼女はペンを走らせた。

 真っ赤な顔をした正三の頬には輝きを放つ滴が流れていた。

 俺達は病院の面会時間に間に合うように家を出た。

 ここへやってきたときのメンバーに加えて、正三もそれに同行した。

「本当に、娘は蘇るのか?」

 病院へと向かう途中、正三は機体と不安が入り混じった声で俺に尋ねてきた。

 俺はすぐには答えられなかったが、彼女が俺に言った。

「大丈夫。なんだか今なら戻れるような気がするの」

 今なら大丈夫。それは俺も同じように感じていた。だからこそ、次のように言うことができた。

「きっと大丈夫です」

「そうだな。きっと大丈夫に違いない」

 特に意識したわけではないが、俺の発した声は自身に満ち溢れた声であった。でなければ正三は不安を拭い去ることはできなかっただろう。

 根拠もないのにそれほどの自信を持つことができたのは彼女と意識を共有していたからに他ならない。

 今なら彼女の考えていることが俺にも、俺の考えていることが彼女にも分かって貰えるような気がした。


 俺たちが病院についた時には既に面会時間ギリギリだった。

 時間ギリギリでの面会は控えるようにと言っていたが、彼女の父親である正三の頼みとあらば拒否する権利があるわけではない。

 もしかしたら、病院スタッフのものたちは正三たちの家のことを知っているために、ことを荒立てたくなかっただけかもしれないが。

 届利着いた病室。その扉を開けた先……そこの部屋のベッドに横たわり、眠っていた彼女は、ひどく細く、弱弱しかった。

 点滴で栄養を送り込み、外部的な力によって生かされている状況。

 それは奇妙なことに幽霊のようになっている魂だけの彼女よりも生きているという感じがしなかった。

「これが、彼女なのか?」

 なんだかひどくおかしな話であるが、彼女の体は幽霊状態の姿の面影すらなかった。

「これが、彼女なのか?」

 彼女の体は幽霊状態の姿の面影すらなかった。なんだか、ひどくおかしな話である。

「ああ、目を離したすきにでも死んでしまうのではないか……それほどまでに今の娘の体は弱弱しい」

 正三は目に涙を浮かべて言う。

「さっきは体を重ねたも元にはもどれなかったけど……今度は大丈夫かな?」

「きっと大丈夫。今の遙香だったらきっと上手くいくさ」

「そうだね」

 と頷く彼女。

「遙香、早速ためしてみよう」

 彼女は静かに頷き、ベッドに横になって自分の本来の体に今の半透明の体を重ねる。

 全員が息を飲む中で、自分の体と体を重ねた彼女はゆっくりと目を閉じる。

 細くなった彼女の体と同じ大きさに、細くなる以前の見た目を維持している彼女の体が段々と収束していく。

 もっとも、その様子を認識できたのは俺一人だったろう。

 その二つの体が完全に一致したとき、彼女は目を開けた。

 目を開けた彼女は細く、弱弱しい体をした彼女だった。

 彼女は幽霊であった時の様子からは想像できないほど辛そうに口を開く。かすれるような声で彼女は言う。

「今なら、やっと名前で呼べますね。優君」

 優。月野優(つきのゆう)。それが俺の名前。はじめて彼女の口から発せられた俺の名前だ。

「ありがとう、遙香。……元にもどれておめでとう。記憶が戻っても君は君のままだった」

 それから先は何も言わずに見つめあう二人。それを見ていた近藤は少し悲しそうな声で言う。

「その様子だと、あっしとお嬢様の約束は破棄しないといけないかもしれませんね」

 彼女は慌てて何かを言おうとしたが、近藤は平手で彼女が喋るのを制止する。

「無理しないでください、お嬢さん。おやじさんも……今の二人を見ていればそう思いますよね」

「そうだな」

 恋人、同棲、それらの単語を聞くだけで烈火の如く怒っていた正三も優しそうな声でそういった。

「遙香には家のことで辛い思いばかりさせてしまったからな。匡と一緒に家を継いでもらいたいと思っていたが、家を出たいというならば止めはせん。ところで優君といったかな? 君は仕事は何をしているのかね? それともまだ学生なのか?」

 一番聞かれたくないことを一番最初に訊かれてしまった。やばい、どうしよう。こればかりは正直に言ったらダメな気がする。今は優しそうな声で話しているが、再び火がついたように怒り始めるに違いない!

 俺が何も言えずにいると、

「優君は、ニートをやっているんですよ」

 と彼女が言ってしまった。天然なのは記憶がなくなっていたからではなく、どうやら素でそうらしい。

 それを聞いた正三は、想像通りに顔を真っ赤にして叫んだ。

「貴様のような奴には娘はやれーん!」

「ご、ごめんなさーい」

 俺は光の速度で謝っていた。お父さん、病院ではご静かにお願いします。

 その後、意識が戻った彼女はリハビリをはじめることになった。

 随分と長い時間、二年間も寝たきりだった彼女の体は自力では立つことも困難なほどに弱り切っていた。

 長く、険しいリハビリ生活になると思うが、意志の強い彼女のことだから、絶対にやりぬいて元のように元気な体へと戻れるだろう。

 俺も全力でサポートするつもりだ。なんといっても、俺は現代社会において最も暇を持て余しているニートなのだから時間はたっぷりとあるというものだ。

 あれから数ヶ月が経ち、今は桜の蕾が膨らみすぐにでも満開になりそうな季節である。

 俺は汗を流しながら資材を運んでいる。あの後、彼女のお父さんがコネで仕事を紹介してくれたののだが、彼が言うには

「貴様のような根性無しは、ここで少しは心身ともに鍛えてこい!」

 とのことで、バリバリの肉体労働の仕事を紹介してくれた。ああ、ありがたい。非常にありがたい。

 こんな仕事だったらコネがなくてもとれるんじゃないか? と疑問に思わ時もあるが、彼女も必死でリハビリをしているのに、俺がこの程度で諦める訳にはいかない。

 正三さんもその辺を見極めるために、この仕事を紹介してくれた……のかもしれないしな。

 俺がそう思うのには、ちゃんと理由がある。この仕事が今日でお終い、俺は再びニートになるからである。ん? なぜ今日でお終いになるのかって?

 それは彼女の退院日が明日だからだ。無論、仕事が終わる理由は単純に作業が終わったからに他ならないが、この仕事は正三さんの紹介によるものだ。

 それを考えれば、俺と彼女、お互いの訓練期間とも考えられる時間が同時に終わるのは、何か狙っているとしか思えない。


 明日からの俺はまたニートになる。

 しかし、昔のようにそのまま惰性に過ごす気は毛頭ない。

 いつまでも彼女のお父さんに頼りっぱなしになる訳にはいかないので、新しい職も探さなければならない。

 このままプーに戻るようだったら俺に婚約者をとられる形になった近藤さんにも会う顔がなくなってしまうしな。

 そうそう、遙香は正三さんが学校の休学手続きをとっていたから今年からまた高校に通うことになるそうだ。

 聖蘭女子高にいる俺の妹とは歳の差こそあれど同級生になることになる。

 あの妹のことだろう。遙香が歳の差が原因でクラスに馴染めなかったとしても、うまくやってくれることだろう。

 その為には買収するための道具を用意せねばなるまい。


 俺は大して重くもない給料袋を懐に入れて町に出る。彼女の退院祝いを買わなければなるまい。親から送られてきたお金ではなく、俺自身が労働して稼いだ金でな。

 遙香はどんなものを貰ったら喜ぶだろうか。意外と子供っぽいものが好きそうだな。ぬいぐるみとか? 流石に子供っぽすぎるか。

 試行錯誤を繰り返しながら街を歩いて行くが、一向に良いと思える贈り物が見つからない。

「さて、どうしたものか」

 ふぅとため息をついてみるが、それで事態がどうこうなる訳でもない。途方に暮れている俺だったが、ふと数ヶ月前のあの日のことを思い出した。

「帰り道のアイス、結局食べてなかったなぁ……」


 次の日、俺は朝早くに起きて出かける準備をする。最近では早寝早起きでないと逆に調子が狂うほどに、正しい生活リズムを保っている。

「ついに退院……か」

 リハビリ中も時間を作っては会いに行っていたので、別に久しぶりというわけではなかった。

 でも、やはり病院内で会うのと退院して外で一緒に過ごすのとでは大きな違いがあるというものだ。

 俺は病院の入口の前で彼女が出てくるのを待つ。退院時は病院の外で会おうというのが彼女の意向だった。

 彼女も病院の外で会うのを楽しみにしている……と受け取ってもいいのだろうか。

 約束の時間よりもだいぶ前に来てしまったが、俺が病院についた直後にドアから誰かが出てくる。

 長い黒髪に宝石のように輝いている綺麗な瞳。まるでおとぎ話に出てくる天使のような美しい少女、今はもう制服姿ではないが、それは紛れもなく彼女であった。

「優君、まだ約束の時間よりも全然前じゃない。いったい何時からそこにいたの?」

「ついさっき来たところさ。そういう遙香だって早すぎるだろ」

「だって、この時間に優君がくる気がしたんだもん。それに約束の時間通りだったら、またお父さんに邪魔されちゃう」

 二人の意識がぴったり重なっていることを少しだけ恥ずかしく、それ以上に嬉しく感じた。

「じゃあ行こうか」

「うん」

 彼女と手をつないで歩きだす。

 今の俺達は周りから見ても仲の良いカップルに見えることだろう。周りからお似合いのカップルと思われるかどうかは微妙だけどな。

「ずっと病院生活で退屈してたんだから、ちゃんとエスコートしてよね」

「もちろん。期待しててくれていいよ」

「すっごい自信」

 余裕ぶってみせたが、実際のところは初めてのリアルなデートということもあり、彼女が喜んでくれるのかどうか凄く不安だった。

 デートコースは数か月前のあの日……俺と彼女が初めて名前を呼び合った日と同じコース。

 でもあの時と今では状況が全然違っていた。

 病院を出て、まず初めにあの映画館へと向かう。

「あ、ここの映画館って……」

 そう、そこは俺たち二人の思い出の映画館である。

「何の映画を見るの?」

 彼女の問いに、頭の後ろをかきながら俺は答える。

「実はまだ考えてないんだよね。ほら、あの時もここに来てから考えただろう?」

「そういえば、そうだったね。そうだ! あの時は私が選んだんだから、今度は優君が選んでよ」

 俺が選ぶ? 超時空要塞Fが少し気になって、看板をきらりとみる。だが、アニメ映画をデートで見るのはやっぱり変な気がする。慌てて視線を別の方向に動かす。

「そうだなぁ……」

 俺は考えているふりをするが、彼女は

「優君、最初にちらっと超時空要塞Fってやつの方見たよね? 優君が興味あるならそれにしよう!」

「え、でもアニメの映画だせ?」

「いいの、いいの! 優君が面白そうだと思うなら、きっと面白いよ」

 という訳で俺達はその映画のチケットを購入する。今回は一枚ではなく二枚。

「一枚だけ買って、また私が上に座っても良かったのに」

 流石に恥ずかしすぎるだろう。俺は前回の時のことを思い出して顔を赤く染める。

「……私ももうあの時みたいなことはできないな。でも、あの時できなかったけど今できることはたくさんあるもんね」

 そう言って彼女は笑った。そう、あの時しかできなかったもあるが、今だからできること、二人でやりたいことは山ほどあるのだ。

 今回は入場時間までさほど待たされることもなく入場した。

 前回と同じように縦横共に中央付近の席に座る。今度は邪魔されることなく俺と彼女が隣同士で。人の入りもファースト・キスの時ほど多くもなく周りに人はあまりいない。

 俺は映画がはじまると同時に隣にいる彼女の手をぎゅっと握った。彼女もそれを握り返してくる。

 そのまま映画が終わるまでの二時間、二人の手はつながれたままだった。

「アニメの映画なんて全然みたことなかったけど、結構面白かったね」

「そうだろ? こういう映画だって意外に面白いもんなんだぜ?」

「うん。でもデートとしては次第点ってところかな?」

 次第点か。彼女も中々厳しいな。

「でもヒロインの女の子がすごい可愛かったね。努力家でいつも一生懸命で……」

 俺達はあくまで微笑ましいレベルで映画の感想を言い合う。

 映画に関して話すネタも尽きてきたあたりで、彼女は言った。

「なんだかお腹すいちゃった。ちょっと早いけどお昼にしない?」

「そうだな。じゃあそうするか」

 ランチは彼女の要望でイタリアンだった。彼女はミートソースのスパゲティ、俺はイカ墨のを注文する。

「こんなの食べるのすごく久しぶりな気がするなぁ。病院食じゃこんなの絶対出ないし」

「スパゲティが病院食で出たらそれこそ吃驚だな。でも中央病院の病院食って比較的美味しいらしいぜ?」

「えー、あれで美味しいだったら他の病院は一体どんなものが出てくるんだろう?」

 う~ん、入院したことがない俺にはちょっと分からなかった。そもそも中央病院の病院食が比較的美味しいっていう話も人から聞いたものだしな。

「私、優君が食べてるイカ墨のスパゲティって食べたことないんだよね」

「なんでだ? 美味しいぜ?」

「なんだか真っ黒で怖いんだもん」

「騙されたと思って一度ぐらい食べてみな。絶対美味しいと思うぜ」

「そうだな~、じゃあ一口だけ! あーん」

 そう言って彼女は口を開く。

「しょうがないなぁ」

 俺はフォークに少量のスパゲティを絡めとり彼女の口に入れてやる。それを食べた彼女は

「あ、本当だ。美味しいかも」

「だろ?」

 やっぱり見た目で敬遠していても、実際に食べてみると美味しいんだよな。

 二人とも完食し、会計を支払う。

「あ、私も払うよ」

「いや、ここは俺が払っとくって。遙香の退院祝いの日でもあるんだから、俺に奢らせてくれよ」

 俺がそう言うと彼女は自分の財布をしまい、俺にありがとうとお礼を言った。男ならお礼を言われると奢ったかいがあったと感じるものだ。

「ねえ、次はどこに連れて行ってくれるの?」

「服でも見ようか。ずっと病院暮らしでお洒落なんてする時間もあまりなかっただろう?」

「優君の服のセンスはいまいち信用できないんだよな~」

「ひどっ。最近は俺だって結構気を使ってるんだぜ」

「ふ~ん、どうだかなぁ。じゃあ、どれだけセンスを磨いたか見せて貰おうかな」

 彼女は意地悪そうな笑みを浮かべてそう言う。これって結構馬鹿にされてるよな。

 俺達は二人で洋服店を見て回る。

「あ、これとか可愛いな。あ、こっちも可愛いかも」

 う~ん、やっぱり服を選んでいる女性にはなんとも近寄りがたい雰囲気を感じる。それは相手が彼女であっても例外ではないようだ。

「ねえねえ、優君。どっちの方が似合ってると思う?」

「そうだなぁ……両方とも似合ってると思うけど、赤い方が新鮮な感じで可愛いと思うよ」

「じゃあ、この赤い方に決めた!」

 俺が払うよと申し出ようとしたが、彼女に止められる。

「無理しない方がいいよ。ほら、値札見てごらん」

 そこにはワンダフルなお値段が記載されていた。桁が一つ間違っているんじゃないかと思うほどの、男ものの服では考えられないような値段である。

「それに自分のものは自分のお金で買わないと。そういう分別はきっちりしとかないとね」

 流石に彼女は良いことを言う。なんだか周りにいる別のカップルの男から羨ましいオーラが出ているような気がするね。女の人の方はたぶん買い物に夢中で聞いてないみたいだ。

 その後も俺達二人は色々な場所を回った。どこで何をしていても彼女と一緒に時間は楽しく感じられて、時間はあっという間に過ぎていった。

「そろそろ暗くなってきたな」

「そうだね。もう家に帰る?」

「家?」

「優君のうち。当然、入れてくれるんでしょ。私が幽霊だった頃はよくて今はダメなんて言わないよね?」

「それは勿論構わないけど……じゃあ最後に一軒だけ行くか」

「了解。どこに行くの?」

「それは着いてからのお楽しみ」

 俺が彼女を連れていった先はあの時の公園だった。

「そこのベンチで座って待ってて」

 俺はちょっぴり駆け足でアイス屋に向かい、アイスを二つ購入して彼女のところへ戻る。

「おまたせ」

「ありがとう。でもなんで最後にアイスなの?」

「あの時、言っただろう。帰り道にアイスを食べようって」

「そうだったね……」

 二人でベンチに座りながらアイスを食べる。

「そうえいば、このベンチも前に座ってたベンチだね。あの時は私ったらわんわん泣いちゃって……」

「あの時はごめん。でも今後は絶対に遙香のことを泣かせたりはしないよ」

 彼女はしばしの沈黙の後、頬を赤らめて言う。

「それは一種の告白かなんかなのかな?」

 こ、告白? 自分自身では全く意識していなかったのに彼女にそんなことを言われたのでちょっと焦った。すると彼女は

「なに? 違うの? それだったら私、また泣いちゃうかも」

「いや、俺はその……遙香のこと好きだよ」

「うん、私も」

 俺も彼女も恥ずかしさのあまりに手に持っているアイスを食べることに集中する。瞬く間にアイスは小さくなっていく。アイスを食べ終えたのはほぼ同時だった。

「アイスなくなっちゃたね」

「ああ」

 再び沈黙が流れる。

「じゃあ、食べ終わったし家に帰るか!」

「はい」

 二人は立ち上がり、俺の家に向かって歩き始める。

「家に帰ったら何をしましょう?」

「二人トランプ以外ならなんでもいいぞ」

「えー、やろうと思ってたのに」

 ……俺たちが家に着いた時には辺りはもうすっかり暗くなっていた。

 ドアを開けて、俺たちが家に入った際に言った言葉は同じだった。

「ただいま」

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