第四話
抜けるほど透き通った青空に、刷毛で伸ばしたように幾筋もの細い雲が散らばっていた。夏を彩る入道雲はもうない。空の高さも、秋の訪れを感じさせていた。
刻々と形を変える雲たちを、シオンは物憂げに眺めていた。ジャンクの山の上に、少女と少年を座らせて。背中合わせに寄りかかりながら。
とても買い物に行く気分ではなくなっていた。まだ、決めかねている。自分が自分であるためには、どうするのが一番なのか。そればかり考えてしまう。
あの大会には参加せず引退するというのが、一番無難に思える。しかし、それでジンはどう思うだろうか? 戦えない自分には興味がないのではないか? そうも考えてしまう。唯一のライバルだとジンは言った。なら、ライバルでなくなった自分は、どうなるのだろうと。
「よ! なーに黄昏れてんだよ、そんなところで」
「ひっ!」
目の前に突然ジンのニヤついた顔が現れて、少女の喉から悲鳴が漏れる。飛び上がるようにして立ち上がり、バランスを崩してよろめいた。それに押されて少年が転がり落ちていく。
「いたたたた……」
身体のあちこちをジャンクにぶつけ、服も汚れてしまった少年を、飛び下りた少女が助け起こす。二人の視線が同時にジンを向き、半眼になって睨み付ける。そして怨嗟の声のハーモニー。
「脅かさないでよ!」
「ひひひひひ、してやったり」
さも嬉しそうにニヤニヤと笑うジン。シオンはなおも口を尖らせて続ける。
「いったいどうやって現れたのさ?」
「どうやってって……車で来て、ジャンクの山を登った。それだけ」
きょとんとした表情で答えるジンの指差す先には、確かに彼の車。それなりに距離がある。走行音が聞こえなくても不思議はない。しかし、ジンが目の前に来るまで気付かなかったというのが、シオンにとっては致命的だった。上ばかり見てはいたのだが。
(ボク、そんなにぼーっとしてたかな?)
ジンが敵でなくて良かったと思う。もし闇の傀儡遣いだったら、確実に殺られていた。
自分の迂闊さを恥じるとともに、ジンの能力に舌を巻いた。他の大会での実績を思い出す。隠密戦闘も得意な人間だった。RRC本戦は、正面切っての一対一の戦いしかないから、そのことをすっかり忘れていた。
「で、何の用?」
少女に汚れを叩き落としてもらいながら、少年が問う。ジンはくるりと振り返りながら言った。
「特に用はねーよ。ドクの店行こうとして通ったら、お前らが見えたから、挨拶に寄っただけ」
背中越しに手を振りながら、自分の車の方へと歩いていってしまう。
「ねえ、ちょっと」
ジンの背中に声をかけてしまってから、シオンはそれを後悔した。振り向いたジンが、不思議そうな顔でこちらを見ている。
(ジンに相談出来るわけない……何をやってるんだ、ボクは……)
本音を言えば、すべてを打ち明けてしまいたい。そして、どうすればいいのか、教えを請いたい。ジンならきっとベストな方法を考えてくれる。何故かそう思えてしまう。サユリから聞いた話のせいなのか、それとももっと別の何かのせいなのか、シオンにはわからない。
「なんだよ、用があるのならさっさと言えよ」
ジンに促されて、シオンは慌てて話題を探した。そして、単なる世間話として訊ねる。
「この間さ、史上最高賞金の大会の話してたよね? あれって、NBRジャパンカップってやつのこと?」
その問いに、ジンは明らかな喜色を浮かべた。引き返してきながら口を開く。
「お、お前も知ってたか。あれ賞金王争いからは除外すべきだよな。おかしいもの、金額」
「そ、そうだよね。キミはやっぱり出るの? 優勝まではしなくてもいいんだろうけど、上位の賞金もらっておかないと、誰かに抜かれちゃうんじゃない?」
ジンは突如加速し、ものすごい勢いで駆け寄ってきて、満面に笑みを浮かべながら言う。
「よし、祝いだ」
「は?」
少女と少年が、間の抜けた顔で同時に声を上げる。
「優勝祝いだ。オレかお前のどっちかが優勝で決まり。飯食いに行こうぜ」
「ちょっと待って、ボクまだ出るとは……」
「いいからいいから。安くて美味い店知ってんだ。……待て、やっぱり高くて美味い店だ」
ジンの視線は、きょとんとしている少女の方に向いていた。正確には、少女の服装。
「計画変更、デートにしよう。その恰好、そういうつもりだったんだろ? 似合ってるぜ、とても。夜景が綺麗で、洒落た内装の店も知ってんだ。高けーが味もいいから、そこにしよう。さささ、俺の車に乗って」
少女の背中をぐいぐいと押して、自分の車へと連れていこうとするジン。少年がその手に縋り付いて、引き留めようとする。
「なんでキミがボクの傀儡とデートに行くのさ!」
「バーカ、こんな美少女放っておいて、野郎とデート行けるかっつーの。オレにショタ趣味はない。大丈夫、代わりに俺が繋がってやるから、制御権寄越せ」
バシっと音がして、ジンが頬を押さえる。平手打ちを喰らわしたのは少女。蒼い瞳に怒りの炎を浮かべながら、自分より大分背の高いジンを下から睨め上げつつ叫ぶ。
「誰がキミなんかと繋がるか!」
それを見て、ジンはケラケラと笑う。
「それじゃあ、三角関係といこうか。流石にこっちには飯食う機能はついてないんだろ?」
「ついてるわけないじゃない」
少女も少年もジンを半眼で見上げながら、呆れたように言う。再び笑いながら、ジンは少年に視線を送って口を開いた。
「なら、代わりにお前の分驕ってやるよ」
「それって、ついてたらボクには驕ってくれないってこと? 傀儡に御馳走して、傀儡遣いの方は自腹とかわけわからない……」
少年が不満顔で零すと、ジンは身をかがめて少年の瞳を覗き込みながら言う。
「だーかーらー、美少女にならいくらでも驕るが、野郎には一円も出さないってことだよ」
(それなら一人で街に行って、ナンパでもしてくればいいのに……)
シオンの想いを知ってか知らずか、ジンは陽気に笑いながら少年を手招きする。
「ほら、お前も乗れ。特別に一緒に連れてってやる」
メインゲストが少女の方になっているのはとても気になるが、繋ごうとしてくるジンの手を払わせつつ、一緒に車に乗り込んだ。
全身擬似生体は、通常の食事を必要としない。脳に必要な栄養素は意外と限られている。摂取システムの効率も考えると、栄養パックからの補充が最も合理的。点滴のようなものとなる。
しかし、食事というのは単に栄養素補充の役目しかないわけではなく、人間の精神活動に影響する。そのため、人体とは構造が違うものの、食べ物を処理する特殊な機械を埋め込んで、食事が出来るようにする場合が多い。全身擬似生体自体の価格が高くなる上、無駄に食費がかかるので、付けていない人間も少なくはない。
シオンは自分で選んだわけではないが、目覚めた時の身体にドクが勝手に実装していた。その後一度ボディを取り換えることになったが、食事の感覚が味わえなくなるのは淋しかったので、無駄と思いつつも希望した。
今、その時の自分の選択に、大いに感謝している。確かに美味いのだ。ジンが連れてきてくれた店の料理は。おしゃれな内装というのも本当で、景色もいい。
「少しだけキミを見直したよ。公園でジャンクフードかと思ったんだけど」
さも嬉しそうに分厚い肉を切りながら、少年が感想を零した。少女が今にも涎の垂れそうな表情でそれを眺めている。唾液の分泌機構がついていれば、本当に垂れているかもしれない。
「俺が年間いくら稼いでると思ってんだよ? んなケチくせーことしねーよ」
口に食べ物を入れたまま答えるジンの言葉は、いまいち説得力がない。このマナーの悪さで、こういった店の常連なわけがない。
「そんなこと言って、普段はジャンクフードばかりなんでしょ?」
「ギクっ、ギクギクっ。……ま、まあ、最近は栄養バランスしっかりしてるやつも多いからな」
(やっぱりそうじゃない。似合わないんだよ、キミに、こういう店は)
その言葉は流石に失礼すぎるので、柔らかくジューシーな牛肉と共に飲み込んだ。
「そういや、さっきなんで黄昏れてたわけ?」
突然話題が戻り、シオンは少々考えてから答える。
「もう夏も終わりなんだなって、思っただけ。秋の雲が出てたから。積乱雲は一つもなくて、全部巻雲だった」
「移ろい易きは女心と秋の空ってか? 元々は男心だったらしいぜ」
「そうなの?」
初耳だった。一度すべての記憶を失い、それから再学習した故ではなかろう。確かに知らない物事が多すぎるが、女心と秋の空という表記は見たことがあっても、男心と秋の空というのは見覚えがない。
「昔、オレの妹が教えてくれたんだ。あいつもよくああやって空眺めてたよ。大抵なんか悩みがあるときだった。憂いを帯びた横顔が美しくてなあ……」
(また始まった、妹自慢……)
シオンの想いをよそに、ジンは語り続ける。食事の手を止め、遠くを見つめて、何かを思い出すようにして。
「ある時さ、普段ならもう仕事行ってる時間なのに、ぼーっと空眺めてたのさ。こりゃなんかあったな、と思って話聞いてみたらさ、会社の上司からパワハラ受けてるって言うんだよ。お前は才能ないとか、いても役に立たないから帰れとか言われるって」
よくある話だと思った。哀しい結末で終わりそうな気がして、シオンはそっとジンの表情を探る。そうだったら、聴覚デバイスを切ってしまおうかと考えながら。
「当然オレは上司のところへ殴り込み。そしたらさ、意図的にやってるって言うんだよ。辞めさせるために。どう思う、お前?」
「いや、どう思うもなにも、パワハラなんてみんなそういうものでしょ?」
「――と、考えるよな、普通は。俺もそうだった」
少女と少年の両方が瞬きをし、不審げにジンの顔を見つめる。何が言いたいのだろうか。
「だがなんかおかしいんだよ。悪いことしてるのに、それを自覚もしてるのに、やけに正々堂々としてる。理由を聞いても頑として答えない。仕方ないから、一旦家に帰ったんだ。で、お袋にその話をした」
「それで?」
「解決した」
「は?」
言っている意味がさっぱりわからない。何故それで解決するのか。ジンは得意げな顔に変わり、右手のフォークを振りながら先を続ける。
「主語が違ったんだよ。意図的って言葉の」
まだわからず、少女も少年も微妙な表情で瞬きを続ける。
「つまりはさ、お袋が頼んだことだったんだよ。俺もそう感じてたんだけどさ、妹には向いていないし危険な仕事だから、他の仕事に変えて欲しかったんだとさ。でも妹本人はすごくやりがい感じてしまってて、言っても聞き入れない。だから上司に相談して、辞めるよう誘導してもらったって話」
優しさ故のパワハラ。矛盾している。しかし、根底にそういう気持ちがあったのなら、それはもうパワハラとは言えないのかもしれない。それとも、やはり受け止める側の感じ方で定義すべきなのか。
「でも、解決したっていっても、それはキミの疑問だけだよね?」
「だーかーらー、オレが真相を知った時点で解決だろ? へったくそなやり方だよなあ。オレはもっとうまくやった。それで解決」
「……何をやったの?」
「妹に例え話をした。それで、遠回しに事情を伝えた。賢い奴だから、その話からお袋の気持ちと上司の意図に気付いてくれたみたいだ。後で上司から電話がかかってきたよ。何故か丁寧にお礼を言ってから辞めていった、って」
「ふーん、なんだか不思議な話」
そう他人事のように感想を漏らしながら、シオンは別のことを考えていた。
(もしかして、さっきのも意図的……?)
竜胆ロボティクスのサユリ。彼女はもしかして、シオンをあの大会に出場させたくないのかもしれない。しかし、上層部から出場を指示されていて、逆らえない。だから表向きは指示に従いつつも、出場したくなくなるような言い方を敢えて選んだ。
以前はもっと親身な女性だったのに、人が変わったように高圧的になっていたのは、本音を言えないため。隠したまま誘導するため。
(いや、ちょっと違うな……。それだと出場させたくない動機が、彼女本人に必要。特に思い当たらない。別に親しくもないんだから)
そうすると逆。出場させないよう指示が来ている。厳密には、出場しなかった場合の結果に持ち込みたい。つまり、竜胆はシオンをRRCから引退させたい。
(それもまだ違うか……)
ならば、最初から引退するよう指示するだけの話。そのためのプロセスまで既に用意していると、彼女は言っていた。そうすると、誰かの依頼で、出場の道を残してくれたと考えるべき。
シオンの中で、全てが繋がった。色々とひっくり返してみると、一本の綺麗な線になる。
(そうか、ドクが頼んだんだ……。ボクがRRCへの出場を続けられる道を選べるように)
元々RRCへの出場を勧めたのはドク。当時のシオンは、裏の世界でだけ生きていくつもりだった。ただ命令をこなすだけの、殺人機械のようにして。その方がいいと思っていた。記憶がない故か、苦ではなかった。表の世界への興味もなかった。
ドクの笑顔を思い出す。RRCに出場させたのは正解だったと言ったときの表情。とても幸せそうだった。人と触れ合えと言っていた。外に出ろと言っていた。
きっとドクが掛け合ったに違いない。シオンには歳の近い友達が必要だと、常々主張していた。学校へ通うという選択肢は、自分で潰してしまった。傀儡同伴で通うことは出来ない。だから代わりに、傀儡を連れて人と触れ合える場所、RRCをドクは選んだ。
竜胆は初めから、今回のような事態を想定していたのだろう。ドクにほだされて、今までは許容してくれていた。しかし、流石に限界となった。だから引退を決めた。それにドクが反対した。恐らく交換条件として、あのサユリとシオンのやり取りがあったのだろう。
(試されていたんだ、ボクは……)
あんなやり方をされてもなお、表の大会に出続けることを選ぶようであれば、竜胆はシオンの気持ちを認めてくれるということだろう。今後もリスクを冒して、使い続けてくれる。大会を通して、シオンが友達を作れるように。
思考を終えると、シオンは目の前のジンを見上げた。少女と少年両方の眼で、眩しそうにして。この気のいい友人は、まだ一人で喋りまくっている。既に話題は変わっているが、それでもやはり妹の話。どこまで妹が好きなのだろうと心配になる。
(あの話、受けよう。実際友達は出来たんだ。歳は近くないけど、間違いなく友達と言える。そのうち、もっと出来るかもしれない。今度は歳の近い友達が)
翌日シオンは、やってきたサユリに出場の意思を告げた。それを聞いた彼女の第一声は、『ドクター、あなたの勝ちのようですね』だった。
大会では彼女自ら出張ってきて、全面サポートしてくれるという。協賛しているのはすべてライバル企業。竜胆のイメージを損なおうと、逆に八百長を仕掛けてくるかもしれない。不正疑惑については、当然耳にしているはず。シオンを早い段階で負けさせられれば、それだけで強大なライバル企業を蹴落とせるのだから、やらない手はない。