第6話 足掻け、ガラン
ガランが集落を出て三ヶ月を過ぎた頃。山越えはいよいよ最終盤を迎えていた。
五日前、北西から東南方向に向かう緩やかな尾根を越えた時だ。正面からやや左、南方面に連なる稜線の先に僅かな平野部が見えるのを発見した。逸る気持ちを抑えて先へと進み、いくつかの山並みを越えてついに昨日、最後の山頂付近に到着していた。
「長かった……」
早朝。朝日に照らされる山裾の景色を見渡し、視線を左右何度も往復させて観察した。
「やっぱり間違いない。あの辺りが草原……かな。あそこまで出れたら、村か集落か……道でもなんでもいいや。何か見つかるかもしれないね」
次に目印になりそうなものを探す。しかしそう簡単に見つかるわけもなく、地形を把握することに思考を切り替える。
「えぇと、左は森……あ、切れ目があるから麓の森から一旦切れてっと……。えー……境目はずっとこっちに繫がって……」
ぶつぶつとつぶやきながら頭の中に入れていく。眼下の地形は、麓の森林は山沿いに緩やかにカーブを描きながら西まで続いている。ガランが想像した通り、麓の森は一旦切れ、草原が東南から南西までその幅を変えながら横切っている。先の森の奥行きまでは確認できない。
「あとは道順を……うん?」
草原の先にある森の中央付近から、細く立ち上る煙が見えた。
「煙だ!」
自然に発火した火災だったら燃え広がり、危険があるかもしれない。そうでないのなら、誰かが火を使っているはず。煙がどうなるか、広がるのか、すぐ消えてしまうのか。ガランはしばらく見守ることに決めた。周囲を警戒しながらもそわそわと落ち着かない。
半刻ほど待っただろうか。森の煙は太さを変えず細いまま立ち上っていた。
「きっと誰か、いる!」
それが偶然であったとしても、違う種族の可能性が高くとも今、恐らく森に人がいるのだ。
「あの森に行こう」
ガランは尾根を下る決断をした。食糧は無いが水は水袋に二つたっぷりある。一日二日食事を抜いたとしても、今まで何とかなってきた。
いつも通り警戒しながら麓へと下る。いつも通りのはずだった。
だが足元から地面が消える。
踏み出した左足は空を切った。
「あっ、しまっ――」
ズザザザザッ
滑落である。
ザザッ……ズザザザザザッ!
左半身を地面に擦り付けながら、滑り落ちる先に待ち受けてるものは――。
「ああぁぁぁ!」
崖であった。勾配がついているが、高い。
ガランは滑り落ちながらも勢いを殺そうと、必死に左手で岩を掴もうともがく。しかし腕が斜面に跳ね上げられ、まともに触ることすらできない。流れる景色の速度は早く、勢いは止まらない。ならばと腹ばいになり、右手のピッケルを突き立てようと試みた。
カカッ! カカカカッ……
「止まれ……止まって……」
ピッケルの剣先はかすかな窪みに跳ね上げられ、岩を削り取る。暴れるピッケルの柄を必死に掴み、手放さないようにするのが精一杯。崖下を見る余裕すらない。
カカカカッ!
「頼む、止まれぇ!」
カッ! カカカッ!……カッカカカカッ!
ガランは瞳を見開き、叫ぶ。
「うおおおおッ!」
――その時。
ギイィンッ!
ピッケルが崖の裂け目に食い込み、甲高い音を立てる。音と同時に右手から全身に走る衝撃。流れていた景色が止まる。
ガランはそこから、時間がゆっくりと流れる感覚に襲われた。
受け止めきれなかった滑落の勢いは、ピッケルの剣先を支点にガランの身体を浮かび上がらせた。無意識に視線が崖下に伸びる。地面が見えた。近い。恐らく高さは三メートルほど。
浮かび上がった身体は止まり、崖へと身体を戻そうとしている。左腕で身体をかばおうと左肘を曲げ、胸から腹を覆う。
ドンッ!
二度の衝撃には耐えられず、ガランの右手からピッケルの柄が抜けていく。今度は頭をかばおうと無意識に右手が後頭部を包み、右上腕が顔を横から覆い落下に備える。
ドシンッ!
三度目の衝撃と共に時間の流れが戻ってきた。
「かはっ……!」
背負子から伝わった衝撃で肺の空気が抜け出る。視界もグニャリと歪む。歯を食いしばりそれに耐え、懸命に息を吸い、焦点が合わない視線で崖上を睨む。ガランに遅れて砂利や土、ピッケルが削った岩の欠片がパラパラと降り注ぐ。
「クッ……」
ようやく霞んだ視界が焦点を取り戻す。視線の先に、想像以上の高さの崖と、その崖に突き立ったピッケルが見える。
「ッ……クソッ……オレは……なんてバカなことを……」
煙を発見し、自分以外の人間の存在に浮足立ち、注意がおろそかになっていた。その代償は大きく、全身に打撲と擦過傷を残し、ピッケルを一本失った。
ガランは全身に走る痛みに歯を食いしばって耐え、右手でベルトに差していた残り一本のピッケルを抜き取る。そのまま右側にピッケルの石突きを突き立て、立ち上がろうと上半身を起こすが、左半身の傷がひどいのか力が入らず、起き上がることができない。比較的痛みの少ない右足を立て、身体の左の地面にピッケルの剣先を引っ掛けると、そこを支点に体を捻りながら身体を傾け、うつ伏せになった。ようやく四つん這いになると、ピッケルを支えに、右手の腕力と右足のバネで立ち上がる。
「ぐううぅ……ぁぁあ!」
ふらつく頭もそのまま、自身が滑落してきた崖に背負子ごと背中を預け、ザックから水袋を取り出し喉を潤す。
ようやく呼吸も落ち着いたが、身体の状態を確認しなければならない。擦過傷だらけの両手に水をかけ血を洗い、何度か開いては握る。各関節も曲げ伸ばし、動きを確認する。左半身はかなり痛みが激しい。額に浮かんだ脂汗を手ぬぐいで拭くと痛みが走った。手ぬぐいを見れば血が付着していた。
「クソッ……!」
手ぬぐいに水を掛け、湿った部分で右から少しずつ顔を拭いては、血がついてないか確かめる。左こめかみ辺りと左頬にも擦過傷があるようだった。
「血の匂いをさせながら……森を抜けることになるなんて……」
苛立ちで血の滲んだ手ぬぐいを足元に叩きつける。しかしこうなってしまった以上、せめて麓の森と草原を抜けねばならない。
「クソッ……クソッ……」
ガランは何度も何度もピッケルの石突きで地面を叩く。
「爺ちゃん……」
思わずギュッとまぶたを閉じ、亡くなった祖父や爺さんたちの顔を思い浮かべてしまう。
『……ガラン』
『ガランよ』
『怒って上手くいくんなら、みーんな怒るわい』
――そうだ、怒って苛立った時に聞いた。
『普段でも上手くいかんのに、焦ったら余計上手くいかんじゃろ』
――失敗して、慌ててしまった時にも。
『しょぼくれとっても何も起きん。できることを精一杯やれ』
――うつむいて、泣き出しそうだった時だ。
『ワシらに追いつきたい? じゃあ足掻け、ガラン』
――そうだ、そう言われた。
「……そうだね。足掻かなきゃね。……爺ちゃんたちの孫だもんね」
まぶたを開いたそのブラウンの瞳には、新たな決意が宿っていた。いつもより動けないなら、いつもより注意深く、いつもより集中して警戒範囲を広げればいい。
「よし」
痛む左半身を庇いながら、ガランは進む。視界の遠く、森の緑よりも薄い緑が微かに、だが確かにある。視線を忙しく動かし、たまに振り返り、確認を怠らない。僅かな物音も聞き漏らすまいと耳を澄ます。
「……草原がゴールじゃないぞ。今度こそ、気を抜くな」
ガランはそう己に言い聞かせ、倒木を越える。草原との境がはっきり見えた。カサリと音が聞こえる。身構え視線を巡らす。右の上の方、揺れる枝があった。ヤマバトだ。
「大丈夫。平気だ」
つぶやきながらザックから水袋を取り出し一口飲む。素早く仕舞ってまた進む。
いくつもの木々を抜け、藪や茂みを避け、最短ルートを選んだお陰で草原はもう目前。しかし同じ失敗はもうできない。踏み出す前にピッケルで地面を突き、硬さを確かめる。
「よし、硬い……」
草原に出る前に、背後を追ってくるものがいないか入念に探る。チチチと小鳥の鳴き声が聞こえる。恐らく襲うような獣や大型の鳥はいないのだ。
「それでも気を抜くな、ガラン」
ひと呼吸入れ、草原に足を踏み込む。草はくるぶしほどの高さだ。ヘビが出ないとは限らない。慎重に足を進める。左足を引きずっているので、進むたびに草が倒れて道を作ってしまう。追うものがいれば格好の目印だ。
「クッ……! ――ううん、仕方ないね」
思わず泣き言をこぼしそうになったが、気持ちを切り替える。ズキズキとあちこちが痛むが集中は途切れない。
「いけるいける。……痛みは、生きてる証だよ」
自分を励まし、ピッケルを突き、草原を歩く。身を隠すものがない草原を早く抜けようと、懸命に森を目指す。
非情にも、自然の森には入り口など存在しない。茂みをピッケルで払い、自身で道を切り開きながら進む。動くたび、歩くたびに、ズキンズキンと鼓動のように痛みが全身に広がる。足を引きずっているからか呼吸も粗くなり、心なしか身体も熱い。
日はまだ中点。ザックから水袋を取り出し口に含む。水袋と入れ違いで手ぬぐいを取り出して汗を拭い、そのまま首にかけてピッケルを突き、歩く。
(あの辺りは歩きやすそう……かな。けど、身体が……重い!)
徐々に開けてきた木々を見ながら、ガランがそう思ったその時――。
「止まれ!」
声と同時に、ガランの足元に矢が突き立った。