第5話 アッシュの悩みと来訪者
口の中を猪の毛だらけにされるという、歯ブラシの洗礼を受けたロビンは、運搬の仕事に出かけていった。
ソウジュの里は大きく三つの地区に別れている。
農業地区が一番面積が広く、北東部から南部の農耕地エリアになっている。輪作で様々な農作物を育てているがムギやマメ類が多い。綿花や麻、アブラナやヒマワリなども季節に合わせた輪作で栽培している。
畜産地区が次に大きく、南部から北西部の放牧地を中心としたエリアだ。ここでは主に山羊と羊を飼っている。放牧地の周囲の柵は簡易的なものしか無いが、柵のすぐ外は密集した様々な低木が囲み、家畜の逃亡を防いでいる。更にその外側を囲うように、ここもまた様々な果樹が植樹されている。ロビンとアッシュが話していた、ツバキやオリーブはここで産出されたものだ。
最後は加工地区で、北西部から東北部のエリアに木工や鍛冶、皮の鞣しや紡織、縫製等の加工全般を担っている。また北の山林に近いことから、狩猟を担当する狩人もこの地区で暮らしている。
比較的若い、いわゆる見習いや、各地区で手の空いている者、まだ自分に合った仕事が見つからない者らが、収穫物や加工品の回収や運搬、使い走りなどをこなしている。幼い者にも何らかの手伝いをさせ、色々な場所で様々な仕事を経験させるシステムが出来上がっていた。
ロビンは革加工の見習い、アッシュは人数の多くない狩人志望だった。アッシュの母マリーは畜産地区で生活していたが、アッシュの希望が加工地区にあると聞き、従姉妹のリリアンに頼み、下宿させていた。リリアンはロビンの母であり、狩人のケビンはロビンの双子の兄である。
アッシュはロビンを見送ったあと、自身の寝間着を含めた洗い物を洗濯桶に入れ、共同井戸に向かった。
「あらアッシュ、おはよう」
「おはよう、今日は風が気持ちいいねー」
アッシュは井戸の洗い場を先に使っていた女性と挨拶を交わし、洗濯桶を洗い場の近くに置いて順番を待つ。
「丁度すすぎ終わったとこだから、ちょっと桶貸してくれたらすぐ空くけど……」
「どうぞどうぞ! こっちも助かるよ」
「じゃあ、お互い様ということで借りるわね」
アッシュは衣類を洗い場の端に置くと、空になった洗い桶を女性に渡す。女性は自分が洗っていた衣類を順繰りに握り込むように絞り、アッシュから借りた桶に入れていく。
「お待たせしたわね。お次、どうぞ」
女性は洗い場をアッシュに譲り、洗い場の横に据え付けてある道具で衣類の脱水に取り掛かった。上下に二つ並んだ丸太に衣類を挟み込み、ハンドルを回して絞る仕組みだ。絞り終わったら軽く上下に払って自分の桶に入れ、どんどん作業を進めていく。
アッシュは洗い場備え付けの桝を手に取り、枡の中に入ってる木ベラでグルグルとかき混ぜる。枡の中身は獣脂と灰汁、石灰で作られた石鹸だ。混ぜ上がったそれを木ベラで二振り洗い場の水に溶かし、枡を戻して泡立てる。
「その洗い物の量だと二振りじゃ足りないわ。もうひと振り入れてみて」
「そっか。ありがとう、そうする!」
アッシュは助言を聞いてもうひと振り石鹸を入れ、再度泡立てる。石鹸にほんの少しミントの精油が入れてあり、獣臭さは感じない。
アッシュはズボンの裾を膝上まで折り曲げ、サンダルの革紐を解いて裸足になると衣類を洗い場に入れ、ザブザブと踏み洗いを開始した。
「じゃあ私は行くわね。桶はここでいいかしら?」
女性は借りた桶を振って水気を払うと、脱水機の下に置いた。
「はーい。そこでいいよー」
女性はまたね、と挨拶して自分の洗濯桶を持ち上げ歩き出す。アッシュも手を振って見送った。
夏場は踏み洗いができるが、冬場はこうはいかない。水の量を減らし、平たい板を洗い物の上に乗せ、棒で押し込みながらの押し洗いになるので労力が増す。脱水だけは水を避けられない。冬場の水仕事は手のひらに、息を吹きかけ吹きかけ作業することになる。
アッシュは半刻ほどで洗濯を終え、洗い物も干し終えて自室に戻っていた。
「はぁ、めんどくさい人と会う時間がどんどん近づくなぁ」
藁箒で自室を掃き清め、廊下から食堂、最後は玄関へと、言葉とは裏腹に手早く掃除を進める。
「はぁ……」
もう何度目かわからぬため息をつき、食堂を抜け、箒を勝手口の横に立てかけた。
「先に水を汲んでおこう! そうだそうしよう!」
そのまま勝手口を出て、干しておいた水桶を手に井戸へと向かうが、水汲みなどすぐに終わる。最後の抵抗として洗面桶にも水を汲みに行ったが、三軒向こうの井戸までの二往復である。掛かった時間はたかが知れている。
「行くしか無いかぁ」
アッシュは勝手口のドアを閉め、玄関ドアから外に出る。鍵はない。
地区中央の道を南に向かってとぼとぼと歩いていく。途中いろんな作業所や屋外の作業場にいる、見知った人に手を上げ挨拶の合図を送る。
やがて右の一角に大きなレンガ煙突が見えてくる。火の工房だ。炭焼きや鍛冶、燻製、蒸留等、工程に中規模以上の火を扱う作業所が集まっている。火災防止のためだ。
火の工房は加工地区の地区長が責任者を努めており、地区外に出るときには声をかけていく決まりがあった。それは出入りの許可といった大げさなものではない。単に分配や用事がある時に、誰がどこにいるのかわかるようにしておく、といったものだ。
丁度その地区長が、工房の前で職人と話をしていた。
「こんにちは。えっと、ジローデン先――じゃない、ジローデン……地区長?」
「こんにちは、アッシュ。普通の挨拶でしたら先生でも構いませんよ。地区長としての仕事の時には地区長と、自警団の仕事なら団長と呼べばいいのです。さぁもう一度」
ジローデンは優しい微笑みを浮かべ、やり直しを命じる。
話は終わっていたのか、職人は右手を上げてアッシュに挨拶の合図を送ると、工房へと戻っていった。アッシュもそれに応えて右手を上げると、ジローデンに改めて挨拶を行う。
「こんにちは、ジローデン地区長」
「はい。良くできました」
アッシュはジローデンも少し苦手である。ジローデンはまだ里の外と交流があった頃、交易で里の外に出ていた時期があり、里に戻ってからも行商人との窓口担当を長く勤めていた。それはもう随分と昔の事である。
地区内の案内から仕事の説明や指導はもちろんのこと、数学や言語の造詣も深く、生真面目で面倒見が良い穏やかな性格で、皆から『先生』と呼ばれていた。里に蒸留設備を作ったのもジローデンであり、鍛冶の経験もある。今では次期長老候補の一人である。
加工地区に来る際、一番親身なってくれたジローデンに頭が上がらないアッシュである。
「それで今日は族長のところですか?」
「はい。たぶん今日もボクの……あ!」
無事挨拶ができたと気を抜いてしまい、アッシュは失言をしてしまった。当然ジローデンは聞き逃さず、その微笑みを深めた。
「アシュリーン」
「は、はい! ごめ……じゃない、すいません」
咎めるように本名を呼ばれ、アッシュは思わず背筋を伸ばす。
「正しくは『すいません』ではなく『すみません』ですが――それよりもアッシュ」
打って変わって優しげな声でジローデンは続ける。
「恐らく族長からも言われるでしょうけれど、『ボク』と呼ぶのはもうよしましょうね?」
「……はい」
アッシュはうなだれそうになったが、グッとこらえて返事をする。
「ではいってらっしゃい、アッシュ。族長に名を名乗るときは本名ですよ?」
ジローデンは優しくアッシュの肩を叩き、訪問を急ぐよう促した。
「わかりました、いってきます。帰りにまた声をかけます」
アッシュはそう言うとジローデンに手を振り、歩き始める。最初は前を向いていたが、徐々に頭が下がり、ついには俯いてしまい、足が止まった。
「仕方ないじゃないか……。ボクは……。ボクは、ボクなんだ」
アッシュは右腕の袖でぎゅっと目元を拭い、顔を上げた。
「族長の話も終わってないし、しょぼくれちゃだめだ」
つま先に力を込め、駆け出す。ダークプラチナの髪を置きざりにするかのように。髪をなびかせ、走る。
「ゆっくり歩けば時間が潰せたはずなのに、なんで走っちゃったんだろ」
アッシュは屋敷の玄関ドアの前で弾んだ呼吸を整えなら、後悔を口にしてしまう。気持ちを切り替えるようにフッとひと息入れ、ドアをノックした。
コンコンコン
「こんにちは。アシュリーン参りました」
しばらく待つとドアが開き、紺色のローブに身を包んだ女性がアッシュを迎える。
「うむ、よく来たアシュリーン。まずは中へ」
「はい。レンフィールド族長」
レンフィールドに招き入れられドアをくぐる。
「今日は誰もおらぬ。楽にしてよいぞ、アッシュ」
左右それぞれ十メートル、奥行二〇メートル程の広さがあるホールは災害時の避難場所を兼ねており、装飾品などは一切ない殺風景な場所である。いや、左右の奥、大きな跳ね上げ窓を上げれば、敷地内の果樹が彩りを見せるだろうか。
「私室の方が良いであろ?」
レンフィールドはローブを揺らし正面に四つあるドアのうち、一番右側のドアを揃えた指先で差す。
「はい」
既に先に向かい始めたレンフィールドを見て、アッシュは慌てて玄関のドアを閉めて後に続く。私室には何度か入ったことはあるが、残り三つの部屋には入ったことがなかった。会議用の部屋が二つと倉庫だとの話である。族長の家はまた別の場所にあるらしい。
「さ、中へ」
レンフィールドはドアを開けるとサッサと進み、机の奥の自分の席に座った。アッシュも入りドアを閉じる。
「早うこちらへ参れ」
ドアを閉めた途端に声がかかる。レンフィールドを見ると右手で手招きして机の前を指し示す。
アッシュは族長に会うたびに、会話の距離感が全くわからず、常にペースを乱されていた。アッシュがレンフィールドを苦手に思う理由のひとつでもある。
「それでな、アッシュ」
早い早い。まだ机の前に到着してないよ、と思いながら、アッシュは足を早めて机の前に急ぐ。レンフィールドはアッシュの様子を気にも止めず、言葉を続けた。
「我に子はおらぬが、我も女故にな。もし我が子が、我の知らぬ間に狩人となっておったら」
レンフィールドはそこで言葉を切り、アッシュをじっと見つめる。
「そなた『ボク』とは言わぬようなったか?」
急に話の内容が変わり、とっさにジローデンとのやり取りを正直に話してしまう。
「あ、いえ、さっき……えっと、先ほどジローデン先生に怒られました」
レンフィールドはフンと鼻でため息を漏らした。
「それで我より先に命を落としでもしたら」
「え?」
「狩人の話であろ?」
アッシュは話のペースがわからずあたふたするしかない。
「わからんやつよ。よい。結論を言うがアッシュ。母に会うてこい。母が善しと言うたならば考える」
「それは、えっと、母さんの許――」
「考えると申したであろ? なれるとは言うておらん。まずは母を説け」
被せ気味に遮られたが、アッシュに言えることはもう、ひとつしか無い。
「……はい」
「ん。ではな」
話は終わったとばかりにレンフィールドに視線を外れ、ゆっくり手の甲まで振られた。
「ありがとうございました」
アッシュは釈然としない思いを飲み込み、踵を返しドアを出る。玄関ドアの前で振り返り、もう一度声を掛ける。
「アシュリーン戻ります!」
玄関を出てドアを閉め、ようやくため息を付く。
「はぁ疲れた」
自宅の方角に戻りながらぶつぶつと独り言をつぶやく。
「なんだよ――楽にしていいって言ったのに全然楽にできないしさ。話し方も相変わらずよくわかんないし、急に話は変わるし。だいたいさ! こっちの話の途中で話し始めることないじゃん。絶対族長の方が『変わり者』だよ。ほんとめんどくさいったら……」
文句を言いつつ歩いてると視線の先に、火の工房を飛び出したジローデンの姿が見えた。
「ジローデン地区長〜! 今から戻りま〜す!」
アッシュは左手を口に当て、右腕を大きく振って大きな声で呼びかけた。
ジローデンは振り返り、アッシュを確認すると駆け寄ってきた。何事かとアッシュもジローデンに駆け寄る。
「丁度良かったですアッシュ。申し訳ないのですがコレを族長まで届けていただけますか?」
そう言って半分に折った紙を渡された。
「何かあったんですか?」
よく見ればジローデンは左手に槍を持っている。
「今は言えません。アッシュ、族長には団長からと伝えてください。中を見てはなりませんよ? 必ず団長からと伝えるのです。至急です。私も急ぎますのでお願いします」
アッシュが頷くとジローデンは振り返って北へと駆け出した。アッシュも振り返り、走り出す。屋敷のドアをドンドンと乱暴に叩き、勝手にドアを開け大声で呼びかける。
「アッシュです! ジローデン団長から至急の使いです! 入ります!」
返事も待たずホール内を走る。
レンフィールドの私室ドアをノックしようとした時、中からドアの扉が押された。
「何がありました?」
アッシュは一歩下がってドアが開くのを待ち、レンフィールドに答える。
「わかりません。至急だってこれを」
アッシュはジローデンからのメモをレンフィールドに渡した。
「少し待ちなさい」
レンフィールドはアッシュに背を向け、受け取ったメモを開きながら自席に座る。読み終わるとアッシュに視線を合わせる。
「アッシュ。北門のジローデンに伝言して。私が行くまで誰も通すなと。伝えたらあなたは家に戻りなさい。他言無用です。リリアン、ロビンにも話してはダメです。復唱して」
「北門のジローデン団長に、レンフィールド族長が行くまで誰も通すなと伝えて、家に帰ります。誰にも言いません」
「それでいいわ。じゃあ急いで。挨拶はいらないわ」
「はい!」
アッシュはドアを閉めると急いで玄関を抜け、北門へと駆け出した。
「――北の山から誰か来た……ねぇ」
レンフィールドはそうつぶやくと立ち上がり屋敷をあとにした。
アッシュは火の工房を通り過ぎたところで、息が切れてきたので少し走るペースを落していた。
「ハァハァ……槍を、持つなんて……ハァハァ……何が、あったんだろ……ハァ……ハァ……は?」
アッシュ何かに気付いて立ち止まる。
「族長って、普通に、しゃべれるんじゃん!」