第4話 エルフの里 —アッシュの作品—
一般的にエルフ族は、閉鎖的だが自然を愛し、自然と共に生きると言われている。
長寿であり、それ故に祖父から孫へ、時に五世代を超え、直接知識や文化を子孫に伝え、繋ぐ。それがエルフ最大の強みであり、事実、長く生きたエルフは総じて博識である。
しかしその知識も自然科学の究明までには至らない。理由は精霊の存在にあった。
精霊は『火水地風の四大元素』と呼ばれる力を、精霊自らが選んだ者に使わせることが可能である。選ばれた者だけとはいえ、精霊の力を借り、自然現象を操る者が眼の前にいれば、全ての自然現象を精霊の力と思い込むのも無理はない。
『全ての自然現象は無数に存在する精霊達の力であり、人々の命を脅かす自然災害や自然の猛威は、精霊達の怒りや暴走である』と信じて当然である。存在を知っているからこその精霊信仰であり、その信仰心の篤さ故に自然を大事にし、共に生きる種族なのだ。
しかしその閉鎖性は排他性に繋がるところもあり、他種族との交流は薄く、他国の情報は乏しくなり、そこに暮らす民達の世情にも疎かった。また精霊信仰が篤いがため、他の国や他の民族の信仰に否定的なエルフも極一部だが存在した。大多数のエルフは寛容的だが、閉鎖的な暮らしのせいでその声が届くことはなく、極一部の過激な声ばかりが悪目立ちし、結果として種族間交流の溝をさらに深めることとなった。
◇ ◇ ◇
まだ若いエルフ達の中には好奇心に溢れ、外の世界に強い憧れを持つ者もいた。
ソウジュに住むアッシュもその一人である。
コンコン
「アッシュ起きてるー?」
ドアをノックする音に遅れて、女性の声が聞こえる。
部屋の中に布を広げてそのまま床に座り込み、何やら作業をしていたらしいアッシュは手を止め、軽く太ももを払う。
「はーい、起きてるよー」
そう返事をして立ち上がると、もう一度腰や太ももを払って扉を開け、女性に挨拶をした。
「おはようロビン!」
ゆったりした生成りの綿シャツと、少し細めの若草色の綿ズボン、素足に革サンダルを身に着けた女性、ロビンも挨拶を返す。
「おはようアッシュ。……もしかして……また寝てないでしょ?」
ロビンはアッシュの顔を見て何か気付いたのか、両手を腰に当て、アッシュの体越しに右、左、と部屋の中を覗き込み、作業の痕跡が目に止まった。
「いや! お、遅くなったけどちゃんと寝たよ!」
慌ててアッシュは否定するが、ロビンは訝しむように眉間にシワを寄せた。少しそばかすのある顔をアッシュにグッと近づけ、少し視線を落として何かを見つける。
「毛、付いてるけど?」
アッシュが寝間着に使ってる生成りの膝丈ワンピースの胸元から、ひょいと毛をつまみ上げ、アッシュの眼の前に持ってくる。
「あ……! そ、それは、ベベベッドの上掛けに、つ、ついちゃってたのかなー。なんて、ね?」
アッシュは深い緑色の瞳を何度も瞬かせ、苦しい言い訳を口にした。ロビンの指先を見ていたためか、少し寄り目になっている。
ロビンは、猫のように目尻が少し上がったアッシュの瞳にもう一度目を合わせ、ため息と共に目を閉じると下を向いて首を左右に振った。
「はぁ……」
「ごめん……」
「まぁいいわ。それより着替えて!」
ロビンはアッシュ肩を軽く掴んで振り向かせ、背を押して部屋へ入ると扉を締めた。もちろんアッシュに否はない。アッシュは部屋を汚さないよう敷いていた布の上から、出来上がったであろう二つの作品を左手に握り、右手で毛を払い落とすと中身をこぼさないよう布の角をつまみ上げ、中身ごと四つに畳んで物書き机の上に布をのせた。
「朝食が終わったら掃除ね。……あと寝間着も洗濯」
両腕を組み、ロビンが宣言した。
「はぁい……」
アッシュは素直に頷き、完成した作品を畳んだ布の上に置いて衣装棚へ向かった。棚の前でワンピースの裾をたくし上げようとして、ふと振り向いてロビンに視線を合わせる。
「見ないわよ。もう、色気づいちゃって」
ロビンはアッシュに背を向け、布の上に置かれた作品を手に取る。
「ずいぶん小さいブラシね。すぐ折れそうじゃない?」
アッシュはワンピースをたくし上げて頭から抜くとこだったので返事はしない。脱いだワンピースをぽんと床に放り、衣装棚からロビンと同じ生成りの綿シャツを掴むと、背中に流れた髪ごとシャツに袖を通した。袖は七分丈である。
ボタンを閉じる前に両手をうなじに差し込み、髪を持ち上げ背中から抜く。長さは背の真ん中あたり。
アッシュは自身のその、くすんだ銀のような、ダークプラチナの髪色があまり好きではなかった。ダークグリーンの瞳の色もそうで、幼い頃からずっと、髪も瞳も黒だったらいいのにと思っていた。黒髪黒目の持ち主など里には一人もいないのに。
シャツと同じく、ズボンも一番上のものを選びもせず掴んで履く。これも生成りで七分丈、かなり細めであるが、色はシャツより少し濃い。腰紐を結びシャツの裾は出す。シャツの丈が長めなので尻がすっぽり隠れる。ベッドに腰掛け、脱いでおいた革サンダルを履き、革紐を結びながらここでようやくロビンに返事をした。
「それ、多分そんなに力入れて使わないと思うし、大丈夫だと思うんだ〜」
「ふーん。そうなのね」
ロビンは興味なさげに作品を布の上に戻した。
「それより髪ぐらい梳かしなさいよ。やったげるから背中伸ばして」
ロビンは机の上にあった平櫛を手に取るとベッドを回り込み、ベッドに膝立ちになると、アッシュの髪を梳かしはじめる。
「ありがと」
「櫛もこれ、手入れしてないでしょ。オリーブは無理にしてもヒマワリでも塗り込まないと、ささくれて髪傷めるわよ? 私のお勧めはツバキだけどね」
「油はヒマワリでいいや。ツバキもオリーブも少ししか取れないし。だったらお姉さん達に使ってもらった方がいいと思うなー。それにヒマワリは、作業中につまみ食いしても怒られないしね!」
「炒ったヒマワリの種は私も好きだわ。量が取れるから秋までは結構回ってくるし。満腹になるほど食べたくはならないけど。――よし、まぁこんなもんでしょ」
「ありがと」
アッシュは改めて礼を言い、ロビンも立ち上がってドアに向かう。
「ロビンの髪、サラサラで綺麗だね」
ロビンはドアを開いたまま首だけ振り向くと、自慢げに手の甲でその金髪をかき上げる。サラサラと流れる髪は確かに美しかった。
「ふっふーん。お姉さんの色気が羨ましいか」
「さてご飯だ、ご飯」
アッシュはそそくさと立ち上がり、ワンピースと作品を抱え、ロビンの横を滑り抜けた。スタスタと食堂に向かう。
「ちょっと! んもう、ちゃんと顔洗ってきてね」
部屋のドアを閉めるとロビンも慌てて追いかける。
アッシュは勝手口に向かい一旦外に出ると、洗い場の洗濯桶にワンピースを放り込み、勝手口を開けたまま向かいの台所を覗き込んだ。
「おばさんおはよう。水もう大丈夫?」
「おはようアッシュ。お願いするわ。あと何回も言うけどおばさんじゃなくてお姉さんよ、お・ね・え・さ・ん。お姉様でもいいわ」
「……このやり取り、まだするの?」
「アッシュが私のことお姉さんと呼ぶまではね」
「母さん、毎回思うけどやっぱりちょっとイタいよ?」
アッシュと母、リリアンのやり取りにロビンも口を出す。
「あなたも母さんじゃなくて、姉さんと呼べって言ってるでしょ」
「……このやり取りもまだするのね。――疲れる」
がっくりとうなだれるロビンであったが立ち直りも早かった。
「とにかく。スープ運ぶわ」
鍋の蓋の上にスープ皿を三枚重ねて乗せ、まとめて台所と向かい合わせの食堂に運ぶ。食器類は全て木製である。
アッシュも台所の奥からバケツのような水桶を両手で柄杓ごと持ち上げ、洗い場まで運ぶ。洗い場の洗面桶をざっと洗って水を満たし、水桶に残った水で柄杓を洗い、最後に水桶自体も洗って日当たりのいい場所に干す。洗面桶の水は家族全員が顔と口をすすいだら、残りで食器を洗う決まりになっている。夕方から使う分の水を近くの共同井戸まで汲みに行くのはアッシュの仕事である。
アッシュは洗い場にかけてある手ぬぐいを首にかけると顔を洗い、軽く口をすすいで顔と手を拭く。手ぬぐいはもちろん毎日交換するが、個人で使い分けるほど余裕はない。洗濯も大変なのだ。
食堂に戻ると既に支度ができており、器に盛ったスープの香りが鼻をくすぐる。干し肉を出汁代わりに入れてあるのはいつものことで、今回は黒猪のようだ。もちろん先日仕留めたものではない。風味が増すよう脂身も入れてあり、黄色い脂が水玉のように浮かんでいる。具は、出汁が出てあまり旨味は残っていない干し肉とイモ、人参、刻んだ人参の葉、水で戻した干し豆。特に豆はゴロゴロと入っている。タンパク源としてよく食されており、朝の主役と言ってもいい。
味付けは塩だが、ローリエやタイム、パセリにセロリなど、お馴染みの香草が入っており、薄味だが物足りなさは感じない。時には山椒や柑橘の皮も入れられ、その配分がいわゆるその家の味となる。
「祈りを……」
リリアンが静かに告げる。祈りは静かに目を閉じるだけ。手を合わせたり指を組んだりはしない。
「では召し上がれ」
「ありがとうございます」
色々なものへ感謝しありがとうと言葉に出す。シンプルだ。
そして基本、忙しい朝の食事中に会話はしない。温かいスープは温かいうちに皆で食べきる、同席した相手への配慮も大切なマナーだ。
アッシュはこの家の味が大好きだった。前日から水に浸し、朝、しっかりと指を立てかき混ぜることで、歯ざわりが良くない薄皮を取り除いてから煮込んだその豆は柔らかだ。
スプーンで掬って口に入れ、唇で挟んで中のものを口に残そうと押し上げた舌と上顎だけで程よく潰れるその感触。そして口に広がる甘みと少しの塩気。咀嚼すればあっという間に溶け、喉の奥に落ちていきながらも脂の旨味が口に残る。
イモはまた柔らかく舌の上で崩れ、咀嚼を必要とせず、しかし人参は舌で潰されぬ存在感を保ち、噛めば豆より甘く、咀嚼できる楽しみを生む。
人参の葉も個性的だ。舌に歯に口内にと、ここにいるぞと主張し、噛めばいよいよそのほろ苦さと歯応えでアクセントを添える。
うん美味しい。
アッシュはゆっくり味わいつつ、冷めないうちにとスープを飲み進め、そして最後の一口を飲み干すと満足気にスプーンを置いた。
「美味しかった。ありがとうございました」
感謝を口にし、そして皆が食べ終わるのを待つ。席を立ったり話しかけたりはしない。それもマナーのひとつ。
「私も美味しかったよ。ありがとうございました」
ロビンも感謝を口にし、テーブルの上のヤカンから全員のカップに白湯を入れてやる。カップも木製だ。
ここでようやく今日の確認が始まる。
「お姉様はいつも通りだけど、ロビンは今日運搬よね? 鞣し革は箱に詰めてるはずだけど、わからなかったら声かけて」
「置き場はいつもの場所でしょ? わかるけど持ち出す時に声はかけてくね。アッシュは洗濯終わったら族長のとこね」
「また怒られる気がするけど……。がんばるよ……」
アッシュは天敵の顔を思い浮かべて苦笑いである。
「じゃあ行ってくるわ。片付け、お願いね」
「いってらっしゃい」
二人でリリアンを見送り、ロビンは食器を、アッシュは鍋を持って洗い場へ向かい食器を下ろす。
「そうだこれ、試してみる?」
アッシュは作品を両手に持ち、片方をロビンに渡す。
「いいけど……どう使うの?」
「こうだよ!」
アッシュは作品を口に入れ、前後に動かす。
「なるほどね。楊枝の代わりってこういうことね」
「ほうほう! ホビンもふぁってひて」
二人は揃って作品を動かす。なぜか揃って左手は腰だ。しばらく手を動かしていたが、ロビンの顔が徐々に険しくなってきた。遅れてアッシュも眉間にシワを寄せる。
そして動きを止め見つめ合う二人。ほぼ同時に歯ブラシを洗い場に置くと、先を争い水で口をすすぐ。何度かすすいだあと、ロビンはこうつぶやいた。
「抜け毛がひどい」