第3話 星空の下
ガランが集落を出ておよそ二ヶ月。北部の短い夏の盛りも過ぎようとしていた。
ガランが持つ食糧は、塩漬け肉の樽ひとつを残すのみとなっていた。保存が効くとはいえ、風通しの悪いザックの中に入れたままだったのが災いした。干し肉は劣化し始め、廃棄するぐらいならと食べ終えたのは十日ほど前だったか。
この調子では塩漬け肉も危ない。どうせなら安全が確保できる場所で景気良く食べきると割り切り、ガランは尾根を下っていた。
「塩さえ残ってればなんとかなるよねっと。あぁでも罠をもう少し増やせればなぁ……」
独り言をつぶやきながらも警戒ができるくらいには、山に馴染んできた。本人にその自覚がないため、過信に至っていないのは幸いか。視界に動くものがあれば、すぐさま立ち止まり身を伏せる。視線だけでなく周囲の音にも注意し、一点に集中しすぎないように視線は止めない。
ルート選択も変化が見られた。落葉が積もって地面が見えない場所は避け、幹が斜めに生えている場所は迂回する。落葉で隠れた枝や窪みに足を取られたり、土が流されたような急斜面になっていたりと、何度も転んで身体で覚えた。お陰でローブも随分くたびれてきた。
魔物も数回目撃していた。知識がないガランの憶測だが、鹿を喰らう猪のような魔物を見た時は、恐怖で足が竦みそうになった。鹿は大きな角を持つ雄の成獣だったのだ。屍肉を喰らっていたのかもしれないが、いくら雑食とはいえ、普通の猪が死骸を喰わねばならぬほどウルラス山脈の恵みは乏しくない。鹿を喰うならドワーフだって喰われる。そう思うと寝床の偽装にも力を割くようになっていた。
そして歩くこと数時間。そろそろ寝床を探そうと、身を寄せる岩場か斜面の窪みを探していたとき、水が流れる音に気付いた。
ガランは立ち止まり、あちこち視線を向け警戒を続けながら耳を澄ます。
「右側っぽいかな。……行ってみよう」
進路はやや右へ、と意識しながらも、ルート選択はしっかりやる。慌てなくとも水場は逃げないのだ。五十メートルほど下っただろうか。前方の視界に入る樹木が少なくなってきた。その先は急斜面か、岩場の可能性がある。滑落しないよう、慎重にルートを見極め足場を確認しながら下る。視界にくっきりと、今進んでいる地面と遠くの山との境界を捉えた。よく見れば境界の手前側は土が薄くなりゴツゴツとした石が顔を覗かせている。
ガランは境界近くの太い幹の木を選び、しがみついたまま下方をのぞき見た。
「綺麗だ……!」
思わず感嘆の声を漏らすほどの絶景であった。眼を瞠るのは視界の右奥、高さ五十メートルほどの滝である。斜面上の沢から流れ出たその水は、複数の岩を縫うように流れ、やがて一筋の流れとなると大岩にぶつかり、勢いよく空へ飛び出し地上へと落ちる。
滝壺は視認範囲で直径約五メートル。そこから溢れた水は幅を狭めながら長さ三十メートルほどの沢となり、左手奥へと消えていく。
眼下はやはり岩場で、高さは十五メートル程あるが無理せず下りられるほどの勾配だ。岩場直下は大岩も転がっているが、沢に進むほど小さくなり河原の様相を呈していた。雪解けの季節には水の勢いが増し、沢幅が広がるのだろう。
沢の奥も岩場だが、奥行きまでは崖の上からだと判断できない。
「……降りて確かめるしかないってことだね」
ガランは早速降りるルートを決め、後ろ向きに降りようとして思い留まる。
「おっと。隠れる用の枝が下になかったら、めんどくさくなるとこだった」
ピッケルの平刃で近くの枝を十本ばかり切り落とし、どんどんと下へ落として、今度こそと岩場を降りる。
「やった! 潜り込めそうなとこは結構多そう」
早速寝床を確保すべく周囲を物色しながら河原を歩く。水の音がガランの心を和ませる。滝壺周辺からくまなく歩き回り、この場所は大きな窪地であると確認ができた。東側の沢近くを除き、岩場の崖に覆われているのだ。昔はもっと大きな滝だったのかもしれない、と思いを馳せる。
岩や石だらけなので獣の足跡は見られないが、ガランが下ってきた岩場が一番低く緩やかだった。滑落でもしない限りは恐らくここに獣は来られない、とガランは判断した。
数カ所ほど崖に裂け目を発見し、運良く一番大きな裂け目が一番安全そうに見えた。東側の沢までは若干遠く、滝壺からは一番離れた場所だ。
ガランは寝床をそこに決め、ようやく背負子を降ろして大きい方の鍋を取り出し、背負子は寝床に突っ込んだ。高さこそ屈まねばならないが、幅は一メートル超、奥行きは二メートル以上あった。地面は平らではないが尖った部分もなく、許容範囲内。今まで使ってきた寝床の中で断然一番良い寝床だ。
ザックから手ぬぐいで包んだ塩漬け肉の樽を取り出し、握り拳一個分ほどの肉を取り出す。もうひとつ入ってるがさすがに多すぎる。
「良かった、平気そう!」
ナイフの背で塩をこそぎ落とし、なるべく塩は樽に戻す。岩塩は塊ごと布に包んでザックに入れてあるが、『塩は大事にしろ』という祖父の教えを守っている。
「よし、塩抜きだ」
久しぶりの塩漬け肉に浮かれたのか、足取りも軽やかに沢に向かう。滝壺に向かいかけたが、滝をあまり汚しては良くない気がして、東側の沢で肉を洗う。沢の水は岩場を通ったからかとても澄んでいる。鍋に水を汲み、肉を入れておく。半刻もすれば塩が抜けるはずだ。
ガランはその綺麗な水を見て、このまま水浴びをしてしまおうかと悩んだ。しかし日が沈むには早いが、まだ火も起していない。幸い付近に流木もあるし薪には困らないだろう。ここ数日はずっと晴れていたのか、充分乾いてる。
ガランは火起こし優先と判断して水浴びは諦め、顔と手だけ洗って寝床に鍋を置いた。薪と、先ほど落とした偽装用の葉付きの枝を集めに行く。枯れ枝や落葉が縞模様を描く様に堆積してる場所もあり、増水時の水の多さを物語っている。
充分な量の薪を確保でき、ガランは寝床の入口周辺を整理に取り掛かった。大小の岩や石を取り除き、三メートル四方の焚き火スペースを確保する。火口を落とす場所に枯れ葉と折った細い枯れ枝を積み上げ、それを囲うように円錐状に細い枝を組み上げる。
そこまで準備できたら背負子から二十センチ程の棒と、中央に長い溝がついた板切れを取り出した。板を地面に置いて棒の先を強く押し付けながら、溝に沿って何度も前後に擦り付ける。スライド式の火起こし法だ。摩擦で板の繊維がほぐれ、摩擦熱によってそれが火口となる。
ふうふうと息で火口を熾らせ、積み上げた枯れ葉に落としてさらに息を吹きかける。細く白い煙が立つと、ポッと落葉が燃え始めた。組み上げた枝が燃え尽きる前に、少しずつ太い枝を焚べて火を育てていく。さすがドワーフ族。火の扱いには長けていた。
パチパチと薪から音が聞こえたら、火が安定した合図だ。火力が強くなった焚き火から生木の枝に火を移し、燃えるその生木を寝床に差し込む。生木が燃えると煙が立つ。その煙と熱を利用して寝床の虫達を追い出すのだ。
そうこうしているうちに日が傾き、西の空を茜に染める。山に阻まれて日は見えないが、もう半刻もすれば日は沈んでしまうだろう。
その茜空に望郷を誘われたが、暗くなる前に食事だ。塩抜き中の肉の鍋を持ち、一旦水を捨てると沢に行き、軽く洗った手頃な平たい石の上で肉を切る。半分は薄く削ぎ切りにして塩スープにし、スープの半分は明日の朝食にする。
焚き火に戻り、周りに石のかまどを組んで削ぎ肉入りの鍋を火にかけ、残り半分の肉は背負子から取り出した鉄串を二本打つ。時に薪を焚べながら、遠火でじっくり肉を炙る。
空を見上げてみれば、気の早い明るい星を先頭に、星たちが姿を現し始めていた。
炙った肉の表面は徐々に香ばしく色付き、脂身には泡が立ち始める。滴った脂が火に落ち、ジュウという音に一拍遅れて届いたその匂いで意図せず腹が鳴った。これが不味い訳が無い。
まずは焼けてきた脂身をナイフで削いで、そのまま口に入れる。火傷しそうなほど熱いが、はふはふと口内で跳ねさせ、頃合いをみて噛みしめる。ジュワっと染みてきた脂身の甘さと熱さに、はふはふしながらも咀嚼が止まらない。
「うーーーーーんめぇ!」
ガランは思わず両手を突き上げ、天を見上げる。満天の星の瞬きがその美味さに同意を表しているようだ。
炙っては焼けた部分をどんどん削ぎ落とし、喰っては身悶えするガラン。二ヶ月という期間は、奇跡的な熟成を生んだのかもしれない。
今度はザックから岩塩を取り出し、振りかけて食べる。漬かった塩とはまた違うミネラルの風味。これもまた美味であった。
「きっとこれが『酒が飲みたくなる味』なんだろね」
爺さんたちの顔がまぶたに浮かぶ。
串焼き肉を食べ終えれば締めのスープだ。全部飲みきってしまわないよう、ザックからカップを出し肉を多めに半分に分ける。カップの分が翌朝用だ。
鍋に口を当て、直接ひと口飲む。
「はぁ……落ち着く……」
肉の出汁と脂の旨味。ほんのり塩味が、口内に残っていた濃い肉の味を優しい味へと上書きしていく。行儀など気にせずスープを直飲みし、久しぶりのゆったりした時間を過ごす。滝が叩く水の音も心地良かった。
「ここに住んでも良いかもって思っちゃうよねー。……食糧無いけど」
最後のひと口を飲み干し、寝る準備に取り掛かる。翌朝用のカップを横に置き、使ってた鍋をひっくり返して被せたら重しでいくつか石を置く。寝床に放り込んでおいた生木の枝を取り出して、ざっと床を払ったら敷物の毛皮を出して敷く。背負子の網を掛け直して、偽装用の葉付きの枝を差し込めば準備完了である。窪みで寝るときも基本は同じで、うずくまるか横になるかの違いしか無い。
少し離れた場所で用を済まし、焚火の火を崩す。土があれば土を、なければ石を掛けておく。
寝床に入り、横になったら背負子をずらし蓋にして、いつものように背負子の肩紐に左腕を引っ掛けて、腕を枕にまぶたを閉じた。
翌朝。ガランは結局、ここでもう一日過ごすことにした。緊張状態から一時的に開放されたからなのか、いつもの時間に目覚めても眠り足りない気がして、心身の疲れを実感したからだ。そうと決めたらやることをやってゆっくりしたい。
朝食後すぐ食器類、手ぬぐいや下履きなど衣類を東側の沢で洗い、大岩の上に広げて干した。
そしていよいよ念願の水浴びだ。洗濯の段階からもうすでに素っ裸である。日は昇っているがまだこの窪地にまで届いておらず、日が差すのを待っていた。西側の斜面をゆっくり照らしながら降りてくる日差しを目で追い、そろそろ滝壺に日が差すなと、手ぬぐいを掴み、滝壺に歩みを進めたその途中。
ふと滝を見上げれば、そこに虹がかかっていた。
「うわぁ……」
ガランはしばし、見入ってしまった。数瞬で我に返り、慌てて警戒しながら滝壺に入る。
膝まで進んだところで座り込み、両手で水を掬って顔、頭と洗っていく。筋肉の凝りをほぐすように上半身を洗い、下半身へと手を進めたとき、何気なく滝壺の底を見ると、青や緑の石が混じっているのに気付いた。ひとつ持ち上げて観察すると、濃い紫色でなかなかきれいな石である。
「何かの鉱石? 宝石かなぁ。ちょっと拾ってみよう」
下半身を洗いながら、空いた方の手で気になった石を次々に拾っては水際に投げていく。
「黒いやつもある。黒曜石ってやつかな?」
ガランが持ち上げた手のひらサイズの黒い石。それはまさに黒曜石だった。
「すっごい! ピッカピカだ!」
これも水際に投げる。気になる石はだいたい拾い終え、身体も冷えてきたので石を手拭いで包むと寝床へと戻ることにした。
「よく見れば結構あちこちに落ちてる。……色付きは珍しい石じゃないのかな?」
足元を見れば、色付いた石が落ちていた。それらも拾いながら戻る。滝壺で拾った石は色は大体濃い青か紫、緑っぽいのが少々。断面だけ紫のもの、表面のところどこが青く輝いてるものと様々である。途中で拾った石は小さいが全体が一色だ。しかし光にかざしても透き通ってるようには見えない。
「宝石じゃなくても綺麗だし、細工物に使えるかも」
新しい手ぬぐいで五十個ほど拾った大小様々な石をグルグル包み、すっかり軽くなったザックに押し込む。
「さぁ、今日はゆっくりするぞー」
素っ裸でそう宣言するガランの頭に『原石』という言葉は浮かばないのであった。