第1話 ガランとアッシュ
初夏。
朝の光が射す家にガランはひとり、いた。
「さて。最後の準備、しなきゃね」
そう呟くと手にしていた板を胸元に仕舞った。テーブルの上には手のひらに乗る程の小さな小箱と背負子が乗っている。ガランは小箱を丁寧に持ち上げると椅子の上に乗り、背負子の一番上に布で縛り付けると全体に網をかけた。爺さんたちが準備してくれていた旅の荷物は身の丈の半分を超えていた。
「おっと。鍋、鍋!」
椅子から飛び降り、台所から昨夜洗って乾かしておいた大小二つの鍋を持ってくる。また椅子に登って背負子の網を外し、二つ重ねて小箱に蓋をする形で被せた。
「景色は見えないけどいいよね?」
網を被せ直し、ついでとばかりに鍋底を軽く叩く。カツンと音はするものの、もちろん返事など帰ってこない。
ガランはまたも椅子から飛び降りると、幅のある革ベルトを手に取った。着ている革ベストの前を開いてベルトを腹巻のように腰に巻く。ベストもベルトも見様見真似で作ったもの。作ったガラン自身が悲しく思うほどの出来の悪さ。しかし無いよりはマシだ。
腹に巻いたベルトにはホルダー代わりに通した鉄の輪が二つ。そこに、鞘にフックを付けたナイフ二本を引っ掛ける。フックが簡単に外れないことは数日前にも確かめておいたが、改めて身体を揺すり、鞘を引っ張って確かめる。
「うん。大丈夫そう」
軽く頷くとベストの革紐を軽く締め、薄手のフードローブを頭から被る。
「案外髪が短いと楽かも」
髪はずっと伸ばしていたが、旅の始まりの前にバッサリと切り、自分で毛先を揃えた。
「編んでないと怒られたっけ」
身嗜みにうるさい爺さんたちを思い出して少し微笑む。ローブの首元を整えて最後の食糧や塩、食器を入れたザックをたすき掛けすれば準備完了である。
ガランは改めて部屋の中を眺めた。
台所に続く扉。
南向きの窓。
三つの椅子。
火が消えた鍛冶場。
昨日までに部屋中掃除して、大事な物は全部、皆が『寝床』と呼んだ氷室の中に仕舞ってある。
「さてっと!」
テーブルの上の背負子を背負い、背負子の下を通した布を腰に巻き付け、縛る。荷の半分以上は衣類や防水布で、敷物代わりの毛皮も入れてある。他にはハンマーと金床、ノミやタガネの道具類や形見だけ。といっても荷物全部を合わせれば人ひとり背負ってるのと変わらない。
玄関に置いていた、ピッケル二本を纏めて左手に持って外に出る。もう振り返るつもりはない家の扉を後ろ手に締めて、辺りを見渡した。
爺さんたちと暮らした見慣れた景色。
しかし見慣れない景色でもあった。
常緑を誇っていた霊樹が枯れた。
ガランは瞳を閉じると服の上からそっと胸に手を当て、仕舞った板の感触を確かめる。祖父の言葉を思い出していた。
『竜脈が枯れ、霊樹も枯れる』
『山を越えて隣国へ。そして同胞を探して秘伝を学べ』
『ガラン。ワシは、ワシらはいつでも傍に居るぞ』
ガランは、瞳を開いてそびえ立つ山脈を見据え、山越えの一歩を踏み出した。旅の始まりであった。
まずは目の前、セミュエン王国の国境でもある大ウルラス山脈を越え、遥か遠い隣国、シベル王国まで行かねばならない。同胞を探し、そして秘伝を得るまで旅は終わらない。
「――あ! 水汲むの忘れてた!」
慌てて共用井戸に戻るガランのその姿はまるで、旅の前途多難さを物語っているかのようだった。
◇ ◇ ◇
晩夏。
ガランが目指すシベル王国辺境のとある場所にひとりのエルフの少女が居た。
「むぅ〜! 重たーい!」
少女は二メートル程の高さに組んだ丸太に引っ掛けたロープを下から引っ張っている。
「無理すんなよ、アッシュ。交代すっか?」
きしむ足場を支えつつ、仕留めた黒猪を吊り上げやすいように後ろ脚を持ち上げていた青年がそう提案する。吊り上げるのは血抜きのためだ。
「絶対ボクひとりで吊るす!」
顔を真っ赤にしながら、必死の形相でロープを引っ張る少女、アッシュ。彼女は時折『変わり者』と呼ばれる少女であった。
「ぐぬぬぬ。――これで……どうだぁ!」
ゆっくりではあったが、なんとか黒猪を吊り上げ、ロープの端を逆側の木に縛り付けるとそのまま座り込んだ。
「はい、お疲れー。あ、穴も掘ってね」
青年はロープが解けないよう結び目を確認して、近くに置いてあるクワを指差した。
「ちょっと休憩……」
「ダメダメ。早くしねーと血が回って味が落ちるの。はい、さっさとやる」
「こんの、鬼! 畜生! 鬼畜! しかもなんでクワなの!?」
乏しい語彙力で青年を貶しながらもアッシュは穴を掘り始める。が、吊られた猪の体が邪魔で少しずつしか掘れていない。
そんなアッシュを見ながら青年が衝撃の発言をした。
「そうそう。先に穴掘ってから猪の頭を穴にぶっ込んで、そっから吊るした方が楽だし早いね。次からそうしたらいい」
「はぁあああ?」
アッシュは青年の顔を殺意を持って見つめる。
「なんで先に言わないんだよ〜!」
「まぁ、言う前にロープ結んで引っ張ってたし? 頑張るなぁと思って」
「そっかボクのせいか〜――とはならないからね!」
アッシュの文句に青年は肩を竦める。
「おー怖っ。てかまたちょいちょい『ボク』って出てるけど――あ、次は首半分切ってね。ほい」
言いながら青年は腰からナイフを鞘ごと外し、アッシュに向けて放り投げた。
「危なっ!」
アッシュはクワを放り出し、慌ててナイフを避ける。
「何やってんだよ。そんくらいじゃ抜けねーし。アッシュもクワ投げてんじゃん。そっちのが危ねーよ」
アッシュは足元のナイフを拾って鞘から抜いてみた。
「確かにしっかり収まってるけど! パッと見じゃ収まり具合なんてわかんないじゃん!」
アッシュは文句を言いながらも黒猪の喉元にナイフを突き入れ、左右耳元まで切り裂いた。
「猪は頬肉も美味ーから、なるべく血は回んねー方がいいぞ?」
アッシュは確かにと頷き、黒猪の鼻を支えに持ち上げることにした。
「そっか。でもずっと持ってるの大変だねこれ」
「いやー、普通は枝か何か顎の下あたりにぶっ刺して支える」
またしても衝撃の発言。青年を睨むアッシュ。
「だ〜か〜ら〜! 先に言ってよね!」
「仕方ねーじゃん。俺、教えるの下手だし? あ、いや、ほんとごめん、もう睨むのやめて。ちょ、怖いから、わかった! 枝取ってくるから!」
青年は今度こそ殺気を感じ、両手のひらを胸の前で小刻みに振りつつ辺りを見渡す。丁度良さそうな二股の枝が見つかり、手に取ると黒猪の頭を支えるように突き刺した。
「ま、後は休憩しながらだな。一応血の匂いで獣が寄ってこないとは限らないから気ぃ抜くなー」
「そだね。ナイフだけ洗っとくよ」
アッシュは足場近くに置いていた水の革袋を取り出して、血抜き用の穴の上でナイフを洗う。手ぬぐいで丁寧に水気を拭き取ってから鞘に入れ、青年に手渡した。
「はいこれ。ちょっと錆出てるから、研いで手入れしたほうがいいかも」
「あぁ、今夜にでも手入れしようと思ってたんだ。それより、なんで革なんて欲しいんだ? 順番待ちきれないほど困ってねーよな?」
アッシュはニヤリと嬉しそうに笑い、バシバシと青年の肩を叩いた。
「いやー思いついちゃって!」
「その癖もやめろ! 痛ーよ、バカ!」
青年は叩かれた肩を大袈裟に擦る。
「毛は普通さ、ブラシにして毛皮の手入れとかに使うじゃん? それをさ、柔らかいとこだけ長さを揃えてカットしてから束ねてさ。たぶん腹の毛が良さそうかな。で、その毛先の部分を――指二本分くらいかなぁ。それを小指くらいの太さの棒に付けてさ。挟むような感じで? まぁそこは作りながら調整するけど」
「また始まった」
青年は両手を腰に当てて一瞬空を見上げたが、警戒の途中と思い直す。アッシュはそれを気にもせず、時に顎に指を当て、時に腕を組みつつ話を進める。
「ボクの想像だと、今まで使ってたクサヤナギで作った楊枝より良いと思うんだよね、歯を洗うのは。だいたいあれすぐ駄目になるし、何より不衛生な気がするんだよ! 歯に使うブラシで歯ブラシなんてどう? ボク天才? あと毛以外は――」
「わかったわかった。何言ってるかわからんけど、わかんねーのが良ーくわかった」
青年はお手上げとばかりに話を打ち切る。
「ま、いいや。色々試したいってことだよ!」
そう言ってアッシュはニッコリと微笑んだ。
青年はその笑顔に呆れてしまい、里に続く道へと視線を移しながらつぶやく。
「まったく変わり者だよアッシュは」
丁度その時、里から男女四人が歩いてくるのが見えた。
「お待たせー」
「じゃあ運ぶ準備すっか」
「はーい!」
六人は、二本の細めの丸太に黒猪の脚を縛り付ける者、足場を解体し穴を埋める者とに別れ、程なくして作業を終える。
「歯ブラシ、イケると思うんだよね」
そうつぶやいたアッシュの頬を風が撫でる。風を追うように振り向いた瞳には美しいウルラス山脈が映っていた。運命の出会いは間もなくであった。