愚かな聖女の物語
その国の神は、いつもただ一人の女性だけを愛した。
どうして一人だけしか愛さないのか、どういった基準で愛する人を決めるのか、なぜ女性だけなのか。神ならぬ人に窺い知る術はない。
分かっているのはただ、神に愛された女性が存在するという事実。そして、神に愛された女性は神から万能の能力をあたえられるということ。
その女性が神に愛された印――両の手のひらに浮き出た星型の痣を組み合わせて祈ると、すべての願いが叶えられる。
しかも痣を人に向けてかざすと、相手が抱えている望みを感じ取ることすらできた。
神に愛された女性はほとんどが慈愛に溢れた人物であり、己の特別な力で人々の望みを叶えることを至上の望みとしていた。
そのため人々は神に愛された女性を「聖女」と呼び、敬った。
国も聖女を手厚く保護した。
民の望みを叶えながら憂いなく暮らすことができるよう、宮殿を用意し、何不自由なく暮らせるだけの財産を与え、使用人を侍らせた。
聖女は宮殿で暮らしながら、訪れた人々の望みを叶え、富と栄誉を得て、国中を笑顔にしていた。
だが残念なことに、道を踏み外す聖女も存在する。
あまりに万能の力を持つため己が神であると錯覚してしまい、人である事実を忘れてしまうのだ。
万能の力に驕って民を虐げ、権力をほしいままにする。
今代の聖女、ルシエラはそんな『愚かな聖女』だった。
ルシエラの悪辣ぶりに対抗するものの、神の力を行使する彼女の前に人々は苦戦を強いられる。
しかし、現れた一人の英雄の下、ようやく人々は活路を見いだした。
聖女の妨害を跳ねのけた英雄は、ついに宮殿へと乗り込んだ。
ルシエラの命は風前の灯火だった。
* * *
聖女の宮殿の一番奥。
さんさんと光が降り注ぐ聖堂は、いつもならば願いを叶えてもらう大勢の人で列になっているが、今はたった二人しかいない。
「そろそろのようね」
虚空へかざしていた両手を下ろしながらルシエラが呟くと、すぐ傍ではもう一人の声がする。
「あとどのくらいなのですか、ルシエラ様」
「そうね。あなたが淹れてくれるお茶が完全に冷めてしまうよりも、ずっとずっと短い時間だわ、メリッサ」
「……本当にこれで良いのですか」
「いいのよ。だって私には、皆の望みが分かるのだもの」
ルシエラは民を虐げ、権力をほしいままにする『愚かな聖女』。
だが、そんな日々長くは続かない。ある日、蜂起した民によって討たれるのだ。
万能の力など持たなくてもいい。
人々が手を取り合えば神に愛された聖女にだって決して負けることは無い。
ルシエラの死こそがその証拠だ。
くす、とルシエラは笑う。
聖女とは、幾万の人の中からたった一人神に選ばれた特別な存在だ。
人々は聖女の持つ万能の力で望みを叶えてもらうために、ありがたいと頭を下げ、神に愛された僥倖を、容姿の美しさを、心根の優しさを、褒め称えて崇め奉る。
だが実は、心の底で不満に思っている。
なぜ自分がその特別になれなかったのかと。
神々に愛されたのが、自分ではなかったのかと。
だからこそ人々は、特別な存在である聖女が高潔であることを望みながら、その一方で特別さを過信して力に溺れ、堕落して不幸になることも望んでいることを、聖女であるルシエラは知っていた。
驕った聖女が出たのは今を遡ること300年前。
民はそろそろ『茶番』を欲している。
ルシエラがそれに気づいたのは昨年のことだ。
以降のルシエラは民に対して恩恵ではなく恐怖を与えた。
怒りを爆発させた民が「英雄」と呼ぶ男の下で蜂起したのは3か月前のことだった。
「私の死は、民の望み。私は民のため死ななくてはいけないの」
ルシエラの呟きに答えは無かった。
もうじき英雄がこの聖堂に来てルシエラを討つ。もちろん、きちんと討たれてみせる。
それが民の望みなのだから。
聖女ルシエラの人生は22年で終わる。
死は怖くない。
いや、本当は怖いのかもしれない。
だが、怖くない理由がある。
「メリッサ」
名を呼んで、ルシエラは己の侍女へ向き直った。
艶やかな長い髪を結った同い年のメリッサは、こんな時でも侍女のための黒い衣装だ。
まだ未来もあるのだから、外へ逃げるため町娘の格好をした方が良いとルシエラは言ったのだが、メリッサは頑なに首を横に振った。
「私はルシエラ様のものです」
彼女がそう言い切ることは分かっていた。ルシエラは微笑んで言う。
「ありがとう、メリッサ」
この侍女は、願いを叶えてもらう人々の列の中にいた
一目見て、どうしても目が離せなくなった少女。
どうしても彼女を傍に置きたいと思った。
「神よ、私の願いをお聞き届けください」
ルシエラは神に願った。
たった一度、己の欲を叶えるために。
おかげでメリッサは今もなお横にいる。
彼女の名を呼ぶたび、そしてそれに答えがあるたび、ルシエラは広くて狭い宮殿の中で幸せを感じることができた。
それは、今も。
「メリッサ。私と一緒にいてくれてありがとう」
「当然です、ルシエラ様。私はあなたの傍近くにお仕えする者なのですから」
メリッサが微笑む。彼女の瞳は美しい青だ。いつもは空の色のようだと思っていたが、涙をいっぱいにためている今、彼女の瞳は森深くにある湖のようだとルシエラは思う。
もっとも、生まれてすぐ宮殿へ連れてこられてから外へ出たことの無いルシエラは、そんな光景を絵か本でしかみたことがないのだけれど。
「さあ、メリッサ。もうこの関係は終わりよ」
実を言えば、最期まで傍にいて欲しい。だが、このままではメリッサも英雄との戦闘に巻き込まれてしまう。彼女のことを考えるのならば今ここで解放するべきだ。
未練を断ち切るようにして目を閉じ、両の手を合わせてルシエラは神に祈りを捧げる
――メリッサが私から解放され、己の思いのままに行けますように。
「……さようなら。愛しい私のメリッサ」
* * *
扉の方へ歩んでいくルシエラの後ろ姿を、メリッサはじっと見ていた。
ルシエラに仕えていた者たちはとうにいない。
1年前にルシエラが変貌して以降、少しずつ使用人は去って行き、先月からはこの広い宮殿に二人きりとなっていた。
束の間ではあったが、二人だけで過ごすこの時間がどれだけメリッサにとって幸せだったか。彼女にはきっと分からないだろう。
聖女ルシエラ。
後の世には「民を虐げ、権力をほしいままにする『愚かな聖女』」として語り継がれるはずの女性。
何と悲しいことだろう、とメリッサは思う。
万能の力を持ちながらも、ルシエラは自分のために神の力を使ったことなど、一度もないというのに。
凛とした空気を纏いながら歩く後ろ姿は、広い空間に降り注ぐ光に照らされて、こんな時でさえ見惚れるほどに美しい。
その背で揺れる長い黄金の髪を、今日この日、最後に梳ったのはメリッサだ。
華奢な体に良く合う白の衣装を最後に着せつけたのもメリッサ。
別れの言葉を述べた唇へ最後に紅を引いたのもメリッサ。
――では、最後に彼女と一緒にいるのは誰?
メリッサは懐から短剣を取り出す。鞘をその場に捨てると、ルシエラの後ろ姿を追って短い距離を駆けた。
このあと、ルシエラは聖堂に来た英雄と相まみえる。
英雄は聖女を倒しに来た。もちろんルシエラはそれを分かっている。聖女は最期に英雄と対峙し、抵抗らしい抵抗をしないまま胸を刺し貫かれるのだ。彼を真の英雄と呼ばせるために。民の、英雄の、望みを叶えるために。
床に倒れ伏す聖女と、見下ろす英雄。二人の幻を見たような気がして、メリッサは悲鳴をかみ殺す。まだ、大丈夫。まだ、間に合う。
「ルシエラ様!」
振り返った緑の瞳が自分の姿を映した。メリッサは短剣を自分の首に押し当てて引く。体から勢いよく吹きだすものは、ずっと秘めていた自分の想いのような気がした。
辺り一帯と、目を見開くルシエラが赤く染まる様子を見ながら、メリッサは血に濡れた短剣を聖女の胸に突き立てる。力の抜ける体を抱きしめながらメリッサも膝をついた。
愛しい人の体を物のように床に転がしたりしない。一人で逝かせたりしない。ましてや、彼女の本当の最後を勝手に入り込んできた輩に渡すなど。
これで、最後の最後までルシエラを支え、共に居るのはメリッサだ。
満ち足りた気分で微笑み、メリッサは聖女の耳元で囁く。
「あいして、います。ルシエラ」
12歳の時、運よく『聖女に望みを述べる者』として選ばれたメリッサは、今居るこの聖堂でルシエラの姿を目にした途端に心奪われた。
いったい何を願おうと思ってここへ来たのか、今となってはもう思い出せない。メリッサは激しい思いのまま、新たな願いだけを強く思ったのだ。
(どうか、私に恋をして)
メリッサの望みは叶えられた。おかげでメリッサは10年の間、愛しいルシエラの近くに居続けることができた。
つまるところ恋をしたのはメリッサであり、ルシエラの思いはただのまやかしでしかないのだ。
だからこそ今のメリッサの心には不安もあった。英雄に討たれる計画を台無しにされて、ルシエラは何を思い、どんな顔をしているのだろうかと。
怒っているのか。それとも泣いているのか。
ルシエラを抱きしめているメリッサは、大事な聖女の顔が見えない。いや、例え見える位置にあったとしても、メリッサの視界はもう暗くなってしまって何も見ることができない。
心の中で「ごめんなさい」と呟いたその時だった。
メリッサは自分の背に柔らかい腕が回されるのを感じた。
嫌がるわけでもなく、押しのけるでもなく。
聖女の本質である「慈愛」を体現するかのように、優しく抱きしめてくれる腕を。
頬を伝う涙と共に、たった一つ残っていたメリッサの心の闇が消えゆく。
――これでもう、なんの悔いもない。
* * *
聖堂の扉を開けた英雄は、予想もしなかった状況を目にして硬直した。
吐き出されるムッとする臭いの原因となっているのは夥しい量の血。その色は床も、周囲に置いてある椅子も、机も、もちろん自身が開けたばかりの扉も染めている。
だが、英雄の目を奪ったのはそれらの凄惨な光景ではない。中央にいる二人の娘だ。
彼女たちは着ているものも、髪も、顔すらも赤く染めながら、無上の喜びに巡り合ったかのような顔で微笑み、座って抱き合ったまま事切れている。
天からの光に照らされたその光景は、『愚かな聖女』のものだと分かっていても目が離せないほどに神聖で、とてもとても、美しかった。