親ガチャSSR
『お父さんが倒れて――』
そんな電話を受け取った研究者は、すぐには無理だと答えた。
大切なプレゼンがある。にくいあいつをコテンパンにするいい機会だ。きっと大きな転換点になる。うまくいけば主任研究員――いやもっとその上だって目指せるはずだ。
「帰らなくていいの?」
妻の問いかけに、研究者は首を振った。そういう時期じゃない。帰って何をする。収入を考えれば、結局働くしかないではないか。
男の言葉に妻は黙った。ただ、その隣に立っている彼の息子の、じっと見つめてくる眼差しには重みがあった。
なんだ、と男は問いかける。息子は答えない。
すまないとだけ言い添えて、男は電話を切った。
なんだ、なんだ。研究者は歩きながら、事態を反芻した。
雨が降っている。買ったばかりのレザーコートは良く雨をはじいた。
彼は特待生だった。どこの学校からの招かれた。高等学校もそうだ。一流の教授の下で学び、一流の大企業への推薦状。全ては彼の才覚が手繰り寄せた糸である。始終夜中にカエルが鳴くような、車がなければどこにも行けない、何もない家に生まれここまで登ってきた。道はまだ半ばだ。今日のプレゼンは大きな分水嶺となるだろう。この時のために準備した。高額な試料も上司におべっかを使って取り寄せた。何十時間、何百時間と積み重ねてきたのだ。それを、かもしれないで棒に振るなどあってはならない。
やがて研究者は駅に近づき、人影が増えてきた。それに飲まれるうち、そういうもやもやした思考から抜け出した。男は電車に揺られながら、戦略を練った。こう話そう、こう返そう、こう主張しよう。考えていくうちに会社に近づき、気分が高揚していくのが分かった。何も変わらない職場のように見えるがそうではない。鉄火場だ。男は一層気を引き締め、そしてプレゼンは成功に終わった。
成功にはさらなる職務が付きまとう。
来週には海外に行ってもらう、来月には重要なポストの引継ぎをしてもらう。再来月は国際的な発表会だ。
何回繰り返したかは分からない。いつか分からないうちに父は死んでいた。
妻が急死したのも、男には思い出せなかった。
あっという間だった。葬儀をした記憶がないから、きっと息子がしたのだろう。いや待て挨拶をしたことだけは覚えている。○○商事の役員や、××化研の所長や、そうそうたる弔問客だった。長々といかに妻が優しかったか、いかに恵まれた家庭だったか、いかに悲しいかを力説した記憶があった。それから数夜を経て、仏壇に妻の写真がおかれると、とたんに体が動かなくなった。
思考もまとまらない。手足が鉛のように微動だにしない。立ち上がりはできるが、息をしているのか定かではなかった。
息子とは連絡も取れなくなっていた。事務的な連絡はたまには来るが、年月を重ねていくにつれ、回数は減っていった。
大きな屋敷を買った。結局、役員にはなれなかったが、それでも大したものだ。退職金やパテントで、周りがうらやむ一等地に、これだけの屋敷を建てられたのだから。けれど、使用人は誰も雇わなかった。雇う気が起きなかった。
誇示するべき屋敷が、大きなかごへと姿を変えていく。ただのかごではない。薄暗く、寂れていて、生物の息吹を感じない。周りの人間は誰が住んでいるのだろうと噂をして、最後は何が居ついているのだろうと思うようになった。
やがてニュース目的でしかつけなかったテレビを永く見るようになって――それから記憶がなかった。
小さな箱があった。
それはどうもプラスティックで作られている様子で、中が透けて見える。中には透明なカプセルが入っていて、目を凝らすと中をうかがい知ることができた。
それは男と女だ。女はどうも妊娠している様子だった。一組の夫妻を俯瞰している。研究者は一層目を凝らしたが、詳細が分かるか否かの時点で、
『個人情報保護法によって保護されています』
と脳裏に浮かび、それ以上は分からなかった。
どうも個人を特定できる情報は見えないらしかった。
それよりもここはどこだろう。研究者は周囲を見渡したが分からない。ただ近くに、それでいて届かない場所に彼以外の人間が立っていた。
隣人はうつろな眼差しで、研究者と同じような小箱を前に一心不乱にレバーを回している。
研究者は何をしているのかと尋ねた。
隣人はうっとおしそうに男を見やると、
「次に生まれる親を見繕っている」
と据えた声で荒っぽく答えた。
「ずっと繰り返している。良い両親がいない。今度は、今度こそは素晴らしい両親の下に生まれたい」
と続けた。
気が付くと、隣人は彼だけではなかった。研究者の周りには、彼のように小さな箱に向かって、ぶつぶつと小言を漏らしている人間が無数にいた。もし彼の視力が無限遠であったなら、無限人の隣人を見つけられただろう。
果たして、研究者は事態を把握し始めていた。彼はブディストだったから、これがいわゆる輪廻転生の一つなのだと推察した。
違っているとすれば、眉をこれでもかと眉間に寄せて、笏をふるう裁判官がいないことくらいか。鏡もなければ裁きもない。善か悪かを詰責されることもない。天国もなければ地獄もない。罪もなければ罰もない。解脱できるほどの徳もない。死とはこんなものか、と研究者は思った。なんにせよ、自分も選ばなければならない。
幸いなことに、一度選べば変えられないという様子ではなかった。隣人を見るに、自分が納得するまで両親を選べるのだろう。
しかし、とも思う。隣人の様子を見るに、延々と繰り返していても何もかもが最高の両親には巡り合いそうもない。
ここはひとつ、基準を設けて選ぶべきではないか。
研究者は隣人と同様にレバーを回した。すると一つのカプセルが箱から排出された。
カプセルの中を凝視すると、個人情報保護法に抵触しない程度には、夫妻のおかれた状況をうかがい知ることができた。
なんてことはない夫妻だった。裕福ではない。どちらかというと貧しい部類だ。どこにでもいる夫妻だ。これでは面白くない。
確率に任せて両親を選ぶなんてもってのほかだった。
何かないのかと研究者は考え、どうか裕福な家庭の夫妻よ来い、と念じながらレバーを回した。前回と同じくカプセルが排出される。覗き込む。世界でも指折りの資産家のようだった。次に絶世の美男美女の夫妻よ来い、と念じた。出てきたのは果たして、一流のモデル同士の夫妻だった。
研究者だけかは分からないが、この箱は使用者の意思を反映するらしかった。
なんだ、なんだと研究者は苦笑した。こんなのは簡単ではないか。
研究者は「俺が生まれるべき最高の家庭」と念じてレバーを回したが……カプセルは出てこなかった。
試しに「俺が生まれるべきではない、最低の家庭」と念じて回したが、こちらはレバーすら回せない。どうも具体的な願いでなければだめらしい。
そうなってくると先ほどの苦笑も早合点になってくる。
研究者は何十年ぶりに頭を使った。
天才の父か母を持つ夫妻はどうか。辺鄙な生まれの自分であっても、大成といえるくらいにはなれたのだ。初めから賢い両親の下に生まれれば、世界的な賞を受賞することも夢ではない。何回か回し、ううむと唸る。悪くはないが、良くもない。豊かであることはまれだったし、二人の関係は冷え切っているか、片方が隷属的だった。いや中にはそうではない両親もいたが……どうも納得いかない。
それでは資産家で続けてみよう。良い。とても良い。無事に成長できるだろうし、十二分な教育環境も与えてくれる。ただなんというか、自分には合わない気がした。これまで自身の頭脳で上り詰めてきた彼だったから、何もしていない時分にちやほやされるのは何か違うと感じたのかもしれない。
美男美女はどうか。悪くはないのだが、良くはなかった。両親には双方に離婚歴があり、すぐに一家離散することは目に見えている。
血統ではどうだろう。王族や貴族のような生まれには憧れる。資産家に付加される要素であろう。これも悪くないが……ひどい責務だ。両親もそうだし、他の親族もそうだ。立派足りえるよう、息の詰まるような生活を求められている。そうでなければ他者が認めないのだろう。慣れてしまえばなんてことはないかも知れないが、今の彼には耐えられるか疑わしかった。
何回、何十回、何百回とレバーを回す。そのたび中を確認し、何か違うと次を回す。これでは隣人を笑えない。欲求には果てがない。
何かが違う。何が違う。研究者は熟考した。これまで出てきた夫妻の方々は、誰もが憧れる立派な御仁たちだ。彼らは完成されていて、自分が入り込める様子がない。彼らは出産を喜んではいるが、自分を求めている訳ではないのではないか。そこまで考えて、研究者の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
愛。
愛、愛か。
悪くはないかも知れない。
富めようと貧しかろうと、賢かろうと愚かだろうと、美しかろうと醜かろうと、偉かろうと偉くなかろうと、前提として自分の生まれを祝って貰わねばならない。憎まれながら生まれるなんてあってはならないし、家系の一部としてぞんざいに扱われることも望ましくない。生まれてくるからには、「ぜひ、うちに!」ともろ手を挙げて喜んでくれる家庭であるべきだ。そうであれば、わざわざ生まれる甲斐もあるというもの。
「俺を一番愛してくれる家庭」と念じ、研究者はレバーを回した。
レバーは回ったが……カプセルは出てこなかった。
何度も何度も回したが、一向に出てくる様子はない。研究者は慌てた。世の中には、俺の生まれを一番愛してくれる家庭はないのか。
試しに「俺を二番目に愛してくれる家庭」と念じてみると、幸か不幸か問題なくカプセルは出てきた。
研究者はいぶかしがった。一番がダメで二番目がオーケーな理由は何だろう。
カプセルを覗き込んでみる。裕福ではない。どちらかというと貧しい部類の家庭だった。
研究者はふと思い出して、懐にしまっていたひとつのカプセルを取り出した。
それは研究者が最初に手に入れたカプセルで、平々凡々としていてつまらないと感じた夫妻のものだった。不思議で奇妙な感じだった。どうしてそう感じたカプセルを懐に忍ばせていたのか。一番目と二番目の家庭を並べて比べる。段違いだった。一番目のものは、まるで太陽の輝きのように男の誕生を願っている。
男は恥じ入った。
生まれてやろうとは何なのか。生まれる甲斐があるとは何なのか。
これがいい。これでなくてはだめだ。これ以外は考えられなかった。
男は強くカプセルを握りしめた――
――どこかでカエルの鳴き声がした。
『お父さんが倒れて――』
男はその知らせを、夢の中でのように聞いていた。永い夢を見ていたような気がする。それとも夢ではなかったのかもしれない。
「そうか。分かった。すぐ行く」
通話を切って、別の場所にかけた。
「父が危篤なので休みをいただきます。しばらく。はい、そうです、辞退します」
男は妻と子に向き直り、「支度してくれ」と頼んだ。
「良いの?」
と妻は尋ねた。男は頷き、
「くだらない仕事だ。車を出す」
と言った。
助手席に妻を、後部座席に息子を座らせる。
バックミラーに、外をぼんやりと眺める息子が見えた。窓ガラスを伝う雨粒でも数えているのかもしれない。どれも同じに見えるが、息子はきっとどれか一粒の軌跡をたどっている。
男はふと思った。
お前も、俺を選んでくれたのか。
途中までは普通に書いていたのですが、途中から最後まで書かなければという気持ちで書くようになりました。ぜひご感想などいただければ幸いです。