壱
一般市民にもなっていない戸籍無しの立場はつらい。
【竜騎士見習い】になることを余儀なくされたわけだが、これ程の書類が必要になるとは…。
戸籍無しのままでは、この王宮に住むには都合が悪いとのことで後見人として今この場にいる王太子殿下がなるという。フルネームも覚えきれていないのにいいのか、とか、何もこんな借金持ちの平民の後見人にならなくても、といろいろ考え、はじめは遠慮していたのだが、彼のにこやかな笑みの前では意味はなさなかった。
後見人の地位が破格すぎるから、諸々の手続きが増えている可能性も大いにあるが、波風を立たさず素早くさばくべき書類に向かう。
この世界の言語が読めるようになっていて良かった、と心底思う。同時に書けるようになっていたことには驚いたが。
この世界に来て名前を書くことなんてなかったから、ふと頭の中に出てきた文字に疑問符を飛ばし呆然としていた。
傍らに移動していた竜のお兄さんに「名前、書けるか」と訊ねられ素直に首を横に振った。
ぶっきらぼうでわかりづらいが、心配してくれたのだろうか。意外と気が利く人だ、と思っていたらサラサラ、とそこら辺にあった紙で私の名前らしきものを書いた。
え、それ書いてもいい紙ですか?と心の中でツッコみつつも、しげしげと文字列を見る。
今、頭の中で浮かんでいる文字列と全く一緒だった。
「そういえば私、竜のお兄さんに名前教えましたっけ?」
「“紫紺の竜”が言ってた」
―――あ、やっぱり言ってなかったんだ。
居住まいを正し、今まで話していた目の前の人たちに向き直る。
「お世話になっているのに大変失礼しました。―――…、レナと、言います」
変に間が空いたことに竜のお兄さんや王太子殿下(金の竜の主である夫さんは数分前に席を外している)は、不思議に思わなかったようだが、内心で愕然とする。
(苗字が、出てこなかった…)
この世界に落ちた時はまだ記憶に残っていたのに。いつの間にか消えていたことが信じられなかったが、ふと闇の中で見た光を思い出した。
(そうか。“あの時”に消えちゃったんだ…)
この世界を選んだことによって変わったことがあるのかもしれない。思い至るものがあれば、惜しい気持ちはあるものの諦めがついた。
「なんだ、改まって…」
「私は初めて知ったよ。これからよろしく」
王太子殿下は名前も知らない人の後見人になると言ったのか、ヤバいな。と思いつつ「よろしくお願いします」と頭を下げ直す。
気を取り直して、先程書いてもらった文字列を見ながら名前を書いていく。
あまりにもたどたどしかったからか、あらかたの書類の記入を終えたあと、書記のテストをされた。
文字は読めても書けない人はやはり一定数いるらしい。必要最低限のこと(名前やあいうえお表のようなもの)をその場で教えてもらった。
王太子殿下の執務室でやることではないだろうに、やたらと親身にあれこれ教えてもらった。
「ふむ、見たことのない文字だね。似たような文字は見たことがあるのだけれど…」
やはり日本は存在していないようだ。ちなみにどんな文字ですか、と問えば達筆な文字を見せられた。漢詩だった。
【桃之夭夭】
(みずみずしい桃よ)
「……桃、お好きなんですか?」
「え、読めるのかい?」
「読めたというより、文字を眺めてたら意味がふわっと頭の中に浮かんだ、みたいな。すみません、漢詩の知識がなくて読み方はわかりません」
なんだこれ、桃の…ようよう?てんてん?いやでも【天】ではないのはなんとなくわかる。すぐに調べてスッキリさせたい、と思ったがあいにく手元にスマホなんてなく…。いやもう目の前の人に聞いちゃえ、と開き直って尋ねたものの、まさかの沈黙で返された。
「……。『ちなみに“赤紫の竜”の名前は?』」
「?」
なんとも形容しがたいが、先程までの話し言葉との違和感に首を傾げる。
「『“あのこ”の名前はあくまでも仮のものだから、あなた方が好きに呼んでも構わないと思う』」
「!?」
驚愕の表情でこちらを見つめる二人に、敬語使うの忘れてた、と言ってから気づく。しかし、数時間前までその調子であったからここまであからさまに驚くことでもないな、と考え直し、二人の出方を伺う。
「―――これは、すごいな。エレイェンが欲しがるかもしれないな」
「ご愁傷様なこって」
今、とても不穏なことを聞いた気がする。
「すまない、つい試すようなことをした。どうやら君は他の言語も扱えるらしい」
「?」
「先程のは隣国のアウル語だ。しかも、現在はあまり使われていない古い言い回しだったのだが、君はなんなく答えてしまったね」
「……」
私自身は、日本語しか喋っていない。口元の違和感とかないのだろうか。これが異世界からのオプションかな、なんて言おうものなら別の方向へ興味をもたれてしまうことは容易に想像できた。藪をつつくことはしない方が身のためである。
むしろこのおかげで旅ができたと言っても過言ではない。ありがたや、と軽く考えていたが、彼らが感心しているように、他の国の人とも難なく会話できることを考えたら貴重な能力である。
「翻訳家になった方がよかった…?」
「ちなみになんて言ったんだ?」
どうやら竜のお兄さんは今の会話は分からなかったらしい。殿下独断の試し行動だったようで、自分の最大のボケは綺麗に流された。もしかしたらこの世界にはボケとツッコミというものはないのかもしれない。【竜騎士見習い】の手続きをしているというのに、これでは怒られるな、と思考を改め、賢く黙っておく。
「君の竜の名前は?と聞いたんだ。彼女は仮の名前だから我々が名付けてもいいと言ってくれたんだが、こればかりは“彼”に尋ねたほうがいいだろうね」
「そういうことか。まぁ、オレたちが名前を呼ぶことはほとんどないからとりあえずはお前がつけた名前でいいんじゃないか?」
確かに。竜に名付けることも、親しみをこめて呼ぶことを許されるのもほぼ契約した竜と人だけである、と本に書いてあった。
「そっか…じゃあ、しばらく名前らしい名前は呼んでもらえないんだね」
「何言ってんだ。だからお前がつけたんだろ?」
竜のお兄さんの言いたいことはわかる。けれど、その言葉には首を横に振った。
「ううん、あれは名前じゃなくて頭文字。私は“彼”がいつでも私の元から離れられるようにしていたから」
―――どうか、生きてくれますように。
―――どうか、"彼”が安住できるところがありますように。
―――どうか、いろいろな人や種族に愛されますように。
もしも契約者が現れてもすぐに新しい名前をつけてもらえるように、これはただの仮の音。
“L”、と―――。
ふと、遠くから竜の鳴き声が聞こえた。ついで、風圧でミシミシと窓が震える。
「そういえば、そろそろ良い時間だね」
震える窓の向こうを見て、殿下が呟く。こちらを覗き込む見慣れた金の瞳が近づいてくる。
「昼寝の時間だって言ってるぞ」
「―――…窓を壊さないようになっただけでも進歩かな」
“彼”が着地する前に金の竜の姿がちらりと背後にあるのを見たので、きっと心のままに突っ込むのはやめてくれたのだろう。しかし、距離感がわかっていないのかゴチッ、とたまに窓に当たるのは切実にやめてほしい。昼寝に誘うついでに借金も増やされるのは割に合わない。先程の暴風と呼んでも差し支えない風圧にも耐えてくれる窓に感謝しつつ、席を立つ。
「私も丁度いいし、休憩にしようかな」
「あんたはまだまだ仕事だろ。見ろ、セバスの顔を」
ずっと扉の前に佇んでいたのだろうか。品のいい執事姿の男性が無言の圧を殿下に向けて放っているのが視界に入る。
もしかして、名前はセバスチャンとか言うのだろうか。急に親しみが湧いてくる。口元の髭がダンディさを醸し出しているが、目力が凄い。
殿下は、はぁ~、と片手で目元を覆うようにして盛大なため息をこれ見よがしに出した後、小言を言いながら執務机に腰を下ろした。
「お前は“竜”と一緒に裏の森前で休むといい。そこなら人目も気にしないで休めるはずだ」
さっき帰ってきたところだから道のりは覚えているはずだが、なんせ王城の廊下の景色が似すぎていて少し不安である。
どうやって行こうかな、と内心考えていると、ついてこい、と踵を返された。意外すぎる。
「竜のお兄さん、実は優しい人説…」
「あ゛?」
違ったかもしれない。
***
裏の森、というのが“彼”に咥えられて連れて行かれた方面だとわかったのは、その森に繋がる扉を通った後だった。
開けた低い草の向こうに果てしない森が広がっている。そこには既に“彼”がくつろいで待っていた。
「さっきまで窓辺に居たはずなのに、もう待っていたんだ…。空を飛べるのは本当に便利だね」
―――ギュッ、ギュウ
なんとも嬉しそうな鳴き声に頬が緩む。誇らしげな声音にも聞こえたのは気のせいではないだろう。
早く早く、と尻尾を振ってこちらを見つめている“彼”に近づこうと足を踏み出す。
「見た感じ“竜”の体調も変化なさそうだな。オレは別件があるから外すぞ」
「あ、はい」
どうやら、道案内も兼ねて“彼”の視診もしてくれたようだ。“彼”の前まで来てくれたわりにあっさりと退席の意を告げたものだから思わずびっくりしてしまった。
「休憩が終わったあと、別のヤツに案内を任せる。そいつはお前の同期的な立ち位置になるだろう。仲良くしてやってくれ」
「はい」
どうしよう。無難な返事しかできない。竜のお兄さんが初対面の時より違う様子がちょくちょく見られてこちらが戸惑う。
じゃあ、と踵を返そうとする竜のお兄さんを引き留める。
「そうだ、竜のお兄さん」
「なんだ」
「“彼”を診てくれてありがとう」
“彼”もお礼を言うようにひとつ頷いた。
「……あぁ、仕事だからな」
少しの間、彼らしくなく呆けた様子が一瞬見えたような気がしたが無表情にそう言い放った後、今度こそ扉の方へ進んでいった。
「よかったね。仕事とは言っていたけれど“君”のことを気に掛けてくれる人がいることは本当に心強い。そういえば“君”はもうレクリエーションは終わったの?」
―――ギュギュ?
「あぁ、レクリエーションっていうのはね…」
旅をしていた頃のように他愛ない話をしてしばらく―――。
うとうとしてきた“彼”の腕に囲われながら歌を歌う。
そういえば、この曲は昨日にも何度も歌った。
綺麗な曲でそこまで音程も高く感じないので気負わず歌いやすい曲ではあるが、切ない響きがある。
―――“彼”にしては、珍しい…。
どちらかというと爽快感があったり、弾むような心が軽やかになる曲調が好きなのに。
我慢している、というより―――…。
「―――…本当の別れではないけれど、それに近いものを感じているのかな」
―――例えば、契約者を見つけた…とか?
精霊の力を分けてもらえるようになったと言っていたけれど、それはどういう意味だったのだろう。歌い終わると急激に眠気がくることに変わりはなかった。
“彼”の心地よく揺れるぬくもりにもたれて一緒にまどろむ。
―――休憩って何分までなんだろう
勤勉な性格がちらりと顔を出したが、ずるずると意識が引き込まれ、ゆっくりと目を閉じた。
この時間も、いつまでもできる訳では無いだろう。
ゆったりとした時間を噛みしめたいのに、眠気が呆気なく意識を奪う。
静かな風がゆるく彼女の短い髪を撫でていった。