拾
あれは、なんだろう。
「おかえりなさい、ジェラール隊長、兄さん」
目の前の光景が異常すぎてつい声が小さくなったが、ちゃんと聞こえていたようで、返事が返ってくる。その声もどこか小さい。
「あぁ、ただいま。遅くなってすまなかったな」
「いえ。それより、彼女と竜たちは…?」
視線の先には黒髪の少女が森に向かって一人で立っている。その周りに、休憩でもしに来たのか“彼女の竜”以外の竜も彼女を遠巻きから見つめている。ちなみに金の竜は今、ジェラール隊長の近くにいる。ゆっくりと腰を落ち着けており、彼女を注視しているのがわかる。
帰還の報告をセインからもらって既に30分は経っている。なのに、森から離れていない彼女とその様子を見つめている竜の集団という異様な光景に出会い、戸惑いが隠せない。
「あぁ、残念ながら彼女だけ出られないらしい」
「は?」
「“あの竜”が森に入ったのは彼女の魔力の補完のためだったんだが、それが思わぬ方向にいってしまったようだ。今は助力を得るための試練、といったところか」
ジェラール隊長の説明の後に、ちょうど彼女の身体が動いた。
それと同時に、今まで見えていなかった光る黄色の檻が姿を見せた。
竜たちが一定の距離を保っていたのは彼女を囲む檻のせいだったのかと今気づく。
同時に、彼女の歌が聞こえる。不思議と彼女の声が幾重にも聞こえるような気がする、と思った時だ。
「あぁ、さっきから歌ってたのはコーラスだったのか。どうやらこれが最後になるかもな」
腕を組んで見守っている中、彼女の周りに小さな色とりどりの光の粒が寄り添う。
あれが、精霊だ。いつもは竜の食事の時にしか見えないものなのだが。
《―――レナ…》
不意に、竜の声が聴こえた。
それは高く幼い声だったが、切ない響きをもっていた。
声が聴こえた方はどこだろうか、とさりげなく視線を動かすと、兄が“彼女の竜”に視線を移した。あぁ、あれは“彼”の声だったか。
(この距離なのにはっきり聴こえるなんて珍しいな…)
歌が終わり、黄色の檻が霧散するように消えた。
肩で息をしている彼女に、“竜”だけが傍に寄る。
《レナ…?》
「――……。…、……」
ここからでは彼女の声は聞こえず、口元を見ようにも横髪に隠れてよくわからない。けれど、“彼”の声だけはよく聴こえた。
《どうしたの、レナ? 精霊たちは力を貸してくれるって…》
「………。……」
《え? そんな…出来ないよ。イヤだよ、ぼく…》
「……」
《ヤダよ、レナ。なんでそんなこと言うの? 大切じゃないよ、そんなこと。大切じゃ、ないよ…》
「……」
《レナの、ばか…》
こちらに向いた彼女は何か内に決意したような硬い表情をしていたが、“竜”の声に一瞬目を瞠った後、フッと笑ってそのまま“竜”に向き直り、静かに見上げた。
《レナの、ばかぁ…》
まるで、親にすがる子どものように“竜”は今にも泣きそうな声を出して彼女を見つめる。彼女は彼の言葉が聞こえたようにただ見上げていた。
それはなんだか、危うい均衡に保たれた関係のように見えた。
✤ ✤ ✤
これほどひどい仕様はないと思う。
この森から出て来る間、おおよそ3時間以上歌って精霊が集まってきたのが視え、これで魔力が補完されることになったのか…?と森を出ようとしたら檻が形成され、急に『妖精』なるものが現れた。
『精霊』の上位者が『妖精』である、というどうでもいい紹介をされ、私の歌は風の噂で聞いているだの、確かに竜の“呪”を昇華させるだけの力はあるらしい、と一方的に喋りかけられた。
はぁ、と思考が追いつかずに生返事をしつつ、竜のお兄さんたちに助けを求めようと視線を向けると近くに居たはずの彼らは既に檻の外に出ていた。結構な距離行ってる…なんで気づいてくれなかったんだ。むしろ戻ってきてよ、と心の中で恨み節を唱えていると、妖精が顔を近づけてきた。たぶん、整った鼻筋と薄い唇に大きな目は視えるが全体的に光っているのでよくわからない。精霊も発光生物(?)だったので妖精も同じように発光しているのだろうか。それが目の前に来られたら目がチカチカする。距離をおいてほしい。
妖精曰く、このあたりの精霊と妖精は力が強い。それは龍脈がたくさん密集しているからであるが、同時に竜の“呪”も力を増すという。自分たちの力と、深淵の守護者の力でなんとか抑えられている。あなたの力もあればもっと良い環境になる。
『悪い話ではなくって…?』
『うん?』
何の話…?と思った私は悪くない。不穏な前振りに一瞬思考が停止しかけるも、話の続きを黙って聞くと、要は自分たちの力が欲しければ最高の芸術を見せてほしい、ということを言われた。
今までの3時間は一体なんだったんだ、と思いながら大事なことを聞く。
『それができなければ…?』
『ここから出ることは叶わないでしょう』
発光していてよくわからないが、きっとイイ笑顔だったのだろうことは予想できる。
『あたくしはどちらでもよくってよ』
とんだ意地悪じゃないか。喉まで声が出かけたが、妖精は喋り続ける。
なんでも、耳に着けている羽飾りの使い方がなってないだの、イメージが乏しすぎるだのと指摘があり、何故か諸々指導を受けることになった。そんな中、なんと曲を流すだけでなく、多重録音ができることがわかった。なんて近代的な機能なんだ、と感動したのは言うまでもない。
なんで“彼”からじゃなくて妖精から指導されてるんだ、と思わなくもなかったが、黄色の檻をガリガリ搔いている“彼”の様子を見るとどうやらこちらには来られないらしい。
『ちなみに、あなたはこの檻から出られなくってよ』
『はい?』
『あたくし達の力、貸してほしいのでしょう? これはその為の試練、とでも思って頑張ることね』
要は、この檻の中でこの妖精と精霊に気に入られなければならないらしい。
さっき水分補給しとけばよかったな、と軽く後悔した。
でも、まぁそのために森に入ったので、ここで首を傾げているのもおかしい。
腹を決めて、短期集中の勢いで歌を作り上げる。
旅先で培ってきたこの演技力と歌唱力、とくとご覧あれ! と開き直れたのはほかでもない。誰も助けに来られない状況だと判断したからである。森の前でたった一人で歌いだすとか狂気じみているとしか思えないが、そうしなければ檻の外に出られないのならば仕方がない。羞恥心など関係ない。中途半端が一番いけないのだから。
✤ ✤ ✤
歌っている間に緊張で冷えていた手は、歌い終わる頃には優しいぬくもりに包まれていた。イメージできていた曲の演奏楽器自体も増えていた。
旅先でも何度か歌っているものは自分の心の余裕が出てきているから音の厚さが出て来たのだと思っていたが、もしかして精霊たちが力を貸してくれていたのかもしれない、と今この時になって気づいた。
全部歌い終えた後、妖精は言った。
「見事ね。このコたちも喜んでいるわ」
「それはどうも」
「深淵の気に触れてもなお正気を保っているなんて何年ぶりの逸材かしら。誇ってもよろしくてよ? その身に余る力を発散させたいならいつでもいらっしゃいな。もし、力に呑まれたときは“そこの竜”にあなたを食べさせないといけなくなるから、気をつけることね」
「そう…“彼”にも伝えておくよ」
「呆れた。あなた、本当に自身の力に疑問をもたないのね」
それよりも疲労困憊である。水分が欲しい。
「訊いても答えてくれなさそうだから。それはこれから探すよ」
「あらあら、かわいくないヒトだこと。でも、良いモノを見せてもらったから今日はもうよくってよ。陣を解いてあげる」
やけに高慢な妖精だ。でも、これで精霊たちの力は貸してくれることになったようだ。目が、少し熱い。
ほわほわと肌を撫でるように寄り集まる精霊の姿を見る。やはり粒子のままだったが、機嫌が良いようにぽわんと浮いたり跳ねたりしている。
『また魅せてちょうだいね』
「は?」
檻と共に消えた妖精が残した言葉に帰ってくる言葉はなく。精霊たちも後を追うように姿を消した。
近くに来た“彼”は心配げにこちらを見やる。嫌な予感を抱えることになったが、拒否権はない事実は素直に受け入れておく。
息を整えて、妖精が言っていたことを伝えておく。
「君に頼むことが増えたみたいだ。もしも、の話なんだけれど…」
妖精の言っていたことに嘘はないだろう。また、この話が事実だからこそ“彼”も妖精や精霊に怒ることはできない。
この力がどういうものなのか私もよくわかっていない。けれど、保険はかけておかないといけないのは、なんとなく感じている。
“彼”に任せきりにするつもりはないが、妖精がわざわざ言っていったということはこれから先、私が自身の力に呑まれる危険性があるということだ。
(これが、私の選んだ道だ―――)
“彼”は拒否するように弱々しい声を出していたが、コレだけは譲れない。念を押しておくとうなだれていた。決して頷いたわけではないのは明白だったが、これ以上は私も下手なことは言えない。
“竜”との約束は守れるものでなければいけないのだから。
話を切りあげるように“彼”に背を向けると呼び止めるような声を出された。振り返る前にもわかる。
(情けない声…まるで、置いてかれる子どもみたいじゃないか)
“彼”が檻に入る前は私がそういう気持ちをもっていたのに。“彼”も、そう思ってくれているのか。
残酷なことを言っている自覚はある。日本にいた時は絶対に口にしない言葉を言ったこともわかっている。
『深淵の気に触れてもなお正気を保っているなんて何年ぶりの逸材かしら』
―――果たして、本当にそうなのだろうか。
(皮肉だな)
助けようと思って一緒に旅をしていた“竜”に、最期は食べられるなんて。
けれどきっとそこに、後悔はないのだろう。
(一度、死んでいるんだから。今度こそ、“彼”のためにこの命を使ってもいいだろう)
そんなこと、“彼”には言えないけれども。
別に今すぐの別れではない。けれども、しばらくお互いに見つめ合う時間が必要だった。
―――ギュアアアアッ!
何故か息を吸ったと思ったら“彼”は空に向かって吼えた。
それはなんだか、ヒトで言うなら鬱憤を空に叫ぶような仕草だ。
その叫びが呼び声のように、何柱かの竜も叫び、空に舞い上がった。
そこに、金の竜も舞い上がり周囲を飛び交う。
―――まるで、“彼”を誘っているようだ。
“彼”は少しこちらを見てから後ろを向き、翼を広げ…―――
―――空に飛び立った。
旋回するように上昇し、金の竜たちと同じ空にたどり着いた時に、翼と鱗が陽を照り返す。
その姿は、初めて飛んだ時とは比べものにならないくらい雄々しく、綺麗に見えた。
(立派になった)
仲間と飛び立てる日を、私はきっと“彼”より願っていた。
やっと叶った光景はまさに圧巻だった。
色とりどりの竜たちの中でも“彼”はどこにいてもわかる。
しばらく周回するように飛んでいた彼らは同じ方向へ一緒に向かって行った。
少しの風が、彼らを追うように吹いた。
「“彼ら”は竜舎近くの森で親交を深めるようだ。ワンたちも“彼”を歓迎している。悪いようにはならない」
いつの間に近くに来ていたのだろうか。夫さんが補足するように言った言葉に何故か口元が震える。
「そう…。なら、よかった」
悲願が達成したからだろうか。それとも、違う理由があるのだろうか。どうしても、声が震える。
目頭が熱い。顔をもとに戻したら滲んだ涙がこぼれてしまいそうだ。鼻から水も出てきそうなところをこらえる。
「あんた、泣いてんのか? ―――イテ、」
え?というリアクションを惜しみなく出す竜のお兄さんに指摘され、不快に眉をしかめる。大体の涙が引っ込んだところで視線を向けると竜のお兄さんは腕をさすりながら隣に佇んでいる人にチラチラと視線を向けていた。隣の人は黒のマントを羽織り、フードで顔が見えないが、竜のお兄さんに何かしたのだと察した。
「何するんだよ」
「今のは兄さんが悪いよ。大丈夫ですか。長旅だったと聞いています。お水をどうぞ」
言いながら黒いマントをすっぽりとかぶったその人は水が入っているであろう水筒を渡してくれた。
(兄さん。今、兄さんって言った…?)
ということはこの黒いフードを被った人は竜のお兄さんの―――弟?。
お礼を言ってありがたく水を頂く。
「少しずつでいいので、しっかり飲んでください」
「あ、はい…」
穏やかなようで事務的なアルトの声。兄がぶっきらぼうな口調だからか、なんだか雰囲気が違うように思えて仕方がない。身長は私と同じくらいだろうか。
おおよそ三人の男性の前でくぴくぴ飲むこの状況に誰か違和感を抱いてくれないだろうか。大変飲みづらい。
待ってくれているようなので言われた通りにゆっくり少しずつ飲む。
「体調は…まぁ、女性の身で3時間以上歩いて歌っていたと考えたら体力はだいぶ消耗されているとして、顔色はいいですね」
「おかげさまで」
ある程度飲んで水筒を返す。飲んだ量の確認か、水筒を少し揺らした黒のフードの人は、兄ではなく夫さんに向き直った。
「少しでも食事を摂った後に殿下に面会されてはいかがでしょうか。アイリス様もそのつもりで食事を手配してくださっています」
そうだな、と話が進みそうな雰囲気になったのを感じ、ゆっくりと手を上げる。
「あの、問題を先伸ばすのは性に合わないので、面会できるならすぐがいいです」
少しの沈黙の後、ジッとこちらを見つめてるなぁと思ったら竜のお兄さんが真っ先に首を横に振った。
「その恰好じゃダメだな。何を急いでるのか知らんが、顔も悪いし一息入れといた方がいいんじゃないか」
「兄さん、言い方。オレが誤診したみたいになってる」
「あぁ、そうか。とりあえず、そのままじゃあ、殿下に会わせられない。出直せ」
要は身綺麗にしてから殿下に会え、ということなのだろうがここまで気遣いゼロの言葉を聞いたことがない。
竜のお兄さんの弟さんと、夫さんの大きなため息を聞いて、やっぱり目の前のこの人だけが残念なんだな、と思った。
「竜のお兄さん、モテないでしょ」
「あ?」
不覚にも、心の声が漏れた。
✤ ✤ ✤
なんとお風呂を使わせてもらった。これは嬉しい。
上がった後に、夫婦の婦人の方からからまたドレスを借りることになった。
「レナさんはドレスを着たことがあまりないと仰っていたけれど、裾も踏まずに上手に歩きますね」
「……。さっき仮眠を取れたからですかね」
予想外の方から褒められると照れる。
照れ隠しに適当なことを言ったら逆に心配された。
『次は一緒に入りましょうか』と気を遣われたが、『それは旦那さんにしてあげてください』と返したら顔を真っ赤にして言葉を詰まらせていた。かわいい。
(あ。でもコレ、セクハラ…?)
思い直した時には婦人さんが咳ばらいをして気持ちを切り換えるところだった。
「さっき侍女のフランから聞いたのですが、ドレスのことは気にしないでくださいね。“竜”があなたを連れて行ったのは見ていたのですから。そこから戻ってくること自体、女性にとっては大変なことで…むしろドレスに気を遣う必要なんてないんですよ」
お風呂に入る前にメイドさんらしき人に『このドレスと靴の洗い方、後で教えてください』と言ったことは筒抜けだったらしい。
「でもあんなに立派なドレス見たことなかったから…汚してしまって本当に申し訳ないです」
「そんな何度も謝らないで。まるで妹が出来たみたいで…。またこうして着てくれて嬉しいわ」
―――『こんなかわいい弟子って最高じゃない?』
目の前の彼女と、旅の始めに出会った踊り子の姐さんの笑顔が重なる。
なんだか、心が浮き立ちそうだ。
(今から謝りに行かなきゃいけないのに…。顔がにやけそう)
努めて神妙な顔を意識していると、廊下の向こう側から夫さんが歩いてくる。竜のお兄さんも一緒だ。
「なんだその顔。装いが合ってないぞ」
竜のお兄さんの声でスッと心が冷めた。お陰で今からの場面に合う表情が出来そうだ。
「そういうところは尊敬します、竜のお兄さん」
「は?」
「殿下。“竜”の少女を連れてまいりました」
「入れ」
濃い茶色の扉が開く。説明によると、ここはあの殿下の執務室らしい。
扉の先には殿下が机で何か書類を片していた途中のようで、書類から顔を上げたところだった。
「やぁ、待ってたよ」
言いながら書類を反対側の山に置いて、席を立ち、前のローソファに腰かけるように促してきた。
夫さんが入り、竜のお兄さんも入り、次に私が入らせてもらう。婦人さんは一礼してその場に留まって入って来ない。そのまま扉をしめられた。
「よくあの森を歩いて帰ってきたね。食事は摂ったかい?」
「あ、はい。少し…」
返答しながらなんで先に入った男性たちはソファに座らないのだろうか、と思ったら竜のお兄さんと目が合い、顎でソファに座れと促された。
「あの、話の途中で席を外してしまい、申し訳ありませんでした。深くお詫び申し上げます」
ソファに座る前に殿下に頭を下げる。
目の前の彼は驚いたようだ。
「あぁ、あれは仕方ないよ。君の“竜”が必要だと判断したんだ。それより、君が無事で何よりだ。ジルから君が消えたと聞いた時は肝が冷えたが…―――何があったか、教えてくれるかい?」
「はい」
すべてとは言わないまでも、ある程度のことは報告する義務があるだろう。後は聞かれた時に答えたらいい。
そんな気持ちで口を開いた―――…。
「―――なるほど。精霊には力を貸してもらえることになったと…。しかし、君の力の暴走が予想されるならば、何故“彼”に食べてもらうことになるのかな?」
「それはわからないのですが、妖精のようなものは嘘をつかないのでしょう? なら、それを含めて“彼”とこれから接していかなきゃいけないと思って…。“彼”にはその前兆が見られたら私を食べるように伝えてあります」
そう言うと周りの男性陣は深く息をついた。
「さっきから思ってはいたが、君はまるで他人事のように話すね」
「私事だと認識はしています。けれど、妖精が“彼”に食べることを指定したからにはそれなりの理由があるはず。どんな形であれ、それが“彼”のためになるなら悲愴になる理由なんてありません」
「これはこれは、先が思いやられるな…」
麗しい金髪のお人は額に組んだ手をつき、下を向いて呟いた。
どんな姿勢でも絵になる人だな、となんとなく思っていると、彼はもう一度深呼吸をしてこちらに向き直った。
「たくさんの情報をどうもありがとう。―――疲れているね。お茶を飲むといい」
なんでか、この国に来てから優しくされていて妙に落ち着かない。薦められているのに手をつけないのもおかしいので、そっとローテーブルに用意されているお茶を頂く。ダージリンだ。おいしい。
「さて、いろいろと君の状況も変わってしまったようだが、昨日の話に一旦戻るとしよう。―――君は、これからどうしたい?」
「先立つものがほしいです。目が覚めたら身ぐるみ全部はがされていたようなものなので」
「凄く直球でモノを言うね」
「わかりにくい方がダメだと思いまして。でも、森の中でちょっと考える時間も出来て、そんなに急いでもう一度旅に出ることもないかな、と思い直していたところです。“彼”は仲間を見つけている。それは私の第一の目標でもあったから…。それが叶ったんですから一旦休憩してもいいのかな、と」
「ほう」
「このお城の近くに街がありますよね。そこである程度先立つものを蓄えようかと考えています」
「うん。なんとなくそういう予感はしていたのだけれど…。そこでこちらから提案を一ついいかい?」
「はい」
なんだろう? と首を傾げていると目の前の御仁は言った。
「提案というのはほかでもない。『竜騎士見習い』になってはどうかな?」
「竜騎士、見習い…?」
「そう、竜騎士には竜と契約を持った者だけがなれる。だが、稀にそうではないけれど竜と関係の深い者が存在する。今、うちに一人だけ竜騎士見習いがいるのだけれど、どうだろう?」
もしかして、隣に立っている竜のお兄さんがそうだろうか。見習いという言葉がひどく似合わない。
「それは、仕事…ですか?」
この世界で言う『見習い』がよくわからない。日本で言う学校の『生徒』なのか『実習生』という意味なのか。はたまた職場の『研修生』なのか。
「仕事、と区切りをつけるのは難しいな。今のところは『竜騎士見習い』というのは自身の仕事と、竜についての講義を受けたり、騎士の鍛錬をしたりする特殊な位置づけにしている。騎士見習いとは違って、自身の仕事を主にしてもらって構わないことにしている。それがひいてはこの国のためでもあるからね」
どうやら仕事と学校生徒の掛け持ちをしている人のことを指すようだ。
それもそうか、と納得する。この世界では竜騎士見習いの方が圧倒的に少ないのだから。
「竜の講義は魅力的ですが…。要はカリキュラムが組まれていて、その合間に仕事にいけるということでしょう? つかぬことを伺いますが、その講義を受けられる場所と街の距離はどのくらいなのですか?」
「馬車で一時間もかからないが…」
「じゃあ一時間半かな…。私は馬車が乗れないんです。走って片道一時間半かけて通うのは…」
正直に言うとめんどくさい。想像しただけでイヤになる。
自転車なんてないし、“彼”がすごく馬車を嫌がるから旅をしていたこの半年、ずっと走るか歩くかしていたので、今の著しく落ちた体力のことを思うとげっそりする。
「授業料も払えない状況ですし、竜騎士見習いはお断りさせていただく方針で」
「竜騎士見習いはいうなれば国の管轄下に入ることになる。授業料は気にしなくていい。それに先程まで街に住むことを前提にしているようだが、竜騎士見習いならばこの王宮の一室で住むことで君たちの安全を保障しよう」
「でも、それだと私の仕事の意味、なくなりませんか」
「というと?」
「このお城に住むということは街の人たちの税金でお世話になることと同義でしょう? 私はそこから旅のための資金を集めに街を降りると言っているんですけれど…。それじゃあまるで、街の人たちから税金も頂いてさらにお金を巻き上げに行くようなものじゃないですか。それは悪質だと思うんですけど…」
「君は頭が回るのか回らないのか…。なんというか、損なタイプだね」
その言葉、つい最近誰かからも聞いたな、と思っていると殿下は少々悩んだ後、思い切ったように口を開いた。
「これはなるべく言いたくはなかったんだが…」
「?」
「君は、私たちに器物破損の弁償金を払う義務があるんだ」
「???」
「君は不思議に思わなかったかい? 目が覚めたら治療が済んでいる状態にもかかわらずベッドで休んでいる場所が外だったことに」
確かに。血は完全に止まっていたし、なんで外にベッド?と思わなくはなかったが。それは“彼”が私を手元に置いておきたかったからそのように配慮したのでは―――…。
(あれ? でもずっと“彼”に囲われていたら治療なんて―――…)
少しの違和感は確実にイヤな予感に変わった。
「まさか…」
「察しがいいようで何よりだが、そのまさかだ。君の治療が完了した後、ディランが“竜”に伝えた時、“竜”は窓を突き破ってベッドごと君を引きこんだ」
心の中だけで卒倒した私を誰か褒めてほしい。
表面上では無になったが、思考はまっさらだ。
だが、“彼”ならやりかねない。あの婦人も言っていたじゃないか。
―――『あなたが目覚めてくれるか心配で、ずっとそばにいたんです。その人がお城に入って姿が見えなくなってしまったら竜は混乱して建物を壊してしまうかもしれません』
「……つまり、窓と壁の弁償金が必要、と」
「……。竜騎士見習いなら、報奨金も出る仕組みになっている。悪い話ではないと思うんだが」
「そうですね。とりあえず、弁償金の額とその報奨金の額、教えてもらっても?」
おおよその額を聞いて、ふかふかのソファに全面的に体重をかける。
「……借金からの始まり、か」
ぽつりと零れた独り言はしん、と静まりかえった執務室に、それはもう深刻な響きをもって耳に届いた。
思ったより心のダメージが凄いようだ、と客観的に思う。
異世界に来て、金銭的なものは何も持っていなかったとはいえ、それはゼロからのスタート。決してマイナスからのスタートではなかった。
まさかこんなどん底レベルのマイナスからのスタートとは誰が予期できただろうか。
これは、街で芸を披露したところで払いきれるものではない。
ゆっくりと背中をソファから離し、背筋を正す。
「その話、お受けします」
最初からこの地に留めるつもりの提案だったのだろうと察しはついたが、目下の問題は借金返済である。
神妙に返事をした私に、殿下は少しすっきりしたような表情で契約書を出したのだった。