王国衰微の兆候
アーノルドが新婚生活を始めて間もないころ、カルダノ帝国からある情報がもたらされた。皇帝が退位し新皇帝が立った、というものである。そしてそれを機に執政として政治を取り仕切っていたヒルベルトも引退した。退位したウォーリスは噂によると心を病んでしまったようで、ここ二年ばかりは自室に閉じこもって出てこれない状態になっていた。
新皇帝擁立は重臣たちの協議の上で実行され、平和裏に新皇帝が擁立されることになったのだ。もちろんこの政治劇の裏ではヒルベルトが混乱が起きないようにとあちこちに手を回していたことは容易に想像できる。
この新皇帝は陰謀渦巻く貴族社会の中ではあまり目立った人物ではなかった。それゆえヒルベルトらは彼の政治的野心を過小評価し擁立に至ったのだが、これこそこの新皇帝の真の狙いであったことはこの後の歴史が物語ることになる。
約一年後、長い間帝国の良心として存在し続けたヒルベルトが急死する。各国はその死を悼みその国葬の際には使節を派遣するほどであった。仁がザールサス王国の使者に決定されて、帝都に着き国葬に参加しているとき、王国で政争の序曲が始まる。
帝国で新皇帝が擁立されて間もないころの王国では、リミットが宰相として権勢をふるっていた。リミットが宰相に就任した当初は重臣らとの協議も頻繁に行われていたが、徐々にその回数は減少していった。それはリミットが野心を持っていたからでない。
彼は自他ともに認める竹を割ったようなまっすぐな性格で、当初から政治上の案件を協議の上で決定していくプロセスが時間の無駄だと考えていた。最初はそれでもノルドの協調路線を保ってはいたものの年月が経ち、自分の性格が露骨に出始めた結果、協議するプロセスを省き始めた。
そこで重臣たちは表立ってリミットを批判することができず、陰で彼を非難していた。そんな批判は当然のリミットの耳に入り、これがまたリミットが他の重臣らとの会議を避けるという悪循環を生んでしまった。
それでも切れ者ではあった彼はそれほどの失政を犯すことがなかったのでアーベルも多少の雑音は聞こえてはいるもののそのまま彼に宰相を任せていた。
また、アーベルもここ十年以上王国が安定期に入り徐々に政治から遠のくようになっていた。優秀な臣下らが滞りなく政治上の案件を処理していくのでそれらをほぼ追認するだけになってしまっていた。後世の歴史書では
〝王国の繁栄は優秀な臣下らによるところが大きく、王国の衰退もまた優秀な臣下により起こる〟
と記している。
こうしてアーベルの政治的判断力の低下と、リミットの悪評が生み出すのは王国政治の腐敗である。今までなりを潜めていた奸臣どもがこの状態を手をこまねいているはずがない。奸臣たちはこぞってリミットへの不満や悪評をじわりじわりとアーベルの耳に入れる。
人というのは単純なもので、最初は信じなかったアーベルもあまりに多くの讒言が耳に入るとだんだんそれを信じてくる。そして、いよいよリミットを避けるに至るのである。リミットは徐々信頼を失っているのが分かり、アーベルの信頼を勝ち取るべくさらにその政治的手法が強引なものになっていくのであった。
こうしてリミットもまた心を病んでいくことになる。事件は仁がヒルベルトの国葬の最中に起きる。
宰相の執務室の外にいる衛兵が室内から大きな怒号が響いているのを聞いていた。声の主はリミット。ここ最近は毎日のように怒鳴り声が室内から聞こえている。もはや衛兵らにとっては日常の出来事のようになっていた。この怒号を一身に受けているのは内務に関わる次官であった。
この男 些か気が小さくて、権勢の前では委縮するばかりであった。そういう訳でリミットは事あるごとにこの次官を叱責することが多くなっていった。だが、この日この次官はいつもと違っていた。長い期間リミットからの叱責を加えられていたこの次官もまた心を病んでいたのである。もはや冷静な判断すら危ういそういう状態の中、リミットが叱責を終え振り向いた瞬間懐から短刀を出し、リミットの胸に突き刺したのだ。
衛兵は叱責が止まっただけだと思っていたが、いきなり執務室の扉が開き、血まみれの次官が出てきたとき初めて室内で何が起きたか分かった。
リミットの急死は事態の大きさから最初は秘匿された。それはアーベルが次の宰相を誰にするか迷っていたのだ。能力から言えばアルフレッドであることは一目瞭然であったが、判断力が著しく低下したアーベルはそれを良しとしなかった。アルフレッドではなかったのはその能力の問題ではなく年齢が若かった、というだけの理由からだった。
これが事態を更に悪化させた。アーベルは奸臣らの甘い言葉に完全に騙され宰相の人選をこれら奸臣の中から選んでしまったのである。これを苦々しく指をくわえて見ているしかなかったのがアルフレッドであった。
数日後にリミットの死が病死と公表され、新しい宰相が就任した。仁が帝国より戻ってきたときには、以前のような奸臣らの巣窟と化した王城となってしまったのである。
それでも数年の間はリミットやアルフレッドの育てた官僚たちが何とか支え行政上の問題点は大きくは起こらずに王国は運営できた。だが、アーベルをますます蝕んでいく奸臣ども。アーベルはいよいよ名君から暗君へと変わっていく。
リミットが死んで5年ほど後に、アーベルは宮殿の新築、後宮の増築と多くの妾を後宮に入れるなど、およそ歴史上暗君がやるであろうことをことごとく行うようになってしまった。
これに落胆の色を隠せないのが仁であった。当初この若い王に大きな期待をしていた。だが、今この王はもはや以前の王とは別人になってしまっていた。
そしていよいよ、仁は政治的中立を破り、奸臣住まう王城へ向け歩くのであった。




