★26★ 空洞な時間。
天恵祭でカイルの剣を弾き上げた時の腕の痺れを、今でも憶えている。あの空に吸い込まれるように上がった剣を視線に捉えた後、俺は一瞬その安堵感に膝から崩れ落ちそうになった。
それを寸でのところで持ち堪えたのは、耳に届くはずのない樹上の友人の声が聞こえた気がしたからだ。誰にも勝ちを望まれていなかった俺が勝ったせいか、観客席からはそれまで上がっていた聴衆の声が途切れた。
シン――……と静まり返った会場内で、空高く上がったカインの剣が、打ち上げられた時のままに弧を書きながら落ちて来る。ヒュンヒュンという軽やかな風切り音が、舞台上に叩きつけられた瞬間に耳障りな金属音へと変わった。弾ける模擬剣はしばらくその刀身を震動させて舞台上に余韻を残す。
その音が止む頃に、ようやく目の前で空になった手を見つめていたカイン・アップルトンが小さく「……負けました」と呟く。その敗北宣言に控えていた審判が雌雄を決する旗を頭上に掲げ――……その直後に怒号のような歓声が会場内を震わせた。
そこで始めて勝ったのだという実感が込み上げて来たものの、改めて考えるまでもなく、完勝というには手こずりすぎたという自覚がある。良くて辛勝だろうが、勝ちは勝ちだ。心配していた足の筋肉も、強張っているが誰かに勘付かれるような動きはしていない。
これくらいの勝ちで充分だ。試合の最中に思わず無理に踏み出して胸当ての紋章を突こうとしそうになった時は、自分でも勝ちが欲しいのだということに驚いた。もうそんな欲求は捨てたと思っていたのだから。
ただそれでも――グルリと見回す会場内から降ってくる拍手と歓声に、ジワジワと高揚感が追い付いてくる。不覚にも目頭が熱くなって、俺はそれを気付かせないように、観客席に向かい一礼をした。
さらに大きくなる観客席からの拍手と歓声に一度だけ顔を上げ、友人を置いてきた方角を見やる。流石にここから肉眼でその姿を見つけることは叶わなかったが、何となくだがこの会場内の拍手と歓声の一部に友人のものが混ざっているような気がして……それが少し誇らしかった。
試合後に行われた表彰式後にはアリシアが駆け寄ってきて、俺とラシードに十年ぶりくらいの称賛の言葉をかけてくれたが、それに戸惑ってまたぶっきらぼうな対応をしてしまう自分が情けない。
ラシードの方はアーロン・ワーグナーに勝ち準優勝まで果たしたのに、持ち前の明るい対応で寄ってくる女子生徒達を捌いていた。それを「咄嗟の受け答えが上手いものだな」と感心すると「あら、こんなものは慣れよ。慣れ。数をこなせば上手くなるわ」と笑われる。
続け様にラシードが「あの子、きっと今頃アタシ達を褒める気満タンで待ってるわね」と言った。
――――だから……試合後にラシードと迎えに行った木の下で、リンクスが血を流して倒れ伏していた時には、何かの悪い冗談だと。どうせ驚かそうと待ちかまえていただけだ。すぐに駆け寄って“悪い冗談はよせ”と起こしてやれば、いつものように緩い笑みを浮かべて“吃驚した?”とでも言うのだろうと……そう思い込もうとした。
しかし、ピクリとも動かないリンクスを見ているとそんなことがあるはずもない。駆け寄らなければならないその場面で、俺の足は動かなくなった。代わりに駆け寄ったラシードが脈と出血量を確認して「アタシは治癒師を呼んでくるから、アンタが見ていて」と来た道を戻ろうとして、それでも動かない俺の背中を「シャンとなさい!」と叩く。
そこでようやく動いた足が、次に気が付けばリンクスの傍らに跪いていた。あまり揺らさないように注意して仰向けにしたその額から流血していることに、自分でも信じられないほど動揺する。その動揺のままに声を荒げて名前を呼ぶが、返事はない。
反応のなさに段々と焦る気持ちが増し、自分のリンクスを呼ぶ呼び方が変わっていることにも気付かなかった。けれど――、
「……はぁい……ルシアでぇす」
そうか細く返った声に、試合後の安堵の比ではないくらい、心底からの安堵を感じる。目蓋を開けた友人の第一声は、ラシードの言っていた通り、俺の勝利を祝う言葉だった。こんな時だというのに、それでも祝ってくれる姿に胸が痛んだ。
馬鹿のようなお人好しさが嬉しくなかったと言えば、嘘になる。けれどその額に走った傷口が、その喜びを戒めに変えた。この傷口が明るい友人の心を膿ませるかもしれない。――――俺が、そうであったように。
それを言って満足したのか、その後すぐにまた目蓋を閉ざしそうになる友人を必死に寝かせまいと声をかける。それですら「笑って、スティルマン、君」という言葉に包み込まれて行き場をなくしかけた。
ポツポツと話す会話の内容も、終始俺を宥めるためのもので。労られる自分の無力さを噛みしめた。ふとそんな俺の耳に治癒師を連れたラシードの声が近付いてきて、ほぼ同時に気付いたリンクスと声のする方向を見やる。
これで友人の傷を看てもらえることに胸を撫で下ろした視界の端に、安堵のためか瞳を潤ませるリンクスの姿が映った。そのことが、何故だか。何故だか少し面白くないと感じる自分がいた。
***
天恵祭の翌日から、クラスメイトの俺に対する扱いに、僅かな変化が起こった。それは変化というには微々たるもので、気にしなければ何の変哲もないように感じる程度だ。例えばクラスメイトから話しかけられることだとか、挨拶をされるといった程度の、ごく一般的な学生生活としては何の物珍しさもないようなこと。
しかし今までそういったことをされてこなかった立場からすれば、それは何というか居心地の悪さを感じるだけで、出来れば以前のように空気のようにいない者として扱って欲しかった。
唯一の例外である人物の席は今日で十日も空席のままだ。それにその席に視線をやれば、嫌でもあの日のことを思い出す。見舞いに行きたかったものの女子寮の、しかも個人の部屋ともなればそういうわけにもいかず、結局あの日以来一度もその姿を確認出来ていない。
あの日、木に登っての観戦など勧めなければ良かった。
それにあの日、何故木に立てかけていたハシゴが消えていたのか。
ぼんやりと焦点の定まらない瞳の友人にそのことを訊ねられなかったのは、一瞬でも普段の自らの行いに対しての報復だと思ったからだ。普段言葉を選ばないことで周囲から反感を買っていることは分かっていたが、それが向くことがあるとすれば、それは自分に返ってくるものだと思っていた。
――――だから、もしも。
もしも俺と一緒に行動していたことでその反感が友人に向いたのだとしたら……。そう考えると、次に顔を合わせることが恐ろしくも感じた。
それに伴いラシードともあの日以来、会っていない。あれだけ賑やかに毎日行われた鍛錬も、もう必要がないということもあるが、何よりも学年が違う以上、そうそう交流があるわけでもないからだ。
二日置きくらいに隣のクラスから顔を覗かせるアリシアも、カイン・アップルトンと話ながらも空席の方を気にして、その後こちらに何か問いたげな視線を寄越す。俺に出来ることといえば、その視線に首を横に振ることで不在を教えるだけだ。
その内にカイン・アップルトンに誘われて放課後の町に出かけるアリシアを見送る。結局のところ、クラスメイト達には声をかけられるようになったところで、俺が一人で行動することに何の違いもなかった。
今日も一人残った教室は先日十一月に入ったせいでもう薄暗い。秋の橙色の日差しが去った教室は、無表情な冬の気配を感じさせた。
「……図書館に、行かなくてはな」
授業について来られなくなっているであろう友人の為に、あの日から毎日図書館の本を探しては、その中から読みやすそうなものの題名を書き留めている。それぐらいしかしてやれることがないのが歯痒いが、何もしないよりはマシだろう。
図書館の入口で星火石ランプの貸出名簿に名前を記載して、いつもの場所に歩を進める。薄暗い中にぼんやりと浮かび上がる本の背表紙を見るのは、昔から嫌いではなかった。だが、ここ十日はその背表紙を目で追っていたはずの視線が、知らない間に爪先に下りて、床を叩く靴の音だけが虚しく響く。
最後の角を曲がり、そこでようやく視線を上げる。この十日間、この場所の先客は誰もいなかった。
だから今日もいないだろう。
そう思っていた、その視線の先に――――。
「や、遅かったねスティルマン君。本当は今日から顔を出すつもりだったんだけどさぁ、寝坊しちゃって。授業の途中から教室に入る勇気がなかったからここで待ってたんだよ」
四方に飛び跳ねるその髪は、まるで干し草の山か鳥の巣だ。しかし、すっかり様変わりした髪型は、その下で微笑むソバカス顔をより一層引き立たせた。そして胸元で淡く輝く涙型の首飾りを持ち上げて、その人物は微笑んだ。
「それはそうとさ――……この髪型、どうかなぁ?」




