★18★ 星座の巡りと友人と。
「やはり……今日も来ない、か」
そう口に出してみればこれ以上この場所に留まる理由もない気がした俺は、読むともなしに膝の上に開いていた本を閉じ、隣に置いておいた星火石ランプを手に取り立ち上がる。
「五日も勉強をサボれば、取り返すのにその倍ははかかるというのに……どこで油を売っているんだ」
――薄々自分でも、相手の反応が何かおかしいとは気付いていた。
その相手は常に一定の距離を保ち、こちらが人目のある場所で話しかけられることを嫌っていると感じ取っているのか、他の生徒の目のある場所では一切話しかけてこない。学園生活での話し相手としては申し分のない、こちらとしては都合の良い相手だ。
しかもそこまで踏み込んだ間柄でもないので、特に不便を感じるわけでも迷惑を被るわけでもない。それに放課後の図書館に姿を現すことがなくとも、深夜の十二時にはいつも通り、学園の裏庭で星詠みを共に続けている。だからこそ特にそれ以上の時間を共に過ごす必要を感じなかった。
理由がこちらの不備にあるなら文句を言えば済むはずだし、何よりそんなに長く時間を過ごしてきた人物でもなければ、卒業後に関わる人間関係に位置する相手でもない。
……誰のことかと説明するまでもなく、相手はあの変わり者な“友人”だ。
けれど連日続いたその小さな棘のような違和感が、自分にしては珍しく気になり始めたのは昨日。他の生徒のいなくなった教室で一人、ぼんやりと何をするでもなく夕焼けが訪れるのが早くなった秋空を眺めていた時だ。
いつもカイン・アップルトンと話をするために、隣のクラスからやってくる“彼女”が誰もいない教室に入ってきた。俺がアップルトンならもう帰ったことを伝えると“彼女”は困った様子で首を横に振る。
昔と全く変わらない困った時のその表情に、思わず封じたはずの懐かしさがこみ上げた。橙色の夕陽が窓から射し込んで、教室を静かに浸していく。
なかなか立ち去ろうとも、一人では俺に近付いて来ようともしない“彼女”は、やはりあの頃の何をするにも飛びついて『“大好きよ”』とくすぐったそうに笑ったあの娘とは違う。
そんなことを考えながら“彼女”が立ち去らないのであれば、これ以上何かを思い出す前に寮に帰ろうと窓辺から離れようとした――と。
『あの……最近あまりリンクスさんとご一緒におられないようですけれど、喧嘩でもなさったの?』
怖ず怖ずとだが、はっきりと。“彼女”は俺に向かってそう訊ねた。俺が少し迷った末に“いいや”と答えると、その表情があからさまにホッとしたように緩んだ。
そして『良かった』と、本当に言葉のままの微笑みを向けてくる。それは昔、森で遊んでいる時に見せたものと良く似ていて。情けない話だが、一瞬その表情に魅入ってしまった。
――だが、
『リンクスさんといる時の貴男は、普段の怒ったような表情と違って楽しそうだから……。ずっとああいう表情だと、皆も話しかけやすいわ』
そう笑った“彼女”のその“皆も”という優しい言葉に、まだ胸が痛んだ自分がおかしくて、滑稽だった。
無くした物は今さら手許には戻らない。ならば、せめて“彼女”が認める“友人”のことくらいは。
「……気にかけるさ。言われなくとも」
一人呟くその声が、仄暗い本の森へと溶けていく。
***
空に輝く星の位置が、夏の星座から秋の星座にその場所を譲った。
季節の巡りからしてそれは何ら不思議なことではないが、今年はその慣れきった星の巡りすら違っているように感じることがある。
「――リンクスか?」
深夜の十二時に学園の裏庭に侵入する不審人物がそうそういるとは思えないが、念のために声をかけるのがここ数日で恒例になってしまった。俺の声にピクリと反応した背中が、ゆっくりとこちらを振り返る。
胸元の星火石の首飾りにうっすらと照らされたその表情が、近付く俺の姿をみとめて綻んだ。
「いらっしゃい、スティルマン君。今夜もここまで誰にも見つからなかった?」
「ああ。当たり前だ」
いつもと変わらない星詠み開始前のやり取りに、リンクスが「だよね」と笑う。薄暗がりに浮かび上がる無数のソバカスが散った顔。社交界ではシミ一つない肌が良いとされる令嬢の中で、このクラスメイトだけは違った。
初めて見た時は少々令嬢の自覚が足りていないのかと思ったが、こうして毎夜顔を合わせているとあまり気にならなくなってきた自分がいる。
日の下に出て働きそれを誇りに思う感覚は、貴族のそれからはかなり外れていると言える。この深夜の星詠みにしてもそうだ。領民と耕す畑の作物をせめて天候から守ろうとするその思いも理解出来なくはないが、それはおおよそ令嬢の発想ではない。
そんな令嬢の姿からはかけ離れた存在であるはずのルシア・リンクスが、ここ数日、厳密に言えば九月十八日辺りを境におかしい……ような気がしている。
「――髪型を変えるのは構わないが、遠目からだと誰だか分からんな」
別にそんなことが言いたかったわけではないのに、ふとその癖のある素朴な栗毛に目がいって口走ってしまった。星火石の首飾りに照らし出された髪は、やや金茶がかった常より華やかな色味に変わり、癖のあるうねりの中に彫刻めいた濃淡を作る。
以前ならば手を加えるといっても太い三つ編み程度にしかしていなかったその髪型が、ここ数日で実に手のかかった編み込みやマーガレット型へと整えられているのだ。
「あぁ、これ? やっぱり似合わないよねぇ? 私もそう言ったんだけど」
俺の言葉にそう笑ったリンクスは言うが早いか、その美しく細かな三つ編みを幾つも編み込んで一纏めにした髪の中に指を突っ込み、もぎ取るように飾り房の付いた髪留めを引き抜いた。
――――止める暇もないその一連の動作。
瞬間的に自分がどれだけ口を滑らせたのか理解する。
「ちょっと待ってね……と。こっちの方が私らしくて見つけやすいよね?」
細かく編んだ三つ編みを指先で扱くこともなく、乱暴に解こうとするその手を掴む。すると、本当に不思議そうな表情で「どうしたの?」と訊ねてくる鳶色の瞳。
その瞳に別の感情を探そうとするが、微かに暴かれることを拒絶の色が滲んでいる気がした。
「手、離してくれなきゃ解けないよ」
軽い声音と弧を描く唇に、考え過ぎかと手を離す。
「いやー、やっぱりやりなれない真似はするもんじゃないよね。たったここ数日髪型いじっただけで肩が凝っちゃった」
明るく笑いながら細かい三つ編みを乱暴に手櫛で解くものだから、星火石の首飾りに照らされて、一本、また一本と金茶の糸が地面に落ちていく。頭の中では何か言葉をかけようと思うのに、上手くこの場を納める言葉を思い付かない。
「よし、これが最後の一本、と。……どう? スティルマン君。これで見慣れた私になったでしょう?」
元からフワリと横に広がる大きな波を描いた栗毛の髪は、細かな三つ編みを解いたせいで、レースのように縮れ、いつもよりだいぶ細かくその小麦色の頬に陰影を残す。
その姿が、自分がこの“友人”に対して、どうしようもないことをさせてしまったような、そんな気がした。
「それよりもほら、スティルマン君。早く星詠みしないと、時間がなくなっちゃうよ?」
一本立てられた人差し指が、秋の星座が彩る夜空を指し示す。
リンクスに贈った胸元に輝く星火石の首飾りが照らし出す地上と、満天の星の輝きが、胸の奥を引っかくような――そんな苦い夜の星詠み。
本当は、たった一言、こう訊きたかっただけなのに。
“最近何かあったのか?”――と。
今さら言い出せるはずもなく見上げた空の闇の濃さは、背中合わせに星を詠む、いったいどちらの物だったのか。




