約束の墓場
全てをもう一人の人格に奪われ、心の中に閉じ込められた男は、はじまりの椅子に背を押され、果てしない思考の海を宛もなく彷徨い、荒野にたどり着いた。
切り立った崖の上、眼下に広がる荒野を見つけたのは、偶然だったのかも知れない。
薄暗い荒野には点々と淡く光る星屑の様な何かがあって、その光に触れてみようと足を進めた。辺り見回せば、そこは痛みで溢れていて、そこに立って初めて、そこが一体どういう所なのか気付かされる。
点々と淡く光る星屑の様な何かは墓標で、それは男が何もかも奪われる以前に交わされた約束だった。
打ち捨てられた絵本のように、約束という名の記憶が溢れてきて、沢山の記憶を目にして、無くしてしまったそれらが胸を締め付ける。
まるでここは約束の墓場だ…
痛みを伴う行き場もない約束に、知らず知らずのうちに涙がこぼれ落ちた。
「あぁなんで忘れてしまったのだろう。
幾ら記憶も居場所も奪われたからって酷すぎる。」
なんて残酷なんだ。
もう死んでしまって、この世に居ない人々との、叶える事の出来ない約束を、泣きながら掘り返す。
「こんな…こんなっ!」
慟哭する声ばかりが辺りに響いた。胸が痛い理由なんて分からない。
分かりたくもない。
けどそれらを忘れて良いはずなんてない。
だから素手でザクザクと土を掘り返し、骸を漁るように記憶を求めた。だって、この終わりの見えない荒野に点在する墓標は全て、死ぬ間際の相手と交わした最後の約束なのだから……
全てを奪ったもう一人の人格が、隠す様に埋めた物を無心で掘り返し、そうして幾つも幾つも思い出した時、痛みの中からたった一つの大切な約束を見つける。
「オレから奪って隠したかった痛みはこれなのか?」
自分自身も忘れてしまっていた最も古い記憶、存在意義、ただ流れていた筈の涙が、胸を突く痛みが、感情を宿し、涙と罪悪感に変わる。それが初めて哀しみだと気付いた。
色を無くしていたこの心は、世界は、哀しみという色で染まる。土の底から心は解き放たれた。
遠い遠い約束…
自身が一体何者なのか、長い倦怠の中で忘れ去られていた記憶がそこにあった。忘れてしまっていた自身の中に記された、たった一つの真実。
約束は告げる。
最も求めていた事実を、全てを奪われた者に……
哀しみを取り戻したこの胸で、約束は生きている。止まっていた胸の鼓動が動き出した。雷に全てを奪われ、はじまりの椅子に背中を押され、約束が死んでいた体に鼓動を与える。男は片割れを追い求め駆け出した。
今はただ約束という名の鼓動が急かすままに、失った物を追う。奪われた者が突き進んだ先に待つモノは何なのか。片割れに追いついたその時、一体何が起こるのか。
そんな事はちっとも分からない。
分かる事はただの一つきり、男の足は痛みの墓場を、約束の墓場を越えたという事ただそれだけ……
約束の鼓動は鳴り続けた。