箱の中身は……
箱の中身を知る者は、送り主と受取人、それからごくたまに配達人が、見ることのない中身を文字の羅列で知る位、ただのそれだけ。
そして今、事件の鍵を握る箱は送り出されようとしていた。
容疑者、存在しない男の手によって……
路地の奥の奥にある閉ざされたバーで、存在しない男は待っていた。人々の記憶に留まる事の出来ない、存在しないと言われた男の数少ない知り合いを……
バーの入り口のノブがカチャリと傾いた。
「あんたから連絡をくれるなんて、珍しいじゃないか?」
現れたのは、燃える様な髪に、赤いコートを羽織る、赤縁眼鏡の男だった。男は近寄りながら、煙草を取り出しくわえると、オイルライターで火を点け立ち止まる。
「今日は一体全体なんでオレを呼んだ?
始末して欲しい死体でもあるのか?」
「違うよ。」
煙りを吐く男の口の端に笑みが浮かぶ。男の目が興味深げに細められた。
「死体じゃないならなんだ?」
存在しない男に顎で示されたダンボール箱に視線を移す。
「こいつを足がつかない様に届けて欲しい。」
ダンボール箱には封がしてあり、聞いた事のない宅配業者の送り状が貼り付けられていた。
「ドラゴンフライサービス……
おい、こりゃあオレへの当て付けか?」
「眼鏡に真っ赤な出で立ち、赤蜻蛉みたいだろ?
だからドラゴンフライサービス、間違ってるか?」
ワザと可愛らしく小首を傾げる様に、男は苦笑する。
「赤蜻蛉ねぇ……
オレにはブラッディホロウっていう、立派な通り名があるんですけど。」
「知ってるよアキ。」
素っ気ない返事とアキと呼ばれた事で、男の顔が少し強ばる。この男が自身をアキと呼ぶ時は、至って真面目な仕事の話しをする時で、ふざけた名前の送り状に思わず気を弛ませてしまっていた事実に、アキはばつの悪さから頭を掻いた。
気持ちを切り替える様に、送り状を眺める。
一見ただの送り状だが、そこに書かれている内容に驚いた。
「おい、これっ…」
声を荒げそうになった口を、男の手で塞がれる。入力欄には「人間」と書かれており、アキは動揺した。
殺しに関わるどんな仕事も請け負ってきたが、生きた人間を殺し合いや取引以外で扱った事は、今回が初めてで、この荷物をぞんざいに扱ってしまわないか不安になる。
いつだって相手は死体だから、生きてる者は簡単に壊れてしまうという観念から、勝手が分からず怖いのだ。だからだろうか、動揺のあまり聞き返さずにはいられなかったのだろう。
「生きた人間で間違えない。それよりアキ、声が大きい。
オレの力で蓋を開けるまで仮死状態にしてあるけど、キーワードを強く言えば、力が解けてしまうのはアキも知っているだろう?
キーワードは「本当に」を付けた「生きているのか?」だ。
突然中身が目覚めたりして、困りたくはないだろ?
気を付けてくれ…」
コクコクと頷けば口から手が放れる。
「送り先が警察署っていうのはどういう事だ?」
「箱の中身が、この顔を記憶出来た人間だからだよ。」
「おいおい、捕まりたいのか?」
頷く姿にアキはため息をついた。この男がとんでもない事を言うのは、今に始まった事ではないが、まさか大人しく警察に捕まる様な男だとは思っていなかったからだ。
「箱の中身は何も言わなかったけど、きっとオレはこいつに憎まれていると思うから、だからこいつに復讐する機会をあげようかと思ってね。」
「復讐ねぇ……」
「仕事に失敗したからだよ。」
珍しい事もあったものだ。
この男が仕事に失敗するなど、有り得ない。いつもと違う行動に、アキが知っている存在しない男、その人ではないような気がした。
見た目は同じでも中身は違う。そんな感じだ。まるで他の贈り物に紛れ込んでも気が付かない、この届け物の箱の様に……
お前も、この箱の中身も、どうなってるんだかな。それは配達人には分からない。
「アキは何故失敗したか聞かないのか?」
「聞かねぇよ。」
聞かない理由は、自身をアキと呼ぶ男の今の言葉が、この男の中身が全く知らない他人だと、知らしめたからだ。
他人だと言い切れる根拠は2つあって、1つは前に会った時に本物の存在しない男が「次は違う人間になっているかもしれない。」とぼやいていたのを思い出したから、仕事に支障をきたさないように、この話しは随分前からされていた。
記憶が少しずつ消えている事とか、多分二重人格ではないかとか色々。
もう1つは、話し口調や振る舞い方が前と変わらないのに、いつもなら絶対に話す事はない、終わった仕事の話しをしようとしたから、この男が本物の存在しない男なら、何故失敗したのかなんて意見を求めたりしない。
この2つの根拠は目の前の男を不思議な程他人に見せて、そしてそれ以上は知ってはいけない事だと実感させた。
有り得ない質問だからといって、中身が変わってしまった事を隠している男を不信に思い。お前は誰だと聞いたら殺されるだろう。
だからアキは聞かなかったというより、聞けなかった。この知っている他人は、多分残酷で恐ろしい人間だからだ。
「復讐させるなんて言ったところで、お前はただ捕まるなんて癪だから逃げるだろ?
お前の顔を記憶出来る数少ない選ばれし人間を、わざわざ箱庭に閉じ込めずに警察に引き渡したって、意味ないだろ?」
「意味はある。本当にこの中身と警察がオレを捕まえたかったら、逃げてもきっと捕まる。
そうして逃げていくうちに真実が見えてくるんだよ。
死なないこの体が一体なんなのかとか、オレは一体何者なのかとか、何故存在しないのかとか、その答えが分かる気がする。」
新しい人格様は随分と前向きだと思った。答えを求めるだなんてとうの昔に過ぎ去った出来事で、諦めていたはずだから。
死に場所を探して徘徊するスナイパーよりはマシだが、捕まりたがりなスナイパーもどうかと思った。
「それじゃあオレはこれで…」
「仕事か?」
「そうだよ。時間が無いから急がないと……」
半分押し付ける様に、存在しない男はバーを後にした。残されたアキは箱を見下ろす。
「時間が無いからか……
ただ単に仕事に間に合わないだけじゃないだろ?
なんの時間が足りないんだか。」
レザー生地の手袋越しに宛名をなぞる。
自分が何者か知りたがっていた事は知っている。
「けど本人でもない癖に、分かるもんだろうかね?」
そうぽつりと零したアキは怖い位に無表情だった。
その日の夕方その箱は誰にも気付かれずに、地下鉄無差別殺人事件本部のど真ん中に届けられる。配達人を見た者は居ない。忽然と置かれた大きな荷物に気付く者もまだ居ない。
それは容疑者から贈られたささやかな手掛かり……
箱の中身は未だ眠り続ける。箱を受取人が開けるその時を夢見ながら……