存在しない男
狙撃銃を抱き吐く息は白い。
「時間だ…」
革の手袋をした男の指先が引き金にかかり、照準を覗く。標的が現れるのを待ちながら、男は感慨に耽っていた。
集中しなくてはならないというのに、自身の片割れが脳裏にチラ付いたからだ。
体を奪ったのはつい最近の事、男は二重人格だった。標的が姿を現す。
「なぁ……オレの中で眠っているあんたは、あんな屑野郎にも泣くのか?」
静かに零した言葉は、思った以上にかすれていた。話しながら出て来た標的は、まさか狙われているとは思っていない。男は微笑み照準を標的に合わせた。
引き金を引くべきか一瞬躊躇ったのが幸運だったのか、手を止める。
ため息混じりの息を吐き出せば、銃口の狙う先、標的と被る様に付き添いの男が立った。ふと男が気付いているのでは?と思う。失敗すれば標的を狙うチャンスを失ってしまうから、男は付き添いの男が退くのをじっと待った。
「どう思う?もう一人のオレ……」
自身に語りかけるなんて馬鹿馬鹿しくて、唇が弧を描いた。眠りに付いた片割れが応える事などあるわけがない。しかも片割れを故意に眠らせ、この体を奪ったのは自分自身なのだ。
例え目覚めていたとしても、応えはしないだろう。男にとって片割れは守るべき者だが、片割れにとって男は憎むべき者だからだ。
「あんたはオレを恨んでいるんだろうな…」
この世で最も慈悲深い片割れは、この世で最も残酷な男だった。人殺しを生業とし、闇の中でしか生きられない。闇から抜け出して光の中を行く事はできなかった。
この体が人の物ではないからだ。
人のフリをして生きている不死の生き物、遠い遠い昔に、この世に生まれ落ちた時から、自身が何者かも分からないまま、今まで生きてきた。
孤独と嘆きに苛まれる片割れ、自身が何者かも分からないのに、人として生き、人として死を迎える事を望んだ片割れの心は、砕け散ってしまいそうだった。
だから男は片割れから体を奪った。
返すつもりはない。
片割れは不器用だから、きっとこの残酷な世界を取り戻せば、また苦しむ。男にとって片割れの目覚め程怖い物はなかった。
記憶を、居場所を取り返すのではないかと、そう思う度に不安を感じた。
あんたにこの世界は不似合いなんだよ
思考に反発しているのか、胸に走る痛みに、男は顔を歪めた。成りすます事で守れるならそれでいい。
「本当馬鹿な奴だ。オレも、あんたも。
でもなオレに涙は要らないんだよ。オレは残酷だから、この痛みも嘆きも受け入れられる……」
いつまでも考えてしまいそうな思考を黙らせる様に、標的の一瞬の隙を突いて引き金を引いた。突然パタリと倒れた標的に、付き添いの男が慌てて引き起こす。
「…そいつはもう死んでるよ。」
呟やきながら、素早く獲物をケースにねじ込んだ。何事も無かったかの様な軽い足取りで、階下へ向かう。
ビルの三階には楽器店が、その入り口を横目に、簡素なロビーから現れた男は、既に楽器店の客でしかなかった。
肩に掛けたケースの中に、まさか狙撃銃がしまわれているとは、誰も思わない。何かの楽器にしか見えないそれを肩にかけ直し通りに出た。
騒然とする渦中に驚いた様な素振りで溶け込み、少ししてから男は人垣に背を向ける。何もかも完璧だった。
男を止める者は誰も居ない。
路地を曲がろうとした次の瞬間、胸にズキンと痛みが走り、立ち止まった。もう一人の人格が頭に浮かんで、振り返る。頭の中で警鐘が鳴り響いた。
止まったのも振り返ったのも偶然だろ?
自分自身に言い聞かせる思考に嫌気がした。偶然なのに何故こんなにもこの空間では異質なんだ。答えは簡単な事だ。突き刺す様な視線に、舌打ちする。
「残酷な世界だよ本当。」
視線の正体は付き添いの男、何も知らない者達の中で、睨み合う二人は酷く異質だった。眠りについた片割れの感だろうか、付き添いの男が同業者だと訴えかけてきた。偶然なんかじゃない。
オレの足を止めさせたのは、あんたの仕業なんだろう?
自身の胸の内に問い掛けても返事は返らない。心臓が早鐘を打ち、睨み付ける視線に唇は声を上げずに動いた。
残酷だろ?
付き添いの男の視線が一層キツくなった。やがてパトカーのサイレンの音が聞こえて、男は踵を返す。踏み出す足、遠くなる喧騒、片割れの嘆く痛みが胸をジクジクと蝕んだ。
「あんたにとってこの世界は、苦しみでしかないというのに目覚めるのか?」
片割れに語りかけたが応えはない。
「あんたには返さないと決めたんだ。ここには痛みしかないのだから…」
残酷でなければならない。そうでなければ成りすませやしないんだ。
罪も業も奪ってやるから、あんたは眠るがいいさ。
仕事も未練も痛みも全て慈悲深いあんたには必要ないんだ。
「残酷な世界だよ本当……
かと言うオレも大概に残酷か?」
男は人混みに紛れ、地下鉄に乗り込む。耳にしたイヤホンから流れる音が俗世から引き離した。
ドンっと鈍い衝撃、外れたイヤホン…
漏れる音など気にならない程、男の耳に届いた声は、男を現実世界に引き戻した。
「逃しはしないぞこの裏切り者が!」
かすれた声に冷笑する。遅れて背に痛みが走った。
「そんなんじゃ死なない事位分かるだろうに…」
男は背を刺されていた。しかし血は流れない。そのあまりの異質さに恐怖し、震え、叫ぶ男を、冷めた目で見つめた。
化け物か……
突き刺さるナイフに騒然とする車内で、男は背のナイフを引き抜き、心臓を一突きする。甲高い悲鳴が聞こえて、付き添いの男は車内にゴロリと倒れた。
「残酷でなければならない。あんたらも運が悪いな。」
弧を描く唇。
次の駅、死体を残したまま男は下車した。刺された男の背の傷は跡形もない。
顔も割れない。
血の着いたナイフが軽い音を立てて、階段を跳ねホームに落ちた。地下鉄は何事もなく発車する。
存在せず、認識されず、死を与える事が男の生業だ?
男の中で眠る人格にとって、奪われた居場所が幸せかどうかなんて分からない。ただそこは酷く痛みに満ちている。だからこそ男は奪った。
求めるな。
男の願いも虚しく、眠りに付いたはずの人格は歩き出した。男は気づかない。自身の中で抵抗する存在を、始まりの椅子から旅立った存在を。
監視カメラに火花が散って、それは壊れて落ちた。
存在しない男……
人殺しを生業とし、闇の中でしか生きられない残酷な男、男の存在は確かにその場所から消え失せた。