はじまりの椅子
深海に落ちる様に無音の世界はどこまでも穏やかだった。
あぁ……体も記憶も奪われたんだったな……
思い起こしてみて、酷く不思議に思えた。何もかも奪われたのならば、この自我も消滅していくものだと思っていたからだ。
閉じていた瞳を開けば、頭上から降り注ぐ光のカーテンが、暗闇にポツリと置かれた簡素な椅子を照らしていた。
見上げればまるで水底から水面を見る様に不安定な光、椅子はただの一つきり、無意識に伸びた手が椅子に触れた途端、椅子から溢れる記憶が、ガツンと脳を突いた。
「な……んだ?なんなんだよ!!」
椅子は応えない。応える訳がなかった。
ズキズキと痛む頭、見えた記憶はここに座る自分によく似た存在、全てを奪った張本人、もう一人の人格、鼓動が煩い。
『座れよ………』
耳元で聞こえた声に、背筋が凍りついた。
恐怖に捕らわれたまま振り返れば、そこは暗闇、安堵からフラつく足はもつれ、崩れ座り込んだそこは、椅子の上。
ヒクリと喉が鳴り引きつった。
耳なりが音を奪って、ざわめくノイズが遅れてやって来る。
絶叫した。
頭が割れてしまいそうな情報、記憶、存在、視界に溢れるこの光景は誰の物。
椅子は応えない。
椅子はただただ真実を与えるだけ、無くした物を取り戻せと言う様に……
辺りは静寂で満ちた。暗闇にあるのは水底に落ちた光に照らされた椅子がただの一つきり、簡素な椅子は始まりの場所。
奪われた者は奪った者の記憶を糧に、椅子というありかに背を押され旅立った。
椅子は静かにそこにある。
椅子は奪った者を嘲笑う。帰っておいでと、そして座りなさいと。
奪った者を形成する全てを打ち砕く様に、対を求める様に、奪われた者は全てを取り戻すために歩き出した。