禁聴の夏
暮子の愛するシンセイT80にエアコンはない。
だから夏場の暮子は大抵汗だくで、シンセイのシートはひと夏の間、大変な量の暮子の汗を吸い込むことになる。
ので、だいたい三年くらいのサイクルで、暮子は座席のシートを張り替えることになる。どれだけ強固な防水をうたったシートもほぼ二年程度でダメになるので、本来は二年ごとくらいに張り替えたいのだが、毎回一年くらいは補修しつつ騙し騙し座ることにしている。暮子はこれで結構貧乏性なのだ。
剥がしたシートを捨てるのも簡単にはゆかない。暮子も女でこのスタイルだから、それなりに慕ってくれるというか性的な意思を向けてくる男どももいる。世は何十年も前からずっと美白色白流行りだが、褐色の肌がむしろいいというもの好きもいないわけではない。
あるとき捨てようとしていたシートを欲しいと詰め寄られた。暮子の汗を吸いに吸ったシートを何としてでも欲しいのだという。
散々に罵声と蹴りをあびせて追い返したが、その夜、ゴミ捨て場に置いていたシートは何者かに盗み出された。
暮子は釘バットを助手席に放り込み、シンセイを男の住まいに横付けし、ほんのちょっぴりお話をさせていただいて、無事にシートを取り返した。
以来、古いシートを廃棄するときは、ひっそりと見つからないよう捨てることにしている。
「女は深夜一人で出歩いちゃあいけない。よくそう言われますけどねぇ。そんなはずはない。歩いてはいけなくしてるんっすよ。色んなものが。それは、女であることのせいじゃないでしょうよ」
暑さのせいで不快指数マックスな暮子がぶつくさ言いながら半ばとろけるようにしてハンドルに寄りかかっている。上半身は真っ赤なブラだけ、下半身はデニムのショートパンツといういで立ちで、やる気は欠片も見受けられない。
「しかし、なんちゅー恰好じゃ」
「大丈夫っすよ。これ、下着じゃなくて水着っすから。ブラじゃないから恥ずかしくない」
「お主にそういう恥じらいがあったことがまず驚きじゃ」
小さな布地の赤い水着は暮子の胸肉の大事な部分三分の一くらいを隠している。残り三分の二ほどの大容量を露出されたそれは、今日ばかりは全部をハンドルの上に投げ出されて、広く伸び広がっている。それでもしっかりと谷間というか渓谷といって差し支えないものができている圧倒的大質量であった。
「エロいのはいいことなんっすよ。基本的には。まあ、あたしも正直、武器に使うこともあるっすからね。でもね。何っすかね。節度っていうか。そういうものが大事なんじゃないっすかね。シモネタをこそ上品かつエレガントにっていうか。節度。うん。大事っすよね。何でもかんでも法やらルールで決めていっちゃうと、それだけどんどこ窮屈になっていくっすからね」
「お主が何を言っておるのかまったくわからんし、今のお主は色々開放しすぎじゃろう」
「太陽がまぶしいから、仕方ないっすよね」
暮子の愛トラック、シンセイT80には神様が宿っている。諸般の事情からそうなったもので、暮子が望んでしたわけではないが、神様は今もシンセイと一体化し、仕事中の暮子の話し相手となっている。様々な経緯を含め許したわけでは決してないが、この状況に少々慣れつつあるのも事実だ。
ちなみに神様の声は、フロントから吊り下げている交通安全のお守りから響いてくる。こういうものは媒介にしやすいのだという。
海沿い、海岸を流していた暮子がシンセイを停車させる。ちょうどそのタイミングで、黄色の幌なしハイウェイスターとすれ違う。海岸沿いを走るならああいう車がいい。特に夏場は。
車体半分だけ砂浜に突っ込ませたところで放置してトラックを降り、ショートパンツを脱ぐ。上下ともに赤いビキニ姿だ。背の高い暮子は、尻から足のラインにかけてもそこそこ自信を持っている。腰の位置も高いから、その昔モデルにならないかと誘われたこともある。しもむらのチラシのだが。
「それじゃあちょっと入ってきますんで。神様、留守番よろしく」
「どこに行くんじゃ」
「海の底には神様がたくさん沈んでるんっすよ。知らないんっすか」
胸と尻を揺らしながら暮子が海へと向かってゆく。
「おい! どれのこと言っておるのかわからんがそれ、どれ選んでもあかんやつじゃないのか! おいこら! 娘っ子!」
暮子が波の向こうへ消えてゆく。その後、暮子の姿を見たものはだれもいなかった。
ということはまったくなかった。
「いやあ、今回は大漁だったっすよ」
重量を増したシンセイを転がしながら、暮子は上機嫌だ。朝のやる気のなさはいったい何だったのだろうかと思う。
濡れた黒髪がばさばさ吹き込む風で乾くに任せて、暮子はトラックを走らせる。荷台に何が、どのようなものが積まれているのか。神様は見ないことに、そして何も聞かないことにした。
「しかし、こういうのってどうなるんじゃ」
「拾得物は届け出ることになってるっすけどねぇ。ま、ルールと実際の運用は別っすよねえ。実際の方だと、届け出た方が迷惑な顔されて、色々な処理に困ることの方が多いっすからねえ。神様憑きだと余計っすよ」
「じゃあどうするんじゃ」
「誰もが幸せにならないルールって、守ってゆくのが大変すよねえ。実務的にも。心情的にも。そんなものがいっぱいで、世の中、いったいどうやって回ってるんすかねぇ。不思議っすねぇ」
「こわい。この娘っ子こわい」
トラックの神様と物語の神様はそれ以上踏み込まないことにした。知らない方が心穏やかでいられることは、確実に存在するのだ。
(完)