ゼロと一のあいだ
トラックが走っている。
ランプとノーズの丸っこい、古めかしいデザインのトラックだ。近頃ではついぞ目にしない型のそれが車体を揺らしつつ舗装されていない道を進んでゆく。
運転しているのは女だ。短髪で肌が浅黒いため、遠目では男に見間違うかもしれない。が、緑色のTシャツを大きく押し上げている胸元が、彼女が彼女であることを誇示していた。
所持している本人自身も重いのか、女は胸を大ぶりなハンドルに半ばを乗せるようにして運転している。ハンドルのところどころは変色し、被せてあるカバーもところどころがやぶれている。古いのは、どうやらデザインだけではないらしい。
四十キロほどのスピードで、くわえ煙草のまま女はのろのろと車を走らせる。やる気はまったく、感じられない。トラックはぶかぶかと煙を吐き出し、開けられた運転席側の窓からも断続的に煙が排出される。
木立が切れ、田園の風景に切り替わる。トラックは変わらぬスピードで進んでゆく。遠景には霞がかかり、その奥にうっすらと、霊峰と名高い隙羅山の姿が望める。
田園の続く風景をいくらか通り抜けたところで、トラックはようやく停まる。トラックとどちらが年季が入っているかと思われるような、古い一軒家だ。
運転席から女が降りてきた。霊峰に負けじ劣らずな双丘を揺らしつつそのまま家の中へと入ってゆく。
「毎度ぉ、『ひまら屋』でぇす」
女にしては野太い声だった。待っていたかのように、すぐに老女が玄関に出てきた。
「まぁまぁ暮子ちゃん、早かったね」
「ここんとこ暇だったんで。で、今日は」
「それがねぇ。あれなのよ」
老女が指し示した方を見やる。そこにはコード類を抜かれてひとまとめにされたデスクトップパソコン一式が鎮座していた。本体前面には大きなものと小さなもの、二つのフロッピーディスクスロットが備え付けてあり、モニターの厚みは三十センチほどもある。そして、もともとグレーであったと思われる筐体は、見事に黄化している。
「わしはまだまだ現役じゃ! 北極大探検だってアルティマだって遊べるんじゃ! わしを捨てるなんてとんでもない!」
そして喋っていた。電源コードは抜かれているのに。
暮子は笑みを浮かべた。
「なるほど。大事にされていたんですねぇ」
「そうなのよ。これこそが至高であり、いくらスペックが良くなろうもこれ以上のマシンはない、んですって」
「素晴らしい信仰です」
強すぎる信仰が神を生み出すことはよくあることだ。古くはつくもがみ、などとも呼ばれていたが、今やあちこちに溢れすぎて、恐れもありがたみも薄れつつある。
だがそれでも、崇めている人物にとって神は神だ。強い信仰は物質に力を与え、長く思いを注入され続けた物質はその存在自体を変化させる。
そうして例えば、通電してもいないのに勝手に喋り出すパソコン、なんてモノを生み出したりするのだ。声帯はどこだ。
だが、崇めている人物以外にとっては、進化……もとい、神化した物質は面倒なものであることが多い。それはもう、とてつもなく多い。
なので、暮子たちのような仕事が成り立つ。
「それじゃ、回収させていただきまぁす」
まずはモニターかな、と暮子は軍手を填めた手でモニターを持ち上げる。
「ま、待て! なにをする! わしをこの家から引き離すつもりか!」
「ええ、まあ」
「そんなことは断じて許さんぞ! わしはここを絶対に動かん!」
「でも神様。あんた、喋れるようになった以外に何の神通力も持っていないみたいだけど」
「力ずくでわしを追い出すつもりか! おのれ! いったい何が望みだ! 金か! 金で雇われたのか!」
「ええそうです。そして、払ってくれるのは神様じゃなくて、おばあちゃん」
「ぐぬぬ……」
そんなやり取りをしている間に、本体以外のパーツをすべて屋外に運び出している。粛々と。丁寧かつ迅速に。
「鬼じゃ……この娘っ子は鬼じゃ……。この世には神も仏もおらんのか……」
「いすぎて困ってるからあたしらががんばって働いてんですよ。よし、しゅーりょー」
最後の本体をトラックの荷台に担ぎ上げ、布団を巻きつけてロープで梱包してゆく。スピーカー部分からなにやら喚き声が聞こえてきたが、その部分を念入りにシールしてコンテナに放り込んだ。
「それじゃあおばあちゃん、また出てきたら電話して」
「はいはい。いつもありがとうね」
神様を積み込んだトラックが動き出す。暮子はナツミカンスピリットの箱から一本を抜き出すと、口にくわえた。
「おい! わしを戻せ! 今すぐ戻せ! でないと祟るぞ!」
運転する暮子の頭の中に直接パソコンじいさんの怒鳴り声が響く。どうやらスピーカーを通さず話す術を身につけたらしい。必要は発明の神。なるほど。
「もう諦めたらどうっすか。こうなっちゃったら、もうどうしようもないっしょ。ゼロか一かで割り切りましょうよ」
「上手いこと言いおったつもりか小娘!」
「だいたい、戻ってどうするんですか。あの家に、神様を崇めていたおばあちゃんの旦那さんは、もういないんですよ」
パソコンの持ち主だったおじいさんは、半年前に亡くなった。物持ちのいい、というか、物に必要以上に愛情を注ぐたちの人であったらしく、暮子はこれまでに二度、あの家を訪れている。今回が三度目。
一度目は掛け軸、二度目は荷台付きの自転車だった。どちらもこのパソコンよりもっと古いものであるように思われたが、変化しかけたばかりの若い神様だった。おじいさんがこのパソコンにどれだけ信仰を注いでいたかがわかろうというものだ。
そういえばゲーム機にも変化すんのが結構あんなあ、と暮子は思った。サガのテラドライブとか。マークXとか。何と言ってもサガ製品がいっとう多い。
「あそこに戻ったとして。信仰がない神様は、ゆっくりゆっくりと、消えていくだけなんですよ。そして、神様が完全に消えるまで、おばあちゃんは何もできない。処分することも売却することもできず、ただ放置おくことしかできない」
「玉枝はそんなことはせん! あれは心優しい女じゃ! きっとわしにも愛を注ぎ、大切にしてくれる!」
玉枝というのは確か、おばあちゃんの名前だ。山道を抜けたトラックはゆるやかな平坦な一本道に差し掛かっている。暮子は煙を盛大に吐き出した。
「そんな簡単なことじゃないんっすよ。神様を信仰していたのはおばあちゃんじゃなくておじいちゃん。ここを間違っちゃいけない。おじいちゃんは神様とお話しできることが楽しみだったかもしれんけど、おばあちゃんがそうだとは限らない」
「だが! 玉枝はひとりになってしまうではないか!」
「それはおばあちゃんが自分で考えることだし、おばあちゃんにはおばあちゃんの信じるものがあるでしょうよ」
神様になってしまうような物は、大抵の場合、対象の生活に深く食い込んでいる。だから、人とともに、寄り添って生きることが当たり前だと思っているし、それが正しいことだと信じて疑わない。むしろそれを体現してしまうからこその神様であるともいえる。
だが、人が心を傾ける方向は、様々なんだ。
「神様。おばあちゃんに、生き方を押し付けちゃいけない。意思を押し付けちゃいけない。おばあちゃんは、確かにやさしい人なんでしょう。神様があの家にいたら、時々世間話をして、寄り添っていてくれるのかもしれない」
でもね。
「おばあちゃんはどうしたらいいか困った末に、あたしら回収屋を呼んだ。それがどういうことか、考えましょうよ」
さっきまでうるさかった音声が、鳴りやんだ。
神様というのは、己に寄せられる想いというのに敏感なはずだ。本来なら人間である暮子などよりずっと正確に、他者から己に寄せられる気持ちを測ることができる。らしい、というのがこれまでこの仕事をやってきた暮子の実感だ。
「他人に自分の思い描くしあわせのかたちを押し付けること。こいつをだれもがしなくなくなりゃあ、この世界はもっとずっと生きやすくなると思うんですけどねぇ」
何に、誰に寄り添うかは、それぞれがそれぞれで、自分の意思で決めるのだ。それができるようになればいい。
「……じゃが、それではわしらは存在していられぬ。誰かに信じてもらえねば、ここに在られぬ」
「そうっすね。難しいっすね」
目的地が見えてきた。大きなプレハブ建ての倉庫が、平屋に隣接するように設えている。
車庫を兼ねた倉庫に、暮子はトラックを侵入させる。
「ここがうちの店。完全に消えてしまうまでは、ここで過ごしてもらいます。その間にあたしの方で新しい貰い手を探しておくんで……神様?」
いつしか、音声が完全に消えている。暮子は停車させると、ちょっとだけ慌てて荷台へと向かう。女の肉は強力な武器だが、ときには邪魔になるときもある。
コンテナを開く。中にみっしりと詰められたパソコンからは、何の存在も感じ取れなかった。
暮子が異変に気付いたのは、翌日のことだ。
「遅いぞ娘っ子!」
その声は暮子の座ったシートの下側から響いてきた。
「神様……。何で?」
狭い座席で思わず立ち上がり、辺りを見回す。パソコンは昨日、荷台から降ろしたはずだが。
「うむ。お主はなかなか見所がある。わしらのこともようわかっとる。だから、このわしがお主を手助けしてやることにした!」
ぞくり、と背筋に嫌なものを感じてハンドルを擦る。
「まさか……この子に移ったんっすか!」
「うむ! お主はこのトラックになかなかの想いを注いでおったようなんでな! こっちに移らせてもらった!」
「ちょ! 何勝手なことしてるんっすか! 昨日言いましたよね? そういう押し付けはよくないって!」
「ああ聞いたぞ! だがそれは人の世界の話じゃ! わしらには関係ない!」
「……うわー、めんどくせぇ。消していいっすか?」
「やれるもんならやってみい! お主にこのトラックが捨てられるか!」
暮子はハンドルに倒れこむ。しまった。油断した。きっとエンジンを切るその瞬間を狙って、乗り移ったのだ。エンジンやスイッチのある機械は、毎日死んで生き直すのと同じ。パソコンなら、そのゼロと一の間に狙いすまして飛び込むのも容易いだろう。
「これからよろしく頼むぞ娘っ子! そうじゃ、座席の裏かフロントガラスの上に神棚をつくってくれ!」
どうしたもんか。倒れこんだまま前方をにらみつつ、暮子はとりあえず一服つけてから考えることにした。
(完)