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「あ、あの!サーヤです!私の名前、ツクァモーリ=サーヤといいます」
突然、彼女が自らの名を告げた。
サーヤ、ツクァモーリ=サーヤ…、ツクァモーリ…。
俺が訊いたときには答えてくれなかったのに、ダグラスには教えるのか?
小さな怒りと悲しいという感情に苛まれる。
「ダグラスさん、ロイスさん、よろしくお願いします」
彼女がダグラスとロイスの名前を呼んだことで我に返った。
いつの間にか俺から腕を取り戻して、逃げ出していたダグラスだけでなく、ロイスまでもが彼女の名を呼び、彼女に名を呼ばれている。
くそっ!これだから人族は油断がならない!
獣人である俺は、容易く女性の名を口にすることができないというのに…。
はぁ…、仕方がないことだ。
思わずため息を吐いていたら、ぽすぽすと胸の辺りに何かが当たっていることに気付いて、何なんだとそちらを見て固まった。
「隊長さんのお名前をお伺いしても?」
吸い込まれそうな黒い瞳が俺を見ていた。
獣人の俺に名を問うことの意味を解っているのか?
獣人が名を呼ぶのを許すのは親しい者にだけ。名を告げるのは、名を訊ねるのは"あなたと親しい関係になりたい"という意思表示だ。
もっとも、俺は既に彼女に名を告げているが…。
いや、そもそも俺が獣人だと気付いていないのかもしれない。通常の獣人のように耳や尾が俺にはない。俺は先祖帰りといわれる外見的特徴がない種だからな。
先祖帰りは外見的特徴がないから、獣人であると明かしてから相手に呼ばせる名、"警備隊隊長"を伝えるのが当たり前なのに、俺はそれをしなかった。
彼女が、俺が名乗ったことを忘れているなら、何もなかったことにした方がよいのか…?
「あー、ツクァちゃん、隊長はじゅ」
「もう名乗った」
名乗り直しを考えていると、ダグラスが俺が獣人だと彼女に言いそうになったのを遮っていた。
「「「えっ!?」」」
やってしまった、と後悔しても遅い。
名を告げる行為の"親しい"は異性に対しては友人ではなく、恋人を求める意味合いが強い。それを知っているダグラスやロイスが驚くのも当然だろう。
ダグラスたちの反応や俺の体格から、もう彼女も俺が獣人だと解ったはずだ。そして獣人だと明かさずにした名乗り、名を呼ばせようとした不埒な行為に嫌悪を抱くことになる。考え込む様子の彼女から蔑みの言葉が発せられるのを覚悟した。
「ぁ…、セイリオス…さん…?」
彼女の唇が俺の名を象り、耳に響く鈴の音が彼女の声だと解って歓喜に胸が震える。
彼女は花がほころぶように笑う。
俺だけに向けられた黒い瞳に、自分の締まりのない顔が写っていた。だらしなく下がった目尻に緩みきった顔、だらしない顔を見せていたなんて…。
どうする?どうしたらいい?
顔が火照ったように熱くなり、動揺で視線がさ迷う。
「んんっ!ゴホンッ!」
ダグラスが俺の醜態に顔をひきつらせながら「街へ戻ろう」と助け船をだしてくれた。
すまん、助かったと目で礼を言うほどに、今回ばかりは感謝の念が沸いてくる。
否はないと思うが、彼女にもそれでよいか確認をしようと見下ろせば、悲愴に揺れた瞳が伏せられた。
…っ!!
なんで俺はこんな簡単なことも気づかなかったんだ!
俺の胸に添わされている手は肌荒れひとつなく細く、輝く艶を放つ黒髪、白く華奢な体、彼女は恐らく貴族階級に属する人間だろう。あるいは神殿関係かもしれない。
そんな彼女が如何なる理由で森なんかに…?
最初に彼女を見つけたときは恐ろしい事態を考えたが、俺たちのような男が近くにいても意外なほど落ち着いてる。いつの間にか最悪の想像を打ち消していたが、それは間違っていないだろう。
だが、成人しているかも怪しい年齢の少女が、着衣もなく、森で保護されたとなれば、あらぬ噂もたつ。
そうなれば、彼女の将来は暗闇に閉ざされてしまう。
「…っ、…サーヤ嬢」
思わず"ツクァモーリ"と彼女の名を呼びそうになるのを堪え、家名である"サーヤ"と言い直した。
俺は、まだ彼女に名を呼ぶ許しを得ていない。
それでも、彼女を守りたい…。
「セイリオスさ…ん…、私、どう」
「大丈夫だ。心配するな、俺がいる。何があっても、俺が守る。だから、泣くな…」
俺がいる。俺が、俺の全身全霊でお前を守る。
だから泣かないでくれ。
彼女の頬に伝う涙を、彼女の柔らかい肌を傷つけないように慎重に拭う。
「本当に…?」
すがるように訊いてくる彼女に、確りと頷きを返す。
「私、得体の知れない人間、ですよ?」
「名前を知っている。それとも、偽名か…?」
偽名かと問えば直ぐに「違う」と否定してくる。
獣人は己を表す名を大切にする。
だから、それが真実であれば、それでいい。
「なら、セイリオスの名にかけて誓おう。サーヤ嬢、貴女を守ると」
俺の誓いに彼女は戸惑い、俯き、全てを明かすことができないと態度で伝えてくる。
それでも構わない。
いつかは知りたいと思うが、今は俺が貴女を守ることを受け入れて欲しいと、彼女の小さな手に口づけた。
・・・・・・?
何の反応も返さない彼女の顔を覗き込むと、高熱を発したように赤い顔で意識を失った。
熱があったのか!?
触れていた手は熱くは感じなかったが、急に発熱したなら何かの病気かもしれん!
「サーヤ嬢っ!!」
彼女を見つけたときに、さっさと街へ戻ればよかった。
一刻も早く戻らねばっ!
ーゴッ!
腰を浮かしたところで後頭部に衝撃が走り、前のめりに倒れそうになった。
「いったい何してくれてやがるんですか!」
変な敬語で叫びだしたダグラスは、鞘に収めた剣を振り抜いた姿勢でいた。
その剣で俺を殴ったのか?
あぁ?いったい何してくれてんだ?
いや、今それどころじゃねぇんだよ!
「彼女を街へ連れて行く。お前の指導は後だ」
急に発熱した彼女を助けることが先だと、再び腰を浮かしかけるとダグラスがまた剣を振り回してきた。その剣を片手で受け止め怒鳴りつけた。
「邪魔をするな!彼女は熱があるんだぞ!!」
ダグラスが両手で押してくる剣を掴み、振り払おうとするが、彼女を抱えていて体勢が悪い。
「誰のせいで、そうなったと思ってんですか!」
「どういう意味だ?」
「隊長がいきなり求愛するからでしょうが!!」
は…?求愛…?
誰が…?誰に…?
「な、にを言っている…?」
何を言われたの理解できず、物理的にも押し問答している間に、ロイスがダグラスの指示で彼女を俺から引き離した。
何をする!
なぜ俺から彼女を奪う!
目の前が赤く染まる怒りにのまれ、ロイスから彼女を取り返すことしか考えられなくなった。ダグラスの剣を弾き飛ばし、ロイスに掴みかかる前に、俺の喉元に短剣が突きつけられていた。
「何のつもりだ?」
短剣ごときでは、俺の喉を貫くことは不可能なことは解っているはずだ。上官に剣を向ける所業は、理由によっては厳罰もあり得る。それを解ってしているのか、と睨み据える。
「ちょっとは落ち着いてくださいよ!誰も隊長の"番"を取りませんから!」
俺の"番"だと…?
"番"とは、獣人にとって特別な存在だ。
配偶者、伴侶と呼ばれる者なら互いの合意でそういう関係を得られるが、"番"となれば別物だ。
獣の本能で惹かれる相手。獣人にとって運命の相手とされる"番"に出逢えるのは、広大な砂漠で小さな貝殻を見つけるようものだ。
砂漠で貝殻、つまりは夢物語とされている。
「…いいですか?」
ダグラスは短剣を下げて、子供に言い聞かせるように話しだした。
「彼女は隊長の"番"です」
「それは夢物語だ」
否定する俺に、ダグラスは首を振って続ける。
「いいえ、間違いなく、隊長の"番"ですよ」
「……なぜ断言できる?」
獣人でもないダグラスに、獣人の"番"の何が解るというのだ。馬鹿も休み休み言え、と睨みつければ爆弾発言が飛び出してきた。
「俺は、"番"を得た獣人を知ってます」
「なっ!?」
「俺の知ってる獣人は女性ですけど、彼女は獣人と人との合の子で、隊長と同じく先祖帰りでした。彼女は"番"を見つけた時のことを、『私だけに判る匂いがある。切ないほどに香る甘い花の匂いだ』と言ってたそうです。"番"を見つけた獣人は、その甘い花の香りで理性が吹っ飛ぶらしいですよ?今の隊長と同じじゃないですか?」
違う。いや、違わない。でも、違う。
だって彼女は人だ。獣人ではない。
「獣人じゃなくたって、彼女は隊長の"番"ですよ。獣人の運命の相手が、獣人だけだなんてことないんです。世の中の人族にも、獣人族にもお互いの血が入り交じってるんですから。それに、俺の知ってる獣人女性の相手も人族でしたよ」
俺の考えを見透かすように言ったダグラスの言葉が、不思議と受け入れられた。ダグラスに諭されるのは、少々、かなり癪ではあるが。
「俺の、"番"…」
声に出すと奇妙な感情が沸き上がる。
嬉しいのに苦しい。
羞恥と憤慨と歓喜、そして苦悶。
これが、愛しい…だろうか。