女神と、たった一つの証拠
13
先方の表情をじっくりと見つめる。眉間にしわをよせながら、片桐の差し出した書類をじっくりと読んでいる姿には、毎度ながらハラハラする。
なにせ相手は自分より二十年も長くビジネスの世界にいるのだ。年季が違う。禿げ上がった頭の中には、きっと色んな思考を巡らせているに違いない。
相手は老眼鏡を外すと、それをテーブルに置き、また書類を睨みつける。
その間、片桐は一切動かず、喋らなかった。余計な行動は命とりだとわかっている。自分がやるべきことは全て書類に詰め込んでいる、あとは相手の決断を待つしかない。
相手にわからないように小さく息を吐いて、目だけを動かす。ここはあるホテルのロビー。一流とまでは言わないが、中々立派なホテルで、辺りは静かで綺麗なカーペットが敷かれている。
ロビーにはいくつか、今の片桐たちのように、テーブルを挟んで向かい合って座るグループがいた。皆、スーツ姿で難しそうな顔をしている。
ここはビジネスマンたちがよく使う場所として知られている。相手が宿泊していて、時間をとってもらってここで話す。珍しいことではなく、片桐もホテル自体には泊まったことがないが、このロビーには何度も世話になっていた。
設置されている椅子もフカフカで座り心地が最高にいい。
相手が書類から顔をあげて、片桐を見つめてきたので彼は背筋を伸ばした。
「……悪くないね。少なくともこちらは異論ないよ。会社に持ち帰って検討会を開くことになるから時間はもう少しもらうけど、それでいいよね?」
しゃがれた声であったが、好感触であることは明確だった。片桐は喜びを押し殺しながら「よろしくお願いします」と頭を深々と頭を下げた。
相手はそれに納得すると書類をビジネスバッグにしまい、腕時計を確認してから、立ち上がった。
「次の約束があるからこれで失礼するよ」
「車でお送りしましようか?」
「いい。タクシーを待たせてあるんだ」
最後に握手を交わしてから、相手はホテルから出て行った。その背中に向かって頭を下げたあと、ふぅっと息をはいて椅子に倒れこむように座り込んだ。
新会社設立にあたって、重要な話し合いだった。ここでしくじれば、今まで準備していたことが全て水泡と化すところだったのだが、なんとかなったみたいだ。
あの調子だとなんとかなる。必要な資金と人材の調達、そして今後の事業での協力を要求していた。どこまで通るかはまだ不明だが、かなり良い線までいくだろう。
ようやく、夢が叶う――。
「おつかれですかぁ?」
いきなり、嫌な声が聞こえてすぐに我に帰った。いつの間にか、さきほどまで取引先が座っていた目の前の椅子にニコニコとした表情を浮かべた桜崎が座っていた。
「……何の真似だ?」
低い声で脅すように尋ねてみたが、彼女は表情を変えなかった。
「憂希さんに聞いたら、ここにいると教えてもらったので来たんですよ?」
「二度と顔を見たくないと言ったが?」
「あれ? できませんと答えませんでしたっけ?」
当たり前のように反問してくる彼女が憎くてたまらなかったが、場所が場所だっただけに声を荒げることもできない。
タバコを取り出し、それを吸うことで少しだけいらだちを紛らわせた。それでも怒りで指先が少し震えている。
「この後も用事があるんだが」
「ご安心くださいー。本日は、一つだけ質問にきただけですので」
彼女のこの言葉を信用していないが、用事があるのも事実だし、なによりすぐに彼女から離れたかったので嫌々ながら、片桐はタバコを咥えたまま「なんだ」と訊いた。
すると彼女は、まるで当たり前のように、こう切り出した。
「遠藤さんを殺害したのはあなたですよね?」
一瞬、何を言われたのか分からず、動きをそのまま止めてしまった。しばらくして理解したが、それでも上手く反応できなかった。
ただただ、ははっと笑うことしか出来ず、その場を誤魔化した。
「なにを言ってるんだ、君は。昨日も話したじゃないか。そんなに俺を犯人したいのか?」
彼女は片桐の質問に答えることはなく、カバンからまず写真を取り出した。それは片桐の部屋の写真で、窓や本棚などが写されている。
いつ撮ったのかと驚いたが、すぐに思い当たった。彼女が窓から落ちる直前、片桐が少し目を離した隙をついたに違いない。
「まず、当日のあなたの行動はこうです。最初は、遠藤さんに連絡をとる。これはあなたも認めてますし、履歴が残ってますよね? 会社の話をしたと言ってましたが嘘ですね。急用ができたから後で会いに行く。こう言ったんですよ。遠藤さんがそれを了解して、最初のスッテプは成功」
急にまじめに語りだした彼女を制止しようかと思ったが、どうせ止まらないだろうとわかったので、もう真っ向勝負をすることにした。
腹をくくり、相手と向かい合うことを決めた。
タバコを灰皿に押し付けて、両肘を膝の上にのせるような体勢をとった。
「そんなことをすれば怪しまれるだろ。事実、履歴が残っている。俺はそんな危険をおかしてまで何をしたかったんだ?」
「事前に連絡して約束を取り付けておくというのも、もちろん計算にいれたでしょう。しかし、それは危うい。なぜなら遠藤さんが、この後片桐と会う約束があるんだと誰かに言えば、それだけであなたが犯人だとわかることになる。あなたは遠藤さんにそういうことをする暇を与えたくなかった。だから、リスクを覚悟で、当日に連絡した。遠藤さんに会ったあと、この約束を誰かに言ったかと確認をとり、遠藤さんが否定すればそれでいい。肯定すれば計画をやめる」
まるでどこかで見てきたかのように口ぶりで、彼女は淀みなく話を進めていく。与えられた脚本を読む役者のように自分の言葉に絶対の自信を持っていた。
「約束をとりつけたあなたは、いつもどおり自分の部屋に篭もる。そして窓から外へ出た」
「刑事さん、俺はあんたみたいに軽くない。あんたが飛び降りただけで物置は大きな物音をたてた。俺ならそれ以上だ。それにご近所さんや憂希が気づかないとでも?」
彼女が自分の行動を推理できているのは想定済みだったので焦りはない。
彼女は窓を写した写真をテーブルの脇に寄せると、今度は新しい写真を出した。それはベッドの足だけを写したもの。よく見ると、足には一本の線のような傷がついている。
「これ、ロープの跡ですよね?」
「……さあな」
「鑑識に見てもらいました。擦り傷だそうで、真新しいから最近ついたに違いないって。覚えてませんか?」
「わからん。いつついたかもわからん」
こんな写真もあの短時間に撮ったのかと忌々しくなった。今の鑑識課の話しもそうだが、警察を少し甘く見ていた。写真だけでそこまでわかるものなのか。
「あなたの仰る通りです。新しいことだけわかって、いつ、どのようについたかは分からないと。ですが、仮説はたてられます。ロープを足につけて、それを体に巻き付けれて、壁を使えば音をたてず物置に降りれます。あとは事前に用意しておいた脚立で地面に」
仮設だと言いつつ、彼女はそれが事実であることを間違いないと確信しているんだろう。
彼は新しくタバコを取り出して、何も言わず咥えた。今の彼女の話は仮説だ。反論するだけ無駄だし、なにより反論ができない。事実で、しかも彼女自身がそれが可能であると証明しているのだから。
「ブロック塀をこえて、家から出んでしょう。そうればカメラは関係ありません。ああ、外にでる前に部屋の中にハンディカムを設置しましたよね? いざというときのために」
片桐はオカルトの類は一切信用していない。幽霊だとか、宇宙人だとか、全くバカバカしい子供だましだと考えている。ただ、今この瞬間は「千里眼」の存在だけは信じてもいいと思えた。
「そしてそこから人目につかなルートで遠藤さんの自宅へ行き、彼に招き入れてもらう。ここまで、目撃者を出さないように細心の注意を払ったんでしょうね。見られたらやめるつもりだったんでしょうね」
彼女ベッドの写真を払いのけて、今度は事件現場の写真を数枚、テーブルに広げると、ある一枚を彼の前に差し出した。ドーナツの箱が映った写真だ。
「遠藤さんは何も知らず、あなたを招き入れ、そしてドーナツを勧めたんじゃないですか? あの量のドーナツも、誰かと一緒に食べるつもりだったと考えれば納得できます」
「……あいつは甘党だった。ただ、それだけだよ」
「はい。しかしながら、それでは奇妙なことが」
彼女はもう一枚、写真を差し出した。それは箱の中身が写されたもの。いくつものドーナツが箱の中で綺麗に並べられている。
「実はレシートを参考に私も全く同じものを買いました。よく見てください、この並べれているうちの一つに、黒いドーナツがありますよね?」
彼女が写真の中のドーナツの一つを指さした。確かにそのドーナツがある。
「なんだと思いますか?」
笑みを浮かべたまま彼女が尋ねてくる。なぜそんなに余裕なのか分からなくて怖くなるが、それを悟られないように平然に答えてみせる。
「知らんな。ドーナツはあまり食べない。ただ、色からすればチョコ味だろ。あいつは本当に甘党だったから」
「残念ながら、不正解です。実はこれ、コーヒー味のドーナツなんです。おいしいんですよ? 食べたことありませんか?」
「だから甘いものは苦手だと言っている」
「はい。人には苦手なものがあります。ねえ片桐さん、遠藤さんはコーヒーが苦手じゃありませんでしたか?」
思わず体がビクッと揺れた。そうだ、なぜこんなことを言われるまで忘れていたのか。遠藤はあれが嫌いだと昔からよく言っていた。
返事をしない片桐を置いて、桜崎は話を進めていく。
「どうして嫌いな味のものを買ったのか、不思議じゃありませんか? でもこれも、誰かが来ることを想定していたとすれば解決しますよね」
片桐は彼女の話を聞きながら、当日の遠藤の行動を想起した。おそらくはもともとドーナツを買いにいく予定ではあったんだろう。そして、片桐が来るとわかって、念の為に注文したんだ。
そういえば彼は片桐がドーナツを食べないとわかると、なぜか残念がっていた。
「消臭剤の話しもそうですが、やはり来客の予定はあった。これは確実でしょう」
「確実か? たまたま、変わった味にチャレンジしただけかもしれないぞ。消臭剤だってそうだ」
「どうでしょうか。量が多かったことの説明がつきません。消臭剤はホームセンターとかで買った方が安いですよね? コンビニで買うというのは、やはり急を要していたと考えるのが普通です」
反論してみたものの、まるで想定内だと言わんばかりに、素早く否定されてしまった。
彼女はまた別の写真を差し出してきた。遠藤の財布の中身が写されたもの。小銭が並べられている。
「一円がないことは話しましたよね? やはり、納得できません。あなたの推測は確かに一理あります。しかしながら、冷静になって考えてください。レシートは財布にあったんですよ? どうしてスクラッチカードは財布に入れなかったんでしょうか?」
答えられないで、言葉に詰まったが、それでもなんとか絞り出してみる。
「だから、道を歩きながらスクラッチを削ったんだ。財布にしまうのが面倒だったんだろ」
「おかしいです。その仮定をするなら、まず道を歩きながらスクラッチカードと一円玉を財布から取り出さないといけません。直すのが面倒だと考えるなら、出すのだって同じです。家に帰ってじっくりやればいいだけで急ぐ理由もありません」
あの時は彼の推理に納得していたくせに、今は真っ向から反対してくる。あの時から実は納得などしていなかったのだろう。こちらを油断させるために、馬鹿なふりをしていたんだ。
してやられた……。
「なら、一円とスクラッチカードはどこへ行ったんでしょう? 簡単ですね、犯人が持ち帰った‒‒それしかありません」
彼女はまた写真を払いのけて、今度はなんとこんな場所で、平然と死体の写真を見せてきた。
「お、おい」
「言いましたよね? 額の真ん中を直撃で殴られていておかしいって。けど、おかしくない状況があります。遠藤さんと犯人が向かい合って座って、遠藤さんが何かに目を奪われていた場合です」
彼が止めているにも関わらず、彼女は写真をそのままにして口を止めない。
「遠藤さんはあなたを招き入れ、当然座らせました。そして自分も向かい合うように座る。そこから起こったことを推察するのは簡単です。おおよそ、何事もない平凡な会話だったでしょうから。遠藤さんはドーナツを食べ、あなたにも勧めた。しかしあなたは断った」
彼女はカバンからあの日、遠藤が片桐に差し出してきたものと同じスクラッチカードを取り出した。
「さきほどお店の方にもらってきました。おそらく、遠藤さんはあなたに、これを削ってくれと頼んだ。理由はわかりませんが、大した理由ではないでしょう。あなたが手持ち無沙汰だったから、適当にやらせてみた。そんなところですよね?」
次に彼女は財布から一円玉を指で摘まむように取り出すと、そしてそれを突きつけるように片桐に見せてきた。
「あなたはそれを承諾した。そして遠藤さんから渡された一円玉を使ってスクラッチを削った。しかし、それが後々問題になってしまう」
彼女は持っていた一円玉を使い、スクラッチを削っていく。『当たり!』という文字が出てくると、彼女は「あはっ」と嬉しそうな声を上げた。
「当たっちゃいましたっ。これでまたドーナツ無料です!」
一円玉を置き、彼女はカードを持つとそれを大事そうに胸ポケットに仕舞った。
「さて、今の行動が問題でした。あなたは一円玉を持ってしまった。一円玉は小さく、指紋がついてしまうと、それを拭き取ってしまえば誰の指紋も残らないことになります」
彼女は一円玉を自分のコートの袖で拭いて実演してみせた。
「あなたは困った。誰の指紋もでない一円玉なんて不自然です。そしてそれはカードも同様。だからあなたは、咄嗟にそれら二つを持ち去った」
彼女は本当にあの場にいたんじゃないだろうか。ここまで事実を突き止め、言い当てるのは人間技ではないように思えた。
ましてや彼女の手元にある証拠は大したものじゃないのに。
「さて、話を戻しましょう。あなたと遠藤さんは何らかの話をし、あなたとしてはそれが満足できるものではなかった。そうでないとおかしいですからね。もしも言い争っていたなら、遠藤さんに危機感が生まれたはずで、そうなるとこの傷はおかしい」
彼女は顔色一つ変えることなく、死体の傷を指さす。
「おそらくあなたは最初から殺すつもりであったけど、それは遠藤さんからすれば見に覚えのないものだった。あなたは話しながら、殺すかどうか考えたはずです。そして話し合いを終えると、殺すという結論を出した。そして――」
彼女はテーブルの隅で払いのけられて固められていた写真の中から、再度ドーナツの箱をうつしたものをとりだした。
「遠藤さんがこれに目を奪われている隙をつき凶器を取り出し、名前を呼び顔をあげさせて、一撃で殺した」
「何か、ご質問はございませんかぁ?」
最後の一言を断言したあと、彼女は上目遣いに片桐に尋ねてきた。彼は必死になって言葉を探すが、上手く見つからない。頭に浮かぶようなものはあったが、それはすぐに否定されそうで怖かった。
「面白い推察だな」
ようやく出した言葉は、まるで陳腐なドラマに出てくるような苦しい言い訳だった。
「その後、俺は逃げたと?」
「細かく言うと、現場を荒らして、金品などを奪い、ピッキングの痕跡を残して逃亡したんでしょう」
見事に的中している。
片桐はタバコを灰皿に押し付けてから、背もたれに全体重をあずけた。そして高いロビーの天井を見つめる。シャンデリアが設置されていて、天井にはヨーロッパの宮殿を彷彿させる模様が装飾されている。
それを見ながら彼は深く息をはいて、気持ちを落ち着かせる。
‒‒大丈夫、まだやれる。
「刑事さん、見事なものだ。確かにそれだけ言われれば、俺が犯人でも不思議じゃない。だがな」
彼は言葉を区切り、今度は自分が彼女に笑顔を向けてやった。
「言っただろう、証拠がない。それがないと立証できないんじゃないか?」
そう、これが最後の砦だ。ここが崩れなければ、彼は無事でいられる。
はっきり言ってしまえば、疑われるのは想定内。だからこそカメラを使ったアリバイまで作った。しかし、それはいわば状況証拠に過ぎず、それを今彼女が破綻させた。
しかしながら、片桐が用意したものが状況証拠なら、彼女の推理も同様だ。そもそも、彼女の場合はそれが証拠といえるほど、はっきりしたものではない。
彼の用意したアリバイが無意味なら、彼女の推理もまた無意味だ。
片桐がここまで驚いているのは、彼女がほぼ完璧に細かい事実まで言い当ててきたことだ。ここまで細かく追求されることなど夢にも思わなかった。
しかし、それでもやはり決定的証拠がなければ彼女の推理は砂上の楼閣だ。見栄えだけよくて、脆く耐久性などまるでない。
昨今の社会問題のせいで警察が状況証拠だけで立件するのは難しいと知っている。決定的な物的証拠がない以上、白を切り続ければいい。
彼女はテーブルに広げていた写真を自分の元へかき集めると、それらを綺麗に重ねてカバンにしまい、今度はまた別のものを取り出して、それを静かな音をたてて置いた。
ジップロックのようなものがついた証拠品袋にいれられた、透明なガラスのコップだった。遠藤が片桐に水をいれて差し出したものだとすぐに思い出せた。
「このコップから、あるものが検出されました」
「なんだ、指紋か何か? 言ったと思うが、俺は一〇日前にあいつの家に行っている。俺の痕跡が残っていることは不思議じゃな――」
「検出されたのは指紋でもDNAでもありません」
片桐の言葉を遮って彼女は否定する。
その言葉にどう反応していいかわからなかった。それでは証拠にならないじゃないかという反論はすぐ浮かんだが、彼女の態度を見ればそれが的外れなことだとわかった。
唇に浮かべた微笑から、絶対的な自信を感じさせてくる。
「検出されたのは、微量な口紅の成分です」
「口紅?」
オウム返しをしてしまう片桐に彼女は小さく頷くと、またしてもカバンから何か取り出した。それはただの一本の口紅。
「昨日、百貨店で買ってきました。照合の結果、このコップから検出されたのはこの口紅で間違いないです。見覚えはありませんか?」
「いいや、俺は化粧品のことは知らないからな」
「これは、憂希さんが愛用されているものです」
その名前が出た瞬間、体が震えた。そして自然と、事件当日の朝のことを思い出した。
彼は家を出る直前、妻と口づけをした。全く気づかなかったが、あの時に彼女は口紅をしていたのか……。
頭が真っ白になっていく。考えが追いつかない。タバコを吸いたいのに、手が震える。
「この口紅は一週間前に発売された新商品です。店の方も憂希さんに売ったことを記憶されていました。どうして、そんなまだ世に出回って間もない口紅が、遠藤さんの部屋のコップから検出されたんでしょうか?」
「だ、誰か知り合いが来たんだろ。あいつは独身だからな」
「もちろん、遠藤さんの知り合いの方はもう調べています。これと同じ口紅を使ってる方はいませんでした」
完全に動揺した頭を必死に回そうとするが、何も出てこない。むしろ、どんな言葉も目の前にいる刑事の餌食にされそうだった。
でも、それでも何か言わなければならない。認めるわけにはいかないんだ。
「そ、そんなもの証拠にならんだろっ」
「じゃあ誰の口紅なんでしょうか、このコップについていたものは。あなたのじゃないんですか? あの日、憂希さんと口づけをして、そして口紅がついたことに気付かず遠藤さんの家に行ったんでしょう? そしてつい水を飲んでしまった。殺人をする前です。焦燥はあったはずで、喉が乾いても仕方ないですからね」
「ちっ、違うっ。俺はそんなことしてないっ!」
「憂希さんは認められましたよ?」
また彼女の名前が出てきたせいで今度は焦りさえ消えてしまい、頭の中が急速に冷めていった。
「み、認めた?」
みっともない声で聞き返すと彼女は一度だけ頷いた。
「この推理はさきほど憂希さんにも話しました。怒られてしまいました、そこまでして夫を犯人にしたいのかと。しかし、この口紅のことを告げると、顔を青くしながらも、事件当日、あなたの部屋を出る前に口づけをしたことを認めてくれました」
「ば、馬鹿な……」
「馬鹿なことじゃありません。事実です」
さっきまで火照って熱くなっていた顔が一気に冷めていく。無意識のうちに「うそだ……」と呟いていたが、目の前の彼女がそれを首を左右に振って否定してくる。
「憂希さんの証言により、あなたが事件当日、口紅をつけた状態であったことは裏付けがとれました。口紅の発売は一週間前、あなたが遠藤さんの自宅を訪れたのが一〇日前。矛盾ですよね。あなたは行ってるんですよ、この一週間のうちに遠藤さんの自宅に。口紅がついたまま」
目の前のコップを見つめていると、そこに自分が映っていた。顔を青くして、生気を感じられない表情をしている。何度も何度も口を動かそうとするが、何一つとして言葉が出てこない。
「片桐さん」
彼女は口紅のキャップを外すと、その中身を見せてきた。薄いピンク色で、キラキラと光っている。
「薄い色のものですから。あなたが気づかなかったのも無理はないです。私も昨日、憂希さんの顔をまじまじと見るまで口紅をつけていることに気がつきませんでした」
まるで慰めるかのような言い方だったが、彼にとっては絶望でしかない。
彼女はキャップを閉じると、まっすぐとこちらの目を見つめて、その黒い瞳を一切動かすことなく言い放った。
「これが証拠です。——あなたを、逮捕します」
しばらく静寂だった。彼女は何も言わず、片桐も一切言葉が出せなかった。ただ、呆然と目の前にあるコップを見つめていた。
ようやく口からでてきたのは、笑いだった。はははっと、乾いた笑い声が出てくる。自分でも何が可笑しいのか分からないが、それでも止まらなかった。
「ホームズなんかいない」
「はい?」
唐突な片桐の言葉に、さすがの彼女も意味が分からなかったのか聞き返してきた。
「遠藤の部屋を出て行くとき、やつの死体を見ながらそう思った。あいつはホームズファンだったからな。この世に名探偵なんていない、俺は捕まらない。そういう意味を込めた」
それはまさに自白だったが、もうどうとも思わなかった。いやむしろ、この刑事ならば、彼がそんなことを思ったことさえ推理できそうだ。
「だが……」
右手で両目を覆い、天井を見上げる。
「いたもんだな、名探偵が。全く……すごいな、君は」
自分をここまで苦しめた刑事なのに、なぜだか恨みは湧いてこなかった。さっきまでは苛立ちがあったのに、今となってはそれすら消えている。
片桐は、きっと自分は彼女との勝負をどこかで楽しんでいたんだろうなと思った。そしてその勝負は彼女の勝ちだ。清々しいほど、彼は負けた。
「そう、君の推理通りだ。誰にも見られなかったり、電話がたまたま事件と同時刻に鳴ったりしたもんだから、てっきり幸運の女神様は俺の味方をしてくれているんだと思っていたんだが、とんだ勘違いだったわけだ」
右手をのけて天井を見つめる。
「違いますよ」
彼女が急に何かを否定したので、視線を彼女に戻す。彼女はいつもの笑顔に戻っていて、ゆっくりと首を左右に振った。
「私は名探偵なんかじゃないですよぉ。買いかぶりは苦手です。私はただの公務員ですよ?」
ここでまた猫をかぶってくる姿勢が、もう癪を通り越して、可笑しかったのでまた笑いが漏れる。
「シャーロック・ホームズなんていません。ただ」
ただ、と彼女はまた繰り返した。
「ただ、幸運の女神様もいないんでしょう」
「……違いないな」
初めて彼女の意見に素直に納得できた。
桜崎はゆっくりと立ち上がるとカバンにコップと口紅をしまい、彼に目配せをしてくる。
「ご同行、お願いします」
片桐は手のひらを彼女に見せて、少し待ってほしいと頼んだ。そしてタバコを手にとって、最後の一服をする。タバコに火をともして、今度いつになるかわからない、最高の味を堪能する。
そしてそれを吸い終えると立ち上がり、彼女の後ろについていく。ホテルの外に若い男が運転席で待機していた車が停めてあり、桜崎と片桐が出てくるのを確認すると、運転席から即座に出てきて、後部座席のドアをあけた。
桜崎が彼に「村上くん、ありがとー」と返事をした後に二人で乗り込むと、村上と呼ばれた彼は車を発進させる。
「刑事さん、どこで俺だとわかったんだ?」
それだけは訊いておきたかった。彼女は「うーん」と悩んだ後に「最初に会った時ですかねぇ」と答えた。
「最初?」
「実を最初に見た段階で、知り合いの犯行だとわかりました。片桐さん、空き缶があったことを覚えてますか?」
そういえば、あの部屋には缶が転がっていていた。部屋を荒らしてる時に踏んで潰してしまったもののことだろう。
「あれ、水洗いがされていました。どうしてそんなものが部屋にあったのか、考えたときに思ったんです。灰皿だったんじゃないかなって」
「灰皿?」
「はい。部屋を見渡してもタバコや灰皿はありませんでしたから、遠藤さんがタバコを吸わないことはすぐわかりました。なのに、そんなものがあったのは、タバコを吸う来客の予定があって、それに備えて灰皿の代わりになる物を用意してたからじゃないかなって思ったんです」
「あ、ああ……」
なぜあんなものがあるのか不思議だったが、彼女の説明で疑問が一気に晴れた。
「知り合いが来るのはいいとして、灰皿の用意までてしていたなら、その人はヘビースモーカーだろうなと。そして初めて片桐さんに会いに行ったとき、会場を出た途端にタバコを吸われたから」
あの時は急に現れたと思っていたが、後をつけられていたらしい。全く気づかなかった。どうやら最初から、彼女のほうが一枚上手だったようだ。
「片桐さん」
彼女が窓の外に目を向けたまま、呼びかけてくる。
「なんだ?」
「いいご友人をお持ちだったんですね」
その言葉が胸に刺さった。そう、片桐が来ると言っただけでドーナツを買い足したり、灰皿を用意したりしてくれた。気遣いのできる、いいやつだった。
「……そうだな」
声が震えてしまい、はっきりと答えられなかった。
唇を強く噛みしめ、溢れ出てくる感情をこらえる。どうして、どこで、いつ、自分は間違ってしまったのかを考え始めると、友人の顔が自然と浮かんできた。
恨んでいなかった。ただ、安寧が欲しかった。それだけだった。
「ああ、もうっ……」
涙が自然と溢れてくる。後悔なんてもう遅いとわかっているが、それでも抑えきれなかった。
自分はどこで足を踏み外したのか。どうか教えて欲しい。
どうか、神様――。
14
「憂希さん」
重たい足取りで進んでいるとき、後ろからそう声をかけられた。もう一生忘れることができない、可愛らしい女性の声で彼女はすぐに振り返った。
あの刑事、桜崎が手を振りながら、こちらに駆けてきていた。優希のところまで来ると、荒い息をしながら胸に手をあてて「間に合ったぁ」と安堵した。
「さ、桜崎さん」
「署まで来てらっしゃると聞いたので、会いにきちゃいました」
憂希はさきほどまで、夫の起こした事件について警察署で説明を受けていた。夫が逮捕されてから二日経ったが、こうしたちゃんとした説明をしてもらうのは初めてだった。
事件の顛末は夫が逮捕される直前に、この彼女から推理を話されたので驚きはしなかったが、未だに夫が犯人だったという事実を受け入れることを、心のどこかで拒んでいる。
若い男の刑事による説明が終わって、署から出て行こうとしたときに桜崎に声をかけられた。
「お帰りですかぁ?」
「ええ」
「少しだけ、いいですか。歩きながらで大丈夫ですので」
憂希が頷き、二人で歩き始める。隣に並ぶ彼女は相変わらず美しく、そして笑顔だ。警察署から出てしばらくしてから、ようやく彼女が口を開いた。
「片桐さんは、今のところ全て素直に供述しています。私は、嘘はないと思ってます」
「……被害者の方を殺した理由は、はっきりと言ってないんでしょう?」
「はい。まずい写真があったので、それを処分するためだった、そうとしか答えてくれません。いやぁ、どんな強面の刑事が白状しろと迫っても、ちっとも答えてくれませんから、みんな参っちゃってますー」
まるで他人事のように暢気な彼女の態度に、憂希は疑問を覚えた。
「てっきり、あなたならそこまで推理してると思ってたわ」
「うーん?」
彼女は首をかしげながら、少し意味深な笑みを浮かべた。
「実はこれ、憂希さんへの恩返しですよ?」
「は?」
「正直に言っちゃうとぉ、予想はついちゃってます」
とんでもない発言に思わず足を止めてしまったが、すぐさま彼女に手を引かれた。
「まだ署が近いので目立っちゃだめですよー。誰かに見られちゃったら、私がぶちょーに怒られちゃいますぅ」
「え、だ、だって」
彼女の言葉がさっきから意味不明で、思考がついていかない。そんな憂希のことなど気にせず、彼女は喋り始めた。
「片桐さんは素直に供述し、被害者への謝罪も口にしています。でも、そこだけは隠してる。……思うに、片桐さんは誰かをかばってるんです」
「だ、誰かって」
「おそらくは被害者の遠藤さん。片桐さんが言っているまずい写真には、何らかの形で遠藤さんも関与しているんです。だから、片桐さんは口を開かない。殺してしまったとはいえ、ご友人だったんですから」
思いも寄らない推理だったが、むしろ、どうしてそこまでわかっている桜崎が夫に対して何もしないのか不思議だった。
「これでもー、刑事なのでそんなパターンだと、何が起きたかは想像できます。でもきっと、証拠は出ないでしょう。そのために片桐さんはご友人に手をかけているわけです」
「そ、それでいいんですか?」
彼女は憂希の顔をまじまじと見ると、また笑った。
「私が片桐さんを捕まえられたのは、憂希さんのおかげです。あのスーパーの帰り道、あなたの口紅が少しだけムラがあるのを見つけました。そこから、あの推理ができたんです。だから、これは恩返しです」
「私への?」
「はい。もし、私の推理が当たっていれば、あなたは間違いなく今以上に傷つく。だから、私は片桐さんが黙秘する事実を追求しません。……調べたら、時効も過ぎちゃって、彼女に親族もいなかったんで」
最後の言葉だけ妙に小声で、全く聞き取れなかった。
刑事が真相を追わない。そんなことでいいんだろうかと思ったが、彼女は笑顔を一切崩さなかった。まるで、それでいいんだと表情で説得してきているようだった。
「片桐さんは、幸運の女神なんていないと仰っていましたが、私にとっても、そして片桐さんにとってもあなたが幸運の女神だったんです。ねえ、憂希さん、片桐さんのこと、今でも愛していますか?」
それは予想だにしない質問だったが、彼女は答えを迷わなかった。
「ええ」
一度愛した男性で、長い時間をともにしてきたパートナーだ。彼が罪を背負ったなら、自分も同等分の罪を背負ってみせよう。それが、犯人が夫だと告げられたときにした彼女の決意だった。
その答えを聞くと、桜崎は少しだけ頬を赤らめて「なんだかこっちが照れちゃいますぅ」と頭を掻いた。
「やっぱり、憂希さんが女神様ですね」
桜崎はそこで足を止めた。そして憂希の手を放して、ぺこりと頭を下げた。
「私はここで失礼します。もし、何かあれば連絡をくださいね、すぐに駆けつけちゃうんですから」
彼女の連絡先はあの日、夫が逮捕された日に教えられていた。そのときも「困ったら連絡くださいね」と言ってくれた。
この刑事には見えない刑事は、本当にどこまですごい人だと改めて思った。
「桜崎さん、ありがとう。夫を捕まえてくれたのが、あなたでよかった」
憂希のお礼に彼女は何も言わず、謙遜するように首を左右に振ると、もう一度頭を下げて踵を返した。そしてすたすたとゆっくりと警察署へ戻っていく。
その背中を見ながら、憂希は思った。彼女こそが、幸運の女神なんだと。あのまま夫が捕まっていなければ、彼は罪を償うことはなく、憂希は何も知らず彼と幸せな時間を過ごしていただろう。
これから降りかかる不幸は、そんな偽りの幸福に比べればかわいいものだった。ちゃんとした現実に、真実に向き合える。例えそれが辛くとも、憂希はそれを「幸運」と呼ぶ。嘘の中で生きるより、そっちの方が生きた心地がする。
「さよなら、私の幸運の女神さま」
だんだんと小さくなっていく彼女の背中を見つめながら、そう呟いた。
【了】
お読みいただき、ありがとうございました。
これにてこの物語は完結です。
この物語はミステリの中でも「倒叙」というジャンルにあたります。
わかりやすい例えでいえば、ドラマの古畑任三郎や刑事コロンボがそれにあたります。
犯人の視点を最初に描き、探偵がそれを追い込んでいく。主人公はあくまで犯人。
以前読んだ倒叙ものに刺激され書き上げたものです。少しでも楽しんでいただければ幸いです。
お読みいただいてる方がいらっしゃれば、本当にありがとうございました。