陽動と、いくつかの矛盾点
11
片桐はリビングでたばこを吸いながら、ニュースを見ていた。遠藤のことが報道されていた時期もあったが、今もう別の話題にマスコミは移行している。彼らほど熱っぽく冷めやすい生き物はいない。
たばこを厚いガラス製の灰皿に押し付けたところで、玄関の開く音と、なんだか賑やかな話し声が聞こえてきた。
憂希が知り合いでも連れて帰ってきたのだろうかと思っていたが、片方の声が聞き覚えのあるもので、すぐに腰を浮かせて玄関に向かった。
「あら、あなた、ただいま」
「片桐さん、どうもお邪魔しますぅ」
憂希と、そして何故か桜崎が一緒に玄関で靴を脱いでいた。仲良く、一つずつ買い物袋を持っている。
「いやぁ、たまたま優希さんとお会いしたのでお話しさせていただきましたぁ。憂希さんのような奥さんを持てて、片桐さんは幸せものですねぇ」
片桐が「なぜ一緒に」と尋ねる前に桜崎が事情を説明してくるが、その言葉が信用できなかった。ただ、嘘をつけと追求するわけにもいかないし、彼女の褒め言葉に憂希が顔を赤らめて照れているのを見ると、何も言えなかった。
「今日は昨日のSDカードをお返しにきたんですよ」
「あれか。さすが警察、仕事が早いんだな」
「早くしないと怒られちゃいますからねー。ああ、電話の証言も裏がとれましたよ?」
彼女の報告に思わず唇を釣り上げたくなったが、平静を装って「そうか」とだけ返した。
しかし、心の中では笑いがとまらない。これで二つ、自分のアリバイを証明できるものを警察に認めさせた。もちろん、これが証拠になるとは思っていないが、この二つを崩さなければ警察は自分を追い詰められない。そして同時に現場にいたことも証明しなければ立証は不可能だ。
桜崎はカバンからSDカードを取り出すと、お礼を言いながらそれを渡してきた。それを受け取りながら、嫌々ながら確認してみる。
「それは良かった。それで、今日はこれだけなのか?」
「いえ、実を言いますと遠藤さんのことでお尋ねしたいことがありまして」
「そんなことだと思ったよ。部屋に行こう、そっちの方が落ち着ける」
片桐の提案に桜崎は頷き、彼の後ろについてきた。
「お茶、持って行きましょうか?」
憂希が桜崎に訊くと、彼女は首を左右に振った。
「いえ、大丈夫ですよぉ。今日は長居しませんのでー」
どうやら本当に質問したいだけのようだ。昨日のようなことをされなければ、片桐としてはなんでもいい。彼女がいくら自分を疑おうと、きっとこの家で彼女が見つけられる手がかりなんてないんだから。
部屋に入る瞬間、片桐は小さく、彼女に悟られないように深呼吸をした。相手はこちらを狙ってる。気を抜いてはいけない。
さあ、勝負だ――。
部屋に入って、片桐はさっそく仕事用に椅子に腰かけた。この部屋には客人用の椅子はないので桜崎は立つことになったが、彼女はもともと座るつもりなどらしく、またしても興味深そうに部屋を見渡しながら歩いている。
「刑事さん、遠藤のことで質問があるんだろう? 早く済ませくれ」
「片桐さん、最近遠藤さんのご自宅へ行ったことはありますかぁ?」
こちらを向くこともせずに、かなり重要な質問をしてきた。片桐は心を落ち着かせながら、腕を組み答える。
「十日前、少し用事があって行ったよ」
これは本当だった。もちろん、計画の一つだ。事件現場から自分につながる物がでてきた場合でも、言い逃れができるように事件の十日前に遠藤の家を訪ねている。
事件現場から何か出てきたのかと心臓が高鳴る。それを悟られないように、ポーカーフェイスで彼女の次の言葉を待つが、彼女は部屋を見渡してばかりで何も言ってこない。
「おい、それだけじゃないだろ」
「あっ、そうでしたっ。あのですねぇ、遠藤さん、どなたかに恨まれていませんでしたか?」
さっきのに続いてかなりストレートな質問で言葉が詰まったが、なんとか普通に答えた。
「あれはフリーとはいえライターだ。恨まれていたかもな。しかし、俺の知り合いにはいない」
「片桐さんは?」
「は?」
「片桐さんは遠藤さんを恨んでいませんでしたか?」
「…‥どういう意味だ?」
片桐が低い声で、脅すように確認するが彼女はひるんだりはしない。彼から背を向けて、本棚を眺めながら、当たり前のように喋り続ける。
「片桐さんは遠藤さんのお友達だったわけですから、付き合いは長いですよね。それなら、恨むようなことがあっても、不思議じゃないなあって思いまして」
力を込めて拳で机を殴ると、どんっと鈍い音が部屋に響いた。
「あんた、失礼だろっ」
そこで桜崎は踵を返して表情を見せた。ここ数日、毎日見てる、夢にまで出てきた、鬱陶しい笑みを浮かべている。
「ごめんなさぁい。でも、訊かなきゃいけなんですよぉ」
「聞き方ってものが」
「あったんですかぁ? なかったんですかぁ?」
挑発するかのような口調で彼の言葉を遮ってくる。明らかに、昨日までとは質問する態度が違った。
彼女の空気にのまれてはいけない。そう自分に言い聞かせて、ぐっと感情を押さえつける。
「……ない。あいつはいい友だちだったからな」
「そうですかー。いやぁ、きっとそうだと思っていました。そんな片桐さんに質問があるんです」
「まだあるのか」
気持ちを落ち着かせるために机の上にあったタバコとライターに手をのばして、一本咥えた。
「ええ。実は遠藤さんは事件当日に消臭剤を買おうとしていたようなんです」
「消臭剤?」
「はい。コーラを買ったコンビニの店員さんから証言がとれました。コーラを買うとき、消臭剤はないかと尋ねられたそうです。その時は在庫がなかったのでので買えなかったそうです。片桐さん、どーして遠藤さんは消臭剤を買おうとしたんでしょうか? 昨日、片桐はおっしゃりました。遠藤さんはたばこを吸わないと。じゃあ、なんのために?」
「馬鹿か、君は。別にタバコだけが消臭剤を買うきっかけじゃないだろ。どこの家にもある。それがなくなったから買いに行っただけだ」
「いいえ、違いますよ? 遠藤さんの自宅は警察が細かく調べてます。お手洗いにさえ、そういった類のものは置かれてませんでした。ゴミ箱にもそういったものはなかったです。つまり遠藤さんはそういったものを日頃買っていなかったんです。なのに急に買う気になったのはなぜでしょうか?」
彼女はゆっくりと座っている片桐に歩み寄ってくると彼の前で止まり、机の上に置かれたタバコとライターを見つめながら、ニヤリと笑った。
「例えばですが、来客の予定ができたとすればどうでしょうか? 遠藤さんはタバコの匂いを残したくなかった、しかし消臭剤を買ってない。コーラを買うついでにでも買っておこう‒‒こう考えても、不思議じゃありませんよね?」
彼女はまた片桐に背中を向けて、腕を後ろで組んで部屋の中を歩き出す。
「そーなると、あることが導かれます。来客は急だったことはもちろん、遠藤さんは、そのお客さんがタバコを吸ってることを知っていて、また部屋でも吸うであろうことを予想できたことになります」
彼女の話を聞き終えると同時に、片桐は笑ってやった。
「素晴らしい想像力だな。たかが消臭剤で。本当に気まぐれかもしれないのに」
「コンビニなんてどこも狭いですよ。消臭剤の有無なんて、棚を見ればわかります。遠藤さんだってわかったはずです。気まぐれなら、棚になかった時点で諦めませんかぁ? けど遠藤さんは店員さんに確認までしているんですよ? 欲しかったんでしょうねー」
片桐は咥えていたタバコを強く、とても強く噛んだ。遠藤め、余計なことをしてれたなと、死者に恨み言をぶつけてやりたくなってきた。
「そーいえば、片桐さんはタバコをお吸いにならてますね?」
「はは。君はまさか、それだけ犯人扱いするのか?」
「いえいえ、そんなの偶然ですよね? 遠藤さんの知り合いでタバコを吸われる方なんてたくさんいらっしゃるでしょうから」
「わかってるじゃないか」
答えながら片桐は「やはりな」と確信していた。この刑事は自分を疑っている。どういう理由かは不明だがそれはまず間違いない。しかしながら、決定的な証拠は持ち合わせていない。
こちらを追い詰めるものなど彼女にはないのだ。だからこそ、そんな証言に固執せざるをえない。
そうわかると、ふふっと笑いがこぼれるほどの余裕が出てきた。
「刑事さん、さっきからおかしなことを言っている。あれは強盗じゃないのか?」
「可能性はありますけどぉ、極めて低いと私は考えていますよ?」
その後桜崎はやはりこちらに表情を見せることはなく、いつもの間延びした口調で、強盗にしては不審な点が多いことを挙げていった。
目撃情報が少なすぎること、極めて計画的な犯行であること、隣の家を無視したこと。こちらが想定もしていなかった観点から、彼女は強盗説を否定していった。
しかしながら、まだ片桐には余裕があった。彼女の推理は見事なものだったが、あくまで強盗を否定するものでしかない。知り合いが犯人だとしても、彼にはたどり着けない。
タバコでは、そんなことは不可能なのだ。
「面白いよ、刑事さん。君は刑事には見えないが、そういう推理を話してるのを見ると様になっている。しかし、それでは具体的な犯人に辿りつけないんじゃないか?」
「…………」
彼女は答えない。そのリアクションが面白く、片桐は饒舌に続けた。
「俺は刑事なんてドラマの世界でしか知らないが、本当にそんな推理をするんだな。驚いたよ。しかしな、社会の先輩として教えてやろう、お嬢ちゃん。世の中、大抵のことはそんな複雑じゃない。常識を疑うなんて学生だけがやることだ。見たものを疑わず、そのまま受け止めたほうが、円滑に仕事は進むんだ」
これは別に高説でもなければ、出任せでもない。片桐自身、社会に出て感じたことの一つだ。
彼女は片桐の言葉に何も返さず、窓を側に寄っていくと急に窓を開けた。穏やかな風が入り込んできて、カーテンをふくらませる。
「おい、寒いぞ」
「片桐さん。電話の音、よく聞こえましたか?」
彼の文句を無視して、彼女は笑顔で質問してきた。
「ふふっ。なんだそんなことか。ああ、聞こえたな。時間もあっていただろ」
「ええ。では質問です。事件の前日は、覚えていますかぁ?」
彼女は窓枠に右手を預けながら、笑顔で訳の分からないこと訊いてくる。
「前日? なぜ、そんなことを?」
「いましたよね、ここに。だって毎日いるって証言されてますから。なら、事件の前日だっていましたよね? どうですか。事件の前日のこと、覚えてませんか?」
なんでこんなことを質問されなければならないのか、さっぱり理解できないが、ここで黙るのも癪だったので彼は頭を必死に働かせて、その日のことを思い出そうとしたが上手くいかない。
仕事でこもっているときはほとんどパソコンに集中しているので何かも聞こえない。
「何もなかったな。なんだ、事件の前日なんて関係ないだろう」
「そうですかぁー。実を言いますと、お隣に確認に行ったんですよ。間違いなく片桐さんの言う通り、事件の日、電話がありました。それでですね、その前日のことも調べたんです」
片桐がなぜそんな無駄なことをするんだと馬鹿にしようとする前に、彼女が話を進める。
「すると驚きました。前日の午前中、なんとっ、四回も着信があったんですよっ。実を言いますと、お隣のお子さんが学校で怪我をされたそうです。それで学校の先生が自宅に電話をいれたらしいのですが、間の悪いことに留守だった。携帯も電源をきっていたせいで繋がらなくて、先生は大変困った。だから何度も自宅に電話をかけた。それが事件の前日のことなんです」
彼女はまくし立てるようにしゃべり終えると、窓を閉じて、片桐と向き合った。
「なんで、覚えていらっしゃらないんですか? 事件当日のたった一度のことは覚えていて、なぜその前日にうるさいくらいに鳴っていたものを忘れてしまっていたんでしょうか? ねー、どうしてですか?」
頭にある光景が過った。事件当日の朝、朝刊を取りたるために外に出たときのことだ。確かにお隣の子どもが怪我をしていたのを見た。そうだ、はっきりと目撃している。
まさか、そんな事情があったなんて……。
しかし、動揺を顔に出すことなどあってはならない。彼は「はっ」と笑ったあと、小馬鹿にするように彼女に言った。
「たまたまだろ」
「そうですかぁ。では、事件当日以外に覚えているものを教えてください。実を言いますと、翌日も二回、そしてその次の日にも一回着信がありました。何時頃か覚えていますか?」
「集中していたからな、はっきりとは覚えていない。だが、鳴っていたことはぼんやりと覚えている」
「ほー。でも、今の話は、本当は嘘なんですけどね? お隣の固定電話に事件前日、着信はありませんよ?」
顔が熱くなっていき、一気に頭に血が登っていくのがわかった。片桐は再度机を殴ると、その勢いのまま立ち上がって、彼女に詰め寄っていく。
「どういうつもりだっ」
「あら? 間違えちゃったみたいですぅ。着信があったのは事件の一週間前だったような。ちょっと忘れちゃいましたぁ。なんたって、一年分なんですもん」
思わず「なに?」と気の抜けた声を上げてしまった。一年分?
「いやぁー。大変でしたぁ」
彼女は照れるように鼻の頭を人差し指で掻きながら笑っている。
「電話本体に残ってるデータだけじゃ満足できなかったので、電話会社に行ってお隣の着信履歴を調べられるだけ調べて……もークタクタですよぉ。昨日はシャワー浴びたまま、寝ちゃいました」
彼女がわずか一日でそれだけやったのかと驚愕して、言葉が出ない。そんなことできるのか。しかも、この口ぶりだとそのデータを頭の中に入れているようにさえ思える。
ありえない。そんなことできるわけない……。
「あっ、だから片桐さん、いつでもいいですよ? 何か覚えていませんか。事件当日以外の日で」
ニッコリした笑顔を向けてくる彼女の顔を、力いっぱい殴りつけたくなる。その笑顔に、いつもと変わらぬ態度に、どうしようもなく腹が立つ。
彼女は知っているんだ、片桐が何も答えられないことを。だからこそ、こんなに余裕なんだ。
事件当日のことではなく、それ以外のことを調べて、発言の信憑性を崩しにかかってくるなど計算外だ。
「……警察が嘘をつくとは、世も末だな」
「だーかーらー、間違えちゃったんですってばー。ごめんなさぁい」
全く反省が伺えない言葉。当然だろう、彼女はきっと反省していない。なにせわざとしたに決まっているのだから。
「……ふんっ」
自分が追い詰められているのは自覚できたが、こんなところで負けるわけにはいかない。片桐はまた鼻で笑い、余裕を装った。
「なら、俺も間違えたんだろう。事件以外の日はあまり覚えていない。最近、仕事が忙しいし、遠藤のこともショックだったからな」
この刑事がこちらの言い間違いを誘ったところで、それが嘘ならば意味が無い。彼女の中で疑いが濃くなるだけで、証拠にはならない。彼女が間違ったと言うなら、それを真似するだけだ。
主張に違和感があっても、それを物的証拠で覆すことはできない。
「そもそも刑事さん、そんな言い間違いを誘ってまで俺を犯人にしたいのか?」
「やだなー、そんなわけないですよぉ」
「いい加減、その言葉遣いも鬱陶しくなってきた。いいか、証拠を示してみろ」
彼女の顔を指差しながらそう挑発してみても、彼女は言い返してこなかった。
やはり彼女は証拠を持っていない。それが最高に愉快だった。
「どうした? それが警察の仕事だろ? やってみろよ?」
彼女は彼から目を反らすと、なぜか本棚の方を見つめ出した。何も反論せずにただじっとそちらを見ている。
「ははっ。目を合わせるのも怖くなかったか、お嬢ちゃん。いいか、証拠がないなら二度とそんなこと言うなっ! 俺は捜査に協力してやってるんだぞっ!」
やはり彼女は怒鳴り声にも何の反応も示さない。ただ一歩だけ後ずさると、彼の目を真っ直ぐ見つめてきた。吸い込まれそうになるほど、綺麗な黒い瞳が片桐を捕らえてはなさない。
それに威圧されまいと、冷や汗をかきながらも喋り続ける。
「あんたがどう思おうが自由だがな、こっちだって我慢の限界があるんだ。知り合いに弁護士がいる。そいつに相談してもいい。いいか、あんたの仕事は犯人を捕まえることだ。俺を疑うことじゃない。俺が犯人だというなら、決定的な証拠をっ、俺の前に出してみろっ!」
頭に血が登っているのと、今まで我慢していた鬱憤を爆発させた相乗効果で語尾が強くなっていく。それでも彼女は反応を示さない。怯えることも、戸惑うこともなく、唇に薄い微笑を浮かべたままこちらを見ているだけだった。
そして何事もなかったかのように背中を向けて部屋を出ていこうとしたので、その背中に向けて最後に言い放った。
「二度と顔を見たくない。もしも次に何か用事があるなら、別の刑事にしてくれ」
勝ったと確信すると同時に、やはり彼女の存在が怖くなった。だからそう脅したのに彼女は立ち止まって、何か考えたあと、振り向くこともせず首を左右に振った。
「それはできませんねぇ」
「なにっ」
また怒鳴ってやろうと思った片桐だったが、それはできなかった。
彼女はくるりと、まるでフィギアスケートの選手のように、華麗に体を回転させながらこちらを向いた。
今まで一番のとびきりの笑顔で、彼女はクスッと笑い「でもご安心ください」と言った。
「次が、最後ですので」
12
神無月有佐は不機嫌を隠したりしない。他人からは気分屋と呼ばれることもあるが、自分の気持ちに嘘をつくストレスに比べたら、そんなこと気にしてられない。他者のストレスより自分のストレスの方が大切だ。前者を優遇する奴は社会人としては合格だが、人間としては欠落していると思う。
そして今日、彼女が不機嫌な理由は仕事がなかったからだ。鑑識課としての出動がなかった。つまり死体を見ていない。彼女からすれば何のためにここに身をおいているのか分からなくなる問題で、苛立ちが収まらない。
署内に設置された喫煙所でタバコを吹かしながら窓の外を見ると、夕日が傾いていて、そろそろ夜が来ると告げていた。
喫煙所は彼女を除けば全員が男で、むさ苦しいものだった。多くの者が捜査一課で、事件の進展具合を報告しあっている。例の強盗殺人は有力の手がかりが全くない状態で、迷宮入りではないかという声も聞こえた。
有佐としてもそれはやめてほしいところだ。あの事件は鑑識課では自分担当となっているので、解決しなければ、自分にもマイナス評価がつく。
「何やってるのよ、あいつは……」
小声でそう呟きながら、短くなったタバコを捨て、次の一本に手をのばそうとしたときにポケットに入れていた携帯が震えだした。
舌打ちをした後、それを取り出して液晶に表示された名前を見た瞬間に、咄嗟に「うげっ」とカエルみたいな声を出してしまった。
そのせいで喫煙所にいた人間たちの視線が彼女に集まったので、喫煙所から退室して歩きながら電話にでた。
「もしもし」
『あっ、やっと出てくれたぁ。もうっ、帰っちゃったのかと思ったんだからー』
平常運転の間延びした声が彼女の不機嫌を刺激する。
「うるさい黙れほっとけ死ね。切るからバイバイサヨナラじゃあね」
要件も聞かずに電話を切ろうとすると「わーっ! ダメーッ!」と電話口で彼女が叫んだので仕方なく通話を続ける。
「……なによ?」
『有佐ちゃんに調べて欲しいものがあるんだよねー』
桜崎はあるものを指定してきた。それは例の事件現場にあったもので、確かに有佐の記憶にも残っていたが、なぜ彼女がそんなものを今更調べてほしいと言い出したか分からなかった。
「あんなもの調べてどうするの? 事件と関係ないでしょう」
『どうだろうね? でも、そんなに深く調べてないでしょう?』
「指紋はとったわよ」
現場にあったものは大体そうするのが定石で、有佐はそれに背いていなかった。ただ結果は案の定のもので、だからこそ、重要視されていない。
電話の向こうで、桜崎が小さく笑ったのが聞こえた。
『調べて欲しいな、もう一度。細かく』
窓の外から夕日が差し込んでくる。彼女はそれを見ながら、はぁっと一度ため息をついた。
「……いいわよ」
『さっすがー。じゃあ、お願いねぇ。あとで持っていくから』
急に意味不明な言葉が出てきたせいで「は?」と聞き返してしまった。
「なにを持ってくるのよ? なんか新しいものでも見つけたの?」
電話の向こうで彼女が鼻歌まじりに答える。
『見つける? なに言っての、もうー。とにかく、すぐ帰るからぁ。お願いねー』
重要なことは何一つ言わないで、要件だけ飲ませると桜崎は有佐の制止も聞かずに一方的に通話を切った。
「……あの猫っ」
腹がたった。とにかく顔を見たら蹴りをいれてやることも決めた。ただそれでも有佐は自分の部屋へと足を進めていく。桜崎がああ言うからには何かあったんだろう。
恐らく、明日にでも事件は解決する。
彼女の目的はわからない。何を持ってくるのかも不明。ただそれでも、きっとそれがチェックメイトの駒だとはわかる。全く嬉しくないことに、それが付き合いというものだった。
研究室へ入り、さっそく準備へ取り掛かる。そしてどこの誰かも知らない人間へ、小さな声で心の籠もっていない労いの言葉をかけた。
「ご愁傷様」
次回で解決編です。
解決といっても犯人もトリックも最初からわかっているんですが。
桜崎が何をどうして、片桐のトリックを暴いてみせるかを注目いただければ。