挑発と、いくつかの確信
片桐の自宅を訪ねてきた桜崎は、彼に事件にまつわるいくつかの不可解な点を並べてくるだけでなく、ある行動をおこしはじめる。
8
ノックの音が室内に響いたことで、意識が戻った。パソコンから目を離して、椅子を反転させてドアの方を振り向く。
「どうぞ」
開けたのは憂希だった。なんだかいつもよりも表情が暗く、どこか不安そうにしている。
「どうしたんだ?」
椅子から立ち上がって彼女に寄って行こうとしたら、妻の後ろからひょいっとある人物が顔をのぞかせ、思わずドキッとしてしまう。
昨日の刑事、桜崎だった。相変わらず刑事とは思えない格好で、そして笑顔を浮かべている。
「さ、桜崎さんか」
「ごめんなさい、急に来ちゃってー。お邪魔でしたか?」
「いや、大丈夫だ。今日も特に予定はないから」
本当は新会社設立に向けての話し合いをするつもりだったのだが、仲間たちから「今はゆっくりした方がいい」と気を遣われたのでそれに従った。ここで断って怪しまれるなんてことも想定できた。
「そうですかぁ、よかったですー。あ、憂希さん、ありがとうございました」
桜崎が頭を下げてお礼を言うと、憂希は「いえいえ」と応えた。警察相手ということで、緊張しているようだ。
「憂希、この刑事さんは遠藤の事件を捜査してくれている。怖い人じゃないよ」
安心させるためにそう紹介すると、桜崎が「そうなんですぅ」とまるで茶化すように敬礼した。
「事件解決のため、片桐さんにご協力をお願いしてるんです」
「えっと……夫は疑われているんですか?」
不安を隠し切れない表情で憂希が尋ねると、桜崎は「あはははー」と笑った。その反応に彼女がびっくりする。
「昨日、片桐さんにも同じ質問をされましたぁ。やっぱりご夫婦なんですねー。大丈夫ですよ、ただの手続きみたいのものですから、安心してください」
桜崎が憂希の手を握って、本当に大丈夫ですよと諭す。彼女は少し安心したのか「そうですか」と、表情を柔らかくした。桜崎は刑事とは思えない外見だが、こういうところで活かされているようだ。
「それにしても、いいお部屋ですねぇ」
桜崎は部屋に入って、その中央に立つと首を回しながら部屋全体を見渡す。
「汚れていては仕事に集中できないからね。ああ、憂希、刑事さんになにか飲み物を」
有希は頷くとそのまま部屋から出ていき一階に行った。
「それで刑事さん、今日は何の用かな?」
「あっ、はい。実はカメラの映像を持って来いと言われてしまいましてー。私はいらないと思ったんですけどねぇ。ご協力していただけますぅ?」
「ああ、もちろんだ」
むしろそれを期待していた。そのカメラ映像はアリバイ工作なのだから。それに写っていないというのが、疑いの目を背ける手段の一つ。調べてもらわなくては、骨折り損というものだ。
「ありがとうございますっ。いやぁ、片桐さんが優しくて助かりましたー。こういうこと言うと、怒る人多いんですよねー」
「仕方ないな、疑われて気持ちいいことはないから。しかしそれが捜査に役に立つなんだろう」
「かもしれませんねー」
てっきり「はいそうですね」と肯定が返ってくるものだと思っていたのに、彼女の返答は何か曖昧なものだった。否定ともいえないが、明らかに肯定ではない。
まるで、そんなの期待してないと言わんばかりだ。
「事件の日は、ここで株価の監視を?」
「ああ。仕事の時は妻にも入ってこないように言ってあるから、証人はいないが」
「集中するためですもんねー。アリバイについては心配なさらないでください。カメラを確認しますのでー」
桜崎はまるで何かを探すかのように、両手を体の後ろに組んで、ゆっくり大股で部屋の中を歩いている。パソコンや、本棚、ベッドなどを興味深そうに見ていた。
やめろと言うわけにもいかない。刑事のやることに口を出して、怪しまれるなんて馬鹿げている。好きなだけ調べさせればいい。事件の証拠はもうこの部屋には残っていない。使ったものは全て処理したのだから。
「はぁー、やっぱり難しそうな本ばかりありますねぇ」
本棚に並べられた本の背表紙を眺めながら桜崎がまるで小学生みたいな感想を口にする。
「そんな難しくはないんだ。桜崎さんだって、本は読むだろ?」
「私、字を追うのは苦手でして。漫画しか読みません」
なんというか、想像通りの答えが返ってきた。昨日、別れ際に見せたするどい着眼点の持ち主とは思えない。あれはたまたまだったんだろうか。
ふと、桜崎が机の前で足を止めた。机にはパソコンとスタンドライト、それと卓上カレンダー、あとは灰皿しか置いていない。あと必要なものは引き出しにいれている。
「タバコ、やっぱり吸われるんですね」
桜崎が顎の下に手を添えながら灰皿を興味深そうに眺めながめながら言った。
「ああ、もう中毒でね。妻から控えて欲しいとよく言われるんだ。しかし、やめられないな。禁煙にチャレンジしても三日坊主どころか、二日ももたない。桜崎さんは吸わないのか?」
すると彼女は両手を胸の前でぶんぶんと大きく振った。
「無理です無理です。おいしくないじゃないですかー」
「あははははっ。吸い続けるとうまく感じるんだよ」
「そうなんですか? いやぁ、私にはわかりません」
喫煙家が肩身の狭いこのご時世だ、彼女のような意見を耳にするのは初めてじゃない。その度に同じことを言うのだが、理解されることはない。
「あっ、そういえば!」
急に桜崎が背筋を伸ばして、なにか思い出したようだった。
「どうした?」
「私、苦いの駄目なんですよっ。憂希さんにそう伝えるのを忘れてました!」
「ああ、そんなことか」
思わず何か捜査に関係する重要なことを思い出したのかと身構えたのに、そんなつまらないこと。拍子抜けしてしまう。全く、この刑事、本当に警察でやっていけてるんだろうかと心配になってきた。
「分かった。憂希にそれを伝えてこよう」
憂希はコーヒーをいれているだろう。客人にはいつもそうしている。
部屋から出て、一階のキッチンに行くと案の定、憂希はそうしていた。ステンレス製のケトルを片手に、コップにお湯を注いでいるところで、降りてきた片桐を見ると、少し驚いた表情をする。
「どうかしたの?」
「あの刑事さん、苦いのは苦手なんだそうだ。砂糖と牛乳を入れてやってくれ」
「へえ、そうだったの。わかったわ」
彼女がケトルを置き、シュガーポットに手を伸ばしたときだった。
――ドンッ。
何か大きく響く音が聞こえてきた。音がしたのは、裏庭の方からだった。憂希に「ここにいろ」と命じたあと、彼は急いで裏庭へ繋がる扉へ向かい、そして勢いよく開けた。
一般家庭よりも広い裏庭は日頃から憂希が雑草などの対策をしているおかげで綺麗なもので、物置だけがある。そしてその物置の上に一人、誰かが立っていた。
「ああ、どうもぉー」
さきほどまで二階の部屋にいた桜崎が物置の上で、さっきと変わらない笑顔を浮かべて立っていた。
「刑事さんっ! あんた、何をしてるんだ!」
相手が警察であることも忘れて思わずそう怒鳴っても、相手が怯むことはなかった。
「いやぁー、ごめんなさい。ちょっと窓から身を乗り出していたら、バランスを崩しちゃってぇ」
あはははと軽く笑いながら頭を掻きつつ「てへっ」と舌の先を出す姿に殺意に近いものが腹の底からわいてきた。
「いいからすぐ降りてくれ、早くつ」
「それがですねぇ……私もそうしたいんですけどー……ここ、高くて」
はっきりと彼女にも聞こえるくらいの舌打ちをしてから、物置の扉を開けて中から梯子を取り出して物置にかけた。
「ほらっ、早く」
「わぁ、ありがとうございますー」
彼女は自分がスカートをはいていることも、片桐が男だということも忘れているのか、ごく普通に梯子から降りてくる。片桐はイライラしながらも、目をそらした。
梯子からおりた彼女が、スカートをはたきながら「いやぁ、助かりましたぁ」なんて間の抜けた声を出す。
「危ないところだったんですよー。物置がなかったら死んじゃってましたよねぇ。いやぁ、本当にありがとうございました。この梯子もなかったら、飛び降りなきゃいけないところでしたー」
ぎゅっと拳を強く握って、怒りを抑える。小刻みに震える拳が、彼の感情をよく表していた。
あの窓からどんなに身を乗り出しても落ちるなんてことはありえない。そもそもそんな落ち方をしたのなら、今の彼女みたいに無傷でいられるはずがない。
こいつ――。
「あ、サーフィンとかやられるんですか?」
開きっぱなしになっていた物置の扉から、サーフボーが顔をのぞかせていた。
「ああ、趣味でね」
「はぁー、カッコイイですぅ。あっ、そういえば、遠藤さんのことで質問があったんですよぉ」
この流れで事件のことを訊いてくるとは思っていなかった。
「遠藤さんって、運動はどうでしたか? やっぱりダメダメでしたか?」
彼女の質問の意図も、やっぱりという言葉の意味もわからなかった。片桐は首を左右に振って、そんなことはないと否定する。
「抜群だったということはながいが、悪いはずがない。サーフィンやスノーボードには学生の頃、よく一緒に行ったものだ」
すると、彼女は眉間にしわをよせて「うーん?」と首をかしげた。
「おかしいですねぇー」
「なにがおかしいっていうんだ。俺は嘘を言ってないぞ。調べればすぐわかる」
「いえいえ、片桐さんは疑ってませんよぉ。ただ、そうなるとおかしいんですよねえ」
彼女は急にポケットからある写真を取り出した。死んだ遠藤の顔が拡大されているものだ。
「すいません、気分を悪くされました?」
「……少しな」
「ごめんなさい。ただ、見たならわかりません? おかしいですよね?」
彼女が何を言っているのかさっぱりわからず、つい「何がだっ」と声を大きくしてしまった。
「額のちょうど真ん中あたりを一撃されてます。遠藤さんは犯人ともみ合った末、殴られたと見ているんですが、普通、もみ合っていた相手が凶器を取り出してきて、それを振りかざしてきたら避けません?」
ようやく桜崎の言っていることを理解し、また舌打ちをしたくなったが、今度はなんとかこらえた。
そうだ。もみ合っていたら、相手が凶器を取り出してきた段階で距離をとるか、あるいはそれを奪うか、ないしはそれを行使させないようにする。もちろん、それらが全て失敗に終わることは想定できる。
問題は額を直撃していたこと。つまり、遠藤は犯人が正面にいたというのに、無防備で避けるようなこともしなかったということになる。
事実、そうなのだから……。
「……避けきれなかっただけだろ」
「そうですかねー」
明らかに納得していない彼女は忌々しい写真をポケットにしまった。丁度そのときになって「あなた?」という声が背中から聞こえてきた。憂希が心配そうにこちらを見つめていた。
「ああ、心配するな。刑事さんが少しドジをしただけだ」
「いやぁ、すいませーん」
全く悪気を感じてなさそうに謝る彼女にまたしても殺意が湧いてくる。
昨日は間抜けな刑事で助かったと思っていたが、とんだ勘違いだったことをようやく認める気になった。彼女は、明らかにこちらを疑っている。顔には出さないし、言葉にもしないが、明らかに片桐を「遠藤の友人」として見ていない。
「ああ、憂希、すまないが例のSDカードを持ってきてくれ」
しかし、疑われることは予想済みだ。警察も無能じゃない。むしろ殺人事件の検挙率は九割を超えるという。そのたった一割になることに賭けたのだから、簡単に進むとは思っていない。
さて、次の手をうつぞ。
「わかったわ」
憂希はまた家の中へ戻っていった。玄関に設置されている防犯カメラの映像を収めているSDカードをとりにいってくれた。
「そうだ、刑事さん、今思い出したんだが」
「はい、なんですか」
「事件の日の正午に、お隣の家から電話の音が聞こえたよ。これがアリバイになるか、わからないが」
桜崎は笑顔のまま、昨日と同様、あのペンとメモ帳を素早く取り出して「ほうほう」と興味深そうに書きだした。
「つまり、片桐は正午ごろ、ここにいたんですね?」
「その証拠になるかな?」
「まー確認してみないことにはなんとも言えませんねぇ。ただ、確認がとれたら、十分なものになるかと思いますよ?」
彼女は表情を崩していない。ただ、こちらとしては笑みがこぼれそうになるのをこらえるのが辛いくらいだった。
確認はとれる、それは間違いない。なぜなら、隣の家の電話が鳴ったことは間違いないのだから。
あの日、出かける前に部屋の窓の近くにハンディカムを仕掛けた。
賭けたのだ。もしも窓の外で何かあれば、それを見てたことがアリバイになり得る。映像は何もなかったが正午ごろ、確かに隣の家の電話がなっていた。その音だけが録音されていた。
やはり、幸運の女神はこちらの味方のようだ。
桜崎はメモを書き終えると、メモ帳を閉じてくるりと体を反転させて、片桐から背を向けた。そしてまた足を進め、ブロック塀の前で立ち止まると、それに手を添える。
「しっかりした造りの塀ですねぇ」
「震災があったとき、補強工事をしたんだ」
「なるほどー。人が一人乗っても平気でしょうね」
「……どういう意味だ?」
「いえ、丈夫そうだと言っただけですよー?」
やはり彼女は疑っている。せっかく新しい証言までしたのに、そんなことは微塵も気にせず、狙いを定めている。
下唇を噛み、彼女を睨んだ。
「あんた――」
「あなた、持ってきたわ」
桜崎に怒りをぶつけてやろうとしたときに、憂希が戻ってきて、SDカードを渡してきた。
ほぼ同じタイミングで何やら可愛らしいメロディが聞こえてきた。それはどうやら桜崎の携帯の着信音だったらしく、彼女は大量のビーズでデコレーションされて、明らかに携帯本体よりも重いたくさんのストラップをつけた携帯を取り出した。
「はぁーい」
間の抜けた声で応答しはじめた。どうやら彼女の態度は芝居でもなんでもなく、自然体のようだ。
しばらく電話口の相手の話を適当に相槌をうちながら聞き、最後には「わかったぁ」と言って電話をきった。
「いやはや、どうやら戻らないといけないみたいです。あ、それ、カメラのSDですか?」
「そうだ。渡しておく」
SDカードを差し出すと彼女は餌を与えられた犬のようにそれを素早く奪い取った。
「いやぁ、助かりますー。ちゃんと確認してお返ししますので、安心してくださいね。あ、それじゃあ、そろそろ失礼いたしますぅ」
彼女は片桐と憂希に深々と頭を下げて、その場を後にしようとしたが、急に「そうだそうだ」と声をあげて、また片桐の方へ歩み寄っていくと、その目をまっすぐと見つめてきた。
「一つ、聞き忘れていました。遠藤さんなんですけど、タバコは吸われていましたか?」
「タバコ? いや、あいつはむしろ嫌煙家だったよ」
彼女は片桐の答えに唇をほころばせて「そうですか」と満足した。
「そーですかぁ。お時間とらせて、すいませんでした」
「なんだ、それがどうかしたのか?」
片桐の質問に彼女は答えず、笑顔のまま、安心してくださいと言った。
「次お会いした時、教えますよ」
9
村上和樹が疲れきった体を自らのデスクに預けたのは、夜の十一時を過ぎたころだった。一般企業なら遅い時間帯かもしれないが、警察では、ましてや捜査課一課ならこの時間はまだ眠くなるような時間ではなかった。
それでも休憩は大切で、周りの先輩刑事たちも自らの仕事をこなしつつ、適度に体を休めていた。
捜査が始まってもう三日目。これといって目ぼしい答えにたどり着けていない捜査本部には重い空気が流れている。焦燥はいらだちを駆り立て、みんな落ち着かない様子だ。
初動捜査こそが事件解決の最重要ポイント。そこで躓いてしまっては、迷宮入りさえ視野に入れなければならなくなってくる。
「村上」
まるでこんにゃくのようにデスクに倒れていた彼に声をかけてきたのは門倉刑事部長で、彼はすぐに体を起こした。
「はいっ」
「夜中にでかい声出すな。お前の教育係はどうした?」
どうやら門倉も疲れているようで、日頃の迫力はなかった。
「桜崎先輩は……昼間に証言の報告とSDカード渡してきて、あとは、わかりません」
村上の答えに門倉は舌打ちをしてから頭を掻いた。
「あいつが目をつけてるやつ……名前は?」
「片桐です。被害者の大学の友人で、事件当日連絡してます。ただ、先輩が調べてみると事件の時間に家にいた可能性が高いみたいですけど」
村上は角倉に桜崎が調べている人物について報告をし始めた。
事件の日に片桐が被害者に連絡をしていたこと、ただ片桐は家にいたと証言していること。そしてそれを妻も認めていて、玄関のカメラの映像にも彼が出て行ったところは写っていなかったと。
「カメラに映ってなかっただけじゃな」
「それが事件とほぼ同時刻に隣の家の電話が鳴って、それを片桐が聞いていたそうです。確認もとれました。証言に狂いはありません」
この確認は桜崎自身がして、その報告もされていた。ただ「報告しといてねー」と電話で言われてから、彼女とは連絡がつかなくなった。
いつものことなので、もう慣れたものだった。
「物的証拠はないが、状況証拠が揃ってるって感じだな」
片桐のアリバイは門倉が言うように、状況証拠だ。完全ではない。しかしながら、それが偽物だと言うこともできない。不安定ながら、バランスをたもっていて、それは落ちない。
門倉はため息をつくと、たばこを取り出して一本くわえると、村上にも勧めてきた。彼はありがたくそれをもらい二人で煙を吐き出したところで、いつもの足音が聞こえてきた。
リズミカルにブーツが床を叩く音。それは刑事課に彼女の帰還を知らせる音で、二人は揃って入り口の方へ目を向けた。
いつもと変わらぬ格好で桜崎が「ただいま戻りましたぁー」と笑顔で敬礼をしながら刑事課に戻ってきた。誰も返答しないのもいつものことで、彼女も当然そんなことを気にする素振りを見せることはなく、門倉と村上の元へ一直線で向かってきた。
「あれ? 休憩中ですか? なら私もしたいですぅ」
そう言うと村上の隣にある、ほとんど彼女が座ることのないデスクに腰掛けた。
彼女の私物であふれたデスクだが、彼女がこの刑事課にいる時間自体が少ないので、ほぼ荷物置きになっている。
「桜崎、どこに行ってた?」
「もうー、仕事ですよぉ。聞き込みですよぉ。き、き、こ、み。マンションの住人さんたちに」
「現場のか? お前、捜査資料にマンションの住人の証言は書いてただろ」
門倉が指摘するように現場の周辺の住人の証言なんかは事件発覚直後にとっている。今更、聞き込みに行く必要はないはずだった・
「うーんとですねぇ、それを読んで気になったんですよー」
彼女はカバンからくしゃくしゃになった資料を取り出すと、その聴きこみ証言の載ったページをデクスに広げた。
「何か物音を聞いた住人はいたと書いてありました。けど、声を聞いたという証言はありませんでした。おかしくありません?」
「なにがですか?」
村上が見の乗り出して彼女に訊く。
大抵の場合、彼女がこういう疑問を持つとき、それは何か大きな手がかりであることを彼はもう学んでいたので、気持ちが高鳴った。
「もみ合っていたなら、被害者は叫んんだりするんじゃないのかな。それなのに声を聞いた住人はいないの。どうして? 被害者は大きな声も出さず、犯人ともみ合ってのかな?」
言われてみれば確かにそうかもしれないが、聞こえなかっただけということも十分に想定できた。
門倉が腕組みをしたまま「馬鹿野郎っ」と怒鳴った。
「ちゃんと資料読め。その音を聞いたのは隣の家の婆さんだ。かなり歳もいってて、耳も遠いと自分で言っている。聞こえなかったんだよ」
確かにそれは捜査資料に書かれていたことで、桜崎も知っていたはずだったが、それでも彼女は納得していない様子だった。
「ならどうして、そこに入らなかったんででしょうね?」
「はあ?」
脈絡のない質問に門倉が疑問の声をあげたが、彼女は勝手に話を進めていく。
「捜査資料、読み込みました。この犯人、見事ですね。誰にも目撃されていません。マンションの住人にも、その周辺の住人にも。不審人物の目撃情報はまるでありません。なぜ、そんなことが可能だったんでしょう?」
「なぜって……」
それは捜査を困難にさせている大きな要因で、捜査官全員が頭を悩ませている問題であった。不審者の目撃情報がないから、犯人の具体的な姿が掴めずにいる。
彼女がなんとか質問に答えようとする村上に目を合わせて、変わらぬ笑顔でウィンクをしてきた。思わずドキッとしてしまう。
「犯人はね、細心の注意を払ったんだと思う。無駄な動きを一切してないんだよ。だから、見られてない。きっと誰にも目撃されないことを心がけたはずだよ。なら、無駄な動きを一切してないっていうのがどういうことかな? 犯人は狙いを定めていたんじゃないの?」
「狙いを? つまり、被害者の部屋に侵入すると最初から決めていたと?」
「うん。そーじゃなきゃ、動きに無駄がなさ過ぎるよ。けどそれを考えると、おかしいよね? どうしてわざわざ成人男性の部屋に侵入したのかな、となりにはか弱い老人の部屋があったのに」
ようやく最初にした彼女の疑問の意味がわかって、村上と門倉は息をのんだ。そんな二人を気に留めないで、彼女は喋り続ける。
「下調べはしてたはず。じゃなきゃ、狙いをあの部屋に絞るなんてできない。なら、どうしてあの部屋だったのか……あの部屋じゃなきゃ、駄目だったから」
桜崎は捜査資料を閉じると、それをカバンに閉まって「ふぅっ」と一息ついた。
「って、可能性があるよねー?」
そしていつもと同じ、間の抜けた声で二人に同意を求めてきた。門倉は彼女の笑顔が鬱陶しかったのか「ちっ」舌打ちをした。
「隣のお婆ちゃんに会ってきたんですよ。みかんとお茶をご馳走になっちゃいましたぁ。もう七六歳だそうです。犯人はあの方を無視した。これは、偶然と思えません」
珍しく、桜崎が断言した。彼女はいつも「考えられる」や「おかしい」とは口にするが、自分の考えを「そうに決まっている」とは言わない。自信がないとかではなく、単に「他に可能性もある」と彼女自身が考慮してるから。
ただ、こう断言したということは、彼女の中である程度、固まっているものがあるんだ。
「お前の話しを鵜呑みすると、確かに被害者の知人が怪しいな。しかし片桐にはアリバイがあるんだろ?」
門倉の口から片桐という名前が出てきたことに桜崎はちょっと驚いた顔をしたあと、両の頬を膨らませて村上を睨んできた。どうやら黙って報告したことに怒っているらしい。
彼は「仕方ないですよ」と弁解した。
そもそも報告しておいてと言っておいてなんで怒るのかわからない。
「……カメラの映像は確認しましたよ。電話の件も間違いありません」
少し拗ねた感じに、唇を尖らせながら彼女はそれらを認めた。その報告に門倉はふっと鼻で笑う。
「詰んだか?」
挑発するような角倉の質問に桜崎はしばらく答えなかったが、すぐにいつも通りの笑顔に戻った。
「最近の防犯カメラってすごいんですね。あんな小さなカードに保存できるなんて」
「はあ?」
またもはや話題が急に飛んだことに門倉が素っ頓狂な声をあげた。しかも今度の話題の飛び方はさっきの比ではなかった。
「私も最近物騒だし、防犯カメラ買おうかと思ってたんですよぉ。Amazonで調べたら、意外と安くて驚いちゃいました」
「おい、何の話をしてる?」
「もっちろん、防犯カメラの話しですよ? あ、もうこんな時間だっ。部長、私、今日は一旦家に帰りますねー。ゆっくりお風呂に入りたい気分なんですよー」
さっき戻ってきたばかりだというのに、桜崎はデスクから立ち上がると最低限のものだけをいつも肩にかけているカバンにつめて、鼻歌を歌いながら出口へ向かった。そんな彼女の背中に門倉が声をかける。
「おいっ、桜崎」
まだ話は終わってないぞと続けようとする彼に対して、彼女は振り向くこともせず、ステップを踏んでいたが、扉の前で急に立ち止まるとまた笑顔を向けてきた。
「やっぱり、録音機能がついたものがいいですよね?」
10
片桐憂希は迷っていた。
スーパーの食品売り場。彼女の目の前にはいくつもの食材たちが並べらている。店の売り出し文句が「鮮度が命」というもので、少々割高な値段設定だが、それに嘘偽りがないので彼女はここを愛用していた。
鮮魚コーナーの一角で、じっくりと刺し身と向き合っていた。同じ商品が並べられているが、一体どれが一番新鮮なんだろう。
彼女は主婦で、やはり料理が自分の一番大きな仕事だと考えている。最近の夫は疲れているので「何かおいしいものを作ってあげなければ」という思いが強くあった。
日頃はこんなところで悩むこともないのだが、そういうことがあって、食材選びがいつもより慎重になっていた。
「この中だと、これですかねぇ」
そんな声とともに、彼女の視界に急に一本の腕が入ってきて、ある刺し身のパックを指さした。
驚きのせいで声も出ず、ただ声の主を見ると、昨日自宅を尋ねてきた刑事、桜崎がいつの間にか彼女の隣に立っていた。昨日と変わらぬ笑顔で「どうもぉ」と刑事とは思えない、軽い挨拶をしてくる。
「今日はお刺身ですか? 私、サーモンが一番好きですねぇ。憂希さんはどれが一番お好きですか? あ、というか、わさびってつけますか? 私、あれ駄目なんですよー」
「け、刑事さん……どうして、ここに?」
彼女の質問を無視して、当然のことを訊くと彼女は「ああ」と言いながら、自らのカバンを一回叩いた。
「昨日お借りしたSDカードを返しにきましたー。それと遠藤さんのことで、片桐さんにお伺いしたいことができましてぇ」
「ああ、そういうことですか」
しかし、それならここにいるのはなぜかと思ったが、その疑問を口に出す前に、彼女が憂希のカゴにさっき指さした刺し身のパックを入れてしまう。
「私の友達に、こういう死体‒‒じゃないや、生物に詳しい子がいるんですよー。だから色々教えてもらいましたぁ。この中じゃ、これが一番新鮮でおいしいはずですよぉ」
のんびりとした口調なのに、何故か彼女のいうことが正しい気がした。彼女は不思議な説得力を持っている。しかし、刑事という職業の成果、物騒な言い間違いをするんだなとちょっと血の気が引いた。
憂希は辺りを見渡して、周囲には特に知り合いはいないことを確認した後、桜崎に極めて小声で尋ねる。
「あの、夫のアリバイは……」
「ああ、大丈夫ですよ? ビデオの確認はしましたし、証言の裏もとれましたのでー」
その返答に思わず笑顔が溢れてしまった。昨日からずっとそれが不安で、あまり眠れないほどだったが、どうやら杞憂に終わってくれたらしい。
「お買い物はいつもこちらでされているんですか?」
「ええ。お気に入りなんです。警察ってそんなことまで調べるんですね」
「いやぁーごめんなさいー。調べないと怒られちゃうんですよねー」
彼女は「嫌になっちゃいますぅ」と愚痴を漏らしながら、キャスケットごしの頭を人差し指で軽く掻いた。
「事件の日もここに来られたりしました?」
「ええ、買い物はいつもここでしますから。だいたい十一時に家を出て、正午ごろに帰ってくることが多いですね。あの日もそうだったと思いますよ」
「いやぁ、主婦の方って憧れちゃいますー。私も早くお嫁さんになりたいですぅ」
桜崎が羨望の眼差しを向けてくるので、思わずくすっと笑ってしまった。ドラマのせいで、刑事というのはもっと厳つい男だとばかり想像していたが、彼女を見ているとどうもそうでもないらしい。
彼女が特異なだけかもしれないが。
「私は刑事さんみたいにバリバリ働いている女性に憧れちゃうけど」
「そうですかぁ? 私はもういやなことばっかりで、毎朝ユーウツですよ?」
そう愚痴ってため息をこぼす横顔を見ながら、憂希は率直に「綺麗だな」と感じていた。彼女自身、容姿には多少の自信があり、ファッションや化粧品にはとても気を使っているので、他の女性に対して対抗心は持っていた。
しかしながら、桜崎に対してはそんな感情は出せなかった。バカバカしいとわかる。対抗するだけ無駄で、哀れだ。
一体年齢はいくつなのだろうか。大学生、いや下手をすれば高校生と言われても信じてしまうほどの若々しさだが、刑事というからにはもう二十をすぎてそこそこ経っているはずだ。
「憂希さん?」
そう声をかけられて我に帰ると、すぐ目の前に桜崎の顔があってびっくりしてしまった。
「どうかしましたかぁ? なにか、ぼうっとされていましたよ?」
「なんでもないの。ごめんなさい、気にしないで」
まさかあなたのことを考えていたのとは言えるはずもなく、彼女は右手を払うように振りながら「気にしないで」と誤魔化した。桜崎は首をかしげたが、追求はしてこなかった。
「それにしても」
そう切り出した彼女が飛びつくような勢いで憂希と距離を縮めてきた。
「な、なに?」
「薄くて綺麗な口紅ですぅー。思わず見とれてしまいました。よければ、どこで売ってるか教えてくれませんかぁ?」
どうやら優希のつけていた口紅が気にいったようで、それは彼女にとってもも嬉しいことだった。
「これは百貨店で買ったのよ。嬉しい、私も気に入ってるの。いいわ、教えてあげる」
この口紅は彼女が愛用している化粧品店の新作で、一週間前に購入したところだった。彼女はあまり派手な化粧が好きではないので、色が薄くて控えめなのに、少し輝いているこの商品をすぐに好きになった。
桜崎はその話を興味津々で聞きながら、今度は自分のおすすめの化粧品の話を始めた。
そういう会話をしながら買い物をし、そのまま一緒に帰路へつくことになったのだが、刑事相手だというのに緊張は全くしなかった。
なんだか彼女と話していると、妹と話しているような気持ちになって、癒やされた。
「刑事さんとは、違う会い方をしたかったわね」
話の途中で思わずそう本音をぶつけると、彼女は笑顔のまま「そうですねぇ」と下を向いた。
「本当に」
どうしてか、その言葉の時だけは表情を見せてくれなかった。
あと二回で終了です。