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挨拶と、いくつかの確認事項

旧友を殺害し、自分の計画に自信に満ちあふれている片桐は、桜崎という女刑事と出会う。

とても刑事とは思えない容姿に、雰囲気の持ち主で最初は油断していた彼だが、彼女が口にする可能性の数々に、平常心を保っているのが困難になっていき……。


 遠藤の葬儀には懐かしい顔がたくさん来ていた。

 彼の事件はニュースにもなり、知人たちの間には瞬く間に知れ渡った。おかげで会いたくない顔とも再会を果たすことになったが、その引き金をひいたのは自分だから仕方ない。

「残念ね。あなたの友達だったんでしょう?」

 出かける間際、憂希がらしくもない暗い表情でそう尋ねてきた。そうだなと答えはしたものの、彼女に背信してる事実で気が重くなった。

 葬儀は滞りなく、遠藤の両親が喪主となり進んだ。恋人もいなかった男ではあったが、それでもすすり泣く声が会場の所々で聞こえてた。

 そんなこともあり、誰より早く会場を後にした。

『ちょっと、一人でゆっくりしたい』

 そんなもっともらしいことを言うと、知人たちは「わかった」と返事をしてくれた。学生時代、遠藤と一番仲のよかったのは片桐で、皆それを覚えていたからこその配慮だったのだろう。

 実際、罪悪感がないわけがなかった。友人をこの手で殺めた。しかも将来の保険のためである。他にやりやろうがあったかもしれない。

 ただ、眼前に危機が迫ってからでは遅い。常にそれが発生しないように行動していかなければ。

 会場を後にして、タバコを咥えながら憂希の待つ自宅へと帰るため駅に向かっていた道中だった。

「いい礼服ですねー」

 突然、後ろからそんな声が聞こえた。なんだと思って振り向くと、薄いブラウンとホワイトのチェック柄のコートを着た、若い女性がいた。手には紙パックのコーヒー牛乳があり、ストローでそれを飲んでいる。

 そして片桐と目があうと、首を傾けながら目を細めて笑う。

 これほど綺麗な女性を見たことがあるだろうかと思うほどの顔だった。全てが整えれていて、無駄がない。幼くも見えるし、大人にも見える。

「……どなたですか?」

「片桐さんですよね、遠藤さんのお友達の。私、こういう者です」

 彼女は笑顔を保ったまま、コートのポケットから黒くて四角いものを出して、それを片桐に見せてきた。間違いなく、警察手帳だ。彼女の写真に、名前と役職が記されている。

「桜崎、スズメさん?」

「はーい、そうなんですぅ。所属は捜査一課で、実は遠藤さんの事件を担当しているんですよね」

 とても刑事とは思えない身なりに、そして柔らかい口調。刑事というより女子学生と言われたほうがまだ納得する。しかしながら、手帳を持っている以上、刑事なのだろう。驚きを押し殺しながら、どうもと頭を下げた。

「今日は遠藤さんの葬儀に出られたんじゃなかったんですか?」

「いや、気分が悪くなってね。早めに退席させてもらったんだ」

 警察相手だというのに言葉遣いが上からになってしまうのは、彼女から醸しだされる雰囲気がとても刑事とは思えないもので、なおかつ年下だからだろう。彼女も気にしてない様子だった。

「あー、そうですよねぇ。やはり、お友達が亡くなってショックですもんね。それは仕方ないです」

 うんうんと腕を組みながら頷く彼女。

「それでは、今からご自宅の方にお帰りになるんですかぁ」

「ああ、今日は予定を全てキャンセルしたんだけど、ゆっくり気を休めることにしようと」

「そうですねぇ、それがいいと思います。あ、では、駅までの間でいいのでちょっとお付き合い頂けますか?」

 彼女は鞄の中から可愛らしいキャラクターのデザインがされたメモ帳と、有名テーマパークの小さなフィギアがノックの部分についたボールペンを取り出しながら尋ねてきた。

 ごくっと息をのむ。彼女の雰囲気にのまれそうになるが、ミスは許されないところだ。

 大丈夫、演習は何度も頭の中でしてきた。問題ない。

「ああ、いいよ。歩きながらでいいかな?」

「ええ、それで大丈夫です」

 二人で一緒に歩き始めると、早速彼女が質問をぶつけてきた。

「遠藤さんとは大学時代の友人と、捜査資料に書かれていたんですが、間違いないですか?」

「ああ、その通りだよ。四年間のほとんどを彼と過ごした」

「おぉっ、いいですね。なんだか興奮してしまいますっ」

 桜崎が目を輝かせて鼻息を荒くしたが、何に興奮したのかさっぱり分からない。

「あっ、いけないいけない。ええっと、次の質問なんですけどぉ、片桐さんは今、何をされているんですか?」

「仕事かい? 前に務めていた会社は二年前に辞めたんだ。色々あってね。今は株取引で飯を食ってる。ただ、それももうすぐ終わらせる。今は、その株取引と、新しい会社の設立に向けて動いてる」

「新しい会社、ですか。なんだか、よくわかんないですが、すごいですね」

 彼女の感想に思わず吹き出してしそうになった。彼が株取引や、新会社設立のことを言うと誰もがだいたい彼女と同じこと口にする。すごい、と。実際、こちらがやっていることなど地味な作業の繰り返しなのに。

「株取引というと、一日中部屋に篭って、パソコン見てるんですか?」

「そうやっていたこともあったね。今はもう資金も集まったから、そんなことはしてない。一日の決まった時間監視してるだけだね。もしいい株取引があったら参加しよう、そんな感じさ。持ってる株はほとんど手放したし」

「うーん……ええっと、わかりませんねぇ」

 彼女はメモ帳に何か書いていたものの、途中で頭を抱えだした。

「私、そういう難しいことはさっぱりなんですよね」

「はは、確かに難しいかもしれない。慣れてしまえば簡単なんだけどね」

 女性はこういうリアクションを示す人が多い。憂希も彼のしていたことを完璧には理解していなかった。

「とにかく、すごいことをしているってことで。……次の質問なんですけどぉ、昨日の朝のことです。遠藤さんに電話されていますよね?」

 ついに来た。こちらの真意を悟られないように、なるべく自然を装って答える。

「ああ、した。まさかあれが最後の連絡になるとは思わなかったよ……」

「用件、教えてくださいません?」

 こちらが悲しんでいる演技したのに彼女は遠慮なく、直球で質問してきた。

「さっきの話に戻るけど、新会社を建設にあたって、遠藤も参加してほしいとお願いしていた。あいつは乗り気じゃなかったけど、俺としては欲しかった。だから、それの催促だな。どうだ、その気になったかって」

「ほー……それで、返事は?」

 片桐はゆっくりと首を左右に振った。

「断られたよ。ただ、俺もそれで諦める気はなかった。またかけるって切った。まさかこうなるとは……」

 嘘だった。あの朝、彼に電話したのは「この後、そっちの近くに行くついでに顔をだす」という要件を伝えるためだった。彼はなんの不審ももたず、おおそうかと答えた。

 急に訪ねることももちろん考えたが、彼が在宅中でなければならない犯行だったので危険とわかり保険をかけた。

 もしも足がつくとすればこれが大きな手がかりになると覚悟していたが、桜崎はこちらの言うことに不審も抱かずメモをとっている。どうやら、またも幸運の女神は自分の味方のようだと笑いたくなった。

 こんな刑事なら簡単に騙せる。修羅場なら仕事でたくさんくぐってきたのだから。

「なるほどー」

「なあ、俺はまさか疑われているのか? 遠藤の事件は強盗と聞いたが」

 心に余裕が生まれてきたので逆に質問をぶつけてやることにした。すると彼女はきょとんとした顔をした後、嫌だなぁーと笑いながら片桐の肩を押すように叩いた。

「こんなの形としてやってるだけですよー。ドラマとかでよく見るでしょう? あれですよ、あれ。正直嫌なんですよねぇ。片桐さんはいい人だけど、怒る人も多いんですからー」

「そうか。いや、なんだか不安になってきたものでね。君も大変だな」

「そうなんですよー。あ、電話の件はもういいですよ。それで次なんですけど、昨日の昼の十二時頃、どこで何をされていましたか?」

 その質問に思わず足を止めて、彼女の瞳を覗きこんだ。相変わらず笑顔を崩さない。

「それはアリバイってやつか?」

「はい、そうですねー。けど形式的なものですよ? 一応、聞かなきゃいけない決まりになってるんです。うちの部長、色々うるさくて」

 彼女は頬にペンをあてながら、はあっとため息をついた。こういう話が出てくると、やはり彼女も社会人なのだなと今更ながら感じることができる。

「そうか。アリバイはなあ……家にいたんだ。さっきも言ったが、株取引の監視があるんでね。平日の朝の十時から三時までは自室に篭ってるんだよ。もう習慣でね。ここ二年はずっとそうだ。妻に確認してもらえばわかるはずだよ」

「うわぁ、五時間ずっとパソコンを見てるんですか? すっごいですねぇ」

 大切なアリバイ証明だというのに彼女はそんな感想を口にしてきた。人がせっかく用意したものを無視された気分で、少し嫌になる。

「あ、つまりその時間は部屋にいたと……うーんと、誰か証明できません?」

「妻がいるが、彼女も買い物に出かけたりするからな。ああでも、カメラに写ってないと思うよ」

「カメラ?」

 そこでようやく刑事らしい反応を見せた。彼の言葉をオウム返しをしてくる。それに思わずニヤッとしたくなったがこらえる。

 食いついた――。

「ああ、自宅の玄関には防犯カメラを仕掛けてる。それに俺は写ってないはずだ。データを提出しようか?」

 そう尋ねたのに彼女はメモ帳に何か書いたあと黙ってしまった。表情は伺えない。下を向いて、微動だにしない。

「刑事さん?」

 そう呼びかけると、スイッチが入ったように勢いよく顔を上げた。相変わらずの満面の笑み。

「そうですねぇ。もしかしたらそれをお願いするかもしれません。でも今はいいですよぉ。あ、もう駅ですね」

 確かにもう駅が目に入ってきていた。彼女はメモ帳とボールペンを鞄にしまうと、コーヒー牛乳を一口飲んで「ぷはぁっ」と息をはいた。

「ご協力、ありがとうございましたー。今日はゆっくりしてくださいね」

「あ、ああ」

 さきほどの彼女のリアクションが気になって、はっきりとした返事ができなかった。あれはなんだったのだろう。

 それでも怪しまれてはいけないので、すぐに落ち着きを取り戻す。

「刑事さん、がんばってくれよ。犯人を早く捕まえてくれ。遠藤を殺したことはもちろん、金に飢えた人殺しが野放しなんて、怖くてしょうがない」

 いかにも一般的な感想を言ったつもりなのに、彼女の反応は悪かった。うーんと頭を抱えながら、なんとも言えない表情をする。

「どうした?」

「いえ、この犯人、お金に困ってるのかそうじゃないのか、分からないんですよねぇー」

 ドキッとしてしまった。なぜ、そんなことを疑問に持つのか。あの部屋から金目の物は全て持ち去った。財布の紙幣、クレジット、キャッシュカード、銀行手帳など、全て。もちろんそれらは昨晩のうちに処分したが。

「どういう意味なんだ?」

「確かに金品はほとんど盗まれていました。でもー、おかしいんですよね」

 彼女は急にカバンの中に手を突っ込むと、数枚の写真を取り出した。

「これ、遠藤さんの部屋の押入れにあったものです。あ、見たことありますかぁ?」

 それは例のアルミ缶だった。忌々しい写真が入っていた、あれだ。もちろん片桐は左右に首を振った。

「そうですかー。これ、すごいものが入ってました。記者さんをしていた遠藤さんのネタだったようで、公にできない写真が数枚」

「あいつは先週、スキャンダルの記事を書いていたからな」

「はい。それでなんですが、なんで犯人はこれを持っていかなかったんでしょうか?」

 思わず何を訊かれているのかわからなかった。それを察した彼女が、説明をはじめる。

「それなりんのお金になるはずですよ? かなりあれな写真もありましたから。でも、犯人は盗っていかなかった」

「そ、それは当然じゃないか。君はその写真を出版社に売れば大金が手に入ると言いたいんだろ? しかし、それでは足がつく」

 ようやく彼女の言い分を理解したとき、心臓が縮んだ。そうだ、彼女の言い分は尤もだった。金目当ての強盗ならば、確かにそれを盗むだろう。自分の写真を回収することで精一杯で、うっかりしていた。

 しかし、咄嗟に片桐が出した言い分も一理あった。それなのに彼女はまだ納得しない様子だった。

「それなら写真を収められた当人を脅すとか。ああ、それに写真から遠藤さん殺害犯を特定する場合、その写真が遠藤さんの撮ったものだと証明しないといけません。しかし、それは無理です」

「なぜ?」

「だって、遠藤さんが自分で撮った特ダネを他人に話しているはずがないからですよ。この缶に収められていた写真が遠藤さんの撮ったものだと知っていたのは、遠藤さんのみです。今はフリーのライターさんですから同僚や上司もいません。だから、足のつきようがないんです」

 思わずつばを飲んだ。彼女の理屈は正しい。記者が自分のネタを他人に話すわけがない。遠藤が死んだ以上、足がつくことはない。

「しかしあれだ、犯人が焦っていたんじゃないか? その缶の重要性に気付かなかった。それだけだろ?」

 苦しくなって思わずそんなことを口走ってしまった。しかしながら、その答えに彼女は目を大きく見開き、ぱんっと大きな音をたて両手を叩いた。

「そうですね! なにせ、人を殺してしまった後ですからね! 動転していた可能性は十分にありますっ。いやあ、片桐さんは鋭いですねぇ」

 まさか納得するとは思わず、思わず「ふっ」と小さな笑いが漏れてしまった。やはり、この刑事は単純だ。

「あっさり納得するんだな」

「いやあ、気になってましたけどぉ、やっぱり犯人はお金に困ってるとも思っていたので。なにせ、一円玉まで盗んでいくくらいですから」

 緩んだ頬がすぐに引き締まる。最後の言葉、なぜ彼女はそんなことを……。

「一円?」

「はい。遠藤さんの財布からは紙幣が抜き取られていました。ですが、小銭は残っていました。その額は三五二円です」

 彼女はまた別の写真を見せてくる。それには遠藤の財布と、その中身が写されていた。

「盗まれてないじゃないか」

「あの部屋にはコーラのペットボトルがありました。片桐さん、コンビニでペットボトルを買ったことあります?」

 失礼な彼女の質問に「もちろんだ」と語気を強めて返した。

「じゃあ、お値段もわかりますか?」

「決まってるだろ。一五〇――」

 その後が続かなかった。そう、彼女の言い分を理解してしまったから。

「はいっ。お察しの通り、一五〇円ではありません。コンビニのジュースは一四七円設定のところが大半です。実はもう防犯カメラをチェック済みで、遠藤さんは昨日、ペットボトルを五〇〇円玉で出して買っていました。つまり、お釣りは三五三円。けど、財布に残っていたのは三五二円。お財布には最低、一円玉が三枚ないといけないんです」

 そんなことまで予想できるはずがない。一円玉は持ち帰った。そしてもう使って処分した。足がつくわけがないとたかをくくっていたが、こんなところに疑問を持たれるなんて……。

 それでもなんとか心を落ち着かせる。そうだ、別に追い詰められたわけではない。そんなこと、どうとでもいえる。

「募金でもしたんじゃないか?」

「防犯カメラではお釣りは全額受け取っていましたし、コンビニから遠藤さんのご自宅の道のりに他に募金箱はありませんでした」

 舌打ちをしたくなるのをなんとかこらえる。日本の警察が優秀だとはわかっていたが、ここまで隅々まで調べているとは。

「それにぃ、スクラッチカードもないんですよぉ。犯人、どれだけ困っていたんですかねぇ」

 また心臓が跳ね上がりそうになる。彼女はそんな片桐を無視して、一人で話を進めていく。

「私、遠藤さんの財布にあったレシートを手がかりに昨日、全く同じようにドーナツを買ったら、これをもらったです」

 彼女は写真をカバンにしまい、今度は自らの財布を取り出して、その中から一枚のカードを出してきた。

 あの時、遠藤が渡してきたのと同じもの。違うところはスクラッチが削れていて、そこから「当たり!」という文字が見えているところだ。

「あっ、これね、あたったんです! あとで行こうかと思ってるんですけど、これでドーナツ一つと交換できるんですよ!」

 急にそんなどうでもいいことを自慢してくる彼女に腹が立つ。なんで彼女はこんなに場違いなテンションをしているのか。

 そんな彼を無視して彼女は笑顔のまま、しゃべり続ける。

「でもこれ、遠藤さんの自宅にはありませんでした。スクラッチカードまで盗っていくなんてすごい犯人ですよー。あ、でも、ならどうーして他の小銭は盗っていかなかったんでしょうね?」

 憎い。

 今、目の前にいる女の笑顔が憎くてたまらなかった。思わず睨むように目を細めてしまう。口汚く怒鳴ってやりたいが、それをぎゅっと拳を握ることでこらえる。

 落ち着け、そう、落ち着け。

「ふん、刑事さん、考えてみたらいい。遠藤はスクラッチカードを外でやったんだよ、一円玉でね。そしてハズレだった。その後、ポケットにしまった。多分、カードを二つにおってその間に一円玉をいれたんだ。そして、うっかりどこかで落としたんじゃないか?」

 一瞬で考えたわりにはよくできたストーリーだと自分でも関心してしまう。ありそうな話しだ。

 事実、彼女は「おおっ」と驚いた。

「それはありそうですねっ! 片桐さん、さっきからすごいです!」

 彼女は納得したようで財布をカバンに戻して綺麗な姿勢で直立した。

「お時間とっていただき、ありがとうございました。片桐さんのお話し、本当に参考になりました!」

「いや、感謝なんていいよ。大変だろうが、必ず犯人を捕まえてくれ」

 ようやくこの時間が終わるかと思うと、ほっと一息つきたい気分だがそれはこの眼の前の刑事が消えてからにしようと決め、とりあえず握手だけ求めた。

 彼女はそれに笑顔で応じ、片桐の差し出した右手を両手でしっかり包むように握った。

 そして今日一番の笑顔を彼に向けてきた。

 その瞳に吸い込まれそうになる。そんな彼を捉えたまま、彼女ははっきりとと言った。

「犯人、必ず捕まえます!――それでは、また今度」


 6


 凪だ、と木下純一は感じた。

 コンビニのレジカウンターから見える風景はいつもと変わらない。立ち読みをしている若い男に、安物のスィーツコーナーを物色している女。トレーディングカードの袋を手にああだこうだと言っている小学生たち。

 しかしながら誰もレジには近づかない。そして長年のバイト経験からわかる。おそらく今、店内にいる客は誰も何も買わない。特徴的な共通点あるわけではないが、そうなると感覚的に察した。

 もう六年もここでバイトしてきている。それくらい余裕だった。そして彼はそういう状態の店内を「凪」と呼んでいた。

 面倒な接客をしなくていい、気が休まる時間だった。ズボンの尻ポケットにしまっていたスマホを取り出し、友人たちから届いたメッセージを確認すると、思わずにやけてしまった。

 どうせ客からはレジカウンターが影になって見えない。そう安心していた時だった。

「木下純一さんですよねぇ?」

 突如そんな間の抜けた声をかけられて、心臓が飛びはねそうになった。そのせいで落としそうになったスマホをなんとかキャッチして顔をあげると、いつの間にかレジの前に一人の女性が立っていた。

 なんだよいきなり声かけやっがってという苛立ちも一瞬で消え失せた。彼の目の前にいたのは、今まで彼が見てきた女性の中で、頭ひとつどころか、二つ三つ余裕で抜けた、それくらい綺麗な女性だった。

 思わず言葉を失い、見とれてしまう。

 彼女はそんな彼に屈託のない笑みを向けていた。

「木下純一さん。アルバイトの方ですよね?」

「あっ、はい……そうです」

 もっと格好をつけてしっかりと答えたいのに生返事になってしまう。彼女は彼の返事を聞くと、また更に笑顔になり、薄いブラウンと白のチェック柄のコートのポケットから、思わぬものを見せてきた。

 警察手帳だった。夢現な気分も一気に冷めて、咄嗟に背筋を伸ばしてしまう。

「け、警察っ?」

「はーい、そうですー。桜崎って言います。ちょっと訊きたいことがありまして。あっ、とりあえずこれください」

 彼女はそういうとレジカウンターに置いてあった一〇〇円のいちご大福を手にとった。戸惑いながらもそれを受け取り、レジに通した。一〇〇円玉を受け取り、袋にもいれずそれをそのまま彼女に手渡す。

「う、うちの店、別になんにも問題ないっすよ。てか、警察の人なら店長呼んで」

「あっ、いいですよぉ。私が木下さんに質問があるだけなんで気にしないでください」

 彼女はいちご大福の包装を破ると、なんとそのままその場でかぶりついた。

「うーっ、甘くておいしいぃー。店員さんってやっぱりこういう商品に割引とかあるんですか?」

「えっ、いや、まあ少しは」

「いいないいなあ。羨ましいですぅー」

 彼女はいちご大福を頬張りながら、体をねじらせて羨ましがる。その動作がまた木下の目を奪う。やべぇ、かわいいという本音が喉元まできていた。

「あっ、こんなことして場合じゃないっ。木下さん、この方、見覚えありますよね?」

 彼女はいちご大福をまるごと口に入れると、リスのように頬をふくらませながら、カバンの中から一枚の写真を取り出して彼に見せてきた。それには一人の男が映っている。どこにでもいそうな、中年のおやじという感じの人相だ。

「え、知らないけど……」

「ええっ! 昨日、ここで買い物したはずです! 午前中にコーラを一本買っていったでしょう?」

 そんなことを言われても、というのが本音だった。一体、一日何人の客を処理していると思っているんだ。三桁は確実なのに、そんなのを一人一人覚えているはずがない。ましてや、こんな特徴のない男。

「ねえ、思い出してくださいよぉ。よく見て、ほらほら」

 彼女が写真を顔に押し付けるように迫ってくるのを、後退しながら避けていたときだった。

「うん? あ、この人」

 その時、なぜだか急に思い出した。一度そうなると、一気に記憶が蘇ってくる。そうだ、この人、確かに覚えている。

「あっ、思い出してくれましたかっ?」

「え、あぁ、はい。コーラを一本買っていきましたよ。多分そうだったと思います」

 思い出したとはいえ、やはりはっきりとした自信はなかったし、相手が警察で、しかもこんな美人だから言葉が吃ってしまう。

 彼の言葉に彼女が目を輝かせて、レジから身を乗り出してきたので、思わず仰け反ってしまった。

「今っ、今のリアクション! コーラのことははっきりと覚えてないのに、どーして、この方のこと覚えてたんですか?」

「えっ……いや、ちょっと話したから」

 彼がこの写真の男を覚えていたのはそういう理由だった。コンビニのアルバイトなんて客と話す機会はそんなにない。極めて機会的に作業をこなし、会話といってもマニュアル通りの言葉で、ほとんどの処理をする。

「是非、どんなお話しかお伺いしたいですねぇ。教えてくれないですか?」

「いいっすけど、大した会話じゃないっすよ。消臭剤はないかって訊かれたんで、ないですって答えたんです。丁度、その時は品切れおこしてたんで」

 ごく短い会話だった。レジで商品にシールを貼ってるときに、そう尋ねられた。いつもはストックがあるのだが、その時に限ってなかったので、すいません、品切れですと答えたのがなんとなく頭の中に残っていた。

 写真を出されても思い出せないのは仕方ない。あまり相手の顔を見ていなかったから。偶然思い出せたのは幸運だった。

「消臭剤ですかぁ。なるほどー」

 彼女は彼の答えに頷きながら、相変わらずの笑顔を保っていた。カバンから取り出した可愛らしいメモ帳に何か書いている。

 その姿が、たまらなかった。警察相手に盗撮など許されるはずもないのに、ポケットのスマホに手が伸びていた。

 ‒‒大丈夫、シャッター音を鳴らないように設定してある……。

「あっ」

 突如として彼女が顔をあげて、彼の後ろを指さした。心臓が跳ね上がるほど驚きながらも振り向くが何もない。いつも通り、タバコが陳列されているだけだ。

「どうかしたんすか」

 彼が視線を戻したときには、もうレジの前には誰もいなかった。さきほどまでメモをとっていた彼女は、店内を見渡してもどこにもいない。

 ただレジの上には一枚のメモ用紙がある。なんだこれと思いながら手に取ると、有名なネズミなのキャラクターが描かれていて、吹き出しがついていた。その吹き出し部分には、可愛らしい、いかにも女性特有の丸文字でこう書かれていた。

『ありがとうございました! でも、次は見逃しませんよ』

 最後に音譜マークがついていて、可愛らしく締められていたが、彼はブルッと震えた。



 神無月有佐は仕事熱心ではあるが、それはあくまで研究対象があった場合に限る。彼女に調べるものがあって、それに彼女が燃えれば、ないしは萌えれば、誰の声も聞こえないほど仕事に没頭する。

 そして彼女は今、仕事熱心ではなかった。任されていた仕事は大方片付いて、同僚たちなら一息ついている頃だろうが、彼女場合、おもちゃを取り上げられた子どもと同じ気分になってしまう。

 自分のデスクに座って、今日はもう家に帰ってしまおうかと考えていた時だった。

「あーりーさーちゃーんっ」

 甘ったるい声が聞こえた途端に後ろから抱きつかれた。思わず首がしまりそうになったので、器用に肘をその抱きついてきた彼女の腹にいれようとしたが、避けられた。

 それでもそのおかげで解放されたので、ひとまずよしとする。

 誰かわかっているが、とりあえず椅子を回転させながらその彼女と向き合う。

 いつも通りの笑顔な桜崎が、ドーナル屋の袋を片手に立っていた。

「もうぉー暴力は駄目だってば」

「うるさい黙れ帰れ消えろ」

 息継ぎもいれずありのままの感情を彼女にぶつけるが、彼女は一切表情を変えない。有佐が彼女にこういう態度をとるのは珍しいことではなく、彼女がそれに傷ついたりすることは出会ってから一度もない。

「相変わらずだなあ。あ、お仕事終わったの? お疲れ様ぁ」

「そうよ、仕事終わって今から帰るところ、だからあんたに構ってる暇はない」

「ええー。ちょっと付き合ってよぉ。どうせ暇でしょ。聞いてるよーまた彼氏にふられたんだってぇ」

 彼女が「ニシシッ」と笑ってくるので、デスクの上に置いてあった分厚い本を手にとって角で殴ってやろうとしたが、また避けられた。

 彼女の指摘どおりだった。半年付き合っていた恋人に、ついこの間、別れを告げられたところで、家に帰ってもテレビを見るくらいしかやることがない。

「まーまー、怒らないで。落ち込むことないよ、いつか絶対に有佐ちゃんのことをわかってくれる人が出てくるって。私が保証してあげるよ」

「あんたの保証なんて願い下げだ、馬鹿」

 有佐は「あんたこそどうなのよ」という反論を彼女にはしないことにしている。なにせ、この美貌だ。同性でありながら、嫉妬するのもバカバカしいと思っている。

 どこかに恋人がいてもおかしくない。ただ彼女のプライベートについては謎が多すぎて、捜査一課の人間が「一番の謎」と呼んでいるほどなので、恋人の有無を知る者はいない。

 それに、知りたくもない、という感情が根底にある。

「それで、何の用よ?」

「私、捜査会議出てないから色々教えて欲しくて」

「村上くんがいるでしょ。あんた、あの子にちゃんと指導してる?」

「してるよー。それに、村上くんは優秀だから私なんかいらないんだよねえ。もちろん彼から報告は受けてるの。ただ、有佐ちゃんに確認がとりたくて」

 この言葉を聞き、有佐はため息をついた。

 彼女がよく単独行動をしているのは有名な話しで、もちろん有佐も把握していた。そんなことをしているから色んな人間に目を付けられている。

 ただそんな自由奔放なことをしていて、挙句この性格なのに、彼女がそれを許されているのは「結果を残している」という事実があるからだ。

 そして彼女が会議には出ず、こんな確認にくるのは大抵、彼女の中で何らかの考えがあり、そしてそれが捜査本部と違うとき。

「……あれ、強盗殺人でしょ?」

「うーん……? そうかもしれないってところだよね? だって犯人は捕まってないし」

「いい? 現場検証をしたのはこの私よ。あんた、私を疑うの?」

「まっさかー。有佐ちゃんは一番信用してるよ?」

 言葉の真偽は分からないが、確かに彼女は何か確認するとき、必ず有佐のところへ来る。迷惑この上ないことに。

 彼女は隣のデスクから椅子をさも当然のように持ってくると、それに腰掛けて有佐の隣を陣取った。

「ピッキングの痕跡があったんだよね?」

「そうよ。いい、鑑識課としてわかってる事実だけ言うわよ。ピッキングの痕跡があって、部屋は荒らされていた。ところどころに手袋で触った痕跡があったから、まず間違いなく犯人は手袋をしていたわ。被害者は部屋の奥で倒れていた。金目の物は大方取られていたみたいね」

 彼女は一度間をとって、デスクの上においてあった捜査資料を手にとって、それを見ながらしゃべり始める。

「犯人はピッキングをして侵入。そこで部屋を物色していた。そこに被害者が帰ってきた。もちろん、揉み合いになる。そこで凶器を持っていた犯人に殴られて息絶えた。犯人はそのまま逃亡」

 これが捜査本部の出した答えだった。異論はない。普通の見方をするなら、これがベターだ。もちろん、違う可能性は秘めているが、これを基板にしてまず間違いない。

「うん。それは聞いた」

「何が不満なわけ?」

「被害者、遠藤さんはどこに行ってたんだろうね?」

 思わず「ばかじゃないの?」という言葉が出てしまった。彼女はそれに「ひどーい」と甘ったるい声をあげるが、無視して彼女の疑問に答える。

「出かける用事なんかいくらでもあるでしょ。ちょっと外に出てた、それだけよ」

「どーして? こんな寒いのに、上着もはおらないで」

 彼女の言葉に思わず眉間にしわがよった。上着?

「普通、この時期に外にでるんだったら、上着は絶対いるよ、寒いもん。けど遠藤さんは普通の格好だったんでしょ、おかしいよ」

 彼女の言葉にちょっとした驚きを感じつつ、捜査資料をめくっていく。被害者の写真が掲載されたページを開けると、確かにそこには部屋着の彼がいた。

「ね? おかしいよ。まさか犯人が脱がしたわけないもん。部屋に戻ってきて、誰かが部屋をあさってたら上着なんか脱がずにそのまま向かっていくと思うの。だったら、被害者は上着をしてるはずだよ」

 それは確かにそうだった。有佐は死体そのものに興味はあるものの、そんなところは見向きしないので彼女の指摘で初めて違和感を覚えた。言われてみれば、確かにおかしい。

「まあ、すぐ帰ってくるつもりだったんじゃない?」

 ただそれだけで捜査方針がおかしいとも言えない。

 有佐の言葉に意外にも桜崎は「そうだねぇ」と同意した。どうやら彼女自身、その可能性自体を否定する気はないようだ。

「あとさ、ドーナツ」

「ドーナツ? ああ、被害者が買ってきてたやつね。確かに箱から一つ減ってたわ。食べカスも部屋からでてきたし、胃袋からも検出されたわよ。それのなにかおかしいの?」

 桜崎は急に持っていたドーナツ屋の袋をデスクに置くと、それを開けた。中には甘そうなドーナツが四つ入っている。

「あのね、多いよね? 遠藤さん、一人暮らしだったんだよ。どーして、あんなにいっぱい買ってたのかな?」

「あんた、ちゃんと資料読んでないでしょ。被害者はかなりの甘党だったの。それは有名な話しで、彼の知り合いから全員証言がとれてるわ。冷蔵庫の中も甘いものだらけだったし」

 現場検証のときのことを思い出す。冷蔵庫の中だけでなく、キッチンには砂糖が大量に置いてあり、チョコレートやお菓子が備蓄してあった。甘いものがあまり好きではない有佐には見ているだけで気持ち悪くなるほどだった。

「甘いものが好きでも、多いと思うけど……」

「一度に食べるつもりじゃなかったんでしょ。明日の朝ごはんだったとかじゃないの?」

「ドーナツって、日をまたぐと、味がぐっと落ちちゃうんだけどなー。それ、甘い物好きなら知ってると思うんだけど?」

「そこまで気にしてなかっただけよ」

 全く、くだらないことばかりに疑問を持つ女だと呆れてしまう。ただ、こういう着眼点が彼女の長所であることは認めざるを得ないので、やめろとは言えない。

 彼女がいなければ解決していなかった事件は、有佐が知るだけでも三〇以上あるのだから。

「で、他になんかある?」

「缶、現場にあったよね。あれ、調べた?」

 一瞬、何のことを言っているのかわからなかったが、ああとすぐに思い出した。現場になった部屋に潰された缶があったのだ。おそらく犯人が踏み潰したものだとされているが、特にそこから犯人を辿る痕跡は見つけられなかった。

「何も出なかったわよ。丁寧に水洗いされてたし」

「なんで?」

「被害者が洗ったのよ、決まってるじゃない。被害者の指紋は出たわ。キッチンのゴミ袋に缶だけまとめられていたものもあったし、その中の一つだったんでしょう」

 被害者のコーラ中毒っぷりを象徴するものだったといえる。キッチンのゴミ袋に捨てられていた大量のコーラの缶。一応、現場にあったものと差異はないかと疑い、一つ一つ細かく調べた。ただ、予想通り何か特筆するものは見つからなかった。

 どれも水洗いされていてた、ただのゴミ。現場にあったものもそれの一つだろう。犯人と被害者がもみ合っているときに、部屋に入ってしまったんじゃないという意見が有力だ。

 ただ、有佐の説明に桜崎は表情を変えた。変えたと言っても、ごく些細な変化。彼女と付き合いがなければ分からないほどの小さなもの。目を少しだけ大きく開けて、唇を皿みたいな形にしてにんまりと笑う。

「そうなんだ。そっかそっか」

 一人で勝手に納得するのも彼女の特徴の一つ。これに疑問を持ったところで無駄。どうしたのかと尋ねても答えは返ってこない。

「もういい?」

「有佐ちゃん」

 急に名前を呼ばれてまっすぐと見つめられた。同性なのに、この顔に見つめられると思わず顔が赤くなってしまう。

「な、なによ」

「とうっ」

 そんな掛け声とともに急に彼女が有佐に目がけてチョップをしてきた。いきなりだったのでびっくりはしたが、なんとか体を傾けて避けた。

「……あんた、喧嘩売ってるの?」

「違うよぉー。怒らないで怒らないで。ちょっとやってみたかっただけぇ。えへへ」

 やはり一発本気で殴っておこうと拳を構えたら、彼女は「わぁーわぁーごめんごめんっ」と有佐から距離をとりながら謝ってくる。ちっとも許そうと思えない。

「あ、お詫びにドーナツあげる! ほら、そこから好きなのとっていいよ!」

 それが謝罪になると思っているあたりが、全く気に食わない。ただ彼女相手に腹をたてるのもバカバカしいので、とりあえずそれで手をうつことにした。

 デスクの上においてあったドーナツ屋の紙袋の中身を見る。甘ったるそうなものばかりで趣味ではないが、頭脳労働の後は甘味はいい回復アイテムだ。

 さて、どれにしようかと選んでいるときだった。

「有佐ちゃん」

 また彼女から呼ばれたので「なによ」と苛々しながら返事をしながら頭をあげた。

 すると、ぽんっと額の上に何かがあたる感触があった。目の前の彼女のチョップが今度は綺麗に、前髪で隠れた有佐の額に当たっていたのだ。

 呆けている有佐を無視して、彼女は笑顔を崩さず首を傾けて、また一人で納得した。

「これしかないよね?」


あと二回続きます。

今回はひとまず刑事(探偵)と犯人のファーストコンタクトを描きました。

少しずつ、この桜崎という人物がどういうキャラクターかわかってもらえてきたかな?と思っております。

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