事件と、いくつかの疑問点
読んでいただけば幸いです。
今日という日に、全てを賭けよう。
そう覚悟を決めたのは数ヶ月前だった。そうしなければ、俺の人生は破綻してしまう。それだけはさせていけない。例え、こちらに非があったとしても。
頭の中の計画を何度も推敲する。狂いはないか、問題はないか。完璧以外は許されない。
「あなた」
そう声をかけられて、片桐康隆は目を開いた。自分の顔を覗き込む妻の姿がすぐに目に入る。
「眠っていたの? ノックをしても返事がないから、入っちゃったけど」
まだ若々しく温かい手で頬を触ってくる。
「いや、考え事だ。心配しないでくれ」
「ならいいけど……。最近、そういうことが多いわ。何か悩みがあったりするの?」
「ないよ。順調だ。このまま行けば、間違いなく大金が手に入る」
妻の憂希は頬をゆるめた。お金の話をしたからではない。彼女はそういう性格じゃない。単純に片桐に心配がないことが嬉しいんだろう。
「もうすぐ十時になるから、いつも通りお茶だけ持ってきたわ。昼食はまた部屋の前に置いておけばいいのかしら?」
「ああ、それで頼む」
憂希が顔を近づけてくるので、彼は彼女の肩に手をのばし、引き寄せて唇を重ねた。
「……頑張ってね」
唇をはなすと同時にそう応援してくれた。
「ああ」
これは何よりの励みになる。きっと彼女は「お仕事を頑張ってね」と言ったんだろうが、片桐にとってはそうではなかった。
ああ、憂希、頑張るぞ。俺は、あいつを殺してみせる。
憂希が部屋から出て行ったあと、早速準備にとりかかる。クローゼットを開けて、目立たない上着を羽織る。そして一緒に入れておいたネックウォーマーや手袋などを装着する。
鏡で確認するといつもと違う自分が映っていた。地味な服装だ。しかし、今日はそれでいい。
「……一本、吸っていくか」
やはり我慢できそうにない。机の上に置いてあったタバコに手をのばす。中から一本取り出すと、残り三本だけとなってしまった。
買い置きしてあるので問題ないが、残り少ないというだけで不安になる。たばこを吸い始めてもう二〇年、立派な中毒者になっている。しかもヘビースモーカー。憂希はあまり口に出さないが、いい気はしてないだろう。だが、やめろと言われてやめられるものでもない。
火をともし、一服する。たまらない。興奮状態に近かったのに、それが収まっていくのが自分でよくわかった。
やはり、やめられないな。
しかし、今からしばらくは我慢しなければならない。大丈夫、無事にことが済めばゆっくり味わえる。きっと、その時の味は格別だろう。それを楽しみにするんだ。
灰皿にタバコをおしつけてから、今度はベッドの下からあるものを取り出す。登山用のロープ。その片方の端をベッドの足の部分に結びつけ、もう一方を窓から外へ放り出した。
窓から下を覗き込むと、自分の趣味のものを収納するための物置があった。中にはサーフボードとスノーボードなどがある。よくある趣味だが、生きがいにも等しい。
最低限の持ち物を上着のポケットに入れて、忘れ物がないか確認する。失敗は許されない。そして最後の確認を終えると、窓に足をかけた。
ロープをしっかり持ち、一気に体を外へ投げ出した。
両手でロープを握りながら、家の壁に両足をつけて、そのままバックするように進んでいく。二階建ての家なので、そこまで高くない。実際、すぐに物置の天井部分に足がつくところまで来た。音をたてないように慎重にそこに足をおき、ロープから手を放した。
ゆっくりはしてられない。物置には事前に脚立をかけておいたので、それを使って地面に降りた。
ここは住宅密集地。自分が今降り立った場所は、自宅の玄関とは真反対にある庭だ。向かいの住宅と自宅を隔てるブロック塀をよじのぼって、その家の中へ侵入した。
ここの住人は日中、家にいない。よくある三人家族で、両親は共働きをしていて、一人娘は中学校だ。だから侵入してもばれない。そもそも家の中へ入るわけでもない。
庭には洗濯物と、たくさんの植木鉢があった。よくあるアットホームな家庭の裏庭だ。いつか憂希とこんな生活を生み出せたら、それにまさる幸せはないだろう。
物思いにふける時間はない。さっそくその裏庭を通過し、玄関口に向かい、そこから外へ出た。念の為に周囲を見渡す。大丈夫、誰もいない。
問題ない。このまま、順調に進められる――。
2
その後、誰にも目撃されることもなく街から抜け出せた。バスと電車を乗り継いで、目的の場所についたときには出発から一時間ほど経過していた。
ごく普通のマンションの前で、興奮から出てくる荒い息を整えた後、その中へ入った。事前に確認してあるが、ここは防犯対策を住人各々に任せている。そもそも建てられたのが三〇年も前で、決しっていい物件ではない。防犯カメラは設置されていない。
誰にも見られないように階段を上り、そして目的の部屋の前についた。いつどこからマンションの住人が現れるか分からないので、躊躇などしていられない。
さっそくインターホンを押す。すると中から「はいよ」と間の抜けた声が聞こえてきた。すぐに扉が開く。
「おお、片桐。到着が早いな」
「少し冷え込むんだ。入れてくれるか」
「おお、入れ入れ」
中から出てきたのは自分と同い年の男。もう三十を過ぎているはずなのに、いつまでも口調が軽い。昔から変わらない。社会に出れば矯正されると思っていたが、世渡りが上手いのかそんなこともなかった。
ただ、やはり歳には勝てないのか、昔より太っている。学生時代はスリムで筋肉質だった体も、少しだけ腹が出た、いかにも中年の体だ。
坊主に近い短髪も昔ほど似合わない。
遠藤実。大学時代、ともにはしゃいだ友人。彼と過ごした四年をもう一度味わえるというなら、一億円くらい軽く出せる。それほど楽しく、中身のあるものだった。
遠藤に進められるがまま、リビングに案内された。リビングの真ん中にこたつがあり、その上には開かれたノートパソコンがおかれていた。
「仕事中だったのか」
「お前と一緒さ。自宅でできる仕事、だからこそ休みなし。昔の後輩の原稿に手を入れてやってたんだ」
遠藤は大学卒業後、小さな出版社に入社した。そこでライターとして活躍し、去年晴れて独立し、フリーに転身。
「座ってよ。何か飲み物でもいれよう」
「コーラは勘弁してくれよ。俺はお前と違って、甘党じゃないんだ」
キッチンに向かった遠藤が「ははは」と愉快そうに笑った。
彼は学生時代からかなりの甘党で、毎日最低一本はコーラを飲むのが習慣だった。そしてお菓子もたくさん食べる。飲み会に参加しても甘いカクテルばかり注文していた。
一緒に食事をとっていると、こっちが胃もたれしそうになる。
戻ってきた遠藤は俺の前に水の入ったコップを置いた。自分はコンビニのシールのついたペットボトルのコーラを持っている。
「相変わらずだ。いつか絶対に成人病になる」
「いいんだよ、それで。うまいもん飲んで、好きなもん食って病気になるならそれが天寿ってもんだ。お前だって、タバコやめられないだろ?」
それを言われると反論できない。遠藤はははっと笑った。
「ほれみろ。俺は糖尿病で、お前は肺がん。どっちが早く死ぬか、勝負でもしようか?」
「バカ言うな」
そんな軽い受け流しをしながら、水を少し口に含んみ、内心で彼を冷たく突き放した。そんな勝負、俺が勝つに決まってるじゃないか。お前は今日、死ぬんだから――。
「そういや、お前もドーナツ食う? さっき買ってきたんだよ」
遠藤はそう言うとテレビの上においてあった、ドーナツ屋として全国的に有名なチェーン店の箱を手にとってこたつの上にのせた。
「いいや、やめておく。最近、甘いのがきつくなってきたんだ」
「おいおい、老体じゃねえか。まだ四〇にもなってないんだぜ」
「昔はお前に少しは付き合えたんだがな。歳には勝てないってことだ」
「寂しいこと言ってくれるよ」
遠藤は鼻歌交じりに箱を開けていた。中には十個ほどのドーナツが入っている。どれも砂糖や、いかにも甘そうなコーティングがされたもので、いかにも彼の好物だった。
「まあ、独り占めできるのも悪くない」
「コーヒーとかはないのか」
「あんな苦いだけの泥水、あるわけないだろ」
甘党というだけではなく、彼はこういうところがある。苦いものはすこぶる苦手で、決して口にしない。もともと、長居するつもりなんてないから、それでいい。言ってみただけだ。
ふと部屋の隅をみると、どうしてか缶のコーラが置いてあった。どうやら飲みほして放置したままらしい。いい性格をしている。掃除をしろ、なんて母親みたいな小言が喉まで出た。
ノートパソコンの横に、小さな長方形のカードがあるのが目についた。スクラッチカードで、銀色の削る部分が二つ用意されていた。
視線に気付いた遠藤が勝手に説明を始めた。
「ああ、これな。ミスドが今、キャンペーン中なんだ。そうだ、削ってみろよ。お前、くじ運強かっただろ」
「自分でした方がいいんじゃないか」
いいじゃねえかと笑いながら、彼は無造作にも床に置いてあった財布から一円玉を取り出すと、それと一緒にスクラッチカードを渡してきた。ため息をつきつつ、銀色の部分を削ると「ハズレ!」と出た。
「残念だった。俺の運は株に使ってるんだよ」
カードを見せながらそんなことを言うと、彼はまた笑った。そしてコーラを口に含む。
「本当に中毒だな。知ってるか、そのコーラを作ってる会社の名前の由来」
「おいおい、この歳になって都市伝説なんて持ち出すなよ。コカインが由来だっていうあれだろ」
随分昔、それこそ自分たちが学生の頃から囁かれている有名な話しだった。信じてはいないが、彼を見ていると本当にそうでも不思議じゃないと思える。
「コカインならコカインでいいんだよ。ホームズと一緒だ」
そういえばシャーロック・ホームズはコカイン中毒者だった。読んだことはないが、ホームズファンである彼に教わった記憶がある。それはもう、十年以上前のことなのに、なぜだか鮮明に覚えていた。
それほど彼と過ごした時間は自分にとって大切だったのだろう。
「それで、話しってなんだよ」
コーラを飲みながら彼が尋ねてくる。感傷的な気分を切り替える。いよいよだ……。
「先週の記事、読んだよ。いい記事だった。ああいうのはどうするんだ?」
それは先週、とある週刊誌に載っていた記事だった。プロ野球選手の不倫の証拠写真が掲載され、ちょっと話題になった。なにを隠そう彼がその記事を書いたのだ。
「皆、隠し事はあるかあらな。裏があるやつってのはわかるんだよ、同族意識だな」
「ああいう記事は一本いくらくらいなんだ」
「まあ、結構儲かるよ。あれはいいネタだったから、来月振り込まれる報酬が楽しみだ」
決して具体的な額を口にしないのは、フリーとはいえメディアの人間だからだろう。昔はなんでも打ち明けた仲だったが、お互い、嫌に社会にのまれたんだなと実感した。
「今度、会社を立ち上げる。いい加減、デイトレーダーなんて危なかっしい橋をわたるのも疲れた。貯金はできたし、やりたいこともある。馬車馬みたいに働こうと思ってるんだ。遠藤、お前、一緒にやらないか」
「……お前の目的はわかってる。だが悪いな、俺にその気はない。諦めてくれ」
悪い話をもちかけたつもりはない。言ったことは本当だ。今、新会社設立のため着々と準備を進めている。人も徐々に集まりだしていて、今年中には正式船出ができるだろう。
遠藤は優秀な男だ。色々あるが、仕事はできる。彼の力は役立つ。もちろん、彼の言うとおりこちらの目的はそれだけなじゃない。
「学生時代のバカは、もう忘れるようにしてるよ。安心しろ。俺は俺の、お前はお前の道を進もうぜ。お前には家族がいる。俺はお前らを不幸にする気なんてない。……信用しろよ」
「……そうだな」
交渉決裂。予想されていたことだが、いざとなると残念だし、緊張する。
残念だよ、遠藤。俺はお前と友達でいたかったのに。
彼は一つのドーナツを平らげると、「どれにしようかな」と子どもみたいなことを口に出しながら、次のドーナツを選ぶために箱の中を覗いていた。そんな彼を注視しながら、上着のポケットからあるものを取り出す。
今日のために隣県まで行き、買ってきた小型のトンカチ。日曜大具で使われる一般的なもの。ただ、人を殺すのには十分だ。
「遠藤」
呼びかけると彼は顔をあげてこちらを向けた。
「あばよ」
そんな彼の頭に目掛けて、それを振り下ろした。
何かが潰れる音がした。
動かくなった遠藤を部屋の隅に放おっておき、部屋中を物色しはじめた。とりあえず金目の物は持ち去り、あとで処分する。
それが終われば出されたコップを洗い、元の場所に戻した。ドーナツの箱も閉めて、テレビの上に戻しておく。
物色するだけでなく、物を大きくうごかした。こたつはひっくり返し、タンスなども僅かにずらす。
部屋を荒らしながら、金目のものをとりつつ、本当のお目当ての物を探す。その際にさきほどの缶を踏みつぶしてしまったが、本当に中身がなく、大事には至らなかった。
ようやくそれを見つけたときには、遠藤が息絶えてから一〇分以上が過ぎていた。せんべい等が入っていたであろう、四角いアルミ缶が押入れの奥から出てきた。
その中にはたくさんの写真があった。彼がライターとして集めたネタの数々だろう。そしてその中から、数枚の写真を抜き取る。もう十年以上前のものなので、少し他のより傷んでいて、すぐに見分けがついた。
そこには女性の裸体がうつっている。その横には若いころの自分。女性は目隠しと猿轡をされ、両手には手錠をはめられている。
思い出したくもない、若いころの大きな過ち。酒にのまれ、勢いのまま帰り道で出会った女性を車に連れ込み、人目のつかない場所で好き放題やった。
馬鹿なことをしたと今でも後悔している。
これはその時の写真。当時からカメラを持ち歩いていた現像したもの。正直、事件を起こした直後は何も考えていなかった。顔も見られていなかったし、さんざん被害者にはもしばらしたら写真をばら撒くと脅したから、何かおこるはずもなかった。
被害者が自殺したと知ったのは、その一ヶ月後だった。
そこでようやくことの重大さに気づいた。そして二人で決めた。一生、黙っていよう、お互いの人生を守っていこうと。彼女には悪いが、そうしなければせっかく苦労して入った大学の学歴も、何もかもが無駄になるから。
そんなことがあったせいか、大学を卒業したあと、遠藤とは疎遠になっていたが数カ月前にあるバーで偶然再会し、また交流を持つようになった。
彼がフリーのライターをしていること、そして人のスキャンダルで飯を食っていることを知ったとき、俺は決めた。彼を始末しいようと。今は友達でも、いつ牙をむかれるか分からない。
もちろん、彼を自分の手元に置くことでそれを回避しようともしたが、彼がそれを拒否した以上、もうこの道しかなかった。
写真をポケットに突っ込んで、アルミの缶を元の場所に戻した。
部屋をさんざん散らかした後、遠藤の死体を部屋の奥、窓の側に移動させた。
シナリオはこうだ。遠藤の部屋に強盗が侵入し、彼は揉み合いの末、殺害された。強盗は金目の物を奪い、そのまま逃走――。
珍しい話じゃない。ここは防犯設備も甘い。こんなことがあっても不思議じゃないはずだ。
ふと、あるものが目に入った。それは床に散らばったスクラッチカード。これは自分の指紋がついている。急いでそれを拾い上げて、指紋を拭きとったあと、遠藤の指紋をつけた。
すでに彼の体は冷たくなっていて、今更ながら罪悪感がした。
そして近くに転がっていた一円玉にも同じことをしようとしたところで、思わず動きが止まった。そうだ、指紋を拭きとって彼のものをつけたところで、不自然になる。一円玉には不特定多数の人間が手にした可能性が高い。お金とは流れるもの、それが自然だ。
彼の指紋しか出なければ、それはそれで不自然。
予定外だが……仕方ない、持ち帰ろう。どうせ一円玉の有無など分からないのだから。
しかしそう思うと、同じ理屈でスクラッチカードも危険だということに気づき、それもポケットにしまった。
全てを終わらせて、玄関へと向かった。少しだけ扉を開けて、外の様子を伺う。誰もいない。あと三〇秒これが続くことを祈り、彼は覚悟を決めて外へ出た。
ポケットからピッキングに使う道具を取り出し、それを鍵穴に突っ込み、中をひっかき回す。今日この日のために得た技術。簡単な鍵なら開けられるようにした。
そしてその作業を二〇秒ほど続けたあと、また室内へ戻る。さすがに緊張した。人に見られてた終わりだった。
幸運の女神さまは、どうやらこちらの味方らしい。
落ち着いたころ、腕時計を確認した。滞在時間は二五分ほどだ。ここから行きしなと同じ道を逆走し家に戻ればいい。
部屋から出て行く直前、彼の死体に目を向ける。思い出を、秘密を共有した無二の親友の亡骸は部屋の中でじっとしていた。。
あばよ、遠藤。お前は哀れな強盗被害者だ。この日のため、入念に準備をしてきた。誰も真実には辿りつけない。
――お前がファンだったホームズは、現実にはいないんだよ。
3
神無月有佐の性癖を他人が理解してはいけない。
それが鑑識課の常識であるという。当人である有佐はそのことがわずかながらショックだった。なぜなら彼女は鑑識課とは自分と同じような人間が集っている場所だと思っていたから。
ネクロフィリシア。それが彼女の性癖。死体を見ると興奮を覚えるという、一般的には危険とされているもの。もちろん異常であることは自覚していたので、その秘密を学生時代に明かしたことはない。
しかし、鑑識課に就任したときは普通にそれを打ち明けてしまった。てっきり、ここなら理解者がいると思ったから。しかし、そんなことはなく、彼女は鑑識課で「魔女」という、よくわからないあだ名をつけられた。
ただ、拒否反応が低かったことは間違いない。普通ならそんな性癖の人間、差別されるだろうが彼女はあくまで普通に過ごせている。鑑識課の人間もそうやって呼ぶものの、彼女の腕を信頼している。
「やあ魔女ちゃん、ご到着か」
現場のマンションの一室に入ると早速そう声をかけられた。先に到着していた鑑識課の上司ですでに作業着だった。還暦目前の腕や顔にしわがある、ベテランの鑑識だ。
「死体、まだあります?」
「おう。お前のためにな。部屋の奥で転がってるよ」
「やった。見ます!」
道具箱を片手に部屋の奥へと進んでいく。すでに中には制服姿の警官がなにか確認作業をしていた。
部屋の奥にたしかに死体が転がっていた。顔に白い布を被されている。それを遠慮無く取り払うと、血で染まった顔面が目に入った。
「うん、いい感じですね?」
「お前の趣味に同意を求めんでくれ」
そう冷たく突き放される。彼にはわからないようだが、いい感じであることは間違いない。額の少し上を鈍器でなぐられたせいで、そこが凹んでいて、血が滝のように顔を流れたあとがはっきりと残っている。
もし許されるなら「エクセレント!」と叫んでいるところだ。
そんな欲を抑えつつ、ポケットからデジカメを取り出し、とりあえず記念に一枚撮る。これは捜査資料じゃなくて、自分のコレクションになるので、どの写真よりも丁寧に。
「死体の損傷はここだけですか」
「ああ、他には見当たらない」
「……つまんない」
「思っていても口に出すんじゃない」
唇を尖らせる有佐だったが、厳しく口調で注意されたので、それ以上はやめた。
部屋全体を見渡すとずいぶん荒らされている。現着した制服警官が現場保存をしているので、ほぼ間違いなくそのままだろう。
「一課はまだですか?」
「そろそろだろう? あそこはいつも遅いからな」
捜査一課が遅いのは確かに日常的で、驚くこともなければ呆れることもない。神無月としては「すぐそこに死体があるのにもったいない」と思うばかりだけど、実際、死体を見るのが嫌だという刑事も少なくない。職業の選択を間違っているといつも思う。
死体も十分眺め、写真にも収めた。そろそろ本格的な作業に取り掛かろうとしたときだった。
「わあ、有佐ちゃんだぁ。さすがに早いねえ」
急に耳元でそんな間の抜けた声が響いた。思わずびっくりしてしまい、尻もちをつきそうになってしまった。かなり苛々した気持ちで声のした方を見ると、すぐそこに顔があった。
彼女と自分の距離は数センチしかなく、傍からみたらキスでもするんじゃないかと思うだろう。
「……近い」
「あれ? そうかな?」
ニッコリと屈託のない笑顔を浮かべつつ、彼女はすっと距離をとった。
「一課では私が一番乗りかな?」
彼女、桜崎スズメが首をかしげながら訊いてきた。その際、綺麗にまとめられたお下げ髪も一緒に動くのが、同性から見ても見とれてしまうほど美しかった。
伊達に県警一の美貌と呼ばれるわけではない。
「そうよ。いつも通りね」
「ふふーん、そうかそうか」
彼女は鼻を高くして、腕組みをしながら数度頷く。一番乗りしたことが誇らしいようだが、彼女より早く到着した警官はたくさんいるわけで、そこまですごいことでもない。
「で、どうかな? なんかわかったりした?」
「あのねえ、そういうことはあんたが調べるんでしょうが。なんのために来たわけ?」
「えー。だって、現場を見て最初に調べるのは有佐ちゃんたちだもん。やっぱ一番大切なのは有佐ちゃんたちの意見だよ? 特に有佐ちゃんは特別だし」
笑顔を一切崩すことなく、まるで学生のような雰囲気でそうせがんでくる。舌打ちをしたあと、とりあえず当たり前のことを口にした。
「見たらわかるでしょ。部屋はこの荒らされよう。そんで、この死体。物色された形跡が山ほど……強盗殺人。どう、違う?」
だれがどう見てもそうだった。もちろん、偽装ということは十分にありえる。しかしながら現状で把握できるのはそれだ。正解かそうじゃないかという問題ではなく、報告書にそう書くだろうという見解。
スズメは「そうだよねー」とさも当然のように軽い口調で同意してきた。
「検証はこれからよ。あんたもそうでしょ?」
「うん? まあ、私の場合、もう終わってるかなぁ?」
「はあ?」
スズメは自分から離れていくと、一人の制服警官に何か話してから部屋から出ていこうとする。
「ちょっとっ」
「有佐ちゃん、あとはよろしくねー。私、ドーナツ食べたくなってきちゃったぁ」
出会ってから一度も崩さなかった笑顔を携えて、スズメはスキップでも踏みそうな足取りで右手を振りながら、現場を後にした。
「ねえちょっと」
出て行く直前にスズメに何か言われていた制服警官に声をかける。少し怒気が含んでしまっていたが、抑えることができなかった。
まだ若い男性警官は「はいっ」と返事をした。
「現着したのはあなたが一番?」
彼はまたいかにも体育科系の「はいっ」とハキハキした答えをした。
「あいつはいつ来たの? 全然気づかなかったんだけど」
しかしこの質問に彼は言葉を濁した。なんと言っていいかわらないとでも言いたげだ。
「わかんないの? ずっとここにいたんでしょ」
「はい。しかしながら……本官が到着したときにはすでに到着されていたので、はっきりとした時間はわかりません」
思わず力強く舌打ちをしてしまうと彼が「申し訳ございませんっ」と頭を下げてきた。有佐は「いい、いい。別にあなたに怒ってるわけじゃない」とフォローしておいた。
「……あの猫」
なにが「一課では私が一番乗りかな?」だ。そんなこと知っていたくせに。どうせ最初に到着して、自分が興味あるものだけチェックして、現場保存を警官に任せて自分は外でも歩き回っていたんだろう。
腹が立つ。彼女のあのテンションが好きではない。そもそもあれが捜査一課に属する刑事だということが未だに信じられない。彼女はこの男社会の職場で数少ない女だから親しくしてくるが、こっちはちっとも心を許してない。
ぶつぶつと愚痴をこぼしていたら、ぞくぞくと捜査一課の人間が現場に到着しだした。スーツ姿のがたいのいい男たち。相変わらずゆっくりしたものだ。
有佐はマスクをして、道具箱をあける。邪魔が入ったけど、仕事にとりかからねば。
しかし、あの猫、どこに行ったのか。
4
村上和樹が捜査一課に配属されて最初に実感したのは「現実とドラマは違う」という、ごく当たり前のものだった。交番勤務から地道に実績を積み上げ、難関と言われる試験を突破し、ようやく配属された憧れの職場であったにも関わらず、現実は無情だった。
正義感を胸に宿した熱い男たちが、市民に平和をもたらすべく、凶悪犯罪者を汗水たらしながら必死に追い詰める。――そんなことはありえなかった。
起こる事件はほとんどがつまらないと感じるもの。警察としてこんなことを思ってはいけないが「なんでそんなことで人を殺すんだ」と思える理由での犯行が大半だ。
職場の上司や先輩たちは「いかに早く事件を処理するか」に燃えている。それは「犯人を早く検挙する」なんて使命感ではなく「仕事を増やしたくない」という、ごく普通のサラリーマンと同じもの。
今日もそうだ。殺人事件が起きたと現場に直行したものの、おそらくはただの強盗殺人。もちろん犯人はいち早く検挙しなければいけないが、周りの反応でその熱意もさめてしまった。
先輩の刑事たちは一様に安心していた。ややこしいものでなくてよかった、まだ前の事件の疲れがのこってるんだ。そんなことを被害者の遺体の前で平然と言っていた。
愚痴をこぼしても「社会ってのはそういうものだ」と言われる。それはもちろん理解しているが、やはり絶望は隠せなかった。
ただそんな彼でも、一つだけドラマみたいと感じることがある。
彼女という、ただ一人の存在だ。
「村上、お前の教育係はどこだ?」
夜九時をすぎたところで捜査会議が終わった。各々、任されたことを取り掛かろうと会議室の椅子からぞくぞくと立ち上がっていたとき。村上も当然そうしようとしていたのに、目の間に現れた男にそう声をかけられては動きをとめるしかなかった。
門倉刑事部長。村上が毎日顔を合わす職場の人間の中ではトップの地位。屈強な肉体の持ち主で、学生時代は柔道で全国大会に出たこともあるほどの実力者。お気に入りのブラウンのスーツがいつもきつそうで、見るたびに買い換えろよと思ってしまう。
ただ口には出せない。なにせ、彫りの深い顔に、狐のように細い目。そしてそこから放たれる眼光を前にしては本音など言えるわけがない。刑事勤め二〇年というのは伊達ではない。
「ええと……鑑識課の神無月さんいわく、ドーナツを買いに行った、そうです」
「どぅーなつぅっ?」
素直に答えはしたものの、正直怖くて仕方なかった。
「お前は仕事を舐めてんのか?」
「いえっ。ただ、俺としても先輩が急に消えて、現場についたからって連絡もらって以来、電話かけてもメールしても返事がないんです。だ、だから」
なんで自分が怒られないといけないのかさっぱり分からない。でも、怒りの矛先が自分に向くのは毎度のこと。だけど慣れない。この刑事部長を前にすると、自分が容疑者になった気分になる。
桜崎スズメ。村上の教育係とされている、捜査一課唯一の女性。自由奔放な性格は有名で、それを気に食わない人も多いが、当人がその人達を器用にかわすので憎しみが全て村上に向く。
この門倉はその代表格だった。
「言い訳はいいんだよ! 重大事件が起こってんのに何がどぅーなつだ! すぐにここに呼び出せ!」
会議室のテーブルを拳で叩きながらそう怒鳴ってくる。村上だって呼び出せるならすぐにそうしている。
周りの刑事たちが目を伏せながら、村上と門倉を避けて会議室から出て行く。
そんなときだった。
「あっ、村上くーん。それとぶっちょー。桜崎、今戻りましたよぉ」
会議室の入り口からそんな場違いで明るい声が聞こえてきた。声の主、桜崎スズメは歌でも歌い出しそうなほどの笑顔で村上と門倉のところへ歩いてくる。
他の刑事たちがスーツを着ているにも関わらず、薄いブラウンとホワイトのチェック柄のダッフルコートを着て、赤い耳あてをした格好はとても刑事というか警察に見えない。
ただその姿はとても美しかった。だてに警察一の美貌と呼ばれているわけじゃない。
そんな彼女の手にはドーナツ屋の箱があり、村上の隣にくるとそれをテーブルの上において、なんと開けだした。
「色々買ってきたんだよねー。私はオールドファッションが一番好きなの。村上くんは何がいい?」
「えっ、ええっと……先輩」
空気を読めと言いたいが言葉が続かない。彼女はそんな彼のことなど気にしないのか、さっそくそのドーナツを一つ齧って、更にもう一つ取り出して、それを彼に渡してきた。
「それ期間限定のね。コーヒー味なんだって。会議出てくれたお礼にあげちゃう。ああ、ちゃんと資料もらっておいてくれたよね?」
彼女が屈託のない笑顔で尋ねてくるので「はあ」と返事にならない返事をして、とりあえずさっきの会議に渡されたばかりの資料を差し出した。現場の痕跡、周囲の聴きこみ調査の結果などが載っているものだ。彼女はそれを手にとると、ぱらぱらと雑誌を立ち読みするような感覚で読み始めた。
そして三十秒ほどでそれを閉じる。
「うん、問題ないね」
「なにが問題ねえんだよっ」
明るく何かに納得した彼女の声にかぶせるように門倉が怒鳴って、村上は思わず背筋をのばした。しかし当の彼女は一切表情を変えない。
「もー、部長にもちゃんとドーナツありますよ、安心して欲しいです。どれがいいですか? あっ、でも、部長は脂っぽいの控えた方がいいですよね。そうなるとぉ……」
「いらねえよ、そんな菓子は。桜崎、お前、会議ほったらかしてどこ行ってたのか報告してみろ」
「ドーナツ屋さんです!」
門倉がドスのきいた声で威圧をかけながら質問したにも関わらず、彼女の返事はまるで小学生がわかった問題を元気よく答えるような感じだった。
それにまた門倉の青筋がピクッと反応する。
「お前、舐めてるの?」
「やだなぁ。見たらわかるじゃないですかー。舐めてません、食べてるんですよ?」
完全にアウトだった。門倉が一気に右手を伸ばして、桜崎の胸ぐらを掴んで顔を近づける。隣の村上がはたふたとしながら、なんとか「ぶ、部長、落ち着いてくださいっ」と説得を試みているが、当人である彼女は笑顔のまま。
「その態度、いい加減にしやがれ」
「もうぅ、注文が多いんですよぉ。ストレスが溜まってるんですかぁ? あ、そんな部長にとっておきのものあげちゃいますっ」
彼女は門倉に持ち上げられる形なっているのでつま先立ちだったが、器用にスカートのポケットから一枚のカードを取り出した。それはスクラッチカードで、銀色で丸い削る部分があった。
「運試し、やってみます?」
「やると思うのか?」
「ええーっ、やらないんですか。うーん、じゃっ、村上くん、これ削ってくれる?」
彼女は胸ぐらを掴まれたままの状態でカードと、そしてポケットから取り出した一円玉を渡してきた。彼は戸惑いながらもそれを受け取る。
「桜崎、お前わかってんのか? 今こうしてる間にも強盗した挙句、人まで殺した犯人が野放しなんだよ! それを捕まえるのが俺らの仕事だ! お前がちんたら菓子食ってる間にまた被害者が出たら、お前責任とれんのかっ!」
「とれますよ」
広い会議室全体に木霊するほどの怒鳴り声でまくしたてられたのに、彼女はニコッと笑いながら平然と答えて見せた。その反応に意表をつかれた門倉の隙をみて、彼女は彼の手をほどいて、見事に抜けだした。
「でも、とることはないですねぇ。だって、この犯人、もう事件を起こさないですから」
しわのついたコートをなおしながら、彼女は唇の横についていたドーナツの砂糖を舌でなめてとった。
「村上くん、結果はどうだった?」
「えっ」
どうやら彼女はスクラッチのことを言っているようだがが、二人のやりあいを緊迫しながら見ていた彼がそんなものを削っているわけがなかった。
「はやくはやく」
村上は部長の眼光に怯えながらも彼女に渡された一円玉でそれを削ってみせた。
「あっ」
スクラッチの結果は「当たり!」というもの。隣で桜崎が「やったあ!」と小さくジャンプをしながらはしゃぎはじめる。そして一円とカードを回収すると、これ以上ない笑顔を彼に向けた。
「お手柄だよっ、村上くん! これでドーナツ一つタダだよ!」
「おい桜崎、事件がもう起きないってのはどういうことだ」
喜びまくってる彼女を無視して、相変わらずの声で門倉が質問する。
「うん? そのままですよ。あっ、そういえば私、有佐ちゃんに訊きたいことがあったんだった!」
急に両手を叩いてからドーナツの箱を手にして、彼女はくるりと体を反転させ、そのまま会議室を出ていこうとする。
「あっ、村上くん、宿題を一つだけ出しておくね。まず、被害者の知人を調べて。特に今日連絡してきた人物。電話だけでいいよ」
「えっ、あの……」
それはすでに調べられていることで、資料にも載っていたはずだ。自宅の電話と携帯。被害者の着信、または発信履歴はすでに調査済みで割り出されている。
「特に、その中でお金持ちの人を絞って。よろしくね」
一切の理由を語ることなく彼女はそれだけ命じると、笑顔で手を振りながらスキップしながら出て行こうとする。
「おい桜崎!」
「大丈夫ですよー。だって、幸運の女神様は私達の味方だったでしょ?」
そんな言葉を残して彼女は消えていった。また取り残された村上はとりあえず言われたことを即座にメモをして、段取りを考え始める。
そんな彼の傍で、門倉が思いっきりテーブルを殴った。
はじめまして、私は夢見と申します。
以前は別のサイトで、違うハンドルネームで小説を投稿しておりましたが、過疎の影響で都会に引っ越してきた。そんな感じで、今回ここに投稿させていただきました。
これはいわゆるミステリですが、では読者に謎を解かせるタイプかというと、そうではありません。倒叙ミステリといいまして、一番身近な作品でいうと「古畑任三郎」や「刑事コロンボ」が有名で、犯人と刑事の対戦を描いたものになります。
この作品では片桐という犯人の男と、後半に出てきた桜崎という女刑事の攻防になります。
次回で二人が出会うことになりますが、そこから物語も本格始動。今回は導入部にあたります。
全体で原稿用紙、200枚にはならないほどの作品となっております。
こちらを読んで、気に入っていただけば、今後もお付き合いをお願いします。
だめ、おもしろくない、んんて意見もお待ちしておりますので、感想いただければ幸いです。
最後になりましたが、ここまでお読みいただきありがとうございました。