下っ端の役得
あちこちで桜が咲いているので
「お疲れ」
うつむいてスマホをいじっている頭上から、お馴染みの声がする。
戦闘準備、むしろ持久戦の備えか、大きめの荷物を持った小泉がいた。
「ま……」
「ま? なにそんな潤んだ目をしているんだ?」
小泉が戸惑っているけれど、そんなことはどうでもいい。
「来てくれるのを、待ってた」
「加賀見……」
「トイレッ、行ってくるから、助かったああ」
「――そんなことだろうと思ったぜ」
力なく呟く小泉なんか眼中になく、私はトイレにダッシュした。
幸いにも待つことなく解放の喜びを味わって、私は戻ってきた。
ブルーシートの中央で胡座をかいて、小泉がうなだれている。
すっきりした私は小泉に笑いかける余裕も出た。
「どしたの、小泉」
「何でも、ない」
変なの、と思いながら靴を脱いでブルーシートに上がり込む。
フリースの膝掛けで下半身の保温にいそしみながら、頭上を仰ぐ。
うららかな晴天によく映える、薄紅の迫力。
「綺麗だけど、なんでこんなに早く満開になるかなあ」
「おかげで慌てて花見だもんな」
「入社式前だから新入社員にやらせる訳にもいかないって課長の言い分も分かるけど」
ついついぼやきが入ると、小泉はまあまあと笑いながら缶を差し出す。
新発売の桜の絵が入っているカクテルだ。
「一人っきりの間は呑めなかったんだろ? 交代でトイレに行けるからこれで機嫌直せ」
「小泉、いい奴だねえ。さすが同期」
「男でいい奴なんて……まあ、いい。呑もうぜ」
小泉もビールの缶をあけて乾杯する。
私の持っていたおやつと小泉の持ってきたつまみで、一足早い酒盛りだ。あと二時間もしたら宴会が始まる。ケータリングのオードブルも、お酒もピザだって手配済み。
場所取りも三年目なら要領も良くなるってものだ。
去年は採用なしで小泉と二年下っ端を経験したから、今年こそは脱下っ端って受かれていたのに。こんなに早く咲くなんて、気が早すぎるぞ、桜。でも宴会が始まると雑用に忙しくて桜を楽しむ余裕なんてないから、今こうしてじっくりお酒を呑みながら眺められるのも、まあ悪くない。
小泉はタブレットPCを取り出している。
「小泉、仕事?」
「まあそんなとこ。悪かったな、朝から場所取り押し付けて」
「ううん、昨日のうちに必死こいて仕事は仕上げたから、桜の下で優雅に読書とか動画鑑賞できたし」
待ち時間は天候とトイレの問題さえクリアできたら、いいんだ。
普段せかせかと通勤して自然を愛でる余裕なんてないんだから。
桜の下でのんびりするのは、結構好き。
こうして話し相手がいて、気のおけない会話ができればもっといい。
小泉のつまみはなかなか凝っていて、聞けばデパートで買ってきたんだと。女子力高くないか? ダイレクトに伝えると、露骨に嫌な顔をされる。
「来年はお役御免だね」
「そうだな」
他愛ないやり取りをしているうちに、空は少しずつ色を変える。
昼間の桜もいいけれど、刻々と変わりゆく空を背景に薄闇に溶けそうな桜もまた見応えがあるなあ。
二缶目もほぼあいて、いい気分でいるうちに眠くなってきた。
化粧を崩さないように、こめかみを押さえていると小泉に見咎められる。
「眠いなら寝とけ。あと一時間くらいあるし俺がいるから」
「ありがとう……お言葉に甘えます」
「そこだけ、なんで敬語なんだよ」
おかしい奴、と笑う小泉の声ももはや子守唄。
なるべく膝掛けの下の面積を確保しようと丸まって、目を閉じる。
やっぱり日が落ちると冷えるなあと思っていたのに、途中でなんだか暖かくなるし、おまけにいい具合に頭の位置も調整できた。
ああ幸せ、と思っていたのに。
やけに周囲が煩いなあと、寝ぼけまなこを開くと頭上には桜じゃなくて小泉の顔があった。寝起きにいいもの見ているなあと思いつつ、あれ? と疑問符もついた。
「こいずみ……、なんでいるの?」
いまだに頭が働かないまま質問すると、普段は見せたことのない表情で小泉がうっすら笑った。
どく、と心臓が大きく脈打つ。その顔は反則。
仕事中にあんまあり褒められる行為じゃないけれど、こっそりこっそり盗み見しても今みたいのは見たことなかった。
さりげなくを心がけすぎてかえって挙動不審にバレンタインのチョコレートを渡した時だって、淡々と受け取ってすぐに仕事モードの顔に戻っていたのに。
桜をバックに色気を振りまくなんて……。
「加賀見に膝枕しているから」
「膝枕って、あ……」
確かに私の頭は小泉の腿の上に引っ張り上げられ、しかも小泉の着ていた薄手のコートまで掛けられている。
それで暖かかったんだぁ、と納得しかけた自分に突っ込みを入れる。
「いや、それはわかったけど何で?」
「こんな美味しい状況を見逃すと思うか?」
美味しい状況? と首を傾げるとほら、と指をさされた。
そちらには、にやにやしながら生温かく見守っているらしい同僚の面々がいた。しかもスマホとか携帯をこっちに向けて。
まさか、と頭を浮かしかけると小泉が決定的な台詞を吐く。
「大騒ぎして冷やかして証拠を取るって写メしていたところ」
「写メ……」
じわじわと顔が熱くなる。小泉の膝枕っていうのも許容範囲を超えるのに、しかもそれを写メって。
桜の見せた幻想ですかいと思うくらいに個人的には嬉しすぎる成り行きだけど。
がばりと体を起こして、今まで頭がのっていた小泉の腿の埃を払う。
ついでにコートも返してとにかく謝罪。
「ごめん、迷惑かけてほんっと、ごめん」
「別に迷惑じゃ……」
もう居たたまれなくて距離を取って、とにかくブルーシートをまるで結界かのように囲んで立っていた同僚に声をかけて上がってもらう。
寝ている間にもう開始時間になっていて、お酒とオードブルが届いていた。
「済みません、不手際で。座ってください、課長はこっちにどうぞ」
手早く紙コップとお皿、割り箸を回してビールも行き渡るように渡す。
主任が立ち上がって、短い挨拶の後で乾杯の合図をした。乾杯、とあちこちで声が上がって花見宴会が始まった。
私は穴があったら入りたかった。調子に乗って呑むんじゃなかったと後悔しても、時間は巻き戻せない。もう小泉を見る勇気もなくて細々動き回って、恥ずかしい状況を忘れようとする。
ビールを注いで、ゴミを集めてこまめに捨てに行く。ピザの配達員をスマホで誘導して代金を払って座の中央に置く。
「すっごく気持ちよさそうに寝てたねえ」
「うわあ、すみません。言わないでください」
笑い含みで話題にされるたびに、笑顔で返して心で泣いた。クールな小泉なのに、迷惑かけてしまった。
気が緩みすぎにもほどがある。なんで寝ちゃったんだろう、私の馬鹿。
涙腺が緩みそうになったから、またゴミを回収する。
「ゴミ捨ててきます」
早足でゴミの分別回収場までゴミ袋を下げていって、おじさんと一緒にゴミを分けた。
戻らなくちゃと思うのに足が重い。
ちょっと横にそれて、石垣に腰を下ろした。ぼんやりと満開の花々を仰ぎ見る。
今年は別の意味で桜が目に入らなくなったなあ。週明けからどんな顔で小泉と仕事すればいいんだろう。
ただの同僚、しかも眠りこけている同僚を膝枕してくれたっていうのに、冷やかされて写メ撮られるなんて迷惑かけすぎだ。
花見の宴会の格好な話題になってしまった。
「あああ、もう。どうしよう」
「何をどうするんだ?」
「ほとぼりが冷めるまで小泉と距離を、ああ、その前に謝らないと」
頭を抱えていた私は、独り言の続きでつい会話してしまっていた。
「何を謝るんだ?」
「小泉に……小泉?」
「戻ってくるのが遅いから探しに来た」
「なんで……」
わざわざ小泉が来たら燃料をくべるのと同じなのに、みんなに何て言われるか。
「さっきと同じだけど、写メ撮られるなんて迷惑かけてごめん。あ、でも膝枕ありがとう、おかげで暖かかった」
「迷惑じゃないって俺の言葉聞いてなかったのか?」
「いやそこは迷惑でしょ。ああ、下っ端二人が同時に抜けるのも迷惑だった。戻ろうか」
へらへらしていると思いながらとりあえず笑ってごまかして立ち上がりかけた私に、ずい、と小泉のスマホが突きつけられる。
何だろうと画面を見つめると、目を閉じた私がいる。
「これ、小泉も撮ったんだ」
「何枚もな。勝手に撮って悪かった。気持ち悪かったら消すし、みんなにも消してもらう」
「……そのほうがいいかも、しれないね」
さつき先輩が写メしていたら、それだけは転送してもらおうかなと考えながら頷いた。先輩は私の気持ちを知っているから。
写メを消してもらってほとぼりが冷めたら、またちゃんと同期として接することができるだろう。鬱陶しく寄せている想いなんて、クールな小泉には重いだろうし。
「なあ加賀見、俺のことどう想っているんだ?」
「え、と、大事な同期ですが」
なにか、と続けようとした私を小泉が遮った。
「顔にも挙動にも現れてるのに、とぼけるのはよそう、な?」
「え、えええ? そんなに……出てた?」
「ダダ漏れ。必死に隠している様子もまあ可愛いっちゃ可愛いから黙ってみてた」
「そんなの、」
同期として接しようとしていたのが無駄な努力だったかあと、ちょっと虚しい。
「ごめん。写メも消して。一方的な感情だから小泉がどうこう思う必要ないから」
「どうして、そうなる」
「だって去年も今年も、チョコレートに何の反応もなかったからまあそうかと」
小泉からはホワイトデーに何のお返しも言葉もなかった。
二年連続ならさすがに撃沈と思うしかない。
そう指摘すると、小泉はむっと眉を寄せた。
「食事しないか、って誘っただろう?」
「残業で遅くなった時のやつ? でも終電なくなる時間だったから機会があったらね、って、あ……れ?」
「誘いを華麗にスルーしたのは加賀見だろ。こっちは、持って行くつもりだったのに」
持って行く。どこに、何を?
石垣に座ったまま小泉を見上げていると首が痛い。だから立ち上がった。
小泉は珍しく拗ねた物言いを続けていた。
「単なる同期のその先」
意味がじわじわとしみこんで、うわあと頭の中がパニックになる。
小泉は狼狽えた私がよほどおかしいらしく、ふわりと笑って手を出してきた。
「戻ろう。で、花見が終わったら一緒に帰ろう」
夜桜に浮かれ気分を煽られて、促されるまま手を握って花見会場に戻る。
週明けに、さつき先輩もしっかり撮影していた写メを転送してもらった。
膝枕ですぴすぴと眠り込んでいる私を、優しい眼差しで見ている小泉だった。
嬉しすぎて、挙動不審なのを小泉に笑われた。誰のせいだと思っているんだ。