アン・ポン=ターン、陛下のターン
安本丹
国王は日当たりのあまりよろしくない部屋を訪れた。
書物が日光に当たるのを嫌う部屋の主は、自分の教師も務めた学者だ。
何かあれば危うい均衡を保って積まれている書物に押しつぶされての最後を迎えそうなほど、部屋には書物が溢れている。
「邪魔をするぞ」
「これは陛下。このようなむさくるしいところにわざわざ足をお運びとは」
もとは広い机も、今はあちこちにうずたかく書物と書類が積まれている。
向こうから眼鏡をかけた白髪の老人が、こちらを見つめている。国王は側近に頷くと、ややかび臭い部屋に一人で入った。
「しばらく顔を見ていなかったのでな。どうしているかと思ってな」
「これは陛下のご厚情に感謝いたします。これ、この通り、いささかさびついてはおりますがまだ動いておりますぞ」
「そのようだな。頼もしいぞ」
かつての厳しい教師とその教え子は、今はゆったりと笑いあう関係になっている。
しばらく取りとめのない話をしてから、国王が切り出した。
「実は、サヤカの世界の言葉の意味を知ってはいまいかと訪ねたのだ」
「サヤカ様の。――異世界の、ですな?」
眼鏡の奥の瞳が炯々とした光を放つ。
言語学に特に傾倒した学者は、こたびの迷い人を狂喜乱舞して迎えた一人だ。
サヤカの持っていた辞書、教科書という書物、色々な言語情報を集約したスマホなどをこの上ない宝と言い切って、聞き取りや書き取りの研究に没頭した。この老人のどこにこんな精力がと驚かされたが、生きているうちにとの執念にも似た熱心さで知識を吸収していった。
彼ならば、知っているかもしれないと、国王はわざわざ足を運んだ。
ここしばらく、自分を悩ませる謎の言葉の意味を。
里心がついたらしい迷い人に押し付けた子犬。迷い人はこれに名前を付けて可愛がった。思惑通りに塞いでいた状態から、元に戻ってくれた。
子犬はよく懐き、主人とそれ以外を明確に区別して迷い人には至上の愛着を示している。尻尾を振る、顔といわずあちこちを舐めまくる。
成犬になった今もそれは変わらずに、迷い人のもとに赴くと犬のくせにあからさまに敵視される。近頃はようやく、敵視から胡乱くらいに敵意が薄れてはきたが。
気になっているのはこの犬の名前だ。
迷い人、サヤカが命名したそれは、聞けば私、国王を指しているらしい。
ではどういった意味かと尋ねると、目を泳がせる。
――怪しい。
本人に問うて返答を得られないなら、と訪れたのが最後の砦、老言語学者の部屋という次第。
「どういった言葉なのでしょう」
「アン・ポン=ターンという。サヤカはアンポンタンと繋げて呼びかけている」
「……アン・ポン=ターン、アンポンタン。これはまた、不思議な響きですな」
知的好奇心を刺激されたらしい学者は、かくしゃくとした足取りで書棚の前へと移動すると、本人だけの頭に入っているらしい規則性で並べられた書物から二冊抜き出した。
「まずは一言一言の意味から探りましょう。アン……。『案』でしたがき、計画。『庵』は小さな家、雅号、食事処の名に添える語。『暗』は隠れているさま。『餡』となると豆に砂糖を入れて練ったもの。あと女性の名前にもありますな」
美しく複雑な文様のような文字と、続けて記されているその文字の表す意味をしわがれた指で学者がたどる。
アンだけでは意味が通らない。計画性のある男か、それとも練り菓子のような甘い男ということだろうか。
「ポン、ポン……。物をたたいた時の擬音。はて、どういう意味合いでしょう。ボンなら、『盆』。サヤカ様の世界での暑い時期の行事であるとか、物をのせる道具、あとは……坊やの変化したもの、外国の地名の記載があるようです」
「ホンではどうだ?」
「となると『本』でしょうな。中心となるもの。書物。まこと、正しい」
「――分からぬ」
アンと組み合わせても訳が分からない。
ターンまで聞いて考えるとしようと、国王は腕組みをして辛抱強く老学者が書物を繰るのを見守った。
「ターン。回転すること、方向を変えること。折り返し、旋回。ううむ、これでは整合性が取れませぬ。
タンならば。ええと、『丹』で赤土、『旦』は女性の役を演ずる男性役者。『反』では距離や面積、布帛の大きさの単位。『胆』で気力、度胸。『単』ならひとり、『短』で足りないこと。嘆き。
咳をしたときに吐き出されるもの、これは『痰』ですね。『端』ははじめ。糸口。料理に使う牛や豚の舌。いやはや、タンはまた多くの意味を持つのですね。これは面白い」
学者はしきりに感心している。
繋ぎ合わせると私は計画性のある坊やで旋回する男? 隠れていて正しく足りない奴? それとも甘い坊やで度胸のある男?
サヤカはいったい私をなんだと思っていたのだ、と国王は首をひねらざるをえない。
ぶつぶつと呟きながら書物を繰っていたいた学者の手が止まった。
「陛下」
「なんだ」
「アンポンタンで一つの単語のようです」
「そうか、どういう意味だ」
「はい。申し上げます。まずいカサゴ――魚のようですね、の俗称。あとは、これだ。愚か者をののしっていう語。あほう、ばか」
嬉々として読み上げた学者の紡いだ言葉を、国王は衝撃をもって受け止める。
あの頃のサヤカの態度からして、これに間違いないと確信する。
そうか。アン・ポン=ターンではなくアンポンタンか。
おのれ。
国王はぎり、と奥歯を噛みしめた後で危険な笑みを浮かべた。
夕食をともに取ろうと訪れた部屋では、迷い人が犬と戯れていた。
抱き上げては、ぶんぶんと振れる尻尾に目を細めている。
惜し気もなくふるまわれる笑顔に、国王は大人げなくも犬に対してさえ嫉妬を覚える。
ごほんと咳払いすれば、やっと振り返って気がつく始末だ。
「陛下」
「楽しそうだな」
「ええ。お前も楽しかった? アンポンタン」
その言葉に国王はわずかに引きつった。
まあよい、と共に食事を楽しみ、犬は侍女と一緒に下がらせる。
二人きりになり、国王は隣に座ったサヤカの腰を抱く。
「サヤカ」
呼びかければ、こちらの目をじっと覗き込んでくる。
客人扱いの迷い人から、今は唯一の想い人に変わった娘を腕にして、国王は語りかける。冷静にと自分に言い聞かせながら。
「今日、学究棟に足を伸ばしてな」
老学者の名をあげれば、サヤカにもなじみがあるので興味深げに聞き入る。
それをよいことに、逃げられないように腕を回す。
「なかなか面白いことを聞いたのだ」
「何をですか?」
「ん? アンポンタンがどんな意味か、というものだ」
まずい、と言いたげな表情に変わったサヤカが身を引こうとしたが、国王は腕に囲って逃がさない。
長椅子に押しつけられたサヤカが、いくぶんか怯えを含んで国王を見上げる。
その両頬を包んで、口の端だけで嗤った。
「へいか」
「なあ。私をアンポンタンだと申したことは、よもや忘れてはおらぬだろうな」
「あれは、あの時は側室の一人になんて気持ち悪いことを言うから……」
顔をそらすこともできずに、汗を滲ませるサヤカを、国王は内心では可愛らしいと微笑ましく思いながら間近で眺めている。
短い髪で反抗的な瞳だった、それでいて寂しがりの迷い人を。
「私は今でもアンポンタンか?」
この問いかけに、サヤカはかすかに首を横に振った。
返事に満足して、国王は顔を近づける。
ポンの出典は『Wikipedia』
それ以外は『広辞苑 第六版』新村 出編 岩波書店