元カノ
不戦敗
「あ」
隣を歩いていた慎吾が小さく声を上げて立ち止まった。つられて貴子も止まって、慎吾の視線をたどる。
向こうから歩いてくる、綺麗な人へと慎吾の視線は固定されていた。
その人は近づいてきて、心持ち顔をあげ、そして。
「……慎吾」
日曜日の昼下がりに、そんな場面の当事者になってしまった。
「久しぶり、元気そうだ」
「ええ。慎吾も変わらないね。……彼女?」
ぎこちなく幾分か緊張をはらんだやりとりの矛先が急に向いて、貴子は自分まで緊張してしまった。
にこりと笑うのは落ち着いた色の髪の毛を綺麗に巻いて、上品なメイクをしたいかにもな美人さん。着ているのだって女らしいものに、ミュールを合わせて日傘を持っている。
慎吾の視線が、彼女からそらされてちょっとだけ戻ってきた。
「会社の、後輩」
「そう、なの?」
少しだけ戸惑いを含んだ彼女の声の中にいくつもの感情が見え隠れする。
貴子は、慌ててお辞儀をした。
「初めまして。神谷主任の下に配属された後藤です。今日は偶然いきあって、どこかでお茶でもって店を探していたんです」
「それなら近くに美味しい店があるんだけど。ご一緒しませんか?」
「いいんですか? 主任はお時間いかがですか?」
「あ、ああ。大丈夫だ」
彼女の案内で、通りを一つ入った喫茶店に案内される。
古い店のようで、布張りの椅子に顔がうつるほどに磨かれたテーブル。店内はジャズが流れている。
さぞかし渋いおじさまが店主かと思えば、そこは長髪を結んだお兄さんが水を出してくれた。
「素敵なお店ですね」
「つい長居しちゃうの」
「分かるような気がします」
なりゆきで彼女の向かいの席に座って、隣には慎吾がいる。
本日のお勧めのホットコーヒーを三人分頼んで、改めて彼女が自己紹介をした。
「佐久間 由美子です。神谷くんとは大学の同級生です」
「後藤 貴子です。主任のところに配属された新入社員です」
その後は大学時代の話や、貴子が神谷にしごかれている会社の話などが話題に上った。
丁寧に淹れられたコーヒーは香りもよくて、ミルクも砂糖もなしで飲めるほどに美味しかった。
彼女、由美子さんは外資系の会社で働いていたのが少し前に体調を崩して、今はその子会社にいるらしい。
「なら、今は体調はいいんだな?」
「そうよ。無理な残業も出張もないし定時にあがれるようなところだけど、スキルは腐らない程度に生かせているの」
「……良かった」
慎吾のほっとした声に、由美子が微笑みながらカップを手にした。
綺麗な白い手、ほっそりした指。上品なネイルに控えめなストーンが手をいっそう魅力的に見せている。
両手ともに指輪はしていない。細いブレスレットが目を引いた。
本当に居心地のいい店で、由美子の話も巧みだったせいかあっという間に時間が過ぎた。
「もう、こんな時間。私、舞台の時間があるからそろそろ失礼します」
「素敵な店を教えていただいてありがとうございます」
「また今度な」
立ち上がってあいさつすれば、由美子はにこりと笑ってきびすを返した。
三引く一は二。まだコーヒーが残っていたので、貴子は腰を下ろした。窓側の慎吾は、そうなれば出て行けずにこちらも腰を下ろす。
二人以外に客はいなくて、店主もこちらに注意している様子もなかった。
しばらく沈黙が続いた。
「貴子」
「あの人ですよね。自然消滅した元カノさんって」
「――ああ。一年半ぶり、に顔を合わせたよ」
貴子はカップをゆっくりと傾ける。これを飲んでしまえば、カップは空になってしまう。ただコーヒーは有限で、ほどなく貴子は飲み干してしまった。
底に残る薄茶の液体を見つめて、貴子はカップをソーサーに戻す。
「まだ、好きなんでしょう?」
「俺は」
「神谷さん、私を『会社の後輩』って紹介した」
貴子の淡々とした指摘に、慎吾が息をのんだ。
あの瞬間に、いや、慎吾が立ち止まった時から分かっていた。
「綺麗な人ですね。お互い忙しくってすれ違って、でしたっけ」
貴子が必死にアプローチをし続けてようやくお付き合いが始まった頃に、慎吾がぽろりと漏らしたことがあった。
嫌いで別れた二人じゃない。嫌な思い出も横たわってはいない。
加えて二人を見ていれば、嫌でも分かる。
自分こそが部外者だと。
「由美子さんも神谷さんを気にしていたし、指輪ははまってなかったから、このまま追いかけるか連絡取ってみるかしたらどうですか?」
「貴子、俺は」
「深入りする前で良かった。元カノへの未練を引きずられたまま付き合っても、私が嫌ですから」
「――すまない」
「舞台なら場所は分かるんでしょ?」
――行けば? 貴子の誘導にぎこちなく慎吾が立ち上がった。
貴子も脇によけて慎吾を通す。
これ、とコーヒー代を出す際に慎吾は貴子を見下ろした。
「本当に、すまない」
「だからもういいですってば。修羅場は嫌なんで、ここですっぱり」
貴子は慎吾の言葉を封じた。慎吾は少しの間だけとどまっていたが、ドアを抜けて由美子の消えた方向に足早に歩いて行った。
とさりと椅子に腰掛ける。
店主がサーバーを手に貴子に声をかける。
「お代わりはいかがですか?」
「いただきます」
カップに深い色のコーヒーが注がれていくうちに、香りも立ち上る。
さっきと同じコーヒーなのに、少し苦い。
まだ熱いそれをすすりながら、貴子はぼんやりと往来を眺めた。
入社して配属されてすぐに素敵だと憧れた慎吾を、素敵にしたのはきっと由美子だ。自分と慎吾より、由美子と慎吾の方がしっくり馴染んでいる。
嫌いで別れたわけじゃないし、お互いに憎からず想い合っているのが、小娘からも丸わかりじゃあ。
「でも、へこむ」
あそこで『うん、彼女』って言ってくれれば。
こっちからアプローチして、彼女にしてもらったから仕方ないといえば仕方ない。
貴子の押しに、慎吾がしょうがないなあと門戸を開けてくれたようなものだったし。
「はああ、負けた。勝負してないのに負けたよ」
「見事な引き際だったと思いますよ」
独り言に反応したのは店主だ。にこりと笑って、はい、とクッキーの小皿を出してくれた。座ったまま見上げる貴子に、内緒ですよ、と人差し指を唇に当てる。
「サービスです。あ、二杯目のコーヒーも代金はいただきませんから」
「どうしてですか?」
「とても、美しいものを見せていただきましたから」
由美子と慎吾のカップとソーサーをさげて、店主はそれらを洗い始めた。
貴子はクッキーを一枚かじる。素朴な甘さが口に広がる。
コーヒーもクッキーも美味しいのに、この店を教えてくれたのが元カノなのが残念だ。
気に入ったのに来れないじゃないか。
「ごちそうさまでした」
「また、おいでくださいね。今度はカウンターにどうぞ」
また、も今度もないだろう。
磨かれたカウンターは魅力的でも、相手のテリトリーに出没するほどに無神経なつもりはない。
貴子は曖昧に笑って店を後にした。