あなたのお名前どうしたの
あなたのお名前の続き。
満はぼんやりと座り込んで、景色と道行く人を眺めていた。
結婚を駄目にして、これからどうしようかと地味に途方に暮れている。翔の急な転勤についていくために、退職届は出してしまった。
アパートは翔が張り込んでいるかもしれないので帰れない。こんな状態でのこのこ実家に戻ったら、何を言われるか分かったものじゃない。
「とりあえずネットカフェにでも泊まって、求人情報あたるか」
住み込み即決があればそこにしようかと、ちょっと投げやりながら先の決断をして、それでもベンチから立ち上がれなかった。
茶色の薄っぺらい紙。経費節減かスペースの節約かは知らないけれど、あんな薄い紙に一生の大事を書き記した。あのチェック項目さえなければ、照れくさくも一緒に役所に提出して入籍して……。
「しょうがないよね、どっちの名字になっても笑われるんじゃ」
笑われても自分だけならいい。『タダマン』なんて、連想して笑う方が下劣なんだと思っていれば気にする必要もない。
悲しかったのは翔すら笑ったのと。
「私が名字変えて当然だって思ってたよね、自分が変えるなんて考えもしてなかった」
確かに笑われてはきたけど生まれてからずっと、二十六年一緒の名字だった。
それを捨てる感傷とかを、少しは思いやってくれてもいいんじゃない?
言わずに分かれというのが無茶なのは、満だって承知している。でも、ごめんなとかありがとうとか、嬉しいとか一言あったら。
しょうがないなあと思いながら頑張れたような気がする。
銀行も、免許も保険証もパスポートも、諸々の会員証だってネットの顧客データだって変更手続き取るのは大変なんだぞ。
しかも絶対にどこかで誰かに笑われるのに。断言できる。
「それでも翔がよかったんだけどなあ」
は、と未練たらしいため息を一つついて、満はバッグを胸に抱え込んだ。
今頃婚姻届はゴミ箱だろう。翔のことだ、転勤に付いてきてくれる可愛い子だってすぐに見つけるに違いない。
名字一つでごねる面倒くさい女よりも、ずっと素直で普通の名前の子を……。
そんな人とだったら、きっと。
抱きしめたせいでバッグの中の携帯が振動しているのに気付いた。
取り出せば翔の表示。しばらく手の中で震え続ける携帯を眺める。しばらく振動を続けて、ふつりと動きをとめた。
「着拒にしとこう」
ぽちぽちと操作して、最後の『はい』『いいえ』のところで手が止まる。
ガラケーも変更したくて、でも入籍した後での方が面倒がなくていいからとそのままでいた。これも翔と色々選んで決めた機種だったよなあ、といらない思い出までよみがえる。
座り込んだままだと泣いてしまいそうだったので、満は操作を中止して立ち上がった。
住み込み即決の地方に行こうか、平日こっそりとアパートを引き払おうか。まあどっちにしてもネットカフェだ、と歩きだそうとしたその時。
「やっぱりここだった。お前、電話に出ろよ」
「翔、なんでここに」
ぜいぜいと肩で息をしながら翔が満の手首を掴む。満の立ち上がったベンチにどさりと腰をかけたので、必然的に満もその隣に座ることになった。
息が落ち着くまで翔は何も話そうとはしなかった。満の方は、決定的な別れ話の覚悟を決めた。修羅場にはすまい。
「なんでって、ここは俺たちの思い出の場所だろう?」
友人だった頃も、恋人としてデートで立ち寄ったり、プロポーズもここだった。翔とけんか別れをしてついふらふらと足が向いてしまうくらいに、満にとっては大事な場所。
加えて別れ話の場所にもなるのか。
うつむいてしまった満の横で、翔のため息が聞こえる。
「……俺が悪かった。あんな言い方してごめん」
「いいよ。翔がそう思っても当然だし、元はと言えば変な名字なのが悪いんだから」
「満、俺は」
「翔の言うとおり。男の人が名字変えたら婿養子かとか思われるよね。それが変な名字になったら、なおさらいたたまれないことくらいは、分かるよ」
自分に言い聞かせるように翔を見ずに薄笑いすら浮かべてはき出す満を、翔は見やった。
違う、俺が言いたいのはそんなことじゃない。
満は前を歩く親子連れに目をとめた。可愛いさかりの子が手をのばして、母親と手をつないでいる。微笑ましくて見ているだけで心が温かくなる。
「それにさ、もし子供ができたら『タダマン』の子ってからかわれるのも可哀想だし。私一人なら何言われてもいいけど、子供が」
それ以上続けずに唇を噛む満に、翔は何も言えなかった。
正直目先のことで頭がいっぱいで、子供にまで考えは及んでいない。
子供のからかいは容赦がなくて時に残酷だ。まだ『塩かける』の子の方がましかもしれない。満は結婚話が出たときからここまで想定して、それであんなに渋っていたのか。
「翔は、私とじゃなくって多田姓になっても違和感のない人を見つければいいよ。私も誰かいい人……」
「俺はお前と別れる気なんかないぞ」
「どっちの名字にするかでこれだもん。この先の自信がない」
名字の一件は予想以上に自分を臆病にしている。満はそう感じた。
結婚で今までの自分がいなくなりそうな喪失感に加えて、家庭を持って子供ができたときの漠然とした未来への不安。
今まで感じていなかったはずの鬱屈や不安が一気に吹き出した、その糸口が名字の件のようだった。
「俺だって、自信はない」
「翔」
「会社だって倒産するかもしれない。お前に愛想尽かされるかもしれない。今だって結構呆れられてるのは知ってる。
子供がからかわれるかもしれないのは、俺の考えが甘かった。だけど。一緒にいたいんだ」
怒ったようにぶっきらぼうな口調の翔の、頬が赤い。
握りしめているこぶしの関節部分が力を入れすぎて、白くなっている。
満は心臓がうるさく騒ぐのをなだめられずにいた。
別れを覚悟していたはずなのに、真逆のこれは。
「かけ……」
「それにもう遅い」
「え?」
「さっきの用紙、役所に出した」
「え? えええっ?」
「なので俺とお前は夫婦。お前は多田 満になってる。あ、一時間前から」
さっきまでの重苦しい雰囲気が綺麗さっぱり消えて、顔を見合わせているのはいつの間にか夫婦になった翔と満だけ。
通りすがりの小学生達が、派手な音にベンチに注目する。
「なんだ、あれ」
「俺知ってる、ちわげんかっていうんだぜ」
「チワワ?」
「違う。ち、わ。あ、お姉ちゃんがビンタかましてる、つえええ」
「兄ちゃん防戦一方だな」
満の攻撃をかわしながら、翔は必死に言いつのる。
「だから悪かったって謝っただろ」
「信じられない。最悪」
「だ、か、ら。どうしてもの時はどっちかの母方の夫婦養子になれば解決するだろ?」
「私の心構えを、感傷を、ときめきを返せええぇっ」
真っ赤な顔で怒りまくる満からそれ以上の攻撃を受けないように、手首を押さえつつも翔は口元が緩むのを抑えられなかった。
こんな満なら、一緒に不安をはね飛ばしてくれそうだ。
絶対に一緒に立ち向かってくれるだろう。
「満、愛してる」
「ばっ、こんな時に何言って」
「愛してる、奥さん」
「お、奥さんって」
「だから、帰ろう?」
次に来るときは絶対に子供連れだと心に秘めて、翔は満の手を握った。
あーとかうーとか、唸りながら満は翔に手を引かれる。小学生の前を通り過ぎた時に、何故だかキラキラとした眼差しを向けられた。
「仲直りだ、仲良しだ」
「こういう時は見ないふりするのが礼儀なんだぞ」
「お前、大人だなっ」
大の大人が醜態をさらした一部始終を、純真な小学生達が見守っていたと知り、満は恥ずかしくて顔を上げられない。
翔はこんな子供なら是非とも欲しいとばかりに、にやりと小学生に笑いかけた。
有給を取って、満の名義変更に付き合おう。そしてお互いの不安を埋めていけばいい。
こんなこともあったなと、この騒動が笑い話になる日のために。