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公園のベンチで

枯れたおじさんと新入社員

 駅から会社の途中で、小さな公園がある。都会にぽっかりと生じた緑の空間というのは、どんなに小さいものでも人をほっとさせる。

 上司から怒られたあとではなおさらだ。とぼとぼと足元を見ながら会社を後にして、駅へと向かう。脳裏には心底呆れたような上司の顔。


 ――もう少し、なんとかならないかなあ。こっちも手取り足取りなんて余裕はないんだから。


 何社もエントリーし続けてやっと潜り込めた会社なのに、入社してから凹むことばっかりだ。大学時代だって自分なりには頑張っていたつもりなのに、パソコンのスキルも不十分でおたおたしっぱなしで時間だけが過ぎていく。

 質問したいのに、何が分からないかが分からない。

 研修を受けて頭では理解していたつもりだったのが、全然通用しない。

 昔と比べるとって先輩が枕詞をつけたけど、新人にすら即戦力が求められる。教える側も余裕がない。


 ――だから雰囲気が悪くなるのよねえ。それにこっちは注意のつもりでも叱責とか苛めとかにとられて、すぐに出社しなくなったり辞めちゃったりするから余計に教える意欲が失せていくの。


 注意されたことはすぐに書きとめろ、二度はするなと先輩はちょっとだけすごんで、にっこりと笑った。

 そして大量のコピーを任される。設定のところで両面にしなかったせいで、いつもの倍の厚さの資料になってしまった。経費節減、ついで見やすさの観点からアウト。そして係長から叱責されてしまったのだ。


 コピーすらまともにできない、なんてダメダメなんだろう。

 足取り重く歩いていくうちに、公園の側に出る。初夏の公園のベンチに、サラリーマンが座っていた。夏が近いせいで日差しが長くなった公園で、ペットボトルのお茶を手に緑を眺めている。

 その横顔に見覚えがあった。


「菅原課長?」


 他の課の課長さんだ。随分と年長で、たしかもう少しで定年だったはず。

 いわゆる窓際といわれる部署で、黙々と仕事をしていたなあと会社での課長を思い浮かべる。


「おや、君は、ええと……」

「はい、高橋です」

「そうだった。いや、見覚えがあるなと思っていたんです」


 良かったら座らないかと誘われて、なぜか夕暮れが長く影を引く公園のベンチで二人腰を下ろしていた。


「課長はこんなところで何をしているんですか?」

「ん? 帰る前の一服と夕飯のメニューを考えていたんですよ。ここで考えると不思議にメニューが決まるんです」

 

 意外すぎる返事に、はあ、ととぼけた相槌をうつしかない。

 夕飯のメニュー? 男の人なのに?


 白髪が黒髪よりも多くなっている菅原課長は、こっちに柔和な顔を向けた。笑うと目尻のしわが強調される。

 体になじんだようなスーツ、ネクタイは小花模様なのがなんだか可愛い。


「うちは男所帯でしてね。僕が食事担当なんです」

「あ、そうなんですか」


 それ以上は詳しい家庭の話などはなく、課長はまたぐびりとお茶を飲んだ。私もぼんやりと地面に映った影を眺める。接点なんてまるでないから話題なんかもない。

 さっきまでの凹んだ気分を引きずっていたので、無理に口をひらくのも面倒で私は黙ったままだった。菅原課長も黙ったまま、静かに視線をめぐらせている。沈黙が不思議に気詰まりではなかった。


「溜息をついちゃ、駄目ですよ」


 穏やかな声で注意される。溜息をついていたことにも気付かなかった。

 今日一日を振り返って、あの時ああしていれば、どうして上手くやれなかったんだろうとどんどん落ち込んでいたみたいだ。

 それが溜息になってこぼれ出たんだろう。


「すみません」

「僕に謝ることじゃないです。溜息をつくと生気が抜けそうな気がしましてね。僕はぐっと飲み込むことにしているんです」

「飲み込むのですか」

「そう。そして美味しいものをたべてやるって自分を奮い立たせると、不思議に物事がまわりだします」


 やけに『美味しいものを食べてやる』に力がはいっていて、思わずぷっと笑ってしまっていた。菅原課長は、目を細めて頷く。


「そうそう、そうやって笑っているほうが素敵ですよ」

「課長の夕飯のメニューは決まったんですか?」


 課長はお、とでも言いたげな顔をして腕組みをする。


「うーん。手羽があったから酢を利かせて甘辛煮にしようかと思っているんですが、付けあわせがねえ……」

「わかめスープ、温野菜の蒸しサラダ、青菜の中華風のおひたしとか」

「美味しそうですねえ。男ばっかりで食べる量があれだから、蒸してかさを減らしましょうか。白菜と豚バラの重ね蒸しでごま油をいれたドレッシングにすれば」


 想像すると唾がわいてきそうだ。菅原課長がにこにこしながら、実に楽しそうに料理と手順を語っている。

 さっきまでの自分だけ別に重力がかかっているんじゃないかと思えたほどの憂鬱が、薄らいでいるのにちょっと驚く。

 ただ料理の話をしていただけなのに。


「ありがとう。おかげで帰ってから早く料理が出来上がりそうです。僕はそろそろ帰ります」

「あ、私も。駅まで」

「ではご一緒しましょうか」


 少しも嫌味ではなく菅原課長が自然に横を歩く。緊張も嫌悪もなかった。自分より背の高い、ただし油気が抜けてしまったような課長さんは、改札を通ったところで別路線だと軽く手を上げて別れた。

 人ごみでも埋もれない長身は飄々と去っていく。

 変な課長さん。そう思いながらホームに並んだ。



 菅原課長はその公園でよく見かけた。たいがいお茶を手にベンチに座っている。

 考える人になっていた課長の横に座れば、夢見るようなほんわりとした眼差しが徐々に現実に戻ってくる。


「決まりました?」

「おや、お疲れ様でした。メインは二日目のカレーなんです。サラダは昨日やったから別のにしたいんですが」

「二日目のカレーって美味しいですよねえ。課長のところは隠し味に何を入れるんですか?」

「前はウスターソースだったけど、今はオイスターソースを入れてます」

「へええ、オイスターソース。今度やってみようっと」

「コクが出ていいですよ」


 しばし二日目のカレーの素晴らしさについて語り合い、カツかから揚げをトッピングすることでボリュームをだしながら、前日とは違うサラダにするというメニューができあがる。


「高橋さんがアイディアを出してくれるので、はかどります。息子とも年が近いせいか、高橋さんの提案してくれたものには箸が進むようでしてね」


 お礼です、と鞄からペットボトルのお茶を手渡されて面食らう。


「いえ、私こそ愚痴を聞いてもらったり仕事のアドバイスをしていただいて、随分楽になりました。課長の社内関係相関図なんか、あれを知らなかったら地雷踏みまくりでした」

「役に立ちましたか? 社内に長くいるから自然耳に入ってくるんですよ」


 にこにこと課長は微笑む。こうしてベンチで話をするようになって数ヶ月。課長の口から汚い言葉は出てこない。

 落ち込んでいる時は黙って自然に側にいる。話をするときは楽しそうに、小娘の言うことも真剣に聞き入ってくれる。

 夕飯のメニューや息子さんの反応、たわいない日常など枯れたおじさんの課長が示してくれるものは、穏やかに染み入るような優しい味わいで私を包むような気がする。


 社内でも時々行き会えば、にこりと笑ってくれる。こっちも会釈を返す。

 気をつかわない、だけどよそよそしくもない。私は課長との距離感が気に入っていた。




「課長と仲いいみたいじゃない」


 ロッカールームでからかわれても、年の離れた友人か尊敬する大先輩の感覚だった。

 前は照れることもムキになることもなかったのに、最近はちょっとだけ引っかかる。それを表に出さないように、なるべく軽く聞こえるように口を開く。


「晩御飯友達なの」

「なにそれ」

「夕飯のメニューをああでもない、こうでもないって相談しあって駅でバイバイ」

「お達者クラブか」


 呆れたような同僚の口調も、急いでいる身には通り過ぎる風みたいなもの。

 寒いのにベンチに座っている課長の方が心配で、そそくさと会社を後にする。

 コートを着た課長がいくぶんか寒そうに座っていた。


「課長」

「寒いですねえ。二月だから仕方ないですけどね」


 会社の自販機で購入した熱いお茶を渡すと、手袋をした手で課長が受け取る。

 偶然触れる指に小さく鼓動が跳ねるのは、ちょっと前からのささいな変化だ。課長は全然気にするそぶりはないから、私も何でもない顔をする。


「もうすぐ……僕は定年なんです」


 いつもと変わらぬ淡々とした物言いに、やり過ごそうとしていた意識がものすごい勢いで引き戻された。

 課長を見れば、両手でペットボトルを握り締めてかすかに微笑んでいる。


「三月の終わりなんです。高橋さんとあえてよかった。こんなおじさんに付き合ってくれてありがとう。おかげで夕飯作りが本当に楽しかったですよ」

「かちょう……」

「お礼と言ってはなんなんですが」


 菅原課長はごそごそと鞄をあさる。私は喉に鉛を流し込まれた気分で、体をひねって目を伏せて鞄の中をさぐる課長を見つめていた。

 夕方の公園のベンチ。時間にすれば一日十五分か三十分のおしゃべり。

 それがいつの間にか、なくなってしまうことでこんなにショックを受けるほど、大事なものになっていたのか。


「息子に高橋さんのことを話したら、ちゃんとお礼しろ、若い人に迷惑をかけるんじゃないって怒られましてね」


 息子と一緒に選んだんです、と出された包みを受け取れば岩塩や海塩の詰め合わせだった。課長に目をうつせば、照れたように頭をかいた。


「何にしようか随分迷ったんですが。塩で料理は変わるんですよ。だから僕が美味しいと思った塩を集めました」


 息子には呆れられたんですがね、と続ける課長にふいに胸がつまる。

 そして自覚してしまった。

 別れがきてから気付くなんて遅い。でも気付いてしまった。


「ありがとうございます。――私も料理をがんばりますね」

「いや、高橋さんのお弁当の話だけで、あなたが料理が好きなことは分かります」


 小春日和のように課長が微笑む。厳しい冬にあって得がたい、暖かな日差し。夏の派手さはないけれど貴重な温もり。

 ああ、私は課長が好きなんだ。



 自覚はしても言い出せるはずもなく、時間だけが過ぎていく。

 あっという間に二月は終わり、三月も駆け足で。

 とうとうその日が来てしまった。


 

 おおげさな上司のあいさつに比べて、課長はあっさりとお世話になりました、皆さんお元気でと頭を下げて、花束を抱えて見送られる。

 私はこっそりもぐりこんで、後ろからその光景を見つめていた。

 大急ぎで会社を出て、公園に向かう。


 ベンチには傍らに花束を置いた課長がいた。


「やあ。来たんですか」

「有給をとったんです」


 菅原課長はいつもよりぱりっとしたスーツを着ていた。ネクタイは私がバレンタインに贈ったものをしている。ぽんぽんと自分の横をはたく。


「座りませんか?」


 泣きそうになるのをこらえて、隣に座る。

 課長は鞄から出したお茶を渡してくれた。


「課長……」

「もう課長じゃないですよ、高橋さん」

「す、がわらさん」

「何でしょう、なんだか照れますね」


 優しい口調はいつものもの。でも明日からはもう耳にすることができない。

 胸が塞がれる思いがした。


「私、菅原さんのことが好きです」

「僕も好きですよ、でも駄目です」


 はっと課長の顔を見れば、困ったようなあいまいな笑みを浮かべている。

 好き、駄目。課長の言葉がぐるぐると私を惑わす。


「多分あなたの好きは憧れのようなものでしょう」

「違います」

「そちらの好きなら光栄です、でもやっぱり駄目です」


 鼻の奥がつんとする。

 告白してしまった。課長も好きだと言ってくれたのに、なにが、なんで駄目なの。

 課長は組み合わせていた両手をほどいて、私の頬をなでた。

 触れる指先に、体が熱を上げる。


「だって僕はあなたが可愛いおばあちゃんになるところを見られないんですよ。悔しいじゃないですか」

「私が、菅原さんが可愛いおじいちゃんになるところを見届けます」

「あんまり、おじさんを嬉しがらせないで下さい。調子にのってしまいます」

「いくらでものって下さい」


 課長はいいこいいこするように頭をなでる。手つきは優しくて、なのに拒まれているのが分かる。そのまま課長はふう、と溜息をついた。


「このままの方がお互いのためなんです。僕にはあなたの時間を、未来を奪う権利はないんです。でも……」


 ちょっとだけ、調子にのらせて下さい。そう囁かれて、私は課長に抱きしめられる。

 思わず背中に手を回して、初めて意外に背中が広いことを知る。

 肩口に顔をうめて、課長の温もりを覚えこもうと、忘れたくないと思った。



 肩に手がおかれてゆっくりと体が離れる。課長はいたずらっ子のような顔をしていた。


「役得です。……もう行きますね。お元気で」


 差し出された手を、少し迷ってから握り返す。

 課長は――菅原さんは、するりと手を抜いて花束を抱えた。


「それじゃ」


 花束を抱えた腕を軽くあげて、菅原さんは駅に消えた。



 翌日出社しても世界は変わるわけはなくて、ただ菅原さんがいないだけ。

 そう思っていた私に書類を渡してくれながら、先輩が感慨深げに呟いた。


「高橋さんも使えるようになったじゃない?」

「そうですか。もっとしごいてくださいね」

「言うようにもなったし」


 くすくす笑いながら仕事に取り掛かる。そうか、ちょっとは成長したのか。菅原さんに報告したくて、もういないんだと思うと痛みが胸に迫る。


 そんな風に過ごして、六月。私は菅原さんの訃報を聞いた。


 もう退職した人だけれど会社として香典を出して、代表が参列した。

 私は通夜にも葬式にも顔を出すことができなかった。信じられなくて、信じたくなくて。死因は心臓の発作だったそうだ。そう聞いてもどこか他人事だった。

 現実味なく日々を重ねていく。機械的に仕事をして、食事をとって眠る。

 ある日、もう座ることもなくなった公園のベンチが目に入った。ちょうど菅原さんと出合った季節だと思うと、涙が止まらなくなった。

 ベンチに腰掛けて、私は泣いた。



 週末、年賀状を頼りに私は菅原さんの住まいを訪ねた。マンションの入り口でインターホンを鳴らす。引っ越していたら、不在だったら。不安と期待がせめぎあう中、低い、男の人の声が呼び出しに応じた。

 会社名と名前を名乗ると、オートロックの自動ドアが開いて中に通してくれる。

 エレベーターで五階に上がり、年賀状の番号の部屋にたどりついた。

 中から菅原さんを若くしたような男の人が現れた。和室においてある仏壇に、菅原さんの写真が奥さんのと並べて飾ってあった。

 線香をあげて手を合わせる。目を閉じて静かに菅原さんを悼んだ。


 リビングで出してもらったお茶を飲む。息子さんは、退職してからの菅原さんのことを話してくれた。発作が突然だったこと、救命も駄目だったことも。


「これ、親父のパソコンだけど」


 案内されたパソコンの画面に目が釘付けになった。そこには、菅原さんの作ったであろう料理が撮影されて掲載されている。

 公開はせずにあくまでアルバムのような位置づけらしい。

 日時と内容、コメントが書いてある。几帳面な菅原さんらしい。


「あなたと知り合ってから、えらく料理に力がはいってこんなものまで作っていたんだ」


 息子さんがマウスを操作しながら、色々と見せてくれる。

 新しい調味料、いける。ビニール袋に材料を入れて揉みこんで正解。一行、二行の簡単なコメントも公園でのおしゃべりをダブらせる。

 どんどんと画面がぼやけてしまう。とうとう手で顔を覆ってうずくまる。

 息子さんは私が泣き止むまで、ぎこちなく頭をなでてくれていた。

 手の感触が菅原さんにそっくりで、また泣けた。



 おいとまする時、息子さんがよそを向きながらぶっきらぼうに話しかけてきた。


「また、来てくれないか。親父があんまりあなたの自慢をするんで、俺もなんだか……」

「自慢、ですか」

「俺より年下の可愛い子と知り合っただの、メニューで盛り上がっただの、ネクタイもらっただの。夕食を食べながら毎日毎日、嬉しそうに報告してきたんだ。退職した日はめずらしく静かだったけど」


 せっかくとまった涙がまた溢れ出す。

 菅原さん、私は見届けたかった。あなたが可愛いおじいちゃんになるのを。

 向かい合って美味しいねってご飯を食べてお茶を飲みたかった。


「また、パソコン見にきてもいいですか?」


 息子さんは歓迎すると言ってくれた。


 また私は公園のベンチに座るだろう。ペットボトルのお茶を手に、夕食のメニューを考えながら。

 菅原さんの笑顔を思いながら。

 


 





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