三月の結末
『良い筋肉は良い骨格に宿る』、『二月の攻防』の続編。
ボクシング帰りだという松本が転がり込んできた。
仕事の後でジムに行くとは、気力体力が余っている松本が羨ましい。
私はへろへろになってとりあえずお風呂に入って、休日に作って冷凍している料理をどうにか食べているというのに。
「早川、マッサージしてくれないか?」
「理学療法士に言おうか」
「頼む」
ごろりと床にうつぶせになった松本から短く頼まれると、仕方ない。
「どこやればいい?」
「肩まわりと腰を頼む。上に乗っかって」
やれやれと松本の背部をまたいで乗っかる。腰の辺りは脊柱の両脇を母指球辺りで押していると、こぶしでやってくれと言われぐりぐりと押しながら体重をかける。
筋肉が緊張しているのが分かる。時間をかけて押すと、松本が大きな溜息を吐いた。
「んー。あー、そこ。ちょっとづつずらしながら下まで頼む」
「分かった」
「今は重だるいだけだけど、ほうっておいたら明日は筋肉痛になるのが確実だからな」
薄手の長袖Tシャツ越しに感じる肩甲骨と僧帽筋、広背筋、多裂筋をはじめとした脊柱起立筋が、きれいな背中を作り上げている。腰周りに余計なだぶつきのない、羨ましい体は素直にすごいと思える。
本来の骨格と鍛え続けて保っている筋肉は、こんなにも美しい。感触もいいのだから、このマッサージは私にも役得かもしれないな、と不埒な考えで腰を押し続けた。
松本は枕に顔を横向けて、目を閉じている。首から鎖骨の胸鎖乳突筋ラインもなかなか眼福、眼福。
「次は肩を頼む」
広背筋と僧帽筋をぐにぐにと揉んで、肩関節周囲に移る。
松本曰く、今日はいつもよりもミット打ちの回数が多かったそうだ。
「グローブもオンスを上げろって言うから、新しく注文したのを使ったら重かった。おかげで肩周りがパンパンだ」
「でも肩幅と胸囲があるって服を着た時に映えるよね。シャツとかスーツとか、普段はあんまり着ないけど異様にかっこいいからなあ」
「映えるか?」
「うん、肩から背中のラインがね、まっすぐなのにがっしりしていると」
学会ではスーツが基本だから、普段は白衣とか術衣を着ていてもそんな時は皆スーツになる。姿勢も大事だけど、肩や腰まわりも大事だと勝手に思っているから、松本のスーツ姿は実は大好きだ。
上着を脱いでシャツになった時とか、へえ、と勝手に見惚れたりもしている。
この間の画像で、中身もすごいと再認識もさせられた。
「パンチで結構腕だけじゃなく痛くなるな」
「ああ、大円筋とか深部の前鋸筋もかな? あれってボクサー筋って呼ばれていたような」
遠慮なく、ぐいぐいと指で押す。松本がボクシングしている時ってどんなだろう。
バンテージを巻いて、口でくいっとやったりするのかな。縄跳びや、サンドバックとかやるんだろうか。疑問を口にすれば、松本が教えてくれる。
「バンテージは最後がマジックテープになっているのを使っている。早川が言ったものの他に、反復横とびとかパンチングボールなんかもあるな」
「へえ?」
「三分刻みの最中はものすごくきついのに、終わると頭がすっきりするんだ」
ああ、松本にとってのストレス解消なのかもしれないと思う。
上手に切り替えないと、いつまでも仕事が頭を離れない。家にいたって呼び出し一つで病院に直行する。圏外になるのが怖くて、以前ほどではないにしろ遠出も地下へもなかなか行けない。
そのくせ、見えない鎖で繋がれるような息苦しさだけが付きまとう。
仕事の始まりの時間は決まっているけれど、終わりはその気になればエンドレスだし、臨床の他に研究や指導なんかも入ってくると疲労は蓄積されていく。
松本は寡黙な分、余計なことまで色々と考え込みそうだから、頭を空っぽにできる時間と空間があって良かったのかもしれない。
松本の背中にまたがって自己流のマッサージをやっていると、松本がうとうとしだして、ついにそのまま眠ってしまった。
仕上げに手の平をゆっくりと押し当てて、そっと松本の上からどいて毛布をかける。
お茶を淹れて、起こさないようにそっと眠る松本を観察する。
画像をみる科を選んだ私は、ついつい色んなものも見つめてしまう。
ざっと全体を見て、それから細部を。気になるところは念入りに。
そうして、正常でない部分を拾い出して検討する。典型的な画像を呈する疾患、病期、鑑別診断……。カルテも参考に、レポートを作成する。
身に付いてしまった仕事の延長のような目線で、松本を眺める。
学生時代からだから、知り合ってからも随分経つ。ただ個人的な接点はそうは多くなかったように思う。話をした記憶もあまりない。
同じ科を志望している、しかも研修医の志望が同じ病院だったから、卒業直前から親近感を覚えて仲良くなった感じだ。
忙しくて、ご飯食べる暇もなくて、指導医から怒られて。そんな時期を一緒に乗り越えた戦友みたいな存在なのに、今になって部屋を行き来する仲になってしまった。
不思議だ。
関係が一気に縮まったきっかけが、松本の画像なんだから。
モニターで見つけて惚れこんだ骨格と筋肉と内臓の持ち主に、皮膚を服をのっけたら松本になりました、か。
ゆるやかに上下する背中と、寝息の穏やかさに松本の健やかさを感じる。
画像は残念ながら性格は示してくれないので、意外に強引な松本に若干引きずられているのには困惑もある。
狭い学内、狭い病院内ネットワークにかかれば、松本の交際遍歴なんかは好むと好まざるとに関わらず耳に入る。もちろん私のも松本は知っているだろう。
そして私達の関係も、あっという間に格好のネタになったはずだ。
なにせチョコレートを『今年は義理でももらえない』と、公言してくれたから。
やけに家に来たがるな、と思っていたら私が友チョコ以外を貰っていないかチェックするためだったとか。
まったく、強引で嫉妬深かったよ。
それでもあげたチョコを嬉しそうに、大事そうに食べる姿に悪い気はしない。
私の前で無防備でいる姿もなかなかに良い。
観察を続けていたら松本が目を開けた。
「首、痛え」
「うつぶせ横向きだったからね。少しは楽になったかな」
腕をぐるぐる動かしながら松本が起き上がる。首もこきこきと左右に動かして、うん、と一つ頷いた。
「風呂入っていいか」
「あ、どうぞ」
追い炊きにして待つ間に松本にもお茶を淹れる。カフェインが入っていないから、飲むとほっとする。松本が持つと湯のみが小さく見える。手が大きいから、余計にそう見えるんだろう。
軽やかな音が追い炊きの終了を告げて、松本がボクシング用具の入っているバッグを手に浴室に消える。ここで入浴するなら、今日はお泊りか。
律儀に着替えや洗面用具などはそのつど持参して、松本は部屋を訪れる。
いきなり、なあなあのべたべたにされるより、ほんの少しでも距離をとってきちんと接してくれるからこっちも気が楽だ。
一人で過ごした期間は結構長いから、割と自分の世界が出来上がってしまっている。
たとえ松本といえど、そのラインをずかずかと踏み越えてきて欲しくはなかった。
そこらへんは、松本は上手いと思う。
私が松本を観察するように、松本も私を見極める。大丈夫な距離を測りつつ、不快でない程度にラインの内側にも入り込む。
そして今では、松本が側にいても嫌ではない私がいる。
最低な口説き文句をよこした割に、松本はいい男だと思う。
風呂上りの松本もいい。でもさっきから口数が少ないような。
冷たい水をさしだせば、ごくごくと飲み干して、ふうっと大きな息を吐いた。
「あの、な。渡すものがある」
「あ、そうなの。何?」
「チョコレートの礼」
傍らのバッグから取り出すと、無造作に私に突き出す。
小さめの小箱で、包装されてリボンがかかっている。
「ありがとう、開けてもいい?」
「……ああ」
いやに小さいな、ほんの少量しか入っていないキャンディか、マシュマロなのか。私はこれよりは大きな箱でチョコレートをあげたんだけどな、と思いながら包装を解く。
凝った布張りの箱が出てきた。さて、中身は何かな。中身は――。
私は箱の中身と松本を交互に見る。
「松本」
「何だ」
「これ、食べられそうにないんだけど」
恐ろしいくらいに真剣な顔をしていた松本が、がくんと前のめりになった。
いや、どう見ても、これは。
「何で?」
「お前、は」
松本がいきなり腕を伸ばしてきた。私を箱ごと引っつかむ。
体勢を崩して松本に抱きとめられたまま、二人で床に転がった。
「あああ、お前はそんな奴だよな。もっとちゃんとしたところで渡すべきだったよ」
「松本?」
唸るように言われて私は箱の中身をまじまじと見る。部屋の明かりに煌いているのは、どう見てもダイヤ、の指輪。
ダイヤ部分が飴になっているお菓子ではない。
「これを、ここにつけて欲しい。これからずっと」
左手薬指に指を這わされて、松本と目が合う。
反射的に言ってしまっていた。
「無理」
その瞬間、松本の瞳にさっと陰がよぎった。左手をすくい上げていた松本の手も、強張った。
「ごめん、言葉足らずだった。不潔だからずっとは無理」
「は? 不潔って」
「指輪と皮膚の間は雑菌の温床だね。処置のたびに外すとなくしそうだし、扱いが煩雑になる。だから、ずっとは無理」
私の言いたいことがじわじわと染み込んでいったのか、松本の耳がうっすら赤くなった。すうと息を吸い込んで、口を開く。
「指輪は嫌じゃないんだな」
「うん」
「不都合がない時は、はめてくれるか?」
「――うん。松本、ありがとう。すごく嬉しい」
その次には、視界には松本の着ている服がぼやけるばかりで。胸に顔を押し付けられて、これでもかと言わんばかりにぎゅうぎゅうと抱きしめられる。その腕力は反則。呼吸が苦しくなりそうだ。
ものすごく動悸が早まっていて、ただでさえ酸欠になりそうなのに。
「早川、家に引っ越して来い」
「はあ? ちょっと待って。何でそんな話に」
「待たない。一緒に暮らそう」
床を左右に転がりながら、松本は私を抱きしめたままで興奮している。
気持ちは分かったからとにかく落ち着けと、ようやく座りなおした頃には私の髪の毛はぼさぼさだった。
松本はいそいそと指輪を薬指にはめている。ゆるくもきつくもなく、それはぴたりと薬指におさまった。
「よく似合うな」
「サイズ、どうして知っているの?」
「寝ている間に計測した」
用意周到だよ、松本。いやに広いマンションに引越ししたと思っていたら、それも計画のうちですか、そうですか。
松本はてきぱきと今後の予定を立てている。
ついていけずにしばし呆然として、我に返る。
「式は秋の学会の後な。教授にあいさつに行こう。両方の親にもあいさつして――」
「松本」
「入籍は早いほうがいいけど、式の時期を考えると」
「松本」
さっきまでの、いや、普段の寡黙さはどこにいった。松本がしゃべるしゃべる。
ようやく、口を挟むことができた。
頬を両手で挟んで、ぐい、と私の目の前に顔を持ってくる。
用意周到で強引な松本に、脅して、いや、ねだってみる。
「ちゃんと、申し込んで。言葉に、して」
「――悪かった」
松本が私の手を両手で握る。顔の赤い松本などという珍しいものも見せてくれて、続いた言葉に私はだらしなく顔を緩ませた。
指輪は不都合でない時にはめてだったくせに、しばらくは医局と外来と読影室と病棟でつけておけとは、ほぼ仕事の間中ということじゃないか。
文句を言うと松本は人の悪い笑みを浮かべた。
「みんな目ざといからな。すぐに気付くだろ」
そりゃみんな、診断のプロだから。好奇心旺盛だから。
本人の前で画像を読影した時から、どうやら囲い込みが始まっていたようだ。
松本からは下の名前を呼ぶようにと、新たな強要が始まった。
何故だと尋ねると、『お前も松本になるんだぞ』と呆れ顔で言われて合点がいく。
ああそうか、と少し甘い気恥ずかしさとともに、人のいない時限定でその提案を受け入れる。