深緋(こきあけ)
瘍頭の治療法は今現在、確立されていない。
罹れば初期より身体の表面に痛みを伴わない「しこり」を発現させ、膿を生じ或いは皮膚の爛れを認める所から、皐乃街では抗腫瘍効果のある「柴子」という生薬を煎じて飲むのが対処に用いられて来た。
──でも、それで完治するわけではない。
皐乃街より帰ったあくる朝、香月はいつもより早く登殿するなり局長室にて書物を積み上げた。片端から生薬を調べ上げてみるが、柴子を超えるものは見つからない。
それでなくとも、一度罹患すれば症状が治まっても耐性が著しく落ちてしまうのがこの病気の恐ろしい所である。原因が細菌である、というのはわかっているのだが、その細菌の撃退法が見つかっていない為、罹患者は生涯高価な柴子を買い求める羽目に陥ってしまう。買えなければ再発──つまり遊郭で働く限り、常に生命の危険にさらされてしまう事になるのだ。
河西は自分の援助を良しとしない。ならば病は長引かぬ様、完治させて外界に出る希望を取り戻してもらわなければ。
書物の頁をめくり、柴子と組み合わせて相乗効果を得られそうなものはないかと探していると、扉を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」
失礼致します、と仙丸が部屋に入ってくる。
「おはようございます」
香月は書物に集中したいばかりに、顔を上げもしなかった。
「まだ打ち合わせには早いのではありませんか」と挨拶すらもしない。先日あった出来事も局内での人間関係の軋轢なども、今となってはどうでも良い気さえしてくる。
「書類が届いておりましたので。……何か、調べ物ですか」
仙丸も無視を意に介した風もなく、いつも通りの口調だった。
書類をちらりと見ただけで、香月は作業を続ける。
「ありがとうございます。打ち合わせの時刻になったら出て行きますので、それまでは急を除いてはご遠慮頂けますか」
「これは随分とお急ぎのご様子ですね。何か依頼でもあったのですか?」
珍しく退室しない彼に苛立って、香月は書物から顔をようやく上げてそちらを向いた。
仙丸は思った以上に側に来ていて、開かれた頁を覗き込んでいる。詮索されたくないので、慌てて本を閉じた。
「依頼はありません。特に、玲彰様から何かあれば貴方にお知らせしますからご安心を」
「なるほど。新薬の開発に関する調べ物でもない、というわけですね。柴子に疾梨……性病の研究でもなさっているのですか。こんな時に」
侮蔑の気配を感じて、香月はようやく彼が引き下がらない理由に気づいた。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
「病に軽重も、時期も関係ないと思われますが」
「昔のお仲間でも病気になられたのですか? それとも──ご本人が」
「出て行って下さい!」
音を立てて立ち上がったはずみで、椅子が床に倒れた。
「私の事が気に入らないのなら、放っておけば良いではありませんか! 今は貴方に関わっている暇はないんです。貴方もそうでしょう!」
怒りと悔しさに涙目になりながら、何とか彼女は仙丸の無表情を睨み付けた。切れ長の黒い双眸と香月の茶色のそれが拮抗する。
先に視線を逸らしたのは仙丸だった。
「……私はただ、皐乃街の環境を変えなければ、治療など一時凌ぎだと申し上げたいだけです」
声音は冷ややかな事この上ない。
「おっしゃる通り、治療には優先順位などない。ですがあちらにも医者が居り、研医殿の我々には我々の為すべき優先順位があります。皐乃街の法を無視して治療に当たり、任務を蔑ろにする様な事がもしあれば、本末転倒です。余計な真似はしないで頂きたい」
「……どこまでも私の邪魔をしたい様ですね」
葉山に似ている、と思ったのは勘違いだった──彼女の方が、余程道理の通った人だった気がする。少なくとも正論を振りかざして、遠まわしに相手を蔑むなんて事はしなかった筈だ。
優先順位が聞いて呆れる。それこそ本末転倒だ。
今の自分に、河西を救う以上の重大事なんてないと言うのに。
「心配をされなくとも、どうせ新薬の開発は貴方が実質の指揮を執るおつもりなのでしょう。私は見ているだけでいますから、代わりにこちらにも口出しをしないで頂けませんか」
さぞかし快哉の笑みを浮かべるだろうと思いきや、何故か彼は驚いた様な顔をしていた。
「そうまで仰るのなら、……致し方ありませんね」
一つ咳払いまでして、平静を保とうとしている。
踵を返して扉に手を掛け、こちらを振り返った。
「今のお言葉、くれぐれもお忘れになりません様に」
香月は頷く。真意はわからなくとも、取引はどうやら成立したらしい。確かに殿主直々の命令、受ければこの上ない名誉だろう。──だが、そんなものには端から興味がない。
「その代わり、器材は自由に使わせて頂きます」
「──いいでしょう。会議にだけ出席してくれれば、後はご随意に」
捨て台詞めいて答えると、仙丸はようやく出て行った。いくらか不快だったものか、いつもより派手な音を立てて扉が閉まる。
尤も既に意識を本に戻していた香月には、それすらも露程も気にならなかった。
※※※※
その後新薬の会議が五階で開かれた時、彼女は約束通り発言を控えた。
玲彰の説明を終えた後、場を取り仕切るのは仙丸に任せ、自身は議論を聞き、頷くだけ。
『従来の様に“なってしまった病の治療”ではなく、“予防を目的とした薬”を作る』
主題は概ねその様なものだった。
他にも治療困難な難病の薬剤の開発についても、施術局と連携して今一度見直しを図る──草案を募り、開発日程を詳しく決めて会議は終了した。
「どこか調子でも悪いのですか?」
会議終了後、気づけば横に並んでいた姉小路の問いかけに笑って誤魔化して先を急ぐ。
だが足の長さのせいか、引き離す事は出来なかった。
故にそ知らぬ風で答えを口にする。
「何ともありませんよ。私、どこか変だったでしょうか?」
「会議で一言も発言しなかったでしょう。玲彰様もお気に留められていたご様子でしたよ。貴女をじっと見ていましたからね」
確かに彼女の視線には、香月も気づいていた。その言わんとする処も。
「それでいいのか」と思われたに違いない。
──玲彰様には申し訳ないけれど、今は私に出来る事をしなくては。
「ただ必要ないと思っただけです。副局長は優秀な方ですし経験もおありになります。任せているものですから」
半分は真実だった。性格の悪さを除けば、彼が有能なのは疑い様がない。
「ああ、まあ」
姉小路は辺りにちら、と注意を配り人気が少ないのを確認すると「仕事が出来るのは結構ですがねえ」と苦笑した。
「どういう意味ですか」
「いや、こんな事を言うのは陰口の様ですが……彼を使うのは大変だろうなと。心中お察し申し上げます」
「姉小路局長?」
丁度昇降機の許に辿り着いたので、他に人が待っていた事もあり会話はそれきり立ち消えとなった。
怪訝に思いながらも局に戻り、途中になっていた薬剤の調合の為に薬庫に入る。
薬処方局は入り口から真っ直ぐ廊下が伸び、突き当たりは局長室。向かって右手には手前に書庫があり、薬庫はその奥に位置していた。
薬庫の扉に取り出した鍵を差込み開錠する。
局員ならば調合室内の鍵庫からいちいち鍵を取り出すが、局長と副局長は合鍵の所持を許されていた。自分以外の者が平時詰めている調合室は反対側の左、拠って真っ直ぐ薬庫に行けば誰かに会う事はまずないと言っていい。
薬庫内は密封保管にも関わらず生薬の臭気が混じりあい、埃の匂いにも似た空気が漂っていた。思わず換気が施されているのを確認する。懐から布を取り出して顔半分を覆り、後頭部で留めた。
壁際を埋める戸棚には、細長い玻璃の器が等間隔に台座に立ち並んでいる。他にも全く中が見えない戸棚もあり、そこには光を当てると変質する薬剤が同じ様に入っていた。生薬を加工した時に入れる一時保管用の調温器も中央の机に置かれている。
研医殿に入って、香月がまず覚えたのがこの薬庫の保管内容だった。どこに何があるかは器に札が付いてはいるが、生薬だけでも数百種類を数える為、探す時間を掛けたくないと暗記する事にしたのだ。
迷う事なく奥の戸棚に入って、柴子と疾梨、それに蛇庄が入った器を取り出す。
蛇庄は身体の抵抗力を上げる作用のある生薬だ。皐乃街では強壮に「山薬」が使われているが、内臓に負担を掛けるので長期に亘り使用出来ない──そう判断して、敢えて別のものを選ぶ。
──問題はここから、なのよね。
生薬は擦り下ろして溶液に混ぜ溶かし、器材を使って精製しなくてはならない。結局調合室を使う事になるのだ。
保管簿に記録して元通り施錠すると、仕方なく香月は向かいに位置するその部屋に入る為、薬庫を後にした。
「──しかし扁厨は堅質に過ぎる。精製するのは良いが、時間が掛かって仕方がありませんよ。ただでさえこっちは忙しくて──新薬だなんて」
調合室に入ると、局員の一人の話し声が聞こえた。香月が声の主を探すより、当人が入室に気づいて口を噤む方が早かったらしく、男の声という他はわからない。あまり聞き覚えのない声だった。
室内には見知らぬ顔ばかり四、五人程男女がいたが、彼女に声を掛ける者はいなかった。皆自分の机の上の器材に視線を固定させている。薬を測ったり器を振り続けたり──確認試験を行っているのだろう──見るからに忙しそうだ。
「天秤と薬研を借りたいのですが、空いているものはありますか」
とりあえず一番側にいた女性局員に話しかけてみる。白い陶器の上で薬剤に液体を垂らしていた彼女はちらりとこちらを見たものの、すぐさま顔を戻して調合を続けた。
「あ、あの……」
「済みませんが、ここに空きはありません。副局長か斎条さんに確認してもらえますか」
顔を固定したままで、その明らかに香月より二十歳は年上だろうという女性は素っ気無く答えた。
香月は部屋の隅に置かれた手付かずの天秤を見つけ「でも、あそこに使っていないものがありますよ」と尚も聞く。
「今、たまたま使われていないだけです。大体、ここはいつも人手が足りない位忙しいし器材も不足気味です。むしろ、数を増やしてもらいたいですね──相模、照射灯の準備!」
後半彼女は化粧気のまるでない丸顔を隣の席の男性に向け、鋭い声を投げ付けた。相模と呼ばれた青年が受け持ちの実験の手を止めて、足音荒く器材を取りに行く。
鬼気迫る様子に、流石に香月は黙ってその場に立ち尽くしていた。
「まだ何か? 側に黙っていられると気が散るのですが」
「あ、いえ。──ごめんなさい」
室内が明らかに険悪な雰囲気に包まれているのは、自分のせいだろうか。それとも単に忙しいからか。斎条に聞いてみるしかないと、香月は一旦引き上げようと踵を返した。
「うわっ!」
振り向きざま、誰かとぶつかり書類が床に散らばる。
「すみません、いるなんて気がつかなくて──」
謝りながら書類を拾う香月の視界に、金の癖毛が入って来た。
癖毛の持ち主は顔を上げると、「いえ僕も不注意でしたし」と苦笑して見せる。
「斎条さん、実は器材の事なんですけど……」
「あ、はい。副局長から話は伺っています」
「え?」
彼は書類をとりあえずと言わんばかりにまとめて拾い上げ、片端から側の机──持ち主不在の誰かの机だろう──に積み上げた。
「ちょっと、斎条君! まさかここにあるものを渡す気じゃないでしょうね。元々足りないのよ?」
先ほどの女性局員が勢い良く顔を上げ斎条を睨み付けた。
職位では第三位の斎条は上司に当たる筈だというのに、新人に対する様な態度である。どうやら古参の局員らしい。
「いや、それは大丈夫。保管庫にしまってあるものを使って頂くから」
「は? まだ眠っている在庫なんてあったの──いや」
女の顔色が明らかに変わった。
斎条は複雑そうな笑みを見せる。
「そう、まだあるよね。一揃い立派なのが使われずに」
「待って。でもあれはもう、処分したんじゃなかった?」
「その予定だったんだけどね。直前に刑吏府から待ったが掛かって、そのまま処分保留さ。いいんじゃないか? きちんと洗ってあるし」
「だからって──何を考えているのかしら、副局長」
さあね、と斎条は会話について行けずにいる香月を振り返った。
「あ、あの……?」
「前局長が使われていた器材が保管庫にあるんですよ。局長には、そちらを使って頂きます──今話した様に、洗浄されていますのでご安心下さい」