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禄遒の奏  作者: 伯修佳
第弐楽章
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藤納戸(ふじなんど)

「どうしたのだ、香月」


 鷹信の気遣わしげな問いに思わず顔を上げた。

 時は既に宵八刻を過ぎている。普段洋装を常としている彼だったが、何事もなければこの時間帯には寛いだ姿になるらしい。白無地の襦袢じゅばん白群びゃくぐん色の長着、それに鉄紺てつこんの帯を締めた姿は、組み木の造形美を極めたこの部屋にあって芸術的な調和を見せていた。

 当初香月も見慣れぬせいか、衝撃を受けつつも思ったものである──長身だと和装が似合わない、という風説は嘘だったのだと。

 その鷹信は、脇息にやや凭れかかっていた体勢を立て直して、こちらを心配そうに窺っている。

挿絵(By みてみん)


「手が止まっているぞ。……研医殿で何かあったのか?」


 倉嶋邸に戻って後、今朝方の会話通り彼女は鷹信の自室で琴を演奏していた。皐乃街で客となって以来、彼は香月の演奏を楽しみにしてくれる。こちらに引き取られてもそれは変わらない。

 多忙な公務の合間を縫って、時間さえあればそれをせがみ──彼女もまた、当たり前に要望に応えるのだった。


「何でも……ありません」


「ならば良いが。もし疲れているのなら、また今度の機会でも」


「い、いいえ!」


 思いがけず強く打ち消して、香月は顔を赤らめた。

 彼女にとって琴を聞かせるこの時間は、鷹信と過ごせる貴重なものだった。削られては堪らない。


「すみませんっ、大丈夫ですから──」


 鷹信は笑った。


「慣れない環境で緊張の連続だろう。疲れるのは当たり前なのだから、無理せぬ様にな。もし何か困った事があるのなら、いつでも力になろう」


 楠王が聞きでもしたら、「またそうやって甘やかす」と即座に絡んだかもしれない。だが言われた香月としては、まさかその厚意に甘えて昼間の出来事を告白するわけにもいかず、曖昧あいまいに笑って誤魔化すしかなかった。


「ありがとうございます。……でも、大丈夫ですから」


 そうか、と鷹信はまた脇息に凭れ掛かる。緩めた襟元が、昼間の貴公子然とした雰囲気とはまた違った風情を醸し出していた。そんな格好でも自堕落に見えないのは流石と言うべきか。

 同じ邸内に起居する様になって、香月は鷹信の新たな一面を発見する様になったのが嬉しかった。

 にも関わらず、再び所望の曲をかき鳴らしつつも、心は思索に耽っていく。


──それにしても、一体どこから私の素性を知ったのだろう。


 玲彰からは、出自以外の一切の経歴を伏せてあると聞いていた。鷹信が話すわけもないし、第一、彼は仙丸とは親交があまりないらしい。となれば、以前皐乃街時代に客となった貴族の子弟辺りからでも聞いたのだろうか。

 あの出来事の後、決裁が終わったと自室に呼び出すのが恐くて、自ら仙丸の元に出向いて書類を渡そうとしたのである。だが当人が席を離れていたので、机に置手紙付で伏せて戻った。以後彼からは何も言ってこなかった所を見ると、余程顔を合わせたくないのだろう。

 果たして、自分の経歴を知っているのは彼だけなのだろうか。それとも。

 姉小路の出現で少し晴れてきた霧が、また一層濃くなった気がした。


「今日、王宮で玲彰様に研医殿の事を少し伺ったが。人事がとりあえず落ち着いた様だな。予算も決まったので、薬処方局では新たな薬の開発に着手すると聞いた」


 鷹信の言葉に、普段なら弾きながらでも会話出来る筈の彼女は思わず顔を上げて指を止めた。


「そう……でしたか」


「その様子では、人事を決めたのはやはり其方ではないのか」


 香月は頷く。


「妾に任せていては時間がないと思われたのでしょう。採用する人員の経歴書類は見ましたが……確認した、という程度のものでした」


 否があれば即取り消す、と仙丸は言っていた。局内のどの様な担当者が不足しているのかさえも知りえない自分に、どうして採否が決められようか。


「もしかして、仙丸殿と巧くいっていないのか?」


 鷹信の問いに、彼女の脳裏に仙丸の言葉が蘇った。慌てて勢い良く首を横に振る。


──遊女上がりが、偉そうに。


 皐乃街に売り飛ばされ、半年の間遊女として見知らぬ男に金でほしいままにされたのは事実だ。

 半年経った頃、鷹信と出会い──彼が常連となってくれてからは他の客を取らず、鷹信自身も何を思ってか香月を一度として抱かなかった。

 例え、屋敷に引き取られた今でも変わらぬ関係であったとしても、彼女の経歴だけを知れば周囲は思うだろう。

 『倉嶋侯爵は遊女を身請けし、自邸に囲っている』と。

 そうすれば後は、『実績もないのに、色仕掛けで侯爵に口利きをさせ局長になった』と邪推するだけだ。

 仙丸が潔癖な人物であれば、そして──これこそ邪推かもしれないが──自身よりも玲彰に近いとなれば、煙たく思うのは当然なのかもしれない。


「妾はまだ新参者ですから……」


 形の良い眉をひそめて彼はしばし考えていたが、次いで「何かあったらすぐ私に言いなさい」と重ねて言った。

 香月は出来るだけさりげなさを装って笑ってみせた。


「はい。ありがとうございます」


「新薬の内容は、明日にでも玲彰様より直接お話があるだろう。何でも、今までとは考え方を変えた治療法に関わる薬だと言う。経験の浅い者こそに、活躍の場所も増えよう」


「新しい治療法ですか……」


 その方針に自分は関わる事が出来るのだろうか。


──だと、いいのだけれど。


「……ところで香月。其方、もう例の……悪い夢を見てうなされるなんて事は、なくなったのか?」


 どうやら気づかぬうちにまた視線を伏せてしまっていたらしい。再び笑みを浮かべて取り繕う。


「え、ええ。もう大丈夫です、鷹信様のおかげですっかり安眠出来る様になりました」


 遊女時代、度々香月は父が亡くなった時の悪夢にうなされ、眠れない日々が続いた時期があった。不安や恐怖に見舞われた時にそれは決まって訪れ、気づいた鷹信は自分の元に訪れる時にはいつも、添い寝をし手を握っていてくれたのだ。


「そうか。──良かったな。実は少し、心配していたものだから」


 あの温もりが恋しくないと言えば、嘘になる。

 慣れない嘘で平静を装うのに必死だった為に、彼女は鷹信の返答に妙な間がある事には全く気づかなかった。


──鷹信様は、父上ではない。


 それがどの様な意味を持つのか、ようやく彼女自身わかりかけてきていた。だからこそ、少しでも対等な立場に近づきたい。例えそれが、叶わぬ願いであったとしても。

 遊女であった事実を消せはしない。だから多くは望まないから。


 香月は弦を爪弾きながら、今は遠くにある箱庭に取り残された仲間を思った。


 分けても──恋をしたが故に地獄に堕とされた、ある人の事を。


※※※※


 あくる日の朝、局内での打ち合わせを終えた香月は玲彰からの呼び出しを受けた。

 ここでは各部屋を繋ぐ機械線を通して、備え付けの登記装置に番号と内容を入力すると伝達事項が届けられる仕組みになっている。昇降機もそうだが、他では見た事もない様な機材が諸所に備えられているのだった。

 故に香月も仙丸の机にあると聞いていた番号を選んで、玲彰の居室『芭墨はぼく』に行くと打ち込み部屋を後にした。

 朝の打ち合わせの時に仙丸と顔を合わせはしたものの、他の局員もいたのでいつも通りつつがなく終わった。尤も、彼も香月も決して視線を合わせる事はなかった。最後に一言局長が何か言うのが慣例だが、その時も彼女は敢えて見ない様にしていたのだ。

 殿主と幹部の居室は共に最上、五階に並んでいる。それぞれ部屋に名前が付いていて、玲彰は殿主と呼ばれ芭墨の間に、副長二人は両脇の崇阮すうげん雲霞うんかと言う名の部屋を与えられていた。


「倉嶋候からも何か聞いているかとは思うが」


 それだけで一つの局と同等の広さと設備を誇る芭墨の間、一角に置かれた古めかしい装飾の椅子に座って玲彰は口火を切った。

 研医殿の責任者としての肩書きを持つ彼女はまた、能力とは別にその類まれなる美貌によっても周囲に特異な目で見られていた。

 香月も見目形を美しいと褒められる側だったが、上司のそれは全く飛びぬけていた。

 金褐色の髪に紫色の双眸を持つ彼女は、造作が余りに整い過ぎていて、人というよりは彫刻か何かに見えるのだ。この世を創った何者かがいるとして、人の中でも完璧を目指して造ってみたものの、最後に喜怒哀楽を入れ忘れたとしか思えない無表情さである。

 当の玲彰は研究以外の事に関心がないらしく、芸術を司る雅綾府からの再三の肖像画作成の依頼にも断り続けている、という話は有名だった。


「十刻からの局長会議でも話すが、薬処方局では新たな治療法を目指して新薬の開発を始める事となった。これは其方を責任者として一任しようと考えている」


「その事ですが、玲彰様」


 向かい合う形に座って膝に両手を載せ、上半身を思わず前に乗り出して香月は訴えた。


「妾はまだ着任して日も浅く、局内の仕事内容についても把握してはおりません。……仙丸副局長に任じて頂く事は出来ないでしょうか」


「仙丸には私から話しておく。問題ない」


 意を決しての申し出は、あっさりと却下される。


「ですがそれでは──」


「何か問題があるのか? 其方、あの街を出る時の事を忘れたのか」


 香月は一瞬言葉に詰まり、目を伏せた。己の両手を見る。


「忘れてなど……おりません」


「河西を、皐乃街そのものを救いたいと、其方申したではないか。下っ端に甘んじていては、制度を変える事など出来ぬぞ」


「玲彰様──」


「かく言う私も二十の歳にここに来た。十八の局長も例を見ないが、二十歳の殿主など言語道断扱いだったぞ。下にいても上にいても、問題は出てくるものだ。それに、河西に関しては時間がない。身請けを断っている以上、早く他の手を施さねば、病むのではないか」


「ご存知だったのですか。……どうして」


 驚きのあまり息を呑む香月に、玲彰はそれには答えず「私も今回、会議で皐乃街の制度について打診して来た」と続けた。

 鷹信が刺客の襲撃に遭って生命の危機を迎えた時、『遊郭内の馬車乗り入れ法度』の決まりを玲彰は破った。

 更に異議を唱えた店の者達に向かって宣言した『皐乃街の制度を改める』という言葉通りに、幾つかの改善点を申請して来たという。


「皐乃街の中に研医殿から医者を派遣する事を、まず手始めに申し上げて来た。街の医者は高い薬礼を取る上に高級な総籬そうまがきの遊女の治療ばかりする。実際、遊女が罹患すれば回復する見込みはほとんどないのが現状だ」


 感情の伺えなかった玲彰の顔に、僅かだが苦いものが混じった。


「でなければ病の蔓延を防止する目的で『皐乃街そのものを撤廃』とも提案してみたのだが……侯爵のほとんどが反対しおって、叶わなかった。必要悪などと抜かしおってな」


 済まなかった、と軽く頭を下げる上司を、慌てて彼女は押しとどめた。


「お止め下さい! 玲彰様のせいではないではありませんか」


「だが、目的を達せられない権力など塵芥も同じだ。権力を行使し、代償として誰よりも重い責任を担う。それが上に立つ者の務めなのだから」


 香月の胸がちくり、と傷んだ。


「上に立つ者の務め……」


 彼女にはとても、この目の前にいる人の様な考え方など思いつかなかった。新人として患者を治療し、喜ぶ顔が見れるだけで良かったのだ。その一点だけでも、自分が上に立つ器ではないと思い知らされる。

 玲彰は生まれながらの頂点に立つべき人間なのだろうと思う。不意に、香月は彼女の比肩する者がいないが故の孤独を感じた。夫や家族がいるのとは、また別種の孤独を。


「何故なのですか?」


 思わず疑問が口をついて出ていた。


「どうしてそこまで皐乃街を──妾を気にかけて下さるのですか」


 研医殿は確かにその名に『医』を冠するだけあって、発祥は医学の探求の為に創られた機関だという。だが今では作物や機械、そして天文学の研究も殿内で進められていた。ましてや万民の上に立つ王の后、玲彰の優先すべき事柄は他にも多い筈だ。

 風紀の乱れとして皐乃街を憂慮するにしても、自分の如き若輩者を取り立てなくとも部下には事欠かないだろう──副長の坂ノ内然り、仙丸然り。


「どうしてだろうな」


 意外な事に、珍しく玲彰は返答に困っているらしかった。


「私はどうも自己分析が苦手らしくてな──だが多分、『あの街に全く馴染まない』其方に出会ったからかもしれない」


「それは一体、どう──」


 首を傾げる香月の問いを、彼女は遮った。


「勿論、倉嶋候を必死に看病する其方の姿が印象に残ったというのもある。研医殿の連中にも『患者を救いたい』という思いはあるだろうが、いくら私が仕向けたとは、いえあそこまで設備のない場所で全力を尽くそうと覚悟するには勇気が要る筈だ。知識があるだけに余計に、な」


「そうでしょうか……?」


 玲彰の茫洋とした視線は目の前の部下を見ていない。室内の研究機材に向けられている。それを眼前に戻して苦笑を浮かべた。


「後もう一つ理由があるが、説明するのは難しい。この辺りで勘弁してくれると有難いのだが」


「は、はい。わかりました」


 全くわからなかったが、必死だったのが良かったのだろうかと、自分なりに意味を測って香月は頷いた。


「新薬の開発についての打ち合わせを明日の午前中にでも行いたいと思うが、其方は登殿日か?」


「あ、いえ一応休み予定でしたが……明後日にでも動かしますから、大丈夫です」


「いや。それならば明後日でも良い。開発に携わる職員は局長会議で発表するが、一刻を争う程ではないからな」


 時間だ、と促されて芭墨の間を後にする際に香月がちらりと玲彰の様子を伺うと、彼女はもう椅子には座っていなかった。

 冷徹な研究人形だと、殿内で噂されている意味が全くわからない。

 そう思えるのが、実はこの国内で自分の他には五指に納まる程度しかいないという事を、香月は知る由もなかった。

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