白練(しろねり)
「結局、もう一人の『奏』は何者だったのか……」
二人きりになった局長室の中、よく通るが冷酷にさえ聞こえる問いかけが、香月をようやく現実に引き戻した。
散らばった書物、割れて風の吹き込む室内は廃墟の様だ。壁に積みあがっていたものも軒並み崩れ落ちて、床を埋め尽くし小山を成す始末。
「もう一人、とは」
視線を動かすと、彼女の上司はこちらを見てはいなかった。ちょうど左手の壁、床の本を手で払いのけつつ奥にある棚──あるとは部屋の主も知らなかった──を眺めている。
「『私もあいつも、貴方の事は気に入っていた』と、奴はそう言っただろう」
「はい」
「面識のある者の中に、まだ長塚の手の者がいるのは間違いない」
「それは……」
「恐らく麻珍を盗み、周布を殺したのは斎条で間違いあるまい。薬庫の鍵も奴なら容易く手に入れられる。長塚の命を果たすのに担当の薬師は打ってつけだしな。河西の治療に横槍を入れたのは理解に苦しむが、恐らく目的とは別だろう。気になるのは、何故去り際にあのような思わせぶりな言葉を残したのか、という事だ」
秀麗な眉をひそめて、玲彰は別の棚に視線を移した。正確には、その奥に。
「仰る意味が、よく」
「他にまだ果たしていない目的があって、もう一人がそれを担っているのかもしれない。そして、正体を暴かれない自信があるからこそ仄めかしたとも取れる。つまり──長塚は元々ある程度で己を衆目に晒すつもりでいた、という事ではないか」
香月は唐突に踵を返して部屋から飛び出した。
「香月!」
向かった先は薬庫だった。元々の目的地、人の気配がない為局長室を探したのだ。
懐から鍵を取り出して扉を開ける。奥の劇薬棚へと進んだ。
「……どうやら今回は不要だったらしいな」
重量もこの間と変わっていない、と脱力する彼女の背後から上司の声がした。
「では、一体何の目的が」
「確かめたい事がある。局長室に戻れ」
言いざまさっさと戻っていく。香月が続いて中に入り、扉を閉めた。
「倉嶋候から琴の画について聞いたか」
「え?」
「宝物殿にあったものの記録から、実際に何を元に作られたのかなどと調べた。──山水画はどうやら国内の風景ではないらしい。ただ、木は実在している。この辺りではあまり見掛けない、杏林という樹木だそうだ」
「杏林……?」
「医師を表す木だな。『杏林』と言えば古参の者にはそのまま通じる。更に言うと黒い染みも、納められていた当時はなかった」
急激な話の展開について行けず、ただ唖然と見守る香月を尻目に、先ほど見ていたのとは反対の壁を調べ始めた。
「下げ渡された後に付けたとすれば、玄達しかあるまい。では何の意味があるのか」
「意味……」
鷹信からどこまで聞いているのか、そしてどこまで話していいものか。
意味はきっと、験疚典の在処と、もう一つ。
「山の八合目に、徴は付けられた。これば他の者ならば、別の局の可能性もあるが──」
彷徨う視線が不意にある一点に止まり、玲彰は足を踏み出し壁に近寄った。
「これは倉嶋候が推測したものだ。玄達は薬処方局で職位こそ得ていなかったが、顧問を務め当時の局長とも懇意にしていた」
彼女が白いしなやかな指を伸ばした先には、一見見にはわかりにくい小さな扉があった。
「これは……!」
手文庫ぐらいの大きさのそれは、扉にありがちな枠彫りも把手も見当たらない。ただ周囲の壁と切れ目がある事のみが、一画を有していた。
玲彰は細い溝を指でなぞり、やがて力を入れて扉の左端、中央部分を押した。
かちり、という音と共に縦長の穴が開いたと思うと、何かかが回転してこちらに飛び出てくる──それは小さな把手だった。
「……やはりな」
開かれた四角い空間。中にはただ一つ、古びた書物らしき物が入れられていた。
「験疚典……!!」
表紙に書かれた文字は墨が劣化して粗く、それでも判読に耐えられぬ程ではない。はっきりと探していた書物であると読み取れた。
「何故奴らが局長室を逃げ場所に選んだかと思っていた。研医殿は円柱の形をしている。他のどの窓でも良かったはずだ。だが、これを探そうとしていたのならば頷ける。そして見つけられなかった場合に備えてもう一人を隠していたのだろう」
書物の頁をめくりながら、玲彰の眼は忙しなく紙面を追っている。
「なるほど、これは中々に興味深い……」
言葉とは裏腹に書物を閉じ、「悪いがこれは預からせてもらう」と言いざま局長室の扉に向かって歩き出した。
「お待ちください、玲彰様!」
思わず声を上げた香月を、怪訝そうに振り返る。
「どうした」
口を開いたまま答えに困り、次の言葉を紡ぐ事が出来ない。ややあって、香月は俯いた。
「……いえ。何でもありません」
「そうか、では借りるぞ。中身については、解読し次第其方にも知らせよう」
“我が呪われた血を浄化する為に作られたもの”。
その処置法が書かれているかもしれない書物。香月は肩を落とした。
──言えなかった。
王宮に納められていた『香月』もまた、長塚の為にあったものだと、斎条は言った。
その意味は、去り際に長塚本人の口から語られていた事を。
香月だけに聞こえる『歌』によって。
「……私に」
小さく独り呟いて、肩を落としたその時──静かに扉が開いた。
驚いて顔を上げた戸口には。
「副局長……」
仙丸がもの憂げな表情をして、立っていた。
※※※※
「白毫宮で昨日、定例の報告会があった。研医殿の治療方針が固まったそうだな」
馬車が道を急ぐ音を縫って、鷹信が傍らに向かって問いかける。長塚達が逃げ出したあの事件から、既に七日が経っていた。
刑吏府の役人は彼らを捕える事が出来なかった。王都を南下する影はしばし追えたものの、如何に健脚を誇る刑吏府の官兵であっても虚空を駆ける猛禽の大翼に追いつける筈もない。都を離れた最初の候国、南に位置する暮林領に入るまでもなく、刹氏は程なく小さくなり霞んで見えなくなったという。
窓の外を眺めていた香月は、振り返って笑みを刷いた。
「はい。亜種食物を使用しての治療を進める方向で決定致しました。患者が何者であれ……成果を収めた様でしたので」
「験疚典の解読も進んでいる事が一役買っているのだろう」
「ですね。古語も使われているらしく、全てというわけではないそうですが。最近のものは周布局長から色々教わっていたので、妾も協力させて頂いています」
「河西の病状も改善されつつある様だし、これで瘍頭の治療法も研究が進むと良いな」
「はい」
その治療薬を作ったのは斎条だ──言外に含まれるものを、更に鷹信のそこはかとない緊張を香月は感じ取った。
「陛下よりご下命があった。討伐部隊が組まれ、彭沢に近日中に向かう」
嫌な予感が頭を掠めた。きっと自分の表情に表れていたに違いないのだが、鷹信は「指揮官は曽我部候が執られる。刑吏府は副長官と、近衛官にて穴を埋める事となった」とあくまで当たり前の様に付け加えた。
「そ、そう……ですか」
「刹氏が南へ消えていったのは間違いない。『舜橙』の出身地が偽りであるなら、目くらましの為に敢えてそちらに行ったという可能性もある。だとしても、彭沢は一度調べる必要があるだろう。あれだけの大きな鳥を飼うのだ。餌や鳴き声の様に、周辺に形跡がないわけがない」
舜橙──否、長塚は『素性』を改竄したと言った。それがどこまでのものなのか。
王都の石柱並び立つ風景が途切れ、馬車は郊外の長閑な道を走り続けている。だがもはや香月は外を見ようとはしなかった。そもそもどこか逃避めいた感情で顔を背けていたに過ぎない。鷹信の眼を見るのには、相当の勇気を必要としたから。
眼差しが揺らぎ、彼女は長い睫毛を伏せた。
「斎条さ……あの人が言っていたのは本当だったのですか」
「ああ。劉幻が琴を作り、王宮に納めたのはどうやら二十年前の話だと、宝物殿の記録に残っていた。もし斎条の話が本当だとすると、献上する物には選ぶまい。劉幻は長塚を裏切ったのかもしれないが、そもそも病を治す為に楽器が作られた、というのも不可解な話だ」
「──そして何かの折に、父の元に下賜され、父は験疚典の隠し場所を記した……」
「私はてっきり『亜種植物』というものの育て方のみを記した書物だと思っていたが、それだけではなく植物を作り変える内容もある、と玲彰様は仰っていた。嵯峨伯は生命の改造を望んでいた長塚に、渡してはならないと思ったのだろう」
香月の脳裏に、あのしわがれた声が蘇る。聞く者の意識を歪め、冷酷な闇に引きずり込まれそうな、不快な力に満ちた声。
父を殺したいと望むまでに疎んじた理由は、それだけなのだろうか。
琴の名手だった母。あれを聞いてしまってから、有り得ない想像ばかりしてしまう。
──美しくとも、楽器の音が人の身体に影響を与えるなどとは思えないのに。
それこそ医術ではなく、世を超えた力ではないかと。
己の発想に寒気を覚えていると、緩やかに振動を続けていた車内の音が止んだ。
「侯爵様、お嬢様。着きました」
馬丁が扉を開け、会話は中断された。
「そう言えば、香月」
「え?」
先に降り、手を差し伸べながら鷹信がこちらを見上げて来る。
「尚暁殿とはその後うまくやっているか? この間見た時は、明らかに其方が苦手そうにしていたが」
香月は思わず馬車から足を踏み外しそうになった。
「危ない!」
ふわりと抱きとめられ、地に下ろされる。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
笑いかけてくる鷹信はどこか面白がっている様子で、確信犯と見えない事もない。
「なな何故、おわかりに」
冷静に否定する振りが出来ずに、香月は赤面した。
「見ていればわかるさ。それに、仄音局に行く時に研医殿に行っただろう。あの時少し彼と話をしたが、尚暁殿は其方を心配している様子だった。敢えて厳しくしているのだろうとわかったよ」
絶句してすぐには返事が出来ずにいると、どういうわけか鷹信が顔を覗き込んで来る。逃げ出したい衝動に駆られた。
七日前、玲彰が去った後に仙丸が局長室を訪れた時には「もしやもう一人の奏では」と疑った。しかし結局いつもの通り素っ気無い態度な上に軽く説教をしながら室内の片付けを手伝ってくれただけで終わり、それから今まで何事もなく日常が過ぎている。
否、相変わらず局内の打ち合わせなどでは手厳しくされるものの、香月が慣れたのかあまり前ほどに悪意を感じなくなってしまっていた。
──むしろ、気のせいか時折……近い。
局長と副局長はそれでなくとも二人きりでいる機会が多い。苦手意識はまだ残っているし、何せ相手は仙丸である。
「器用に見えるが、彼はあまり愛想が良くないからな。誤解される事が多いかもしれん」
「そ……そうかもしれ……ません、ね」
鷹信がまだ何か言いたそうにしていたので、つい眼を逸らした。この人が悪い印象を持っていないのなら、奏ではなさそうであると思いつつ。
疑いが晴れても何故か、あまり安堵出来ないのはどういうわけか。
「皐乃街の事も、河西と──其方のおかげで変わって行けるだろう」
いつの間にか表情を改めて、彼の視線の先には聳え立つ大門がある。
香月もまた、その威容を放つ要塞にも似た建造物を見上げた。
午より前に雨でも降ったのか、日差しは差しているもののわずかに木の湿った匂いがする街は、未だ朝寝より覚めておらず沈黙を保っている。
それでも中に生きる女達には、ここにいる限り永遠の仮寝。
「行って、河西をこちらに引きずり出して来るのだろう?」
茶化した笑みの中に、どことなく挑発めいたものがある。
「──はい」
常になく断言し、彼女は歩き出した。軋る音と共に、重々しく開く世界の向こうへ。
決意に硬くなった背中を少し離れた位置から見守りながら、鷹信は何故か不意にその笑みを──僅かに曇らせるのだった。
※※※※
「身請けの話なら、断っただろ。それとこれとは話が別さ」
外とほとんど変わらない、薄暗く廃墟の様な切り店の色褪せた畳の間。ただ中にいる河西の言葉に今は力があった。ようやく起き上がれるまでに快復しただけあって、まだ面やつれもかなり残るものの、顔に赤みが戻って来ている。
「あたしはただでさえ香月ちゃんに世話をかけっぱなしだ。この上お金の面倒まで見てもらうわけにはいかないね」
「姐さん! まだそんな事を言っているのですか」
起こした半身に単を肩がけしている姿にもどことなく芯が通っており、精神力が戻って来たのは間違いない。元々はこういう人だったのだと、希望が湧くと同時に香月は途方に暮れていた。
「お願い、もしも姐さんが自分に罰を与えようとしているのなら、尚更ここを出ましょう。外だって苦しい事や辛い事は沢山あるわ。妾に申し訳ないと思うのなら、図々しいかもしれないけど──私の為に」
「香月ちゃん。あたしにもなけなしの沽券ってやつがあるんだ。あんたとは許されるならこれからも友達でいたい。だからこそ、もう世話になっちゃいけないと思う」
かつての後輩遊女の瞳が悲しげに歪むのを見て、彼女は慌てて袂から布包みを取り出した。
「いや、だからさ。代わりにこれを、親父さんに渡しておいてくれないかい」
自由な方の手で香月のそれを引き寄せ、上に載せた。
「これ……は」
「物騒だから浅尾に預かってもらったりしてさ。今日来るって聞いたから、さっき持ってきてもらったんだ。あの黄色い髪の何とかってお医者に貰った。薬で迷惑を掛けたお詫びだって」
香月は自分の掌の重みから、それが紛れもない相当額の金子である事を知った。
「落籍料に足りるかどうかわからないけど、これってあたしが働いたお金みたいなもんかなって思って。親父さんには病気が良くなったら、改めて残りを働いて払うって伝えに行くから」
「河西姐さん……」
「もしかしたら駄目かもしれない。身体が戻ったのなら働け、そう言われて終わりかもしれない。でももう前みたいには考えないよ。あたしみたいなどうしようもない女でも、お天道様の元を大手を振って歩かせてくれようって人もいるんだし」
確固とした意志を伝える、穏やかな笑顔だった。
「そうだな、河西の言う通りだ」
いつの間にか歩み寄っていたらしく、背後から鷹信の声がする。
「きっと楼主も許してくれるだろう。玲彰様の監督が入れば、今までの掟は通らなくなるだろうからな」
そう言って目配せをした。
意味にようやく思い至って、香月は瞳を輝かせる。
──そうか。私が、これを持っていくんだ。
河西は恐らく、香月の負担を軽くしてくれようと頼んだのだろう。浅尾も禿もいるにも関わらず、指名して来たのだから。
だが裏を返せば、足りなくても手を加えられると鷹信は示唆しているのだ。
「早く行った方がいいんじゃないか」
「ええ、そうします!」
当の河西本人は、気づいていないのか少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「ごめんよ、よろしくね──」
駆け出す彼女の背中に向かってかけられる優しい声が、雨の名残がまだ残る大路に溶けていった。
まるでこれからの先行きを表すかの様に、空には雲の切れ間、澄んだ青空が広がり始めている。
※※※※
一月を待たずして王宮より伝令が届き、後に皐乃街にはいくつか新たに政令が定められる事となる。遊女の制度化など根本を揺るがすものではなかったが、楼主の自由に年季を伸ばす事が禁じられ、研医殿から薬師の派遣なども開始された。
河西も外に出られる事となり、日々の穏やかさを噛み締める香月だが、もう一方の気がかりは未だ晴れない。
父が亡くなった頃の悪夢の中にある声の持ち主。
斎条と話していた人物が誰なのかも、謎のままだ。残った『奏』と何か関係があるのだろうか?
考える内にいつも、最後にはあの声に舞い戻ってしまう。
《禎祥の命を救いたければ、験疚典を持って恒山に来い。『香月』の本当の使い方を教えてやる》
長塚を討伐する為の部隊から、彼を発見したという報せはこの時になってもまだ、届かなかった。
─了─
ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。
明らかに続編に繋がった終幕ではありましたが、構成上三部作になってしまいました。
では少し時を置いたまた別の機会に、完結編でお会い出来れば幸いです。