表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
禄遒の奏  作者: 伯修佳
第六楽章
24/25

鉄黒(てつぐろ)

「香月!」


 職位ではなく自分の名前を呼ばれた事で、香月は一気に現実に立ち返った。


「鷹信様!? 何故こちらに」


 振り返ればそこに紛れもない鷹信の姿がある。背後には、麻珍の抜き取られた跡を険しい顔で睨んでいる仙丸と、相変わらず無表情でこちらを見る玲彰も引き連れていた。


「お邸の方は大丈夫なのですか」

「ああ。実は賊が入る事を見越して、ここ暫くは其方が出掛けた後に人を増やして見張らせていたのだ。侵入されはしたが部屋を荒らす前に撃退した──元々、琴は別の場所に移してあったしな」


 いつも部屋の主が戻った時に、苑寿に戻してもらっていたのだ、そう言って彼は微笑んだ。


「一体いつから……」

「私が最初に其方から、悪夢が記憶の一部だと聞いた辺りからだ。其方は一時夢を見なかっただろう? それがまたぶり返したというのは、何かしら想起させる出来事が身近で起きているのだと考えてな。嵯峨伯の死と考え合わせて、用心に越した事はないと手配していた」


 それより、と表情を改めて鷹信は視線を傍らに移した。


「麻珍の亜種が盗まれたのだな」

「は、はい。私が以前見た時には、確かにこの場所に植えられておりました。それに──す」


 『周布局長が』そう言おうとするとどういうわけか、小刻みな震えが出てきて止まらない。


「ま、また。あれに拠って人が──殺されました」


 見えない力で誰かに揺さぶられているとしか思えない、それほどに震えは身体を蝕み、歯の根が合わず呼吸が苦しくなる。

 皐乃街でも自分は間に合わなかった。葉山の苦悶に満ちた死に顔に誓ったのではなかったか。二度と、あんな風に人死にを出してはならないと。なのに。


「ひ──ひどい。探しているのなら、どうして──あの方まで──」

「落ち着け、香月」

「これではあの時と同じです!! 父と、た、太夫が殺された時と。わた──妾が、もう少し──早く気づいてさえいれば、こんな!」

「香月!!」


 鷹信の手が、彼女の身体を掴んで瞬く間に引き寄せた。


「た……」


 色を喪った唇から軋る悲鳴が、瞬時に止まった。

 自分を包み込む布地越しに伝わる彼の仄かな体温と、控えめで優美ないつもの香りが別の意味で香月の体温を上げる。

 危うく目の前の現実から離れてしまいそうな恍惚の時は、傍らから聞こえる仙丸の低い声に拠って破られた。


「それに、嵯峨局長。周布局長の遺体をよくご覧になりましたか」


 鷹信の胸に埋めていた顔を上げて、香月は部下を見た。


「い、いえ。……斎条さん、に止められました。麻珍の中毒症状だから──近づいてはならないと」


 掠れて上ずった声が力なく零れる。


「斎条が? どうしてあいつ、そんな事を」


 仏頂面に更なる険を浮かべる彼を見て、香月は怪訝そうに三人を見比べた。


「……してやられたな」


 すぐ耳元で呟かれる鷹信の声に、嫌な予感がする。


「斎条の姿が見えぬ。仙丸、心当たりはないか」


 玲彰の冷ややかな声を叱責と取ったのか、怜悧な彼の面は初めて思案に曇り「探して参ります」と即座に踵を返して場を去った。

 呆然とその後姿を見送って、香月は体勢を立て直す。


「鷹信様。もう……大丈夫です。妾を、周布局長の元へ行かせてください」


 鷹信はどこか物憂げな眼差しで彼女の思いつめたような白い面を眺め、顔をしかめた。


「無理をするな。それに仙丸殿がもう、確認している。毒殺は間違いないが、麻珍ではないそうだ」


 如何にも渋々といった風に解かれた腕から離れて、通路を戻り部屋に駆けつける。椅子に座っていた筈の周布は灰色の官服──刑史府の役人だ──が用意した担架に横たわっていた。上を覆っている布を、頭の部分だけめくり上げる。

 死顔は凄惨な表情ではあったが、開かれた口の中の色が葉山の時とはまるで違う。何より、最初に気づくべきだった。麻珍中毒は身体が反り上がるのだという事を。


「周布局長……」

「何をするんです! 遺体に勝手に触ってはなりませんぞ」


 役人の叱責する声、腕を捕まれ後ろに追いやられつつも愕然として彼女は骸が運ばれるのを眺めていた。頭の中で必死に考えながら。


「──『奏』が斎条だったとしても、奴の目的は周布を殺す事だったのだろうか」

「玲彰様」


 振り返った上司の顔は、相変わらずうろたえる気配がない。どこか不穏ではあったけれども。


「麻珍などと嘘をついたのは、時間稼ぎだろう。とすれば他に目的があると考えるべきだ。其方何か他に知っている事があるのではないか?」


 自分の考えに自信が持てなくて、即答は出来なかった。


「わかりません。……でも、舜橙さんと或いは何か関係が」

「舜橙か。まだ見つからぬらしいな。だが奴は、多少特殊な能力こそあれ病人だろう。自ら歩く事もままならない筈の人間が、何の役に立つというのか」

「……あの。どんな突飛な考えでも、笑わないでくださいますか」


 香月は記憶の中にある、斎条の過去の言動を出来るだけ遡っていた。そこに何かの手がかりがある様な気がしていたのだ。

 大切な人がいると。その人の為にこの道に入ったと、彼は言ったのではなかったか?


「舜橙さんは『験疚典』を探していました──だから、全てを欺かねばならなかったのではないかと──」


※※※※


 人気のないはずの薬処方局に香月が鷹信達を連れて舞い戻った時、局長室の方から音がした。


「大丈夫だ、背後は私達が固めている」


 囁く鷹信に無言のまま頷いて、取り出した鍵を静かに差込み、扉を勢い付けて開ける。

 灯りのついていない部屋は薄暗い。整理され積み上げられていた筈の書類がそこかしこに散らばっていて、その向こう側に二つの人影が見えた。


「──これはこれは、倉嶋候までもがおいでになるとは」


 かつての能天気な調子はどこにもない、冷ややかで朗々とした声がする。

 香月は瞠目した。


「貴方だったのですね──父が亡くなった後、邸に忍び込んだのは」


 幾度も悪夢の中で聞いた、誰かに話しかけている人物の声。確かな記憶がなくとも、鍵穴に鍵が嵌まる如くそれは蘇る。

 斎条は鼻に掛かった笑い方をした。冷酷な中に尚、華やかな容貌は些かも損なわれずに彼を全くの別人に見せている。


「ああ、随分と懐かしい話をされますね。そう言えばあの時は『香月』を探していたのでした。元々あれは劉幻が我が主の為に作られたもの。出来れば穏便に渡してもらいたかったのですが。如何です、嵯峨の姫? 貴方の大事なものと引き換えに」

「……私は何も知りません。貴方がたこそ、どうして周布局長を手に掛けたのですか。麻珍亜種は、彼にしか扱えないのでしょう。万一験疚典が見つかったとしても、昔の知識よりも余程役に立つ筈です」


《奴ハ 私ヲ 裏切ッタ》


 声は斎条の方からは聞こえなかった。


──今のは。


 人間の肉声とは思えぬ倍音──否、凡そどこから聞こえているのかわからない言葉。

 香月は背後を振り返った。


「聞こえましたか、今の声」

「声? 勿論だ、斎条のだろう」


 鷹信は怪訝そうだった。


「そうではなくて、もう一人の」


 突然、それまで一歩下がった場所にいた玲彰が動いた。扉脇にある把手に手を掛け、室内の灯りが灯る。

 獣の様な呻き声が聞こえて、背の低い方の人影が揺らいだ。


「明かりを消せ!!」


 怒号と共に、斎条が猛然とこちらに駆け出す。

 室内は再び暗くなり、その足が止まった。


「なるほど。月下病だという部分は本当らしい」

「優先権を握ったつもりですか? それともこの期に及んで慈悲でも与えようと?」


 苦虫を噛み潰しつつも、虚勢か斎条の顔には未だ嘲笑が浮かんでいる。


「どちらでもない。隣で喚かれては聞きたい事も聞き出せないからだ。殺すのはその後でもいい」


 端麗な唇からはっきりと『殺す』と玲彰は告げた。無表情ではあるが、その口調は傍にいる者達に彼女の怒りを知らしめるのに充分功を奏した。


「患者として紛れ込むとはいい度胸だな。舜橙──いや、ここは長塚と呼んだ方が正確か」


 薄闇の中、小さな方の影がゆらめいた。


 《コレハコレハ……》


「──ああ、この声は貴方がたには聞こえないのだったな」


 水分が枯渇してしまったかの様な声がした。紛れもない人の肉声ではあっても、どこか則を外した、不快さを伴う声だ。


「久しぶりだな、箕浦の娘よ」


 この国で王の后に向かって敬語を使わない人間の言葉に、予測していたにも関わらず香月は衝撃を受けた。


──まさか本当に、『そう』だったなんて。


「最後に会ったのは王宮で私が処罰を宣告された時だから、もう十二年ほど前になるか。すっかり様変わりしているだろうに、よくわかったな。私が患者として入院していると」


 自嘲気味の口調の若々しさと、老人を思わせる声の調子が違和感を拭えない。顔が見えないだけに余計、そこにいるのが人間ではなく、あたかもこの世の理を離れた存在に思えてしまうのだった。


「確かに、あの頃其方はただの壮年の貴族に過ぎなかった。香月の話がなければ、とても推測出来なかったであろうな。──いつからだ? “本当に”月下病に罹ったのは」


 玲彰の詰問を彼は鼻で嗤った。


「この忌々しい身体になったのは八年前だ。記録の通りだな。改竄かいざんしたのは実年齢と素性ぐらいだ。声は出せないわけではなかったが、今よりももっとひどい発声しか出来なかった」

「だから験疚典を探していたというのか? 嵯峨伯を殺してまで」

「奴を消したのは邪魔だったからだ。様々なものを手に入れる為にな」


 香月自身、長塚の年齢を疑問に思った事があった。だが知っていたとしても、舜橙がそうだという手がかりにはならなかっただろう。元の長塚を知らないのだから。


「いち患者の姿など殿主が知るわけもないし、お前の夫やそこにいる倉嶋の倅など論外だ。案としては悪くなかったが、自由を奪われるのは屈辱だった」


 だが、それももう終わりだ──

 彼がそう言った刹那、背後の書物に埋もれた窓が揺れた。

 僅かに差し込んでいた光が消え、黒い大きな影が現れる。窓の玻璃に亀裂が走った。


《刹氏ガ 迎エニ来タヨウダ》


 長塚は笑みを浮かべた。顔が見えないにも関わらず、恐らくはその場の誰もがはっきりと、彼が笑った気配を感じた。


「待て! 逃がさん!!」


 鷹信は苛烈な怒声と共に、腰間に帯びていた剣を抜き放ち二人に斬りかかった。


「やれやれ、少し遊んでやるが良い」


 笑いの消えぬ長塚の言葉が終わらないうちに、斎条が飛び出して彼の前に立ちふさがった。手には皿を外した天秤を持っている。香月は息を呑んだ。尾上の使っていた天秤を、借りたままで返してはいなかったのだった。

 先に仕掛けたのは斎条だった。長さでは剣に到底及ばないというのに、彼の身のこなしは素早く、隙がない。常に懐に入ろうとする為、逆に長剣を持つ鷹信が動きにくくなっている様に見えた。


「この天秤は尾上さんの特注でね。皿を外せばこんな風に、人殺しの道具になる様に出来ているのですよ」


 斎条は嗤った。鷹信ではなく、唖然と見守る香月に向けて。


「先に麻珍毒を塗りましたから、倉嶋候は二回目でしたっけ? 生死の境を彷徨うのは」


 二人の攻防はすぐに苛烈さを増していった。危機感を感じていないらしい斎条は笑みを絶やさず、踊る様に剣をかわし、容赦なく天秤を振り下ろす。際どいところで鷹信が避け反撃する、の繰り返しがしばし続いた。

 劣勢にさえ見えた鷹信が剣の切っ先を方向転換した時、流れは変わった。斎条ではなく天秤を持つ手首に向けて、剣が突き出される。


「ぐあああああああっ!!」


 滴り落ちる、濃赤色の液体。右手首を押さえて斎条は素早く背後に飛んだ。


「──今だ、捕えろ!!」


 鷹信が怒号し、刑吏達が一斉に飛びかかる。そう広くはない場所の事、十名を越える手勢が相手では、一網打尽になるかと思われた。──だが。


「ううっ……!!」


 突然、筆舌に尽くしがたい不快な音が聞こえ始めた。金属を鋭い刃物で傷つけた音を幾重にも連ねた騒音。耳を抑えてもまるで効き目はなく、皆頭を、または胸元をかきむしる様にしてその場にうずくまった。

 音は長塚の方から聞こえた。倍音を自在に操れるだけでなく、様々な領域の音を出せるのだと改めて思い知らされる。


──だから余裕だったのだ。これがあるから。


 気が遠くなりそうな苦痛の中で、香月もまた床に膝を付いたまま二人を見ようと目を凝らす。


──何故斎条さんは平気な顔をして立っているの。


 途中で耳栓をした様子はないし、元々しているのなら会話は出来ないはずなのに。

 やや青ざめた顔をして、斎条は凄絶な笑みを浮かべた。


「嵯峨局長……。僕もあいつも、貴方の事は気に入っていましたから残念です」

あまねよ。心配せずとも、この娘にはまた会えよう」


 果たして如何なる仕組みによるものか。一方で音を発しながら、長塚は壁際に移動して肉声を放った。

 窓を振り返る。


《来イ 刹氏。我ガ忠実ナル翼──常世ノ国ヘト導クガ良イ》


 声なき声が香月の耳を震わせたその時、総ての玻璃が砕け散り、轟音と共に突風が部屋を通り抜け、書類を巻き上げ辺りの視界を遮った。


「待て! 逃がしてはならん……っ!!」


 倒れ込んだ姿勢から必死に立ち直ろうとしながらの、玲彰の滅多にない鋭い檄が飛ぶ。だがそれも儚く、大鳥に拠って起こされた竜巻にかき消されてしまう。


──これは。


 舞い散り或いは壁に張り付き、室内を蹂躙じゅうりんする書類達の合間に。

 確かに香月は見た。禍禍しき巨きな翼が、黒い彼岸への入り口となって彼らを呑み込もうとしているのを。


──これはまるで……の様ではないか。


 一度に百声を持つという伝説の鳥。

 その声を聞いた者は必ず世から消え、証明する術はない。

 窓の正面に長塚が立ち、こちらを見た。風に衣服をはためかせて、さながら黒い翼を持った化け物を思わせる。


「麻珍の亜種は元々周布が私の為に栽培したものだ。我が家に流れる悪しき血の病を浄化する為のもの。験疚典もいずれは手に入るだろうから、これはもらっていく」


 窓の桟に足を掛けて、彼は今度香月の方を向いた。

 不協和音が鳴り止む。

 代わって始まったのは──楽の音だった。弦を爪弾くにも似た、断片的な音の連なり。


──の四、亜の二……。


 呆然と目を見開いて香月は立ち尽くす。瞬時に理解した。

 これは仄音局で聞いたのと同じ、意味を持った音楽なのだと。

 刹氏が一際大きく羽ばたいた。いつの間にか斎条も長塚も忽然と姿を消している。

 旋回するその背に、二人が乗っているのが見えた。


「外から回れ! 追えるかもしれん」


 鷹信が役人を引き連れて局長室から出て行く。室内は香月と玲彰の二人が取り残された。玲彰が窓際に歩み寄る。


「……恐らくは無駄だろうがな……」


 暴風一過した窓の外、跡形もなく穏やかに佇む空を眺めながら、漏れる上司の呟きは苛立ちと悔しさを孕んでいた。

 明敏な玲彰であっても万能ではない。この時香月が無言だったのは返答が不要だと思っていたわけではなく──別のもっと驚くべき理由に気を取られていたのだとは、知る由もなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ